花摘みの季節

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・メリアドールが神殿騎士団長になる、というエンディング後のif物語の中の一エピソードです(メリアドールのエピソードは同人誌「Top of the World」に載せています)。
・イズルードとアルマは結婚している前提(イズルードがベオルブ家の入り婿になりました)。エンディング後の物語ですが、誰も死んでいません。

 

 

 
花摘みの季節

 

 

 
 吹雪の季節が終わると、ガリオンヌには暖かい風が吹き、雪解けをうながす。暖かい風が吹く頃、領地に点在するなだらかな丘陵では、花摘みにいそしむ女性の姿が見られる。
「――彼女たちは、何をしているんだ?」
 ウィーグラフとチョコボの遠乗りをしていたイズルードは、丘の上で輪になってせっせと花を摘む女性たちの姿に釘付けだった。ベオルブ家に婿入りしたばかりのイズルードにとっては、ガリオンヌで見る風景の全てが新鮮だった。ミュロンドは温暖な島国だったから、雪国の風習はことさら珍しく感じられるのだろう。
「ああ、あれは、染料になる花を集めているんだ。特に赤の染料になる花は、ここガリオンヌでしか採取されないから特に貴重だ。ガリオンヌの商家が潤っていたのは、この特別な染料があったからだ――といっても、黒死病が流行る前のことだが」
「そういえば、ウィーグラフは商家の出身だっけ」
 ウィーグラフは、イズルードのチョコボに首を並べて、速度を落として、故郷のおだやかな風景を眺めていた。
 ――ここの風景も、すっかり元にもどったようだな……。
 イズルードが言った通り、ウィーグラフは商人の家の息子だった。綿製品の加工を細々と行う一族だったが、祖父の代に、新しい染色技法を開発し、それまでに染色不可能だった赤色のコットンシャツを開発し、当時の一大流行となった。ロマンダとの交易も活発に行われていた当時、ウィーグラフの祖父は一大で莫大な富を築きあげ、フォルズ家は地元の名士として敬われるようになった。ミルウーダが小さい頃は年上の貴族のレディたちに混じって、ガリオンヌの風物詩となったこの花摘みに出かけていた。
 だがそんな穏やかで幸せな日々も、ロマンダとの戦争、黒死病の流行、国王代替わりの内乱ですっかり変わり果ててしまった。ウィーグラフの両親は黒死病で亡くなり、争乱のなかで潰れた家業は借金しか残さなかった。ミルウーダはドレスを脱ぎ、戦装束をまとった。彼女は戦士として生きる決意をしたのだ。
 ――祖国のために戦うのよ! 私たちは屍にはならない! 故国の勝利を得るためなら、なんど死んでも生き返る!
 黒死病で故郷が壊滅し、家が没落しようと、それでも凛々しく、強く立ち上がった。ウィーグラフは思った。その姿は――とても、彼女に似ていた。
「ウィーグラフ、そういえば姉さんから手紙を預かっているんだ」
「ああ――ちょうどミルウーダ……いや、メリアドールのことを考えていたところだった」
 イズルードは、丘を下り、低木のしげみに乗っていたチョコボをつないで、木陰に座った。ウィーグラフもそれに続いた。
「父さんが引退するらしいんだ。それで、姉さんとクレティアンが次の長に推薦されえて……でも、折り合いが悪いみたいで、困ってるって。姉さんも気が強いし頑固だから……」
「ああ、うむ、そうだろうな」
 ウィーグラフは、メリアドールよりも先に妹のミルウーダのことを思い出した。気が強くて、走り出したら止まらない。喧嘩になると、折れるのはだいたい兄である自分だ。
 イズルードは、メリアドールからの手紙を読みながらウィーグラフに手渡した。
「――ウィーグラフ、ミュロンドに戻るつもりはないか? 姉さんが、自分の補佐は同じゾディアックブレイブとして戦ったウィーグラフに頼みたい、と手紙で書いてきてるんだ」
「――え?」
 ウィーグラフは目を丸くした。再びミュロンドの神殿騎士団に戻り、そして、副団長に? 
「オレ、ウィーグラフだったら騎士団を立派に率いてくれると信じてる。クレティアンも、努力家だし、うまくやってくれるって信じてるけど、姉さんと犬猿の仲だから……ウィーグラフならきっと、うまくやっていけるんじゃないかって思ってる」
「いや、買いかぶりすぎだ、イズルード。私にはそんな器はない。人望があるのは、祖父がガリオンヌの名士だったからだ。騎士団を引っ張る力もミルウーダの方がよほどある」
「そんなことない! オレは、神殿騎士団にいた頃、ウィーグラフのことがずっと憧れだった。財産をなげうってガリオンヌで祖国防衛のための旅団を立ち上げて、それで、活躍が認められて騎士団の称号を得たって聞いて……本当に吟遊詩人の語る英雄みたいな人だと思った。そんな人と、一緒に戦えるなんて、オレは……嬉しすぎて、今でも、一緒に戦場に立った時の感動を覚えている。オーボンヌ修道院に聖石奪還に行った時の……」
 なにやら熱い火が降ってきたようで、イズルードは止まることなくウィーグラフへの尊敬と賛辞の言葉を雨嵐と語り出した。隣で聞いているウィーグラフは、突然の熱い告白に困惑している。
 ――おいおい、イズルード、どうしたんだ。おまえはもう、神殿騎士ではなくて、ベオルブ家の若婿様だろう。家で新妻が夫の帰りを首を長くして待っているだろうに。
 ウィーグラフは、イズルードの髪をぐしゃっと撫でた。
「わ、な、何するんだよ」
「イズルード、おまえは日が暮れる前に城に帰れ。こんなところで油を売っている場合ではないだろう――イグーロスの若き城代さまよ」
「あ、ああ、うん、そうだけど……オレはもうちょっとウィーグラフと一緒に……」
「なんだ? もう夫婦喧嘩か?」
「ち、違うんだ! アルマ様はとても優しくて、いい人で……だけど、義兄達と打ち解けられなくて……ああ、もう! なんであんなに堅物の義兄が三人もいるんだよ! うちの姉さんが三倍になったみたいだ」
 ああ、とウィーグラフは笑った。ダイスダーグとザルバッグとラムザ。ゲルミナス山脈より高い障害が、三つ。
「おまえも苦労しているな、イズルード。まあ、だが新しい暮らしにはすぐ慣れるだろう。おまえも、メリアドールも。私の知る限り、ティンジェルの血筋もなかなか強情だからな」
 ウィーグラフはイズルードから受け取った手紙をひらひらと振った。
「メリアドールには私から返事を書いておく――申し出はありがたいが、私は、故郷から離れるつもりはない、と」
 名残惜しげに帰路に就くためにチョコボの綱を握っていたイズルードが聞いた。
「やっぱり、ミルウーダさん……家族と離れるのは寂しい?」
「まあ、そんなところかな」
 そして、イズルードはイグーロス城に、ウィーグラフはミルウーダの待つ家へとそれぞれ戻っていった。

 

 
「兄さん、遅い! 夕飯!」
 ウィーグラフがただいまを言うより早く、ミルウーダが叫ぶように言った。ウィーグラフはイズルードと話し込んでいて遅くなった手前、彼女の食事の準備を手伝おうと、テーブルの上に皿を並べようとした。
「なんだ、書類が山積みじゃないか。ギュスタヴに配達屋に届けるように頼んでおいたのだが、あいつは今日はこなかったのか?」
「ギュスタヴ? いるわよ、ほら、樽みたいなアレ」
 ミルウーダは鍋のふたを右手に持ったまま、部屋の片隅を示した。酒場から調達してきたらしいエールの樽を抱えて熟睡している。ゴラグロスも巻き込んだらしく、二人で酔いつぶれている。
「おまえら……今日は騎士団の庶務を片づけておけと言ったのに」
「兄さん、邪魔だから早く起こして。鍋が出来たけど私が皿によそう前にまだ起きてなかったら、スープを上からぶっかけるから」
 ミルウーダが鍋をスプーンでカツカツと叩いている。気が立っている。当然だ。ウィーグラフは二人の尻を蹴り上げると、エール樽を取り上げて戸口の外に頃がした。ゴラグロスは、ウィーグラフの剣幕に気づいて、気まずそうに謝った。なんだよ、寝てるとこ起こすなよ、とギュスタヴは不機嫌そうだ。
 ミルウーダが鍋を持ってきた。せっかくの夕飯が床にばらまかれては大変、とウィーグラフは慌ててギュスタヴの腕をつかみ、テーブルまで引っ張ってきた。
「ミルウーダの兎鍋、久しぶりだな……親父さんがいたころは、いつもこうして三人で食べてたよな」
 ゴラグロスはウィーグラフとミルウーダの幼なじみだった。まだウィーグラフの両親が黒死病で亡くなる前から、よく一緒に食卓を囲んでいた。
「ギュスタヴ、あんたは食事の前に、コレよ」
 ゴラグロスと一緒に、ちゃっかりフォルズ家の夕食にあずかろうとしていたギュスタヴをミルウーダが制した。スプーンをつかんでいた右手に、書類の束をどさっと置く。
「さっさと片づけないよ。今日中の集荷に間に合わせないといけないって兄さんに言われてたでしょ」
「ち、めんどくせぇな……」
「ギュスタヴ!」
 ミルウーダが、机を叩いた。この後の流れは容易に想像できる。ギュスタヴが不満をこぼしつつ仕事をしない、ミルウーダは苛立って皿をひっくり返す、そして、夕飯が台無しになる、といういつもの流れだ。
 ウィーグラフは、ギュスタヴから書類の束を取り上げた。「いい、私がやる」時間がもったいないと思ったのだ。
「兄さん? ギュスタヴを甘やかしすぎよ。ちゃんと働かせないと。これでも兄さんの副官なんだから。使えないなら北天騎士団に返却してきて。それにゴラグロス、あんたもよ! なんでギュスタヴと一緒になって昼から酔いつぶれてんのよ!」
「ご、ごめん……」
 ウィーグラフは三人の喧噪には慣れているので、目の前で舌戦が繰り広げられようと、何も気にせずに書類を裁いていく。インクとペンを手にしたついでに、メリアドールの手紙に簡単な返事をしたためた。「メリアドールへ、誘いはありがたいが、私の騎士団のことで手一杯なので、そちらにはいけない」と。
「あら、兄さん、手紙?」
「昔の仲間――ミュロンドの神殿騎士から頼りがあってな。ミュロンドに戻って副団長にならないかと聞かれたのだ」
 ミルウーダ、ゴラグロス、ギュスタヴは、示し合わせたかのように、おのおのの手を止めた。そして異口同音に言った。
「兄さんが? 無理でしょ」
「無理だよ、ウィーグラフ」
「おまえには無理だろ」
 こういう時に、ウィーグラフはイズルードのことが恋しくなる――自分のことを、眩しいほどの純粋な尊敬のまなざしで見てくれる、たった一人の騎士だった。
 やや寂しげに肩を落としたウィーグラフにミルウーダが、慰めではない言葉をかけた。
「兄さん、現実は甘くないのよ。私たちの同郷のディリータのこと、覚えてる? あの子も神殿騎士になったでしょう。そして、英雄になって、王になった。でも、兄さんも同じ神殿騎士だったのに、兄さんはミュロンドで何をしていたの?」
「なんだ、私がせっかく故郷に戻ってきたというのに、おまえたちはつれない態度だな。ミルウーダ、おまえは兄が戻ってきて嬉しくはないのか?」
「わ、私は別に……」
 ミルウーダは、ついっと横を向いた。これは妹の照れ隠しの仕草だ。よしよし、私のかわいい妹よ――と頭を撫でるのはやめた。それはさすがに怒られそうな年齢だったから。
「そうだ、ミルウーダ、明日は一緒に花摘みに行こう。丘の方はもう雪解けが始まっていた。祖父さまが生きてた頃はよくやっていただろう?」
「え、ええ……昔は……でも、今は花摘みなんて。街の女が着るようなドレスは持っていないし、もう何年も剣しか持ってなかったから、どうやって花なんて摘んでいいのか……」
「服ならちょうどいいものがある」
 ウィーグラフは、テーブルを離れて、部屋の中の荷物をあさりはじめた。神殿騎士団を辞してきた時に、持ってきたものがいくつか入れっぱなしになっている。
「ほら、私のローブがある。切って巻けば、ちょうどいいスカートになるだろう。祖父さまが染めてたの同じ赤色だ――少し、汗くさいのだけは勘弁してほしいが」
「やだ、兄さんったらそんな真っ赤なローブを教会で着てたの?」
「目立ちすぎじゃねえの?」とギュスタヴ――彼はウィーグラフが書類仕事に忙しいの理由に、ウィーグラフの夕食の皿をしれっと横領していた――そして、後でウィーグラフに叱られることになる。
「たまには剣をおいていくのもいいだろう。そして、親父らの墓に花を添えにいこう」
「そうね――」
 ミルウーダは、ウィーグラフだけに聞こえる小さな声でささやいた。兄さん、帰ってきてくれてありがとう――と。

