初めての…

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・エリック×クリスティーヌでいちゃいちゃ。一応R18に放り込みましたが、たいしたことはしていません。
・映画版のラストです。そのままラヴネバに続く設定。


 

 
初めての…

 

 
 私はこのオペラ座に魂を駆けて作り上げた。私の手でこの芸術の宮殿を建てたのだ。それを、無惨な形で破壊してしまった。シャンデリアを墜落させ、観客を阿鼻叫喚の地獄に陥れ――しかしそうまでしても私の愛は報われなかった! 私が子爵に手を掛けたときの彼女のあの悲痛な悲鳴、それを聞いて悟ったのだ。私は彼女の愛を失ったと。私はもう彼女を引き留めておくことは出来ない。子爵から奪った指輪を返すと、彼女に自由を与えた。「行け、行くんだ! お願いだから私を一人にしてくれ…」私は自分の手で、我が子同然に慈しんで生きたオペラ座を破壊し、そして自分の手ででこの愛を葬った。孤独にうちひしがれて私はそのばにうずくまった。もう何も残っていない。
 彼女は去った。子爵と共に去ったのだ。祝福が呪いに転じないように、私は敢えて彼女を見送らなかった。そんなことをしても惨めなだけだ。だから、彼女が再び私の前に立った時も、仮面が剥がされるまで全く気づかなかった。
「……クリスティーヌ? 何故…」
「私はあなたにどうしても伝えたいことがあるの。それを言うために戻ってきたのよ」彼女はそこで一旦言葉を切ると続けた。「あなたは独りじゃないわ」
 初めてのキスだった。彼女は座り込んだまま動く気力もない私の前にかがむと、唇を重ねてきた。素顔の私を怖がることなく、女性から愛を受けるのは初めてだった。初めてのキスは柔らかく、温かかった。そして私の口の中に柔らかい感触が侵入してきた。
 ――!??
 クリスティーヌはそのまま舌を絡めてきたのだった。想定外の行為に私は思わずのけぞりそうになった。
「っ…! クリスティーヌ! 何をするんだ!」
「あら、初めてだったの? ディープキス?」
「私が他の女とやったことがあるとでも思うのか?」
 彼女があまりにあっけらかんと訊いてくるので、思わず言い返してしまった。クリスティーヌは「ああそうだったわね」ところころと笑っている。情けないことになった。私の男としての矜恃はずたずたである。
「気持ちいいでしょう? ん…こうやってやると良いのよ」
 彼女が私の上唇を甘噛みしながら訪ねてくる。この場合は私も彼女に同じ事をするのが恋人の作法なのだろうか? いかんせん、初めてのことなのでどうしていいやらさっぱり分からず、よもや噛んだ挙げ句に口内炎でも作ってしまったら……とあらぬ事を考えていた。しかしこれは気持ちよい。私のかわいい教え子だと思っていたクリスティーヌは、もう私の教えなど必要ないのだな。大きくなったな、クリスティーヌ。
「これ、ラウルに教えてもらったのよ。彼ってとっても優しくてね、恋人同士でどうやって愛し合えばいいのか教えてくれたの」
 一瞬で幸せな気分が吹き飛んだ。奴め! やはり殺しておくべきだった! 私はクリスティーヌを引きはがした。
「ひどいわ。そんなに拒絶しなくてもいいじゃない……あ、もしかしてラウルに嫉妬してる?」
「違う!」
「うふふ、隠したって無駄よ。私には分かるんだから。でも、引き留めなくていいの? 私、このままラウルのところに行っちゃうわよ?」
 そうだった。あの子爵は湖の畔でボートを留めて恋人を待っている。――私が奴に情けをかけたために! しかしこのまま彼女にいいように弄ばれるのは全くもって癪である。
「いいんだな? クリスティーヌ! お前を私のモノにしていいんだな――!」
「エリ――」
 私はもう必死でクリスティーヌを抱き寄せた。抱きかかえて、二人一緒にベッドに倒れ込んだ。

