.

            

            

 遅咲きの薔薇

            

            

 僕はアルマと一緒に、久々にゼラモニアから故郷のイヴァリースへと戻った。両親も兄弟もなく、家も土地も持たない僕は帰る場所がなかったため、学生時代、共にアカデミーで学んだ友人の邸宅に身を寄せていた。彼とは青春の一時期を共に分かち合った人で、首席で卒業をしていった碩学の大先輩でもあった。お互い、道を違ってからは消息も知らない。
 この邸宅の細君は僕と面識のある人物だった。……彼女はかつて共に旅をした仲間で、もう、あれから随分と時間が経ってしまったけれど、立ち振る舞い、その身のこなしにはかつての面影があった。彼女は今でも優雅で可憐な女騎士だった。いつまとまったのかは知らないけれども、この夫婦の間では、まだ恋人同士のような、新婚のような、甘酸っぱいやりとりが交わされていた。僕たちが広間に入ると、僕を迎えた彼女はさっぱりとした、薄衣の上着を纏っていた。「どうかしら?」一緒に出迎えた彼はアルマの手を取り案内しながらも、細君に視線を送っていた。「美しいよ」そこで二人まるで始めて出会った若い恋人のように連れ添って歩いて行くのだった。彼女は黙って彼の側に座っていたり、あるいはそっと椅子を引いたり、彼のために、誰にも気づかれないような細やかな愛情を示していた。
 僕と彼とで、昔語りに花を咲かせている間、彼女はアルマと一緒に外で過ごしていた。緑の草地の上に、二人の婦人のスカートが丸く円を描いて広がっていた。二人とも微笑みながら、僕たちには聞こえない会話を楽しんでいるようだった。全く影のない世界だった。僕たちが歩いてきた道に投げかけられた、暗い翳りは、二人のささやかな笑顔の中には入り込もうとしなかった。
「そういう運命だったのさ。ラムザ、私の話を聞き給え」
「聞いているさ。僕だって随分骨を折ったんだよ」
 僕が妹の姿を視線で追っている間、彼は細君の方に顔を向けていた。そのまなざしが、恋慕の情愛か、思慕の歓びなのかは、ついぞ伴侶を持たなかった僕には知り得ぬことだった。
 僕はふと、壁に掛けられた小さくも美しい、可憐な少女の肖像画に気づいた。澄んだ明るい油絵で、丈の長い薄緑の上着を羽織り、こざっぱりとまとめた金の髪の上に瀟洒なヴェールを載せている。紅に染まった頬に、少女らしい、かわいげのある愛嬌が乗っていた。その少女が誰なのかは想像に難くなかったが、彼に一応尋ねた。「この少女は?」
「私の妻のものだよ」つまり、と彼は付け加えた。
「私の総長の愛娘で、私に剣を向けた凜々しき騎士で、そのあとで私の妻になってくれた女(ひと)の肖像さ。元々は母親が娘の成長した祝いにと贈ったものだったらしい。母亡き後は両親の形見としてメリアドールが大事に持っていたのが、この家にやってきた」
 彼はその肖像をちらりと眺めた。
「どういういきさつで結婚を?」僕の問いに彼は答えず、ついと席を外してしまった。
 僕は肖像の前に歩み寄った。僕の前の肖像の少女は今、美しき夫人となり、庭でアルマと幸福なひとときを過ごしているようだった。「大きなイチジクが二つ熟れているわ! アルマ、それを一つ、もいできてちょうだい」
 彼女はそのイチジクをもって、広間へとやってきた。
「アルマがこのイチジクを取ってきたのよ。あとでタルトでも作ろうかしら。ラムザも一緒にどう?」
 甘酸っぱい芳香が広がった。
「メリアドール、驚いたよ。君が結婚してたなんて」僕は繰り返した。「どういういきさつで結婚を?」
 彼女はさっと顔を赤らめた。一瞬の沈黙の後、彼女は語り始めた。
「あの後、そう、ラムザとオーボンヌで別かれてからのこと。私にはもう家族もなく、誰も心を許せる人なんかいないって思ってた。ただ一人で静かに過ごしたくて、修道院を転々としながら日々を送っていたのね。部屋にただ一人で座って、考えて、この暗い壁の中の世界で、もう俗世に還ることなくひっそりと一生を終えようと心から思っていた。でも、ちょうどその時、偶然あの人と再会したのよ。お互い世捨て人みたいになってて、もう関係なんか持つ気はなかった。でも、図書室であの人が本を朗読するのが聞こえてきたの。古い文豪の詩だった。あたりには私たちの他には誰もいなかったわ。私たちが古の恋人と共に船出をするのを、誰も、何もさまたげなかった」
 船は軽やかにすべってゆく。寂しい真昼どき、姫は甲板の上に坐っている。夏の風が彼女の金髪にそよいでる。しかし、故国を恋う悲しみから、また、やがて老王の妃となるべき異境にたいする怖れから、彼女の眼からは涙があふれる。騎士は彼女を慰めようとするが、彼女は彼をしりぞける。彼女は彼を憎んでいる。彼が彼女の家族を殺したからだ。大気はむし暑い。そして彼女はのどがかわく。しまいかたの粗忽から、姫の胸を老王に対して燃えさすための恋の媚薬が、はからずも船房に出たままになっている。
『ご覧あそばせ、このようなところに、葡萄酒がございますのを!』