 

 

2019.10.20

 

教会の鐘より大きいもの

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・メリアドールが神殿騎士団長になる、というエンディング後のif物語の中の一エピソードです(メリアドールのエピソードは同人誌「Top of the World」に載せています)。
・オリジナルキャラの登場も多いです。

 

 

 
教会の鐘より大きいもの

 

 

 

 グレバドス教会が誇る、イヴァリース随一の大聖堂。その鐘の音は、ミュロンドを超え、イヴァリース全土に響きわたると言われている――というのは、もちろん、教皇を擁するミュロンド派の勢力の強大さを揶揄している。
 バルクは、ついこの前まで、そのミュロンド派の神殿騎士だった――だが一身上の都合により、今は騎士団を脱けてゴーグに戻ってきてる。教会の組織の下で働いてきたバルクは分かる。あのミュロンド派に対抗できるものはこのイヴァリースにはいない。ただし、鳴り響く大聖堂の鐘に唯一対抗できるものをバルクは知っている。

 

 
「アンタァァァァいつまで寝てるンだい! はやく起きなッ! 外で客を待たせてるンだよッ!」
 ――うちのかみさんの怒声だ。

 

 
 バルクは「うるせぇ柱が壊れる」と言い返してから、ルツ――彼のつれあいの命令に従ってしぶしぶとベッドから起きた。昨日は、活動家時代からの相棒と夜遅くまで飲み、酔いつぶれていた。酒場で記憶がとぎれているから、相棒が家まで運んできてくれたのだろう。
「まったく、安息日くらい寝かせろよ――教会じゃあ、水より薄いエールしか飲めなかったんだ。世俗の酒はうまいぜ」
「なによ、知った口きいて。テロリストのアンタに安息日なンか関係ないだろう」
「おいおい、俺だって、ついこの間まで教会のエリート騎士さまだったんだぜ?」
 バルクは朝の水で寝起きの顔を洗おうと、桶に手をつっこもうとした――が、ルツに妨害された。
「悠長に顔なンて洗ってるンじゃないよ! 客を待たせてるって言ってるだろう!」
 ルツに蹴飛ばされて(おかげで二日酔いも醒めたところで)、バルクが戸口に向かうと、そこには、金髪の、瀟洒なローブをまとった少女が二人できちんと待っていた。よく似た髪型、よく似た格好。まるで姉妹のような雰囲気だ。
「サー・バルク・フェンゾル、お初にお目にかかります。わたくしはシャーロット。メリアドール様の第三部隊に所属する神殿騎士です」
「サー・バルク・フェンゾル、お初にお目にかかります。わたくしはエレイン。メリアドール様の第三部隊に所属する神殿騎士です」
 彼女たちは、バルクに挨拶をすると、メリアドールの近況について、あれやこれやと口早にまくしたてた。甲高い声でさえずるカナリアが二羽。酔いの残る頭には、やや響く。
 ――まったく、誰だよ、俺の家の所在を教会に漏らした奴は。ぶっ飛ばしてやる。
 元活動家――テロリストということもあり、自分の家の場所を教会に握られるのは危険だと、バルクは思っていた。家には、妻がいて、娘がいる。何かがあってからでは手遅れだ。

 

 
「あ、ボス! 教会のお嬢さんたちと無事に会えたんですね! よかったです。お嬢さんたちがボスの家を探していたので、案内しておきました!」
 カナリアのさえずりにバルクが頭を抱えていると、バルクの長年の相棒――ジェレミーがひょっこり姿を現した。
「犯人はおまえか……少し裏へこい。しめてやる」
「え、え、ちょっと、なんですか」
 慌てるジェレミー。バルクは機嫌が悪い。二人のカナリアは「今日のメリアドール様の髪型のときめきポイント」について語り合っている。混乱した場を制したのは――フェンゾル家の主、の妻のルツだ。
「アンタ、客人の前で口汚い言葉をきくンじゃないよ」
 ルツは、料理用の肉斬り包丁で、料理板をバァァンと叩いた。
 一同は静かになった。
「――食事の準備ができてるよ。冷める前にとっとと食べな」
 一同は食卓についた。バルクは配膳の手伝いを自ら申し出た。
「それで、わざわざ俺の家まで押し掛けてきて、何用だ? お嬢さんたちよ」
 ルツお手製のゴーグ料理をひとしきり食べると、バルクは若いカナリアたちに聞いた。
「……もうすぐ、教皇猊下の代替わりの式典があります。ドラクロワ枢機卿が、次代の教皇として奉職なされます。メリアドール様も、その式典で次代の新たな騎士団長として叙勲をいただきます。ですので、メリアドール様と一緒に活躍されていた、バルク様にも、是非式典に参列していただきたいのです」
 シャーロットが言う。バルクは即答した。
「断る」
「なんでですの!?」と不満げなシャーロットとエレイン。
「何度聞かれても答えは変わらん。俺は組織からはきっぱり縁を切った。未練がましく顔を出す気はねえよ。メリアドールだって、もう父親を超えて、立派ないい女になっただろう。嬢の晴れ舞台を、俺みたいな男が顔を出してぶち壊しにしたら台無しだ。嬢によろしく伝えておいてくれ」
 バルクは両手を振って、二人をさっさと島に帰りな、と促した。
「ゴーグの職人様は頭がお堅いわね。私なんて、メリアドール様の晴れ舞台なんて、まばたきするのも惜しいくらいにずっと見つめていたいのに……残念ですわ」
 二人は、バルクの意志の堅さに諦めて、しぶしぶと、ミュロンド行きの船を目指して港の方に歩いていった。

 

 
「……ボス、本当に断ってよかったのですか? ボスだってメリア様にもう一度会っておきたいのでは? それにクレティアン様も副団長になるとか」
「あーあいつはいいや。貴族は目が腐るから見たくねぇ」
「うちの人、案外シャイなのよ。昔っからね。ああ、でも、あたしよりもアンタの方が詳しいかもねえ」
 ルツがジェレミーの肩を叩いた。ジェレエミーはうなずいた。活動家だった時、神殿騎士だった時。ジェレミーはバルクの隣で共に戦ってきた。思い返せば長いつきあいだ。
「ところで、アンタさァ」
 ルツがバルクに意味ありげな視線を投げかける。
「教会の騎士さまをやめてから、ろくな仕事をしてねぇでないか」
「な、なんだよ……俺は……」
「あたしはさァ、活動家として権力に刃向かって時代を切り拓いていこうって気概のアンタに惹かれたンだよ。教会の騎士になるって突然言い出した時は、たまげたけどさ、それでも教会に入って、あたしたち庶民が貴族に食い物にされない平等な世界を作るって言って、やっぱあたしの惚れた男だって思ったンだよ――」
 夫婦の熱い愛の告白の間に立たされて、ジェレミーは気恥ずかしくなった。
「――なのに! 最近のアンタは何だい! 酒飲ンで、寝て、何の仕事をしてるンだい! アンタは腕利きの機工士だったじゃないか! 教会でファーラムしてるうちに銃の使い方も忘れちまったのかい?」
「ルツ! 違う! 俺は、もう裏の仕事からは足を洗おうって決めたんだ!」
「ハン! 口だけは達者なこと! はす向かいのボアズの旦那はこの前、腐れ司教の首を狩ってきたよ。アンタは教会のエリートの騎士さまだったンだろ? 腕がなまってなければ教皇の首くらい撃ち落とせるだろ。教皇の代替わりの式典があるンだって? ちょうどいい、やってみな!」
「おいおい、待て待て! 俺だって銃の腕は落ちてない、絶対にだ――だが、教皇の首は狙えない。そんなことをしたら嬢に粉砕される。それこそ嬢の晴れ舞台ぶち壊しじゃねえか!」
「ああ、ろくでなしの亭主を持つ嫁は恥ずかしいさね。たまにはいい獲物を持ってきな!」
「おい、ルツ! 俺はだらけるために家に帰ってきたんじゃねえ――娘に、オルパに会いたかったんだ! はやく会わせてくれッ」
 そう、バルクが荒稼業から足を洗った理由は――家族のため、娘のためにいい父親になりたかったのである。
「うちの子なら、マイスター・ブナンザのところに預けてるよ。やっぱり、ゴーグに生まれた人間なら機工士の技術を磨いてほしいからね」
「なんでブナンザの奴ンところなんだ! 俺が機工士だってこと、忘れてねえか?」
「あン? 何だって? あたしだってゴーグ生まれ、ゴーグ育ちの生粋の機工士だよ。だから知ってる。技術を学ぶには師が必要だ。アンタはろくに家に帰ってこないじゃないか! アンタにうちの子の師がつとまるかい?」
 ルツは勝ち誇った顔でバルクを見下した。