 * * * 

 ……思ったより小さかった。私は彼女の服を脱がせて気付いてしまった。
「エリック? どこを見ているの?」
「いや、こんな小さな身体で、どうやってあんな美しい声を出せるのかと思っていた」
「嘘おっしゃい! さっきから私の胸ばかり触ってるじゃないの!」
 クリスティーヌが私の服を剥がそうと苦戦している間に、私はそっと部屋の灯りを消した。薄暗がりの方が雰囲気が出る。それとも蝋燭くらい点けておくべきだろうか。どうも勝手が分からない。やがてクリスティーヌは私の下着を取り去ると、素肌に愛撫を授けてくれている。彼女はあと幾日もすれば、れっきとした子爵夫人になる。子爵と彼女は愛し合っている。だが、それでも彼女がこうして私に身体を預けてくれるというのは――私の愛に答えてくれたのだ。この夜は私にとって初めてのものだ。初めて、男と女として、一緒になれるのだ。
 暫くの間は、二人の身体をぴったりと寄せ合ってじゃれ合っていた。これが私にとって初めての夜であったが、しかし私はどう振る舞えば良いのかは本能が知っていた。私は彼女を喜ばせるのだ。気持ちよくさせるのが男の努めだ。だが、そろそろ良いだろう。私のモノもとっくに準備は出来ている。私は、そろそろとクリスティーヌの上にまたがると、彼女の股を開いて下半身を寄せた。
「――待って、待ってエリック待ってちょうだい!」
 痛いのよ! という彼女の悲鳴に私は慌てて身体を起こした。痛くしてしまっては可哀想だ……でもどうすれば?
「こういうのはね、順番があるのよ」
 クリスティーヌは私を押し倒すと、おもむろに私の下半身に顔を突っ込んだ。既に固くなっている下を両手で掴み、優しく揉みしだくと、口に含んだ。私はその時、身体がきゅっと引きしまる思いがした。ぬるりとした唾液で覆われるのが分かった。「こうするとね、なめらかに入るの。痛くないのよ。さあ、私にも同じことをやってちょうだい……」
 私がどうして良いやら分からず、おろおろとしていると、クリスティーヌは怖がらなくてもいいのよ、と自ら仰向けになって股を開いた。いつの間にか主導権は彼女が持っていた。こんなことも子爵に教えてもらったのだろうか……。私はおそるおそる、彼女のふさふさとした毛で覆われたところに顔を埋めた。何とも言えない芳香がした。私がそっとなめると、クリスティーヌは喘ぎ声を発した。可憐な歌姫とは思えない情熱的な声だった。それがとても可愛いかったのでもっと鳴いて欲しいと頼むと、「エリック!」何故だか怒られた。可愛いのに。
 そして、ようやく、ようやく私は彼女をモノにすることが出来る。彼女の背中に手を回し、私は身体を押しつけ、挿――
「いけない! こんなことしている場合じゃないわ」
「ク、クリスティーヌ…!??」
 彼女は急に飛び起きた。私も驚いた。あと少しだったのに……。
「エリック、聞こえない?」
「何がだい」
「――追っ手がすぐそこまで来ているわ」
 私は耳を澄ませた。澄ませなくとも、殺人鬼を殺せ! という声を聴くことが出来た。ああ、私のせいだ。私が滅法暴れたせいで奴らはここまで追ってきたのだ。
「エリック、お願い、逃げて。命あればまた会うことだって出来るから…」
 クリスティーヌは私に懇願すると、服を着る暇もなく、上着を引っかけて慌ただしく部屋を出ようとしている。
 たしかに、私は奴らに捕らえられ、法に引き渡される前に私刑に処されて当然のことをしでかしてきた。これは私のせいなのだ。しかし何が悲しくて、初めて一緒に夜を共にしようとした恋人に
「逃げて」と頼まれるのだ。彼女は今さっさと逃げようとしている。私は彼女を引き留めることは出来ない。私は彼女の残していった服を見詰めた……服! 「待ってくれ! クリスティーヌ! せめて服を着て行ってくれ!」これではまるで私が彼女を拉致した挙げ句に無理矢理手籠めにしたかのようである。奴らはきっとそう思うだろう。怪人め! 我らのプリマドンナに何てことをしてくれよう! と。「クリスティーヌ! 私の世間体のためにも! どうか服を!」
 私は疼く下半身をなだめながら、すごすごと地底からの逃げ道を歩いていた。負け犬さながらの惨めさである。たった一つの希望は、クリスティーヌが言った「生きていればいつか会える」の一言だけだった。いつだろうか。今日明日ではないだろう。ひょっとすると十年後とか……それまで私の初体験はお預けなのか。あと少しだったのになぁ。嗚呼。

  

  

2014.11.29

オペラ座のCATS!

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・「私にも尻尾とダイヤと首輪があれば、気も散らないんでしょうね!」(『ファントム(下)』スーザン・ケイ著、扶桑者ミステリー、243頁)←元凶
・ケイ氏の『ファントム』設定で、エリック×クリスティーヌ(むしろクリス→エリック)。アイシャに嫉妬を燃やすクリスに出来心で耳としっぽを付けてみました。
・よかったねえクリス!これで思う存分エリックに甘えるといいよ!!(※悪ノリ)
・後半の悪ノリがひどすぎて、クリスがエリックを押し倒しちゃってます…ご注意をば。原作の雰囲気ぶちこわしですみません

 


 

 
オペラ座のCATS!

 

 

 エリックは私を本を閉じるようにいとも簡単に締め出した。「仕事が忙しいからしばらく会いたくない。君がいると気が散るんだ」たったその一言で私を追い払った。忌まわしきはあのシャム猫だった。彼女だけは、エリックの機嫌を損ねることなく彼の仕事場を縦横気ままに歩き回り、それどころか、彼の飽くなき愛撫を一身に受けている。ペルシャの皇帝のダイヤの首輪を首に飾ってもらって、エリックにこの上なく大切に扱われているのが一目で分かる。エリックは私を追い出した後もアイシャと楽しい逢瀬を遂げていることだろう。頭の先から尻尾の先まで、エリックの優しい手に撫でられ、くすぐられ、甘やかされ、さも幸せそうに喉を鳴らしている姿が脳裏に浮かんだ。
 私はたまらなく悔しかった。私にも尻尾があればいいのに、そうしたら私が彼女の代わりにエリックの愛撫を受けるのだ。私はいらだち、嫉妬の炎に狂っていた。僕と夕食を一緒にというラウールの誘いも殆ど耳に入らなかった。
「ラウール、私は猫になりたいの。どうしれば猫になれるかしら?」
「え…クリスティーヌ、どうしたんだい? 猫がどうしたって?」
「恋は人を狂わせるのよ! 私はどうすれば猫になれる?」
「そうだね、まず人が猫になるにはかなりの努力が必要だろうね。だって人間には耳も尻尾もないんだから」
「お願い、ラウール、なんとかしてくれるわよね?」
 数時間後、ラウールは黒い猫耳とふさふさした尻尾をどこからか調達してきた。そうして私は猫になった。