「こうしていにしえの詩人の魔術が始まるのよ。甘美な詩句は口からとどめなく流れだし、密やかな胸の上に情火を燃え上がらせる。私は、若々しい美しい二人が舷に一緒に身を寄せる様を思い描いたわ。彼ら恋人は、自分たち二人の手がひそかに握り合わされるのを見ないように、遙かな水を眺めている。彼ら、お互に酔いしれながら、海のこと、霧のこと、風のこと、波のこと、目に見えることをささやき合う……
「全くその時だったわ。いにしえの文豪の差し出す盃の香りが立ち上って私にもまた魔法をかけてしまったの。私はまだ喪が明けてさえいなかったというのに、私の中に眠っていた青春の炎が燃え上がったわ。全く恋の盃というのは恐ろしいものだわ。私たちは幾杯も飲み交わして。
「本当に、恋の盃というのは……本当に……そうして私はあの人と…」
 彼女はそれ以上話を続けることが出来なかった。青春の恥じらい故か、彼女はその場から立ち去った。僕の前にはよく熟れたイチジクが一つ、残った。
 細君の退出と入れ替わりに、主人が戻ってきた。「その続きは私が話そう」
「私の知っている限り、妻は、メリアドールは、いつも黒い喪服を纏っていた。彼女の喪が明けることは永久になかったのだ。家族を理不尽な理由で失いったことは彼女を十も老けさせていた。ある時、私は彼女からこの肖像画を見せてもらった。これが家族の唯一の形見だと。しかし、絵の中の可愛らしい面立ちを、喪服を纏った黒い婦人の輪郭に見いだすことは出来なかった。
「何が彼女を変えたのか? 誰が黒の喪服を脱がせたのか? それが恋の盃、不思議の飲み物、あの媚酒だったのか? 恋の盃とは、単なる象徴ではないのか?
「しかし私たちが小さな修道院の片隅で日がな恋の狂乱に耽っていたと考えるのは間違いだ。そう、あの頃の私たちは世捨て人も同然だった。いにしえの詩人の呼び起こしたひとときの魔法は、次第に色あせていった。一日、一日と、日々は静かに平穏に過ぎ去っていった。私も事を荒立てる気はさらさらなかった。ただ誰にも邪魔されず、心静かに過ごす事だけを望んでいた。
「静寂を求めた私のお気に入りの場所がその修道院にはあった。裏庭に小さな薔薇園があったのだ。そこには誰の邪魔も入らなかった。何の関わりにも乱されることなく、私は永遠の古歌に読みふけっていた。私は、彼女が、ときおりそばに坐って聞いているのを知っていたので、声をあげて読んだ。すると、熱心に動いていた彼女の手は覚えず仕事を忘れるのだった。私はあの戦乱の時代のせいで、ろくに一芸をきわめることが出来なかったが、多少は歌うことが出来た。彼女も、歌う心得はあった。
「ある時私は、あの肖像、君の前にあるその肖像を再び眺めた。美しい、若々しい顔にじっと見入っていた。この若い、笑っている眼が見入っている世界は暖かな、たしかに陽の光に満ちあふれている世界に違いないと気づいたのだ。私はたまらなかった、彼女の暮らすべき世界は光輝くものでなければならない! 私は両腕を肖像の方へのばした。彼女はもう一度この姿に戻らなければならない、悔恨と憧れとに引き裂かれながら、そう願った。
「過去を悔いることは山のようにあった。彼女に黒の服を纏わせているのは、私のせいでもあるのだから。しかし、ただ一つ分かっていることがあった。この肖像の愛らしい若々しい姿は、まだ永遠に過去のものとはなってはいないということだ。かつてはこうだった彼女――その彼女は今も生きている。そして自分のすぐ側に、この手の届くところにいる。自分は今の、この瞬間にも、彼女のそばにいられるのだ!
「私はすぐに彼女を探す必要があった。彼女は薔薇園の中にいた。彼女はほほ笑みながら私を見た。しかし、私は時を移さず黙って彼女の手を取り、彼女を連れて歩いた。私たちは並んで歩いた。白い朝の光の中、彼女のほっそりとした手が任せきったように私の手の中におかれた時、私はこらえきれなくなって彼女の前に跪いた。私がふたたび顔を上げたとき、彼女は、もう黒いヴェールを被いてはいなかった。彼女は、自分の手で、喪服を脱ぎ捨てた。……私は、彼女が闇の中に居るとは最初から思っていなかった。朝靄の中、私の側にたたずむ彼女は、あの肖像と何ら変わりはしなかった。光輝く、美しい姿だった。
「こうして私たちは、再び恋の盃から飲んだのだった。もう幾杯も飲み交わす必要はなかった。心からの、深い一滴で十分だった。いや、初めから恋の盃なんて必要なかったのかもしれない。そして、私たちは遅過ぎる青春を、二人で連れ添ってすごすことに決めたのだった」
 その晩、僕はアルマと夕飯をとった。テーブルには夫人の作ったイチジクのタルトも並んでいた。次第に夕闇がせまってきて、全てがひっそりとしていた。しかし、外の庭には灯りが点いておりわずかな輝きを見せていた。歴史から退いた僕たち兄妹がこうやって静かな、幸せな食事をしているとは誰が知っていようか。庭の茂みから、夜の中へ低いアルトが歌い出すと、それに寄り添うに可憐なソプラノが唱和した。『おお青春よ、うるわしの薔薇咲く頃よ!』僕たちはそれに耳を傾けながら、幸福なひとときを過ごしていた。

            

            

・パロディ元…シュトルム著『みずうみ』(関泰祐訳)、岩波文庫、1992年、117-136p

            

            

2015.7.10