 

 
「ルツ姐さん、相変わらず激しい人ですね」
「まあ、活動家だった頃に出会ったからな……あいつも昔は俺より激しいアナーキストで二丁銃で戦ってたからな」
 居場所がねえや、とバルクはジェレミーをつれて家を出た。足は自然と酒場に向く。
「ボス、酒場に入るところをまた姐さんに見られたら大変なことになりますよ――フェニ尾は常備してますが」
「ちっ、しゃあねぇな……けどよ、俺だって好きで教会の犬になったわけじゃない。性に合わず教会でお祈りしているうちに、娘に顔を忘れられるとは、神も愛想がないぜ」
 バルクは、道ばたの石ころを蹴飛ばした。ジェレミーはやれやれ、とつぶやいた。その時――
「――とうちゃん!」
 バルクと同じ黒髪おさげの、まだ年端もいかない幼子。バルクもジェレミーも、その女の子のことは初めて見たが、すぐに分かった――フェンゾルのお嬢ちゃんであると。
「ああ! あなたがオルパちゃん――」
「おい待て! お、俺より先に抱くな……!」
 バルクが制止せずとも、少女オルパはまっすぐバルクの胸に飛び込んできた。そして、そのまま自然な流れでバルクの肩の上にオルパがよじのぼった。
「オルパ、ベスロディオの家に行ってるんじゃなかったのか?」
「うん、でも、今日はかあちゃんから、とうちゃんが酒場に入らないように見張ってろって任務をもらった!」
「そうかい。じゃ、今日の任務は成功だな。仕事を成功させたのなら、ちゃんと報酬をやらないとな。オルパ、何がいい?」
「とうちゃんの背中」
 おいおい、まじかよ。バルクはつぶやいた。ムスメってのは、こんなに可愛いのかよ。天使じゃねえか。今なら祈れるぜ。ファーラムッ!
 ルツから、オルパがブナンザの家で機工士修行をしていると聞いて、自分の娘をとられたようで、ひそかに嫉妬していた――だが、そんなことはなかった。
「オルパちゃん、もう銃を使えるんですか?」
「うん。でも、女の子が銃で戦うのって、変かなぁ」
「そんなことねえよ」バルクは背中の上で娘をあやしながら続けた。「おまえのかあちゃんは、銃を持って前線で戦う戦士だった。それにな――あの海の向こうのミュロンドの大聖堂が見えるか?」
「うん。朝と夕にきれいな鐘がなる」
「そうそう。その大聖堂。あそこの騎士団の次の団長様はおまえと同じ女だ。並大抵の男は、彼女の足下にひれ伏すことになる強さだ」
「すごい! そんな強い人がいるなんて! あたしもいつか一緒に戦ってみたい」
「オルパ、俺はな、彼女と一緒に肩を並べて戦っていたんだ」
「とうちゃん、教会の騎士さまだったの? すっごい!」
「まあな」
 バルクとジェレミーの目が合った。
「あんまり盛って、オルパちゃんの期待を砕いたらだめですよ」
「あんだよ。俺が教会の騎士だったのは紛れもない事実だろうが」
 オルパが、バルクの首にぎゅっと抱きついた。
「とうちゃん、教会のお話を聞かせて」
「ああ、いいぜ、話すと長くなるが――」
 さあ、どこから話そうか。バルクとジェレミーは足取り軽やかに、楽しそうに語りはじめた。

 

 

2019.10.20

 

 
・ジェレミー、ルツさんは他のエピソードでも登場しています。話のつながりはありませんが、だいたい似たような性格です。ルツさんは登場するたびに性格が姐さんになってきましたw

聖夜の宴

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・「異端者に神はいるだろうか? 家畜に神はいるだろうか?」
・もしもイズルードがリオファネス城から生還していたら…ifストーリー
・時間軸はリオファネス戦後~ラムザがアルマ奪還のためミュロンドに乗り込む直前

 

 

 
聖夜の宴

 

 

 

 教会の鐘は沈黙していた。
 聖アジョラの降誕祭を迎えるにあたって、待降節に入ったのである。賑やかな祭の前の静かなひとときであった。
「もう降誕祭に入ったのか?」
 部屋の隅に置かれたベッドの上に腰掛けながらイズルードは尋ねた。
「まだだな。ちょど先週から待降に入った。聖夜まではまだ日がある」
 クレティアンは答えた。そして窓から外を覗いているイズルードにもう寝るようにうながした。
「もう少し寝てな。病み上がりなんだから」
「もう十分よくなったから。それに、こんな部屋で寝てばっかりじゃ気分が晴れないから……」
 あの『リアファネスの惨劇』から数ヶ月。気が付いたらミュロンドに連れ戻されていた。後であれは異端の者が聖石を使い異形の魔物を喚びだしたのだと人づてに聞いた。教会が言うのだからそうなのだろう。
「ちょっと外を見てくる」
「どこへ行く気だ? 無理するなよ。少し前まで床に就いてたのだからな」
 リオファネスで大怪我を負って運び込まれてきた時、クレティアンが随分と親身になって看てくれた。さすがは希代の大魔道士。もう怪我はほとんど良くなっていた。
「街を見てくるだけだって」
 心配そうにしているクレティアンをよそに、イズルードの心は浮かれていた。長いことベッドに寝かされていただけあって、早く外に出たい、と。しかも時期はもうすぐ降誕祭。はやる心を抑えられなかった。
「どうせ出掛けるなら、私のチョコボを使っていきな」
 ようやくクレティアンも諦めたようだった。

 *

 隊舎の外れにあるチョコボ小屋へ行くと、色とりどりのチョコボが並んでいた。一般騎乗用の黄チョコボの他に、白や茶、緑のチョコボも飼われている。イズルードは様々な色チョコボを見回した。たしか白チョコボは魔道士の騎乗に使われていたはず。イヴァリースのユトランド地方が産地で……と思い起こす。普段何気なく乗っているチョコボのことになど気を留めたこともなかった。こんなチョコボ小屋に入ろうとも思った事はなかった。いつもは馬飼いにまかせっぱなしだった。
「こうして見るとチョコボも案外かわいい奴だな」
 切れ長の大きな目、ふさふさした羽、長く立派な尾。そのどれもがなでさすりたいくらいに愛らしかった。イズルードは目の前にいた、輝く赤銅の羽を持ったチョコボに手を伸ばした。
「そいつは気性が荒いぜ。気を付けな」
「ディリータ? いたのか?」
「いたさ、ずっと前からな。おまえが俺に気付かなかっただけだ」
 無愛想に答えるディリータ。ここでチョコボの世話をしていたらしい。その手つきは愛情にあふれていた。
「わざわざチョコボの面倒を見に来たのか? 珍しいやつだな。そんなの人に任せておけばいいものを。チョコボが好きなのか?」
 その質問に答えはなかった。団中でも無愛想で人付き合いの悪いと評判のディリータであった。あいつは何を考えているのか分からない、と他の騎士らは噂した。
 仲間内の付き合いにもさして顔を出さないくらいだからよほど冷めたやつなんだろう、と見当をつけていたイズルードは、チョコボをかわいがるディリータの姿を見て驚いた。意外と愛嬌のあるやつじゃないか。
「赤チョコボは総じて気性が荒い。見知らぬ奴が手を出すと、隕石の一つや二つは平気で降らせるような暴れ馬だ。うっかり野生の赤チョコボに出会ったら、そいつは運がないとしか言えないな」
「ふーん……そうなのか。詳しいなディリータ」
「これくらいは常識だろ? ん、そうか。おまえはも一応ティンジェルの家の御曹子だもんな。こんなこと知らなくて当たり前か。チョコボの世話は下のやつらの仕事だしな」
 『ティンジェルの御曹子』という言い方が、少し引っかかった。周りからそんな目で見られたことは一度もない。父ですら、自分のことはただの一介の騎士としてしか見ていないだろう。もし『御曹子』として見られているのだったら、今頃はとっくにディバインナイトに叙されているはずである。
「オレは別にそんな、跡取りってわけじゃ……」
「団長の息子で、聖石持ち。それだけで十分に人から羨ましがられる要素は揃っている。ま、別に俺はそんなこと気にしてないがな……」
 うつむきがちにディリータは呟いた。彼の過去をイズルードは知らない。彼がここにくるまでに、どういう人生を歩んできたのかも。人には知られたくない過去があるのだろう。イズルードはそのことについて何も言及しなかった。他人の経歴を詮索することは御法度というのが、団内での不文律となっていた。
 イズルードは赤チョコボから離れ、小屋の奥の一画に大事に世話されている白チョコボに近づいた。この小ぎれいなチョコボはクレティアンに飼われているものだった。主人に似て、非常に礼儀正しく、イズルードが近づくと膝を折ってお辞儀をした。無論、クチバシでつつかれたりということはなかった。
「そのチョコボは、クレティアン様のじゃないのか? 勝手に乗っていいのか」
「許可はあるよ。外へ行くなら使っていいって言われた。オレのチョコボはリオファネスで戦死しちゃったからさ」
「そうか……そうだったのか。そういえば、傷はもういいのか? リオファネスでは随分と人が死んだな。おまえ、よく生きて還ってこれたな」
「うん、ドロワ様が看てくれて、おかげで、なんとか」
「クレティアン様とは親しいんだったな。羨ましいな、あのアカデミー随一の魔導士様と知り合いとは」
「オレがまだここで見習いだった頃からの付き合いで……って、ディリータ、なんでドロワ様がアカデミー卒だってこと知ってるんだ?」
 たしか、クレティアンは自分がアカデミー卒だとは、口外していない。それも首席だったなどとは。ソーサラーの称号を持っているにもかかわらず、普段は白魔道士を名乗っているくらいだった。イズルードは不思議に思って、ディリータを見たが、視線を合わそうとしない。答える代わりに、ディリータはそっと白チョコボをなでた。チョコボは綺麗な声でキュと鳴いた。この美声も主人譲りだろうか。クレティアンはまた歌も器用に上手かった。
「そうだ、ディリータ、暇なら一緒に街へ行かないか?」
「遠慮する。そんな気分じゃないな」
「何故だ? もうすぐ降誕祭が心待ちじゃないのか」
「……降誕祭――聖アジョラの、生まれましぬ日、か。そうだ、イズルード、おまえは神がいると思うか?」
「オレを誰だと思っている。オレを無神論者だと思ったのか?」
 イズルードは思わずむっとした。仮にもゾディアックブレイブの名をもらった自分に向けられる質問にしては無神経だと思った。
「悪い悪い、そんな意味じゃないよ。俺が思ったのはな、おまえのような信心深い人やつともかく、あの、『異端者』とかにも神はいるのか、って思っただけだよ」
 想定外の質問だった。イズルードはたじろいた。
「え、えっと――それは――」
「ならばこのチョコボや、家畜にも、神はいるか? あまりの貧窮に教会へだってこれない者が世の中にはたくさんいるんだぜ」
「ああ――」
 家畜に神はいるか、と問うたディリータの顔は真剣だった。どう答えるべきか、悩むイズルードを無視してディリータは小屋を去ろうとした。
「何故俺がクレティアン様のことを知っているかとおまえは聞いたな。俺はな、昔、アカデミーにいたんだ。それにベオルブにも仕えていた。そこでチョコボの世話を任されていた。……もう昔の話だよ」
 ディリータは遠い目をして言った。どことなく淋しそうな顔をしていた。そして立ち去っていった。見送るようにチョコボたちがクェェと鳴いた。
「ディリータ……」