 * * * 

 ジュールに持ってこさせたウェディング・ドレスは完璧だった。純白の花嫁装束に包まれたクリスティーヌの姿を想像する時、私はほとんど忘我の域に達する。だが悲しいかな、かような美しい花嫁が不気味な地下の忌まわしいこの邸に居るはずがない。美しい花嫁は、美しい花婿と結婚するのだ――恍惚とした夢の世界から突如現実に引き戻され、私は悶絶のあまり仮面を床に叩き付けた。忌まわしい、この顔め! 仮面と一緒に粉々に砕け散るがいい!
 物音に引きつけられたか、アイシャがそっと忍び寄ってきた。私の背にひょいと飛び乗り、むき出しになった私の素肌をなめ回した。引きつった左の頬は感覚をほとんど持っていなかったが、それでもざらりとした舌が私の醜い顔を慰めてくれているのは分かった。
 アイシャはしばらく私の顔に尻尾をなでつけてじゃれていたが、気が済んだのか、壁に掛けてあるウェディング・ドレスに目を向けた。私は彼女がこの大切な衣装に爪を立てる前に、愛猫を部屋から連れ出した。アイシャは機嫌を損ねたのか尻尾を膨らませ、フシャアと不満の声を漏らした。
「おや、嫉妬かい? でも駄目だよ、これは汚しちゃいけない大事な服だからね」
 私は機嫌を取るようにアイシャを抱きかかえ、背中を撫でた。アイシャは明らかにすねていた。
「嫉妬をしたって無駄だよ。君はクリスティーヌにはかなわない。だけど、こうして私の側を離れずに居てくれるのは君だけだ!」
 嫉妬深い小さな婦人を肩に乗せると、私は悲しみにうちひしがれ、絶望的な気分に襲われた。あまりの苦しさに息も出来ないほどだった――

 * * *

 アイシャは捨て猫だった。エリックに拾われ、以来彼の献身的な奉仕を受けている。エリックは癇癪さえ起こさなければ根は優しい紳士なのだ。彼が動物を虐待している姿は見たことがない。私の知る限りでは、女性に手を挙げたこともなかった。おそらく、社会から虐げられるような存在に対してはめっぽう優しい人なのだ。そう確信していた。だから、私は今こうしてエリックの地下王国に通ずる地下通路の真ん中で、猫耳としっぽを付けて行き倒れている…。エリックが私を見つけたなら、きっと拾って邸に連れて行って世話をしてくれるに違いない――人の気配がする! 私は意を決して声をあげた。
「にゃああ…」
「おや、こんなところに――クリスティーヌさんではありませんか」
「にゃあああどなたでしょうか!?」
 エリックではなかった。ペルシャ人だった。あまりの恥ずかしさに私はにわかに混乱した。何故私はフィアンセのディナーの誘いを無下に断って、こんな格好で地下通路をうろついているのか。私の錯乱した精神状態にもかかわらず、ペルシャ人は涼しげに自己紹介を始めだした。
「ナーディルですよ、クリスティーヌさん。あなたと会うのは初めてですが、あなたのことはエリックから山のように聞かされていますから、よく存じていますよ。私はちょうどこれから彼のところへ行く予定でして。今日は舞台の衣装のままいらしたんですね?」
「え、えええ、そうなんですよ! 今、舞台で捨て猫の役をやらせてもらっていて! 役作りのために捨てられる練習をしてたんです!」
 ついでに、エリックにも会いたいので…と小さく付け加えた。彼に会に行くのはあくまで付加事項なのだと自分で自分に言い聞かせた。そうしないとまるで禁断の愛の告白のようになってしまう、と思ったからだった。
「ああ、でもエリックは今週は歌のレッスンはしてくれないかもしれません」
「それは仕事が忙しいから…」
「仕事? あれは仕事なんてしてませんよ。他人の金を巻き上げて、一人孤独に暮らす寂しい奴ですよ。でも放っておけない男でね、だからこうして面倒を見ているんですけどね。独り身だと発作に襲われて倒れても、誰も気づきませんからね…召人を置くなり、誰かと暮らせといつも言っているのですが」
 私はナーディルが抱えている荷物を見た。その時やっと私は、エリックが例の病気でまた倒れたのだと悟った。

 * * *

 機嫌が悪い時の私の人使いは相当ひどいらしい。いつかナーディルがこぼしいていた。自分の気にくわない状況に陥ると、誰彼構わず当たり散らす性格であることは人生も半ばを過ぎて、やっと悟った。だからこうして、誰と会うこともなく暮らせるように地下に自分の王国を築いたのだった。私がどんなんに追い返してもナーディルは諦めなかった。全く執念深い性格だ。私が約束の時間に居なかったからといって、私の邸までずかずかとやって来たのだった。そこで発作の苦しみに悶絶している私を見ると、呆れ果てた声で私に説教を始めた。
「あきれた奴だなエリック! お前はまだこんな生活を続けているのか? ペルシャに居た時と変わらない――悪化しているじゃないか!」
 私は奴の小言は無視して聞き流した。第一、律儀に口論を始められる体調ではなかった。
「で、この家はろくな食べ物もないのか。水がなくてどうやって暮らしていけるんだ、エリック? 一体いつから食事を取っていないんだ?」
「さあ…クリスティーヌが帰ってからは…あまり、覚えていない…」
 それに水なら周りに腐るほどあるじゃないか。私が力なく答えたときには、ナーディルはもう既に私のベッドを整え終わった後だった。
「地下水! 地底湖の水は飲めないだろうが。クリスティーヌ、クリスティーヌ、口を開けばそればかりだ。おまえは彼女が居ないと最低限人間らしいまともな生活すらできんのか。全く呆れかえるよ。それでいてこんなウェディング・ドレスを作らせるとは、狂気の沙汰だ!」
 ナーディルはそれでも私の面倒をみようとしてくれた。私の記憶が確かなら、「水と食べ物を持ってくるからおとなしく寝ていろ」と言って去って行った。――が、私が眠りから覚めた時、彼の隣にはクリスティーヌがいるではないか。ナーディルは何を取りに戻ったのだろうか。記憶が混乱してきた。
 クリスティーヌは愛くるしい猫耳を付けている。長い尻尾を伸ばしながらいじらしく床に座り込み、私を心配そうに見上げている。私が困惑の眼差しをナーディルに向けると、彼は「大丈夫だ」とクリスティーヌ(?)に話しかけている。何が大丈夫なのかが分からない。クリスティーヌは小声で可愛らしく鳴いている。アイシャは平素と変わらない様子で、あたりをのびのびと歩き回り、見知らぬナーディルに興味を示しながら、クリスティーヌを威嚇していた。私はとうとう末期的な幻覚症状に襲われたのだと思い、何も言わずに自分の寝室へ戻り、ベッドに倒れ込んだ。

 * * *

 ナーディルは軽い発作だから大丈夫だと言っていたが、エリックは相当具合が悪いのだ。私の姿を見てやたらと神妙な顔をすると、何も言わずに立ち去ってしまった。私に会って声すら掛けずに去って行くエリックの姿など初めて見た。本当に大丈夫だろうか。
 私はサモワールを探した。以前、彼が病気に苦しんでいたとき、何よりも先に欲したのはロシア式の紅茶だった。赤い天蓋の付いた豪華なペルシャの猫のベッド――ベッドは空だった――の隣にロシアの湯沸かし器はあった。フランスで生まれ、フランス語を当たり前のように話すエリックが異国のお茶を好んで飲むのかは分からなかった。彼はロシア語も話した。ロシア語だけでなく、様々な異国の言葉を操った。私はよくエリックに頼んで異国の本を読んでもらった。ハイヤームのルバイヤートを歌うエリックの声は特に素晴らしかった。やたらと子音の多いペルシャの言葉も、耳に心地よく響いた。私は湯が沸くまでの間、独特の韻律を持つペルシャ詩を端正に歌い上げるエリックの姿を思い出していた。

  如何にひさしくかれこれを
  あげつらひまた追ふ――

 甘美な思い出は、シャム猫の鳴き声でかき消された。猫は引きこもった主人を心配しているのか、それともただ単に構って欲しいのか、エリックの部屋の前でしきりに鳴き、扉に爪を立てていた。またしても猫に邪魔されたことに私は憤慨し、猫をつまみ上げた。
「ご主人様の邪魔をしてはいけません。エリックを静かに寝かせてあげるべきよ」
 ところがその時、寝室の扉がちょうど猫一匹の幅だけすっと開いた。「アイシャ、おいで」――猫は私の手をすり抜けると、まるで勝ち誇った様子で、尻尾をぴんと立てて部屋の中へ入っていった。
 シャム猫め! 私がエリックのためにせっせと食事をこしらえている間に、猫は何の労力も要せずして彼の懐に潜り込んでしまった。今頃は何の恥じらいもなくエリックの首すじにじゃれついて、彼の手で優しく撫でられていることだろう。エリックのために食事を作り、世話をしているのは私だというのに!

 * * *

 朝までぐっすりと眠ってしまった。私の一日の生活はアイシャの朝の挨拶から始まる。いつも私のベッドによじ登ってくると、顔のあたりに座り、尻尾と前足で私を起こしにかかる。食事の催促のため、私をベッドからたたき起こすのである。私はアイシャの食事に手を抜いたことはない。常に最高の食材を用意していた。その反動なのか、自分の食事はかなりおざなりだった。作るのが面倒なあまり、そのままオルガンの前に坐って食べるのを忘れることもある。ところが、今日はきちんと朝の料理が用意されていた。サモワールに火が入っていた。朝食には温かなレモンティーまで用意されていた。
「クリスティーヌ?」
 彼女は何故か不機嫌だった。私がアイシャを抱えたまま彼女に挨拶をした時も、返事は無かった。心なしか、彼女の黒い猫耳がつんとそっぽを向いていたような気がする。律儀なナーディルは書き置きを残してくれていた。それによるとクリスティーヌは今、役のために猫になっているそうだった。そんな話は初耳だった。私がこのオペラ座を建てて作り上げたというのに、今では私の知らないことばかりになってきた。
 その日は全く仕事にならなかった。
 私がオルガンの前で楽譜を書いていると、アイシャが鍵盤の上に飛び乗ってきた。クリスティーヌは私の足下におずおずと這ってくると、そのままおとなしく坐っていた。アイシャが鍵盤の上で不協和音を奏でる度に、私は彼女を床に下ろした。そして私が彼女を抱きかかえる度に、クリスティーヌはますます不機嫌になっていくようだった。ようやく私は気づいた。クリスティーヌはアイシャに嫉妬をしているのだ。私に構ってもらえなくてすねているとは、なんと可愛い娘だろう! 私が床で小さくなっているクリスティーヌの頭をそっと撫でると、彼女の瞳はぱっと喜びに輝いた。そして黒い尻尾をゆらゆらと揺らしながら私に甘えてきた。
 私はそれからずっと上機嫌だった。私が席を立つと、二匹の小さいご婦人が私の後を付いてくる。婦人たちは時々、二人で私を取り合ってささやかな喧嘩をしているらしかった。実にほほえましい光景だった。娘が出来たような気分だった。私はもう子供がいてもおかしくない年齢だった。アイシャがカシミヤのコートの裾にしがみついてきた時から私は彼女の父親代わりだった。そしてクリスティーヌと私も父娘ほど年齢が離れている…いくら私が彼女を恋人として愛しても、それは事実であった。私は時々、クリスティーヌを我が子のように慈しみ、娘を庇護する父親のように愛情をもって接してきた。たとえ実の父に愛された記憶がなくとも、私は本能的に父性愛を持ち合わせているのだと、その時初めて気づいた。
 そうして私は、しばらくの間オペラ座の地下で可愛い猫たちとの暮らしに甘んじることにしたのだった。たとえ人と会わない孤独な生活を送っているといっても私は普段からきちんと正装をしていた。身だしなみを整えないのは私の美意識に反する。だが、それが今や私はガウンを羽織っただけの格好で長椅子に寝そべり、葡萄酒を片手に仰いでいる。そして猫たちは私に、この上ない楽しみを与えてくている……。