 *

「なんだ、街へ行くのではなかったのか?」
 飛び出すように出て行ったにもかかわらず、落ち込んだ様子でクレティアンの部屋を訪ねたイズルードであった。
「そんな気分じゃなくなってさ」
「気分が晴れないから外へ出たいといっていたのがどうしたことだ」
 机に向かい、ペンを走らせながらクレティアンは訊いた。
 紙の上をさらさらとペンが走る。心地よい静かな音だった。カリグラフィーと称される美しい飾り文字がするすると綴られていく。
「ディリータのこと何だけど……」
「ああ、あの聖剣技使いの騎士だろう。今は剛剣にも精を出しているそうだ。あの向学心は他の者らも見習うべきだろうな」
 クレティアンは思った。彼にはもともと剣の才はあったようだが、ミュロンドへに来てすぐに聖剣技を習得し、今は剛剣の習得に励んでいる。それは向学というより、何か強い執着――強迫観念のようなものを感じた。何かひどく切迫したものを感じる。彼はそんなことを口に出す人柄ではなかったが。
「ディリータか……彼もたしかアカデミー出だったか」
「あ、クレティアン、知ってるの? もしかして、むこうで一緒だったとか」
「いや、ちょうど私が卒業する頃にすれ違いで入学してきたはずだからな。本土では会っていない。でもベオルブ先輩――ザルバッグ将軍からよく話は聞いていたよ。なにせあの偉大なる天騎士の家に居たそうだから、大変だったのだろう……」
 まさかミュロンドに来て会うことになるとは思っていなかったことであった。
「なんかさーそのディリータがさ、『異端者に神はいるのか』とか言うから。やっぱりアイツのこと気にしてるのかなと思って。でもオレ、結局その質問に答えられなくて。よくわからないんだ」
 クレティアンはペンを止めた。紙の上に綴られたのは福音書の言葉だった。聖典の筆写など、修道院の仕事であったが、そもそも聖典原典の言葉である畏国古代文字を解する者が少ないこともあって、よく筆写を頼まれていた。決して嫌な仕事ではない。ただ無心に、筆写を続けることは一瞬の瞑想のメディテーションでもあった。
 たしかに、アジョラの述べ伝えた福音には「異端者を愛せ」などとは一言も書かれていない。書かれていない、が。
「ふん…『異端者に神は存在するか』ということか。実際に身の上に置き換えて考えれば簡単だな」
「えっと……どういうこと?」
 机の上に重ね上げられた聖典を取った。 先程まで自分まで筆写をしていた原本だった。
「今から私がこれをカテドラルに持っていってその場で焼き捨てれば、寸分構わず『異端者』になれる。そしたらイズルード、あの『異端者』に神はいたのかどうか考えてみればいい」
 袖をたくしあげ、クレティアンはさっと中に手を挙げるとささやかな火炎を散らした。あわててイズルードが止めに入る。
「えっ待って待って、そんなこと……本当にやらない、よね……?」
 怯えた目で袖をつかむイズルードの頭をそっとなでた。おまえは少し素直すぎるな、と。
「第一、書物を焼く人がいれば、それはいずれ人をも焼くようになる――とある詩人が言っていたのでな……まあ、聖典を焼き捨てるようなことは私はまっぴらだがな。たとえそんな『異端者』がいたとしても、私にはその人の信仰までは推し量れない。しかし、その者の上にも神の平安があるように願ってはいる――」
 書見台に広がられた聖典を見た。美しく装飾が施されたそれは、数多くの人々を信仰の道へ導き、魂を救ってきた。だがその数に劣らず勝らず、この本は、多くの人を死へ導いたのであろう。この本に書かれた、その言葉だけを頼りに、殉教した人のなんと多いことか。また、この「神の言葉」のために闇に葬られた人々と真実――その数については、想像もつかない。
「じゃあ、人でなくて、信仰心を持たない動物……家畜とかなら? 家畜にも神はいるんだろうか?」
「イズルード……? 先程から異端者だの家畜だの、本当にどうしたんだ」
「あ、オレのことじゃなくて、ディリータが随分気にしてたから……」
 ディリータ。あの少年か。可哀想に、どこぞの心ない輩に暴言を吐かれたのだろう。あの繊細な少年には耐えられないだろうな、とクレティアンは思った。
「ならイズルード、聖アジョラはどこで生まれた?」
「チョコボ小屋で……そのあと井戸の毒を予見したって」
「仮にも、『神の御子』がそんな井戸に毒がたまっているようなみすぼらしい家畜小屋もどきで生まれるなんて不思議じゃないか。『神の御子』なら生まれる場所くらい自由に選べたっていいはずだと思わないか?」
「そういえば、そうだけど」
「父親なら誰しも息子を可愛がるものだろう。天の御父は、大事な我が子を家畜小屋に遣わしたということは、そこに神の意志があるはずだ。これは神の至上の祝福以外の何ものでもないはずじゃないのか」
 そう、ちょうど、ヴァルマルフ様が、目の前のこの少年を、愛しているように。言葉に出さずともその愛は伝わってくる。
「ああ、ならば――」
「神の創りし万物に祝福あり、とここには書いてある」
 クレティアンは、聖典の文字をなぞった。たかが、紙の上に書かれた文字ではあるが、幾世代も前の人々が、この言葉を原典から写し取り、書き写し、書き写しして今に伝えた言葉である。この言葉には神の霊力というよりも、人々の、こうであれと願うその気持ちが宿っているようである。
 全ての人とものとが、平等に神の祝福を受ける世界。これこそアジョラが実現させたかった「神の国」のことであろう。だが、アジョラの昇天の後、一度として「神の国」は到来していない。

 *

 宵を告げるように、教会の鐘が鳴った。これからだんだんと日が暮れていく。普段なら、日没とともに静寂につつまれる教会も、今日は賑やかだった。今日は年に一度の大聖日。降誕祭が始まったのだと、アルマは察した。アルマは騎士団の隊舎はずれの部屋の窓から、外を眺めていた。この祭りの日を迎えるのは今年で何度目だろうか、窓の木枠に身体をもたれさせながらぼんやりと考えていた。去年はイグーロスのベオルブの邸で、その前はオーボンヌで。その時はまさか自分がはるばるミュロンドまで来るなんて事は考えなかった。いや、連れてこられた、と言った方が正しいかもしれない。
 外の賑わいがゆるやかに、大きくなっていく。これから盛大な宴が始まるのだ。普段の質素な暮らしぶりからうってかわって、聖夜の饗宴が開かれる。きっと華やかで、楽しいものなのだろう。家族そろって過ごした昔の日々を思い出して、懐かしんだ。そして、窓から見える人々の群れの中に、いつの間にか兄の姿を探していた。
「兄さん……いまどこにいるの?」
 その時、背後に冷たい空気の流れを感じた、扉を開けて誰かが入ってきたのだ。ちらりと後ろを見ると、緑の法衣が視界をかすめた。
「兄さん? ダイスダーグ卿なら……」
「ラムザ兄さんのことよ」
 念を押すように言った。目の前にいる騎士は、自分をミュロンドまで連れて来た本人であった。戦局悪化による治安の攪乱により、ダイスダーグ卿が妹アルマの身を案じてミュロンドのグレバドス教会に保護を命じた――という話があったのだと彼から聞かされた。
 今は、こうやって、明日の心配をすることなく日々を過ごすことが出来る。多くの騎士達が戦争に身を投じているというのに。兄さんだって、今頃どこで何をしているのか、手がかりさえ分からない。そう思うと、どうしようもない焦燥感に駆られ、居ても立ってもいられなくなる。
「安心しろ。ここがイヴァリースで一番安全なところだ。何てたって神の加護と聖アジョラの祝福があるんだからな」
「でも、兄さんが教会の祝福を受けられるとでも? 兄さんは『異端者』にされたのよ、あなたたちのせいで」
「その件については、異端審問官らの管轄であって、オレたちの――」
「あなたはきっと、目の前に『異端者』がいたら、殺すのでしょうね」
 この騎士が至極真面目な、そして敬虔なグレバドスの信者であることは知っている。自分の新年に真っ直ぐで、融通が利かない、そんなところが兄さんに少し似ている、とアルマは思った。「オレは、別に君の兄貴を憎んでるわけじゃない……」
「あら?」
 そんな事を聞けると思っていなかったので、そう言ってもらえると嬉しい。それも恐ろしく冷たい目をしたあの団長の、息子から。でも、気休めでしょうね。彼は、教会の命令ならば逆らわないはずがない。
 もう兄さんが教会に戻ってこれるはずがないのだ。この賑やかな宴を一緒に楽しむこともない。そんな日は、きっともう二度とやってこない……。
「ね、ところで、その手に持ってる瓶はなあに?」
「ああ、これか?」
 イズルードは緑の法衣の裾にくるむように、大事に抱えていた瓶を取り出した。
「宴席から一瓶頂戴してきた。お酒だよ、飲むか?」
「お酒は、飲めないの」
 アルマがそう呟くと、騎士は残念そうな顔をした。そして部屋を出ようとする。
「どこへ?」
「一緒に飲める友を捜しに」
「外は寒いわよ。これ持っていったら」
 防寒用にと、自分が羽織っていた白い薄布のマントを渡した。
 こんな寒い日、どうか兄さんが街の隅で一人で凍えていませんように。そう願った。