 * * *

 普段着の姿のエリックを初めて見た。もともと彼は服装には人並み以上の気配りをする人だった。全身を覆うほどのマントを羽織っている時など、正装して盾を構える騎士の姿そのものだった。まるで武装するように、生まれ持った容姿を隠し、完璧を目指しているのだろうと私は思った。だとしたらそれは痛ましいことだ…。しかし、そんなエリックも、今は私の前にゆったりと、緊張を解いて身体を休めている。私はアイシャがよくするように彼の膝に顔をうずめて寄り添った。エリックは幸せそうに私の髪をくしけずっている。
 私は愛されている。私は幸せだった。満足だった。けれど、相変わらずあのシャム猫に対する嫉妬は続いていた。時折、エリックは毛並みを整えるためのブラシをアイシャにあてがっていた。ブラシがしゅっと彼女の背中をなでつける度に、アイシャは官能的な鳴き声をあげた。そしてエリックは気まぐれに彼女をひっくり返すと、彼女のふさふさとした腹のあたりに手をうずめてわしわしと柔らかい感触を楽しんでいた。その時の猫の顔つきといったら!ほとんど恍惚としていて、私にはそれがたまらなく羨ましかった。いっそエリックの隣に仰向けに寝てみようかと思った。だがそんなことをしてもエリックを困惑に陥れるだけだろう。私はじれったい衝動に身を焦がしていた。
  エリックは確かに私のことを愛してくれた。だが、それが恋人同士の愛撫ではなく、父親としていたずらをする娘を甘やかすようなものだった。私でさえエリックのことを父親のように感じて振る舞っていた。まだ私がコーラスガールだった頃、亡き父に会えない寂しさのあまり楽屋でひっそりと泣いていた。そんな私をエリックは――音楽の天使は、なぐさめ、守り、導いてくれたのだった。しかし私は思慕の愛情以上に激しい恋慕の情をエリックに抱いていた。彼もそうだったのだろう。彼のクローゼットに密かに隠された、私の背丈ぴったりに仕立て上げられたウェディング・ドレスを見れば、エリックが私に望んでいる関係はすぐに察することが出来た。ああ、だけれども、彼は私に触れることすら出来ないのだ。
 ある時私は、エリックがいつもしている黒い革の手袋を外しているのに気がついた。彼の素手を眺めるのは初めてだったので、私は思わずしげしげと見入ってしまった。この骨張った細い手が、オルガンの妙なる調べを生み出し複雑な楽譜を書き上げ、畏るべき不可思議な設計図を引き、数え切れないほどの奇術を操ってきたのだ。そして時には人を絞め殺すための縄を投げ、今は私の似顔絵をせっせと描いている――私には魔法のような手だった。私は尊いものを扱うように、彼の手をとり、両手で優しく包んだ。そこに古傷があるのに気がつくと、その上にそっとキスをした。
「エリック――?」
 彼は私に抱かれた手の置き場に困っている様子だった。どうしていいのか分からず、しばらく逡巡したあと。そっと手を引っ込めた。そして何事も無かったかのように静かにその場を去った。
 ――私に触れて、さわって、抱きしめたっていいのよ、エリック!
 私がじゃれつけば、時にはそのまま抱き返してくれた。けれども、彼の方から直接私に触れることはなかった。真面目に、真剣に向き合おうとすると、彼はいつだってするりと私のもとから抜け出してしまう。私たちの関係はいつになっても進展しなかった。エリックが怖れている以上、私からエリックに迫ることは出来なかった。私はため息をつきながら、床に散らばったままになっている楽譜を拾い集めた。
「私の音楽の天使……」 

 * * * 
 
 彼女は時々私のことを天使様と呼ぶ。私は人間でエリックという名前なのだと告白するまで、彼女は私のことを本気で守護天使だと思っていたようだった。「エリック?」初めてクリスティーヌが私の名前を呼んだとき、彼女はおそるおそる、私の身体に手を伸ばした。肉体に触れて初めて私が天使ではなく、人間として生きた存在なのだと分かったようだった。
「そうだ、私はエリック。私は天使ではない」――私はエリック。ただの男だ。
 私は自分の声の持つ不思議な才能にとっくに感づいていた。私の声は人を酔わせる。だからそのままクリスティーヌを陶酔に導くことは簡単だった。だが、もちろんそんなことをしようとは思わなかった。ジュールを手駒にするのとは訳が違う。あどけない少女のようなクリスティーヌは私に祈りと庇護を求め、導きを必要としていた。私は彼女に父親のように接してきた。いや、それどころか殆ど聖人のように振る舞った――私は彼女の音楽の天使なのだから……。
 クリスティーヌはアイシャに嫉妬していた。アイシャと張り合っている。しかし、そんな彼女の本心に私はずっと気づいていた。クリスティーヌは、本当は、立ち往生を続ける私の態度に、業を煮やしているのだ。彼女は優しい。私のそばでずっと待ってくれている。だが私はどうしても彼女に触れられない。出来ないのだ、クリスティーヌ!私を許してくれ!
 クリスティーヌが私の手をじっと見詰めていた時、私は彼女が何を考えてこんなことをしているのか全く分からなかった。よもやゴミでも付いていたのだろうと適当に考えを巡らせていると、彼女は、私の手の古い傷跡を優しいキスで覆った。その時、もう痛みなどとうの昔に消えていたはずの傷跡が突然うずき出した。それは激しく痛んだ。苦しかった。苦しみは私を忌まわしい過去の思い出へと誘った。母が、私の唯一の父親だったジョヴァンニが、あの哀れなルチアーナが!私はもう耐えられなかった。誰一人として愛に満ちた関係を築けなかった。誰一人として、私が愛を求めて手を伸ばすと、全てがもろく崩れ落ちてしまう。何がいけなかったのか、この醜い顔のせいだろうか?私という存在は生きているだけでどれほどの人を不幸に陥れたのだろうか。私は今度こそ、クリスティーヌを失うまい、と強く思っていた。私が触れて、私のせいで彼女を壊してしまってはいけない。彼女が私のもとを去ってしまったら、私は永久に一人だ。寄る辺なき孤独の世界で、私は永久に一人だ――私はクリスティーヌに永久に触れられない!
 私はひどい絶望感と気鬱症とに息が詰まりそうになったので、例の、禁断の包みに手を伸ばした。それには、クリスティーヌが邸にいる時は一切触れないようにしていた。だがとうとう自分で自分の誓いを破った。薬のもたらす快楽に惚けているみっともない姿など、彼女に見せられない。だが、禁断症状のもたらす狂気と錯乱のさなかに彼女を傷つけてしまうことの方がもっと恐ろしかった。クリスティーヌが側にいるのは気配で分かったが、私は構わず例の包みを手に取った。左腕の袖をまくり、静脈に注射器をあてがう前に一瞬だけ彼女の顔を見た。そこには母が立っていた。
 私はもうすでに末期的なモルヒネ中毒者だった――常に幻覚にさいなまれている。