 *

 聖地ミュロンドに、夜が近づいていた。闇の帳をおろしたような、荘厳な、清澄な空気の中、静かに日は暮れる。
「――今更剣を措く気か? 何を血迷った、ラムザ?」
「いや、何もこんな日に、戦いを挑み行くのはどうかと思って――いや、ただの冗談だよ」
 詰問するアグリアスにラムザは答える。
「今日はどこも宴が繰り広げられていて、警備も手薄だからといったのは貴方じゃないか。それに早く妹君に会いたいのだろう? 彼女がここミュロンドにいるのは間違いない。人質を取るなど、汚いやり方だ」
「分かってる。早くアルマに会いたい」
 慎重にいかなければ。もうあのジーグデンの悲劇は見たくない。何としても無事にアルマを取り返さなければならない。だから、慎重に、そっと、敵に感づかれないように、教会に忍び込む。それも聖アジョラの降誕際のまっただ中に。それが作戦だった。そのため、島のはずれの砂糖畑のなかに、ひっそりと身を隠していたラムザ一行であった。まだ誰にも気付かれていない。すれ違った人々は、彼らのことを、巡礼に来た信徒の一団だと思っていることだろう。
 島はずれの、畑の中にまで、カテドラルで歌われる聖歌が流れてくる。毎年、この時期になると歌われるその古い歌は、どことなく旅愁を誘った。その調べにいざなわれるように、そろりそろりと、畑を出た。ラムザは古びたぼろぼろのマントを身に纏っていた。変装のためではなく、長い旅路の果てに、こうなった。
 ベオルブの邸にいた頃は家族揃って教会を訪ねて、歌を歌い、この日を祝っていた。あの時は隣に兄らがいた、アルマがいた、ディリータも一緒だった。それが今は『異端者』の烙印を押され、あまつさえこれから教会に剣を向ける。
「たしかに、僕は、たくさん人を殺してきたけど――」
 足は自然と街の大通りを避け、裏路地へと向かっていた。狭い石畳の両側に、あばら屋が所狭しと並んでいる。スラム街だろうか。ラムザはいつの間にか、こういった日陰の場所を好むようになっていた。ただでさえ温潤なミュロンドの気候に輪を掛けるように、このあたりは湿っぽい。足元を虫が這っていく。淀んだ空気が立ち籠めている。それでも、そんな場所にさえ、教会の音楽は流れてくる。
 石畳を抜け、聖歌を辿るように、歩いていたら、島の中心部のカテドラルまで来たようだった。目の前にそぼえる堅固な石壁に圧倒される。それでも、周りを見回し、どこか忍び込めそうな場所はないか、探る。今夜にでも、教会へ奇襲をかけるつもりだった。
「そこにいるのは誰だ?!」
 突然、頭上から声が降ってきた。まずい、とラムザは思った。見張りに見つかったか。瞬時に声の主を探す。塀の上だった。塀といっても、何ハイトあるか分からない高さである。この高さならあの見張りがここまで易々と来られるはずはない。よし、このままなら逃げ切れる。そうラムザは確信した。
「『異端者』が我がグレバドス教会何の用だ」
 声の主は、ひらりと身をかわした。騎士は塀を蹴って空へと軽やかに跳躍した。このような事は並大抵の騎士にはできない。おそらくは竜騎士の類だろう。
 逃げられると思ったのに。ラムザは嘆息した。出来るならば無駄な戦闘は避けたい。血は流さないにこしたことはない。そう思いながらも、一体何人の者をこの手に掛けてきたことだろう。赤煉瓦の城壁を背に、走りながらも、相手がだんだんと距離を詰めてくるのが感じ取れた。巡礼者らが歌う聖歌が背中に降ってくる。
「ラムザ・ベオルブよ! 『異端者』が教会に足を踏み入れ無事に帰れると思ったか? さあ剣を抜くがいい…!」
 ラムザは覚悟を決めた。腰に帯びた剣に手を掛け、件の教会の騎士と対峙した。ラムザは剣を取った、と同時に彼の騎士も剣を振りかざす。紫電一閃、打ち合いか、と思ったかが、相手の振り上げた剣の先にはためいていたのは、一枚の白布だった。夜空に光る白い布。それが何を意味するのかは容易に想像できる。白旗は降伏の際に掲げられるもの。ラムザは警戒しつつも、相手に近づいた。
「ああ、イズルードじゃないか! 生きていたのか…!」
 リオファネスで瀕死の彼を見た時、もう長くはないだろうと思った。その彼が今目の前にいる。
「何だ、オレが生きてたら不都合か?」
「いや、そうじゃなくてさ」
 お互いの顔に笑みがこぼれた。
「ところでこれは一体何なんだい? 君は僕に何を求めているんだ。それとも君が僕たちと一緒に来てくれる気になったのか? 白旗は降伏の――」
「白は平和の象徴だ。我々神殿騎士は教会と共にある。オレが教会から離れるとでも?」
「じゃあ異端者を殺しにきたのか?」
「じゃあこれは何のための白旗か? そんなことじゃない。いいからラムザ、剣をおろせよ」
 イズルードは手に持っていた剣を投げ出すと地面に座り、ラムザをうながす。教会の宴席から盗んできたのであろうか、酒瓶を取り出すとラムザに差し出した。
「飲まないか?」
「いや……」
「疑うのか? 罠なんかじゃないぜ、ほら」
「……お酒はちょっと…」
「飲めないのか! 女々しいやつだな!」
 盛大に吹き出すイズルードにつられてラムザもついに笑い出した。こんな風に笑ったのはいったいいつ以来だろうか。それからしばらくの間談笑に耽った。お互い敵対する者同士であることを忘れて。
「これを持っていけ」
 イズルードは剣の先に巻いていた白布を放り投げた。見るとそれは薄手のマントであった。こころなしかアルマの香りがするのは単なる夢だろうか。
「何故僕に?」
「そんなボロボロの服で歩くなよ……みっともない」
 確かに彼の身なりは貧しいものだった。ろくに装備を調えることも出来ない、そんな生活を続けていたラムザに思わぬ贈り物だった。そしてそのマントにそっと身を隠した。肉親に追われ、騎士団に追われ、ついには異端者として、教会からも追われている。誰もが自分を狙っている、一瞬たりとも休まることの出来ない生活だった。そんな彼のもとに、届けられた一枚の白いマント。――白は平和の象徴。
「教会の騎士が異端者と会っているのがばれたら危ないのじゃないのか? もし君の父にでも見つかったら――」
「オレとお前で何が違う? 同じ友じゃないか……父上には友と会っていたとでも言っておこう」
 ぼそりと呟くとイズルードは逃げるように去っていた。彼の持ってきた酒瓶はそのままになっていた。ラムザが拾い上げると綺麗に装飾されたラベルに文字が書かれていた。
 ――主の平和、全地にあれ
 ああそうだ、今日は降誕祭じゃないか。遠くに聞こえる祝いの歌を聞きながらラムザは昔の思い出に浸っていた。ディリータと過ごしたあの日々。骸旅団の若い女剣士と戦った時の事を思い出した。あの時ディリータ剣を向けた相手に「彼女は同じ人間」と言った。そして、今、神殿騎士のイズルードは「友」と言った。
「…ラムザ? 何をしている?」
「アグリアスさん?」
「あまりに帰りが遅いから心配した。こんな教会の近くまで来ていたのか、危ないぞ。ところでそれはどうしたんだ、そんな小ぎれいなマントなんてどこで手に入れたんだ」
「えっと……、親切な人が恵んでくれて……」
「何だ、罠じゃないのか、お前をおびき寄せるための――」
「多分、違うと思います、だって今日は降誕祭じゃないですか」
「『主の平和』ってやつか。まるでおとぎ話だな。……だが、悪い話でもないな」
 アグアリスに急かされ、教会の城壁から離れて仲間の元へと帰路に就いた。だんだんと聖歌が遠くなっていくにつれ、ラムザは自分の置かれている状況を把握した。そう、これから教会へ奇襲を掛けるのではないか。だというのに自分は教会の騎士と手を取り合って笑い合っていた。思わず苦笑した。あれは何だったのだろう。今となってはもう幻のように思えた。しかし、彼の背には白いマントがはためいていた。彼の背中に残っているそのマントこそが、あの平和の挨拶が幻などではないことを証明している。
「アグリアスさん、どうして神殿騎士団は聖石を欲しているのでしょうか……僕には彼らが聖石の真の意味を知っているようには思えないんです。あのルガヴィの謎を知る者は教会の中でもごく僅か、なら他の騎士らはどうして聖石を望むのでしょうか」
「『神の奇跡』のため、と奴らは言っていたな」
「そんなことのために……彼らは気付いていない……」
 聖石の裏に潜むルガヴィの影に彼らは気付いていない。そしてもう一つ。奇跡は聖石によって引き起こされるのではないということに彼らは気付いていない。互いに剣を向け合う存在の者同士が、たとえ一瞬であっても剣を棄てて手を取り合ったことは、奇跡以外の何ものでもない。それを引き越すのは聖石ではない、神の力でもない、ただ人間の力。背中の白マントをしっかりと握りながら、そう確信した。
 この血の戦乱を生きるイヴァリースの人々も、今日ばかりはこう思ったであろう。
 ――主の平和、全地にあれ

 

 

公開日:???


 

 

ヴァイゼフラウ・バルマウフラ――森の魔女の物語

.
*このSSだけの設定:魔女は不死の存在。炎で焼いても死なない。魔女の力を誰かに継承した時に、その命は尽きるが、魔女の知恵は代々継承されていく。そんな魔女を見た人々は「魔女には転生の力がある」と信じるようになったとか。基本的にグレバドス教会とは対立している。
*ヴァイゼフラウはドイツ語民話などに出てくる魔女の名前。「賢い女」の意。


 
ヴァイゼフラウ・バルマウフラ――森の魔女の物語

 

 

森の中に魔女が住んでいた。
魔女は娘と暮らしていた。
娘は父親を知らなかった。
母親のこともよく知らなかった。
母は娘のことを、ただ「バルマウフラ」と呼び、
娘は母のことを、ただ「お母さん」と呼んだ。

 

 
魔女は時々、一人で森の外へ出かけた。
森の近くの村へやってくると、
人々に惜しみなく魔女の知恵を分け与えた。
そして、魔女の知恵のお礼に、村人から、
パンと、水と、薪と、蝋燭をもらって森へ戻った。
娘の待つ、森の中の小さな小屋へと。

 

 
森の魔女は何でも知っていた。
村の人は、敬意と愛情をこめて、
魔女のことを「賢い女ヴァイゼフラウ」と呼んだ。
魔女は本当の自分の名前を誰にも明かさなかった。
娘ですら、彼女の名前を知らなかったのだから。

 

 
「お母さん、私も魔女になりたい。
お母さんみたいに、村の人を助けたいの」
「だめよ、バルマウフラ」
母は娘に言った。
「森の外はおそろしい場所なの」
魔女はずばぬけた知恵と力を持っていた。
教会の聖石がなくても、魔女は奇跡を起こせた。
だから、教会は魔女の命をねらっていた。
「バルマウフラ、お母さんと約束して。
決して森の外には出ないと」

 

 
ある日の、ある夜のこと、
母は森の中の家に戻ってこなかった。
バルマウフラは母の教えを守り、森から出なかった。
けれど、次の日も母は帰ってこなかった。
バルマウフラは、それから3つの夜を数え、
とうとう母の教えを破った。
森を出て、村へと出かけたのだ。

 

 
母が言った通り、森の外は恐ろしい場所だった。
バルマウフラが村の広場で見たのは、
杭に縛られ、炎で焼かれる母の姿だった。
広場には、魔女の炎を見守る三人の男と、
そこに群がる村人たちがひしめきあっていた。
ある村人がバルマウフラに教えた。
一人目の男は、魔女をとらえた騎士。
二人目の男は、魔女に異端の容疑を下した枢機卿。
三人目の男は、魔女の判決を承認した司祭。
三人の男は口をそろえて言った。
「あの女は、教会の教えに背いて魔術を使った魔女だ。
魔女は永遠の命を持っている。
魔女は焼いても死なない。
教会の反逆者よ、汝の大罪を、
その永劫の炎の上で償うがよい」

 

 
バルマウフラは泣いていた。
森の外は恐ろしい場所だった。森に帰りたい。
でも、森の小屋に戻っても、もう母はいない。
母は、ここでずっと炎に焼かれているから。
「魔女は焼いても死なない」
だとしたら、母の苦しみはいつまで続くのだろう?
バルマウフラは、母が本当の魔女だと知っていた。
もちろん、教会の反逆者でもないことを。
「お母さん……お母さん……」
バルマウフラは泣いて叫んだ。
「私が魔女になる。私が魔女を継ぐ」
母の苦しむ姿をもうこれ以上見たくなかった。
「だから、私にお母さんの力をちょうだい」
炎の中で、母は微笑んだ。
「いいわ、この力をあなたに託す。
さあ、魔女の力を使ってみなさい」

 

 
「なんだ、『賢い女』はただの人間だったのか」
「燃えてしまったというなら、魔女じゃなかったということさ」
「ただの人間が、教会にたてつくから燃やされるんだ」
村人は、燃えて黒くなった「賢い女」に口々に言った。
バルマウフラは苛立った。
母を殺した教会にも、母を見捨てた村人にも。
「魔女はここにいる。私が魔女だ」
バルマウフラはつぶやいた。
そして、母から受け継いだ魔女の力を使った。
彼女が最初に使った魔女の力は「呪い」だった。
バルマウフラは母を殺した三人の男に呪いをかけた。
一人目の男は、母をとらえた騎士。
二人目の男は、母に異端の容疑を下した枢機卿。
三人目の男は、母の判決を承認した司祭。
皆、その場で、あるいは、数日の間に命を失った。

 

 
バルマウフラは母の名を汚した村人も許しはしなかった。
バルマウフラが森に戻り、それからしばらくして、
村では疫病がはやり、何十人もの命がなくなった。
心ある村人が森の中に「賢い女」の墓を作り弔った。
そして、「賢い女」の一人娘を探した。
けれど、もう遅かった。
魔女の娘は森から姿を消し、
村には荒廃の風が寂しく吹きすさんでいた。

 

 
教会に呪いを、母を殺した者に死を。
バルマウフラは森を出て、
迷うことなく、ミュロンド寺院へやってきた。
すべては母の死の復讐を遂げるために。

 

 
「私はおまえを殺すためにきた」
バルマウフラは言った。教会の騎士の長に。
絶対に殺してやる、この男は母をとらえた騎士団の長だ。
「できるものか、小娘に」
騎士団長は笑った。バルマウフラは笑わなかった。
ならば、時が満ちるのを待つだけだ。
魔女の呪いを受けるがよい。
バルマウフラは密かに誓いを立てた。
あとは、時が満ちるのを待つだけだ。

 

 
森の魔女の娘は、母を焼いて、魔女の力を継承した。
そして、教会に舞い戻り、教皇の付き人になった。
あの魔女はいったい何なのだ。
彼女はいったい何者なのか。
誰もがバルマウフラを恐れ、そばに近づかなかった。
彼女のことが分からなかったからだ。
バルマウフラも自分のことが分からなかった。
何故、母を殺した教会に忠誠を誓っているのか……
その度に、密かに立てた魔女の誓いを思い出すのだ。
教会に呪いを、母を殺した者に死を。

 

 
仮面を被ればいいの。
そうすれば、私の心は誰にも見せなくてすむから。

 

 
雨の日の、陰鬱な礼拝堂の入り口で、
少女が絶望の涙を流して泣いていた。
バルマウフラは知っている。
彼女は、騎士団長の娘。
新生ゾディアックブレイブ。篤信の娘。
気丈夫で、騎士団を率いていく新鋭。
そんな少女が、いったい何に涙を注いでいるのか。
「弟が死んだ。聖石を持つ同志が殺された。
父もいなくなった。私はすべてを失った。
この絶望に、誰が嘆かずにいられようか」

 

 
ああ、なんということだ。
私が殺した。彼らの死には、私の責任がある。
バルマウフラは思った。
私が呪ったから。私がこの教会に呪いをかけたから。
魔女だった母は「賢い女」だった。
村人を助け、癒し、知恵を与えた。
けれど、魔女になった私は、呪ってばかり。
私に関わった人は皆、不幸になる。
そうなるように私が望んだことだったから。
バルマウフラは魔女の力を封印した。
私はもう二度と魔女の力を使わない。
誰も呪いたくないから。

 

 
バルマウフラの記憶の中で炎がはぜた。
全身を焼く熱い炎。
でも、その炎に苦しむのは彼女ではない。
「お母さん、お母さん……私が魔女になるから……」
私はお母さんを助けたかっただけなのに。
だから私は魔女になったのに。
魔女だった母は「賢い女」として村人に癒しを与えた。
けれど魔女になった私は、呪いをまき散らすばかり。
私が生きていると、誰かが命を落とす。
それって、とても悲しいことね。

 

 
森の魔女は、人間になる決意をした。
こんな世界から抜け出し、私は人間に戻る。
仮面を被って生きるのはもう嫌。
魔女でなんかいたくない。
私はただの人間として森に帰る。
故郷の森への道は今でも覚えている。
けれど、教会から抜け出すのはたやすいことではなかった。
教会から抜け出す道はただ一つ。

 

 
「あなたに恨みはないれど、死んでちょうだい。
黒羊騎士団のディリータ・ハイラル、
あなたを始末すれば、私の監視の任は解かれる。
そうしたら、私は教会の呪縛から自由になれるのよ!」
バルマウフラが差し向けたナイフはあっさりと叩き落とされた。
「気が狂ったか、教会の魔女。俺を呪い殺すつもりか」
「私は魔女ではない!
そもそも、教会が先に私たちを迫害した。
でも私は復讐には興味ないの……今はね。
あなたたちのような野蛮な騎士たちと違ってね」
一刻も早く、この場所から逃れたい。
ここでは教会と、国王と、騎士と、役人が、
永遠に飽くなき血の闘争をしている。

 

 
私は、もう嫌になったの。
森に帰らせて。
お願いだから、私を魔女と呼ばないで。
私はただの人間として森に帰りたいの。
こんな場所にいるのはもう嫌!

 

 
「帰りたいなら、好きにするがいい……」
黒羊騎士団の男はつぶやいた。
「ウィッチ・バウマウフラ……ミステリアスな女だ。
教会の魔女だと噂されているが、おまえの目的は何だ」
「さあ、私も目的なんて忘れたわ」
「おまえは俺と同じだ。仮面を被り、演じる。
たとえそれが、偽りの仮面であっても。
被り続け、演じ続ければ、それが真実になる」
「演説がお上手ね、騎士さん。でも一緒にしないで」
私は仮面を捨てる。捨てたいのよ……

 

 
「偽りの仮面でも、被り続け、演じ続ければ、
いつしかそれが真実になる」
バルマウフラはその言葉を信じた。
彼女が継承した魔女の力はあまりにも重く、
背負うに苦しいものだった。
教会の仮面を捨てて、そして、魔女を隠す仮面を被る。
そうすれば、私は人間になれる?
いいえ、私は人間になるの。
仮面を被り、演じ続ければ、私は人間。
魔女だったのは遠い昔のことだ。

 

 
記憶の中で炎がはぜる。
バルマウフラはかたくなに目を閉じた。
見たくない。母が苦しむ姿が何度も見たから。
「お母さん……」
私が魔女になってお母さんを助ける。
そう言うはずだった。そう言ったはずだった。
でも私はこう言った。
私は魔女になりたくない、魔女にはなりたくないの。
「お母さん、ごめんなさい……」
私が魔女になっても、人を呪うことしかできないから。
ごめんなさい……ごめんなさい……
バルマウフラは燃える炎に背を向けた。
決して後ろを振り返らないように、拳を握りしめて。

 

 
「君は魔女だろう? ちょっと助けてくれないかな」
城から出ようとするバルマウフラに若い青年の声が引き留める。
バルマウフラは眉を潜める。
私のことを、不躾に魔女だと呼ぶ失礼な男は誰?
そこには、褐色の肌の、満身創痍の若者。
戦場から抜け出してきたかのようだ。
「僕は、今脱獄したばかりでね……」
バルマウフラは無視して歩き去った。
脱獄者に関わって面倒事に巻き込まれるのはごめんだ。
それも、自分を魔女と呼ぶ男には。
「魔女のお嬢さん、君は教会の人なんだろう
怪我を負った隣人を見捨てていくのかい」
「私は魔女でありません。
それを訂正してくれるのなら、この手をお貸ししましょう」

 

 
僕は占星術士。星の運行で未来を読むんだ。
男は聞きもしないのに、ぺらぺらと勝手に自己紹介を始めた。
その声は、まるで異国の吟遊詩人が歌う、心地よい旋律のように。
「君は本物の魔女だね。アークウィッチだ。
その力は誰かを救うために授かったものだ。
星がそう語っている。間違いない」
「あなたの星詠みはずいぶんあてずっぽうなのね。
残念だけど、私はもう魔女ではないわ。
誰かを助けたこともないから」
「星は現在のことを語っているのではない、
未来のことを語っているんだ」
「嘘よ。私は魔女の力を封印したの。
もう二度と使うつもりはないから」
占星術士は、食い下がらない。
「でも、未来は未来だ。
これから先、君はアークウィッチになって、
誰かの命を救って感謝されるかもしれない」
「さあね。もし私が魔女になったとしても、
あなたには関係のないことよ。
だって、私たちはここでたまたま出会っただけで、
それから、また再会することなんてないでしょうから。
確かめようのない話ね」