 * * * 

 私はエリックの過去を全て知っているわけではなかったが、彼がかなり人の道を外れた生き方をしてきている事にはとうに気づいていた。一体何人殺してきたのだろうか。いつだったか、エリックは私は数え切れないほどの人をこの投げ縄で始末してきた――と私に語った。どういう過去があって、彼は殺人者になったのか。多くの異国語を操れるということはそれだけ遍歴の人生を送ってきたことだ。だがエリックは自分の過去を殆ど語らなかった。もっと昔の、ロシアに渡る前、フランスで家族と暮らしていたはずの思い出については、私と彼の母が瓜二つの顔で似ているということ以外、全く語ることを拒絶していた。それでも私は気にしなかった。彼の過去を無神経にわざわざ詮索する気にはなれなかった。ただ、言葉に出来ぬほどの孤独を抱えているのだということだけ分かれば十分だった……。
 彼が初めて発作に倒れた時、私はエリックが本当に大変な病気を抱えているのだと思っていた。確かにそれは大変な病気だった。ぼろぼろになるまで身体を痛めつけ、たちの悪い後遺症という大きな犠牲を払ってでも、それでもエリックはモルヒネを手放さなかった。彼の孤独を癒やすにはもうそれしかないのだと、殆ど諦めの境地に達していた。私の愛をしてもエリックの孤独を埋め合わせることはできないのだろうか。すすり泣きながら注射器を自分の腕に突き立てるエリックの姿を、私はただ為す術もなく見守ることしかできなかった。
 しばらくして、高揚の余り部屋の中をうろうろと歩き回るエリックの気を鎮めようと、私は声を掛けた。
「エリック…私に何か本を読んでちょうだい」
 話題を変え、暗い過去からエリックの気をそらしたかった。エリックは、しばらくぼうっと座り込んでいたが、図書室へ本を探しに行くのが面倒だったのか、そのまま詩を暗誦しだした。それは私がよくエリックに読んでくれと頼んでいたルバイヤートだった。彼の口は流暢にペルシャのルバーイイを吟じていた――

  如何にひさしくかれこれを
  あげつらひまた追ふことぞ
  空しきものに泣かむより
  酒に酔ふこそかしこけれ

「エリック!そんな歌を歌うのはよして!」返事はなかった。酒に酔うこそかしこけれ!私はそう歌いきったエリックの痛ましい心中を察することは出来なかった。
「もうやめましょう、ね、こんなことを続けても何の意味もないわ」
「だけど、…だけど阿片だけが私の忌まわし思い出を消し去ってくれる!お前には分かるまい、この孤独が!責め苦と艱難しか見いだせなかったこの人生のつらさが!」
「分からないわよ!だってあなたは一度だって私に過去を話そうとしなかった!知らないものをどうやって理解しろというの?」
 言ってしまってから私は後悔した。さすがに無遠慮だった――エリックが怒って私を殴っても仕方ない、と反省の意を示そうと私は頭を下げた。けれど、エリックは怒らなかった。それどころか、私にぽつりぽつりと、自身の過去を語り始めた。
「……そうだったね、クリスティーヌ。私はお前を傷つけるつもりはなかった。すまない。いつも私の癇癪に付き合わされておまえは本当に可哀想だね。さあ、昔のことを話そうか――」
 初めて私にドン・ファンの伝説を教えてくれた豚のような男がいた――とエリックは静かに語りだした。私は気づいたらぽろぽろと涙を流していた。頬を流れ落ちる涙を拭うのも忘れて私はエリックを抱きしめた。つらかったでしょうね、と何度も何度も繰り返した。
「エリック!もうあなたは過去から解放されるべきよ。さあ、私がそのつらい過去を忘れさせてあげる――!」

 * * * 

 禁を破ってモルヒネに手を出したことを激しく後悔した。
 私は薬の服用後、気分の高まるのにまかせ、クリスティーヌとたわいない遊びをしていた。途中から記憶が飛んでいるが、私はどうやら勢いに任せて自分の昔話をしゃべり散らしていたらしい。そばでクリスティーヌが泣いていた。既にこのあたりで私は半睡半覚の状態に陥っていたので、クリスティーヌが私を寝室まで引きずっていく間に私は一体何を話していたのかがさっぱり思い出せない。ようやくベッドの上で我に返った時にはクリスティーヌが私の身体を押さえつけ、四肢を寝台の柱に縛り付けているところだった。私は一体何をやらかしたのだ。
「クリス――」
 クリスティーヌが私の口を優しくふさいだため、その名前を最後まで呼ぶことは出来なかった。「おとなしくしていたら、この戒めを解いてあげる」そう言って、私の口にぐるりと布を噛ませた。
「エリック、こうやって檻に縛られて、心ない客達の見せ物にされていたんでしょう? ひどい――あまりにひどすぎるわ」
 私は両腕をいっぱいに伸ばすような格好で戒められていた。ちょうどジプシーの見世物小屋で慰み物にされていた時と同じ格好だった。私は本能的に、身体をよじり、戒めからがれようとした。口枷のため、声をあげることは出来なかったので、懇願するようにクリスティーヌを見上げた。
「やめて、やめて、そんな目で私を見ないでちょうだい――恥ずかしいから!」
 クリスティーヌは私の目をそっと塞いだ。彼女が仮面の上から肌触りの良い絹で私の目元を覆う間、私はただ身を横たえてじっと待つより他はなかった。
「無理矢理に拘束されて、仮面を剥がされて、晒し者にされて、つらかったでしょうね、エリック。もうそんな悲しい過去は忘れるのよ。今から私がそれを甘美な思い出に変えてあげるから」
 私は全身の緊張を解くと、もう何も考えずに、彼女に身体を委ねることにした。
 クリスティーヌは私の上着を緩めると、首のあたりに指を這わせてきた。時々ふっさりとした感触が私の胸のあたりをよぎる――例の黒い尻尾だろうか。「アイシャはどういう風にあなたのことを愛していたの?教えて――」彼女の柔らかい舌が私の頬を撫ぜた。そして私の耳を優しく噛み、愛撫しながらこうささやいた。エリック、あなたを愛している、と。