 

 
魔女と呼ばれる度に、
記憶の中で炎がはぜる。

 

 
私は森に帰って、静かに暮らすつもりなのに。
どうして、誰が、私に魔女の記憶を呼び出すの。
忌まわしい炎の記憶。呪いの記憶。
ああ、記憶はまた過去をさまよいはじめる。
炎がはぜる音。肌が焼かれる焦げた臭い。
バルマウフラは目を覆った。
どうして、どうして、何度もこの記憶がよみがえってくるのだ。
もう私は魔女の力を封印したというのに!
母は死んだ。教会に殺された。
私にはもうどうしようもできないことなのに。
どうして何度も何度も、この炎は私を苦しめるのか。

 

 
時は流れども、
されぞ炎の記憶は薄れず。

 

 
バルマウフラの中で炎がはぜた。
「ああ、またね……」
火刑の場面だ。母が杭に縛られて、燃やされている。
炎が立ち上る。私は炎のそばに駆け寄る。
「お母さん……」
苦しむ母に何と言葉をかけるべきか……
いや、違う。母ではない! 彼だ!
彼はこういった。「君は魔女だ」
そう、私は魔女だ。
母を火刑から救うために私は魔女になった。
バルマウフラは炎の中に向かって、まっすぐに歩いた。
「私は魔女。だから炎は私を焼かない」

 

 
教会を弾圧した占星術士が火刑に処されると聞き、
人々は火刑場に群がってきた。
その時、群がる人々の制止を振り返るように女が飛び出してきた。
女は迷うことなく、炎の中に入っていった。
可哀想に、あの娘は頭が狂ってしまったんだ。
誰かが呟き、嘆きの声を漏らした。
そして、炎は一層燃え上がり、煙が落ち着いた頃には、
もはやそこには男も女もいなかった。

 

 

 

 
森の中の、誰も立ちはいらない静かな場所に、
花と小枝で飾られた小さな石碑があった。
 ――アークウィッチ・ヴァイゼフラウ
 ――安らかなるとこしえの眠りを
「ここがお母さんの眠っている場所。
といっても、肉体は灰になるまで焼かれてしまったから、
ここにあるのはお母さんの思い出だけ」
バルマウフラは故郷の森に帰ってきた。
一人ではなく、もう一人と。
火刑の場から助けて、一緒に逃げてきた占星術士と。

 

 
「どうして僕をここに?」
「私は初めて魔女の力で誰かの命を救えたの……
私の母は『賢い女』と呼ばれていたの。
魔女の力で、人々を助け、慕われていた。
でも、私はお母さんから魔女の力を受け継ぎ、
母を殺した教会の諜報員として、働き、
その一方で教会を呪い続けてきた。
私はそんな自分が嫌だった……
でも、私もやっとお母さんみたいな魔女になれたわ」
「僕の言った通りだろう? 僕は未来が見えていたんだ。
きみは母君から魔女の力を継承した。
きみは『賢い女』なんだ。自分で思っているよりずっとね。
そして、賢女バウマウフラは燃え尽きるはずだった命を救った。
その命がまさか僕だったとは、その時は分からなかったけれど」
「まあ、あなたは本当に未来が見えていたのね」
「星が見えるかぎりね」
「じゃあ、今度は何が見える?」
「僕の隣に君がいる……ずっと」
バルマウフラは彼の手を引いた。
「ええ、私も、あなたの隣に」
そうして、彼の隣に、彼女が座り、
彼女の手の上に、彼の手が重なった。

 

 
占星術士は呟いた。
この幸福の時間をそっと引き留めようと。
「天球の運命はこの手のうちに、
私はあなた、あなたは私、
さすれば、時よ、永遠なれ」

 

 

2019.07.22

タンプリエ・ノブル

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タンプリエ・ノブル

 

 
   遠い昔の記憶は今も色褪せず
   遙か彼方の夢を蘇らせる

 

 
「<憤怒の霊帝>の肉体が見つかった。ガリオンヌのダイスダーグ卿だ」
騎士団長は言った。その手には橄欖色のクリスタルが握られている。磨羯宮の紋章が刻まれたその特別なクリスタル――聖石を所持できる人間は限られている。
北天騎士団の元将軍ダイスダーグ・ベオルブ――彼こそが選ばれたのだ。
「これを届け、交渉してきて欲しい。うまく契約を結ぶように仕向けるのだ」
「あの方ですか……」
「クレティアン、知っているのか」
「ええ、アカデミーに在籍していた時に少しだけ会ったことが……あの方は、紛れもなく辣腕の政治家でした」

 

 
あの頃――まだ私がアカデミーで騎士見習いだった頃。この世界には汚れなどなく、正義の剣を携えていれば道に迷うことなどないと信じていた頃。私は高潔な騎士になることを夢見ていた。
ガリオンヌの王立士官学校は名だたる将軍を輩出してきた名門校だ。北天騎士団のザルバッグ・ベオルブ将軍も、その士官学校の出であった。
当時、戦乱のまっただ中であったイヴァリースをオルダリーアの手から救い出し、王から「ガリオンヌの守護者」の称号を賜った若き将軍は、騎士見習いたちの憧れであり、誉れであった。

 

 
北天騎士団の将軍ザルバッグ・ベオルブ――私が今でも尊敬するただ一人の人間だ。

 

 
かの若き将軍は、その戦い様をもって信仰と正義を掲げ、正しき道を示した。私もそれに倣った。
当時、私は士官学校で優秀な成績を修めていた。私はとある地方の貴族であり、相応の努力はしたが、それでも苦労することなく、身分に見合う地位を得ることができた。
私は迷うことなく、北天騎士団を目指した。同じ学校のよしみもあってか、ザルバッグ将軍は私のことをよく可愛がってくれた。休暇中には私をイグーロス城に招いてくれるほどだった。

 

 
将軍には十歳年上の兄がいた――彼の名前はダイスダーグ・ベオルブ。
将軍が北天騎士団長の座に就くと同時に、ダイスダーグ卿は引退した天騎士バルバネスに代わってベオルブ家の家督を譲り受けた。
そういう理由もあってか、当時のイグーロス城には、新しいベオルブ家の当主に会いにやってくる政治家や役人たちがひっきりなしに出入りしていた。
私はそのようなベオルブ家の事情に詳しくなるほど、ザルバッグ将軍と交遊をあたためていた。

 

 
その日は突然やって来た。

 

 
忘れもしない、あの夜の出来事。
その日、ガリオンヌの成都イグーロスは雪で覆われていた。
どこかの貴族がダイスダーグ卿に会いに来ていた。暖炉に火をくべ、彼らはワインを飲み交わしながら世間話にふけっていた。

 
 ――天騎士の命もあと僅かですな。これも貴方のおかげですよ、ダイスダーグ卿。

 
立ち聞きするつもりはなかった。相手の貴族も盗み聞きを心配する様子もなかった。だから深刻な話題というわけでもなかったのだろう。
だが、私は知ってしまった。ダイスダーグ卿が家督を得るために、どういう手段を使ってきたのかを……。

 

 
人の上に立つからには、それ相応の責任を引き受けなければならない。
私も少なからず高貴な血を引く人間として、その責務については無知ではなかった。
分かってはいる。だが――あまりににも業が深かった。

 

 
私はその日以来、二度とイグーロス城に行かなかった。

 

 
卒業前に、一度だけザルバッグ将軍が私に会いに士官学校まで来てくれた。
あれだけ世話になったにもかかわらず連絡を絶った私へ、将軍はささやかな小言を呈しにきたのだ。それでも、将軍はこう言ってくれた。卒業したら私の騎士団へ来ないか、と。不義理な私は首を振り、

 
 ――私は信仰の世界で生きることを選びました。教会の騎士になります。

 
こう答えただけだった。

 

 
ザルバッグ将軍はどこか寂しそうな顔をしたが、元気でやりなさい、と言って私を見送った。

 

 
一度見聞きした記憶を消すことは不可能だった。私は知ってしまった。政治家がどうやってこの国を動かしているのかを。
その瞬間、世界はあまりにも汚らわしいものに転じてしまった。父を殺してまで縁力を手にしたダイスダーグ卿のことも、それを知らずに理想を掲げるザルバッグ将軍のことも、あの時以来、私には厭わしい存在になってしまった。

 

 
この国は、誰かが手を汚さなければ生きていけない世界なのだ。
理解はできるが、そのことを私は認めたくなかった。
私は、自分の抱いた理想が、貪欲な権力の世界でいびつに歪められていくのが耐えられなかった。
騎士になり正義の剣を貫く――ささやかな夢だった。だが、たったそれだけの夢さえ叶わぬものだということを私は知った。
現実は冷酷だ。しかし、それは夢ではなく、事実だった。

 

 
信仰の世界で、私は再び高潔な騎士となることを夢見た。
それは、不義の政治家に仕えることを頑なに拒み続けた私の、妥協の選択であった。
だが、全くの虚栄を張ったわけでもない。私がグレバドス教会への浅からぬ信仰を抱いていたことに嘘偽りはなかった。その上、私は教会の騎士という肩書きに世俗の騎士とは全く異なる栄光を感じていた。

 
 ――そうすれば、私はあの連中を見下すことができる……

 
 その時、自分の口からこぼれ出た言葉に私は恐れおののいた。
今の言葉は何だ。
神の権威を盾にして、私は権力者たちを侮蔑しようとしている。何という傲慢さ。
けれど、これが私の本心ではないのか?

 

 
「ダイスダーグ卿と知り合いなのか。ならば話が早い。この聖石を届けにいくのだ」
「いいえ、知り合いというほど深い仲ではありませんでした。イグーロス城で顔を見たことがある程度です」
「なんだ、気乗りしないな。昔の知り合いに聖石を押しつけに行くのは嫌というのか」
騎士団長は少し不機嫌そうに私に言った。
「いえ、そういうわけでは……」

 

 
たとえダイスダーグ卿が目の前で聖石と契約を交わしたとしても、今更、私は心を痛めることはないだろう。
だが、今の私がダイスダーグ卿と会って、一体何を話すのだろうか。私に何が言えるのだろうか。卿を軽蔑し、俗世の権力を見下しながら、神のためを口実にして、自分を正当化し続けてきたこの私に……。

 

 
私はイグーロス城へは行かなかった。聖石を持って交渉にあたる任務は同僚に任せた。
だから、私が神殿騎士になった本当の理由を、ザルバッグ将軍が知ることは永遠にない。
理想を体現したかのようなあの若き将軍は、私がまことの信仰心ゆえに教会の騎士になったと今でも信じて疑わないだろう――そうであって欲しいものだ。

 

 
私は未だに己の高慢な虚栄心で神を汚し続けている。

 

 

2017.09/23

Iva*Fes3にて発行

 

To C. From M. with LOVE.