 * * *

 私は必死だった。私よりもずっと年上で人生経験も豊富で、それでいて男女関係にはとことん奥手で純情なエリック――私の天使――を喜ばせるのは結構大変なのだ。放っておけば猫とばかり戯れて、いつまで経っても孤独の殻に閉じこもって私にさえ心を開こうとしないこの男に、私はひたすら愛を捧げていた。彼を押し倒し、仰向けに縛り付け、その上に這いつくばって、暗い彼の過去を私の全身全霊の愛で埋め合わせようと、私は必死になっていた。 
 モルヒネの注射痕のせいで痣だらけになっている痛ましい腕をさすり、傷跡を舐めた。こうやって撫でて、そうして私が癒やせればいいのに。何度も何度も撫でた。私が愛撫する度に、エリックは身体を小さく痙攣させていた。怖がらなくてもいいのよ、ゆっくり、力を抜いて楽にしてて……私は彼の胸板の上に寝転びながらその乳首のあたりをなで回していた。そして、その手を下へ下へ、とゆっくりずらしていく。服の上からエリックの下半身をなでさすっていると、私がはめた口枷の下からくぐもった悲鳴が聞こえてきた。私はキスをして黙らせると、そのまま彼の上にぴったりと寄り添って寝ていた。いっそこのままズボンを剥いでしまおうかとも思った。が、身体の関係は、いつかエリックが自ら進んで仮面を取ってくれるまで待つつもりだった。だから今は私がひたすら彼に愛撫を捧げるだけ――
 やがて気が済むと、そろそろ彼の口の戒めをといてあげようと、身を起こした。部屋は薄暗がりでほとんど何も見えなかったが、それでも彼の顔じっと見詰めた。彼の地毛は薄い金髪だった。その一本一本が全て愛おしく感じられ、少しの間、優しくなでつけていた。それはたとえようも無いほど、幸せな時間だった。

 * * * 
 
 しばらくの間私はクリスティーヌのされるがままになっていた。私は縛り付けられたまま、何も出来なかったが、彼女があまりに激しく愛すので息も絶え絶えになっていた。彼女に触れられ、撫でられる度に私は天にも昇るような心持ちで惚けきっていた。
「疲れたでしょう?」
 ようやく口に噛ませられた布が取り除かれると、クリスティーヌはいとも涼しげに聞いてきた。しかし答える間もなく、再び彼女の唇が私の口を塞いだ。彼女の柔らかい舌が絡まり、何か冷たい水を私の喉に流し込んだ。
「こ…れは?」
「ただの水よ」
 違うだろうな、と思いつつ、全身が熱く火照ってくるのが感じられた。たちの悪い葡萄酒だ。ひんやりとした瓶が頬や首に押しつけられるのが分かった。
 クリスティーヌが私の首すじを撫で回し始めた。
「あの男に、首を絞められていたんでしょう?」
「ああ…だけどそれ以上に私はパンジャブの縄で人を絞め殺してきたが」
「エリック――!」
 クリスティーヌの気を悪くしたか、と訝しんだが、彼女はやがて私の両手の戒めを解くと、優しく包み込んだ。ようやく私を全ての拘束から解放すると、そのまま私を抱き起こし、腕の中に抱き締めてくれたのだった。私は社会から虐げられてきた、そして私も人々を殺めてきた。そんな私をクリスティーヌは抱きしめてくれる……。暗闇の中、私にはクリスティーヌが再び母の姿に重なった。ただの一度も私を抱こうとしなかった母、キスの一つさえ私に与えてくれなかった母が、今、私を優しく抱き留めてくれている。

 * * * 

 私は自分の腕の中にエリックを抱きかかえたまま、あやすように、ゆっくりと身体を左右に揺すっていた。エリックに飲ませたのは水ではなかった。アルコールと少しばかりの阿片を混ぜた物――ローダナムを一口盛ったのだった。素面の状態で面と向かっては何を言われるか分からなかったので、あとは深い眠りに身を委ねてしまおうと思った。エリックは今は私に身体を預けて穏やかな寝息を立てている。私は彼をベッドにそっと寝かしつけると、燭台に灯りを点けた。乱れた髪と服を直し、自分も睡眠薬を仰いでから部屋に戻ろうとした。
 エリックは自分のベッドの中で手足を抱えて小さく丸くなっていた。仮面は付けたままだというのに、顔をシーツに埋めるように、少しでも隠れようとしながら寝入っているのに私は気づいた。私はしばらくそのまま見入っていた。年端もいかないあどけない少年の姿を、エリックの寝顔に見た気がした。静かな寝息を聴きながら、その背中をそっとさすった。そして、私も完全な眠気に襲われ、前後不覚なってエリックの隣に倒れ込む前に部屋を後にした。
 部屋の外ではアイシャが私を待ち構えていた。尻尾をピンと立てて、細い目で私を睨んでいる。もう私は彼女と張り合う気はなかった。私はラウールが探してきてくれた黒い尻尾と耳とをアイシャにあげた。彼女がじゃれて遊ぶには丁度いいと思ったからだ。怪訝そうに鳴くアイシャをよそに、私はマントルピースの上にしまってあるエリックの母の写真を密かに取り出した。それは私だった。私とそっくりのエリックの母親の姿を眺めた。彼は母については「どうしても話せない」と何一つ語ってくれ無かったが、きっと幸せなものではなかったに違いない。愛してもらえなかった記憶が今も彼を苦しめているのだろう。だけど、いつか彼も知るといい。あなたは愛されているのよ、エリック。
 私はずっとエリックの愛を欲していた。彼に誰よりも愛して欲しかった。ただエリックを独占したかった。だけど、愛は求めるだけのものではない――与える喜びもあるのだ。私は彼に愛を捧げて幸せだった。いつの日か、彼が愛を捧げる喜びにあずかれますように。私は写真を返し、自分の部屋へ戻り、そして眠りに落ちた。

 

 

2014.11.20

オペラ座の小ネタ集

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オペラ座の小ネタ集

  

             
■「あなたを盗ませてください」
ラウル「くそ…いつになったらクリスティーヌは私を愛してくれるんだ! 彼女はいつだってエリック、エリック…みんなお前のせいだ!」
エリック「それはお前が借金持ちのアル中で暴力をふるうヒモ男だからでは」
ラウル「未来の話をしないでくれないか。頭が痛い…というか、ヤク中の犯罪者に言われたくないんだが。オペラ座支配人から大金を巻き上げやがって…金を出すパトロンの身にもなってくれないか。畜生!なんでこんな男にクリスを奪われるんだ…」
エリック「私はこれでもベルナールの子供達を養っているんでね…金が掛かるのは贅沢をするためだけじゃないんだよ。こう見えて家庭的な男なんだよ。悔しければ私を見習い給え、若者よ」
ラウル(見習う…奴を…? でもそれでクリスティーヌが手に入るというなら…私も奴のやり方で…)
 * * *
クリス「メグどうしよう。ラウルから『ロッテへ 公演中に貴女を誘拐したい。私と一緒に来てくれるか』という手紙をもらったんだけど…どうしよう?」
メグ「放っておけばいいんじゃない?」
→気絶させてまで強引に自宅に連れて来ちゃうのがファントム(超短気)。ラウルは…律儀な人だと思う。駆け落ちしようって言っても、クリスが是というまでずーっと待っててくれそう…。モルヒネ中毒になっているような駄目男だけれど情熱的な愛を取るか、身を焦がす程の情熱はないけれども身持ちのいい誠実な子爵との愛をとるか。こんな関係だと思ってたので、LNDでラウルが駄目男に転落しててびっくり。ヘタレが増えてどうしてくれようw

■謎の恋敵
ラウル「クリスティーヌ!君は一体誰に心を奪われているんだ!? どうせ若い不埒な男だろうね!」
クリス「ラウルやめて! 彼は音楽の天使なの。お願いだから天使様にひどいことをしないで」
ラウル「て、天使だと…」
クリス「天使様はいつも私に歌のレッスンをしてくれるのよ。それに、安心してラウル。彼は恋人じゃなくて、お父さんみたいな人だから」
エリック(……)
ラウル「そうか、なら私の恋敵という訳ではないな!ハハッ」
クリス「あ、でもラウルのこと『私の宝物に手を出す無礼な若造、愚か者め…』って言ってたわ」
ラウル「ただの男じゃないか!」
→ファントムとクリスの関係、師弟のような、父娘のような、恋人のような複雑な関係が好きです。ケイ女史のだとさらに、エリックがクリスに母性(?)を見いだしていたりで…さらに萌え。

■指輪
クリス「エリック…十年ぶりね」
エリック「クリスティーヌ!君だけが私の音楽を舞い上がらせることができるんだ!愛しているよ」
クリス「やり逃げしたくせに、よくもそんなことが言えるわね!?」
 * * * 
メグ「…で、どうだったの!?ミスターYと逢ってきたんでしょう?」
クリス「まだあの指輪をしてたわ…」
メグ「!! それってクリスティーヌがあげた…? 十年も変わらず愛し続けてくれるなんて純愛だわ~~」
クリス「そう、ラウルの指輪をね、大事に持ってたみたい」
メグ「!? 子爵様の指輪を!??」
→映画版だとラウルがクリスに贈った婚約指輪をファントムが強奪しました(ラウル→クリス→ファントム→クリス→ファントム→クリス)。LNDでもファントムが指輪をしていてときめき。いじらしい奴め~~

■昔話
エリック「ほう、お前が子供を作れないという噂は本当だったんだな」
ラウル「はは…笑いたければ笑うがいい。暴漢に返り討ちにあって撃たれるなんて、どうせ私は情けない男さ…」
エリック「いや、笑わんさ。私も昔、野蛮な男に襲われかけたことがあってな。まだ私がジプシーと暮らしていた頃の、忌まわしい思い出だ。ジャヴェールめ!」
ラウル「お前にもそんな過去があったんだな…今初めてお前と共感し合えたような気が――」
エリック「もっとも、私はすぐに奴を刺し殺したがな。何故お前もすぐに殺さなかったんだ。拳銃を奪って撃ち返すくらい息をするくらい簡単なことではないか」
ラウル「すまん、やっぱり共感できなかった」
→某先生といいALWといい、続編でのラウルの扱いがあんまりです。ファントムは何をやっても器用な人で才能もあって、ラウルは「こいつにはかなわない…」って思ってるはず。で、ファントムもラウルに対して「こいつにだけはかなわない」って同じ嫉妬を抱いている気がします(妄想

  

   

     

2014.11.18