.
・クレティアン誕生日記念SS
・メリアドール→クレティアンへ誕生日の贈り物。本人不在でメリアドールとラムザの会話文です。


 

 

To C. From M. with LOVE.

 

 
「よし、今日はこのあたりで野宿にしよう。日が落ちたら盗賊たちの動きが活発になる。夜に行軍するのは危険だ」
 森の中を行進中の一隊に向けてラムザは指示を出した。ちょうど日が暮れ始めた頃、彼らは運よく、森の中の開けた場所に到達できたのだ。隊の仲間たちはリーダーのラムザの指示に従って休息のためのテントを組み立て、火をおこしている。
「この進み具合だと、明日には近くの街に入れるはずだ。そうすれば、まともな食事にありつけると思うけど、今日は残念ながら……」
 ラムザは隊のチョコボに運ばせていた携帯用の食料を見た。しばらく森の中の行軍が続いたせいか、食料の備蓄が底をつきそうだった。今日は節約しないとまずいな、とラムザは呟いた。
「ラムザ、だったら、これを」
 どうしようかと思案していたラムザに声をかけたのはメリアドールだった。肩にクアールをかついでいる。
「ここに来る途中で仕留めたの。さばいて焼けば今日の食事の足しになると思う。他にも狩れそうなモンスターが近くにいないかちょっと見てくるわ」
「ありがとうございます」
 これ、借りていくわね、私の剣は大きすぎて狩りに使うのには向かないから、と言ってメリアドールは自分の剣をラムザに預けた。ラムザは彼女の剣の重さに少し驚いた。
 ――メリアドールさん、こんな重い剣を使ってたんだ。すごいな。
 最近、ラムザの隊に入ったメリアドールのことは、ラムザもまだよく知らなかった。信仰に篤い修道女のような外見で、重い大剣を軽々と振り回して相手の鎧を叩き壊す。見た目からは想像もできない膂力だ。どうも、つかみどころのない不思議な人だった。
「メリアドールさん、このお礼は――」
「別にいいわよ、これくらい――あ、そうね、だったら街に着いたら買い物につきあってくれる?」
 いいですよ、とラムザが答える前にメリアドールは槍を背負って狩場に向かってさっさと出かけていた。
「メリアドールさんの買い物か……なんだろう、僕は荷物持ちかな?」

 

 

 
「え、贈り物?」
「そう。もうすぐ昔の知り合いの誕生日なの。ミュロンドで一緒に暮らしていた頃はわざわざ誕生日の贈り物なんてあげなかったけど……黙って騎士団を出てきちゃったし、消息便り代わりに何か贈ってあげようかなと思って。それなりに親しくしてもらってたから」
 街に買い物に行きたいと言ったメリアドールの目的を聞いて、ラムザは意外な気持ちだった。メリアドールの昔の知り合い……神殿騎士団の仲間だろうか。
「でも、贈り物選びなら、ムスタディオの方が詳しいと思いますよ。この前もアグリアスさんにこっそりプレゼントを贈っていたみたいで」
「そう? でも、『彼』、あなたと同じ貴族の身分で、ガリランドの士官学校の出身なの。似たような経歴だと思うから、好みのセンスも似てるんじゃないかなって思ったの」
「アカデミーの? じゃあ、僕も知っている人?」
「多分知らないと思うわ。『彼』は私よりも年上だから」
 メリアドールが誕生日の贈り物をしたいという「彼」とは一体、誰のことだろう。名前を聞いても分からないだろうが、興味本位でメリアドールに聞いてみたいとラムザは思った。でも、出会って間もない彼女の交友関係を尋ねるのは、少し、気が引けた。だからラムザは黙って彼女の話を聞いていた。
「ラムザ、付き合ってくれてありがとう。私、ミュロンドから出たことがなくて外の風習のことはよく知らないの。買い物なんてしたこともないし、貴族の人が何をもらって嬉しいのかも全然分からないのよ」
「うーん、でも、僕は貴族といっても、家は騎士の男ばかりだったし、候補生だった頃もそういう華のある生活とは縁遠かったなぁ。アルマは兄さんたちから装飾品を色々ともらっていたけど、僕は戦場で役に立つ装飾品とか、そういう実用品しかもらわなかったよ」
「そういうのでいいわ。『彼』も騎士だし、あまり信仰に生きる人だから派手なのは好きじゃないと思うの」
「なら、街の武器屋を紹介するよ」

 

 

 
「坊ちゃん、今日は何をお探しで?」
 異端者。街では何かと目をつけられる存在だ。でも、この武器屋の主人はラムザが候補生だった頃から世話になっているためか、ラムザが教会に追われるようになった今でも、変わらず武器や道具を都合してくれる。
「マスター、今日は僕じゃなくて、彼女が買い物を……」
 武器屋の主人は、ラムザに続いて店に入ってきたメリアドールを見て、驚きの表情を見せた。
「ゾディアックブレイブ様! 坊ちゃんと教会の騎士様が一緒に来店するとは、珍しいことで」
 メリアドールは注目されることに慣れているのか、武器屋の主人に仰天されても、何一つ動じずに棚に無造作に置かれた商品を眺めている。その中から一つのものを手に取った――金細工の髪飾り。
「それにするんですか?」
「そうね……『彼』はアッシュブラウンの髪にお揃いのヘーゼルの瞳で、こういう金の飾りはきっと似合うわ。陽にあたるとね、明るい髪だったの。それに、これは魔道士にも役に立つ加護があるみたいね」
「へえ、メリアドールさんの『彼』さんは魔法を使う方だったんですか?」
「そう、魔法の才能だけは随一だったわ。ふふ、結構な努力家だったのよ、『彼』」
 メリアドールはそっと笑った。ラムザの知らない彼女と仲間たちの思い出。
「メリアドールさん、楽しそうですね。きっと、素敵な方だったんですね」
「そうでもないわよ。顔を合わせる度に喧嘩していたし、裏切られた今となっては本気で殺してやりたいと思ってる。そういう人だったのよ――あら、こっちのナイフもいいかも」
 メリアドールが髪飾りの次に手にしたのは、メイジマッシャーと銘がついたナイフだった。
「いいわね、これ。魔道士を殺せるんでしょう。プレゼントにぴったり。ラムザ、どうかしら?」
「えっと……」
 メリアドールがあまりにも笑顔でナイフを持っていたので、ラムザは返答に困った。

 

 

 
「ところで騎士様、お手持ちはありますか?」
 しばらくプレゼントの物色に夢中になっていたメリアドールに武器屋の主人が声をかけた。
「代金は神殿騎士団のミュロンド支部のヴォルマルフ・ティンジェル宛によろしく」
「騎士様、うちは現金のみです。あいにく、手形は受け付けていないので」
 ラムザはメリアドールに言った。
「僕が立て替えますよ」
「そんな気遣いは無用よ、ラムザ。昔の仲間にあげるものだから、隊の軍資金を使うわけにはいかないわ。それに、私も手持ちがないわけじゃないから」
 メリアドールはローブの下に吊るしていた麻袋から、小さな瓶を取り出した。いい香りがする。香水だ。
「店主、これは売ったらいくらになるかしら? もういらないから換金して」
「え、メリアドールさん、それは大事なものじゃないんですか?」
 イヴァリースで香水は貴重品だ。
「ミュロンドにいた頃に、ある人から貰ったんだけど、もういらないわ。私はミュロンドに戻るつもりはないから。どこかで捨てようかと思ってたけど、売った方がお金になるわね――店主、この香水と同じくらいの値段のアクセサリーを頂戴」
 私は贈り物のセンスはないわ。何を選んでいいか結局わからなかったもの。メリアドールはさらりと言った。
「騎士様、でしたら、こちらの指輪はいかかでしょう。その香水と似たような効果があって、死を防ぐ加護がついております」
 主人が持ってきたのは天使の装飾がついた指輪。メリアドールはうなずいた。
「それでいいわ」
「ではお包みいたしましょう。贈答用ですよね? 恋人さんですか?」
「……簡素なものでいいわ。相手は清貧の教会の騎士だから」
 メリアドールは武器屋の質問をさらりとかわした。答えるつもりはないらしい。
「香水代でおつりは出るかしら? もしあったら、届けてほしいのだけれど……私は事情があって、直接渡しにいけないので」
「いいですよ、教会の騎士様でしたらそれくらいサービスします。宛名はどちら様で?」
「神殿騎士団の団長か副団長宛に。横に『C』とだけ書いておいて。それで分かるから。二人のところまで届いたら『彼』も気づくはずだから」
「差出人の騎士様のお名前は添えますか?」
「それはまずいわ。名乗りたくないわね……私たち、ちょっと事情があって」
 メリアドールは武器屋の主人からペンを借りると、指輪の包み紙の裏に「From M」と走り書きをした――それから、少し悩んでから「with LOVE」と。

 

 

 
「ラムザ、つき合わせて悪かったわね」
「いいえ……でも、一つ聞いてもいいですか? 武器屋で聞かれてたこと――『彼』はメリアドールさんの恋人の方なんですか?」
 ふふ、とメリアドールは笑った。
「どちらでも。その答えは、お好きなようにどうぞ。でも安心して、もう私はあなたと一緒に戦うって決めたの。昔の仲間に会うつもりは、微塵もないから」

 

 

 

2019.06.06

レディの肖像

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・エルムドア侯爵の過去話。レディがメインです。
・レディとセリアについて激しい捏造設定を含んでおります

◆登場人物
・メスドラーマ…領主の嫡男。アルビノ(白子)。
・レディ・アデレード…伯爵家のご令嬢。メスドラーマより年上。
・セリシア…アデレードの侍女。アデレードよりさらに年上。アデレードのことをお嬢様と呼ぶ。

・「主」…セリアとレディの主人。メスドラーマの肉体に宿った死の天使ザルエラ。
・レディ・アデレード(レディ)…闇の眷属。暗殺者。セリアのことをお姉さまと呼ぶ。
・セリシア(セリア)…闇の眷属。暗殺者。


   
「レディの肖像」

   

  
*レディの涙

   

「今日からおまえは私のしもべとして生きるがいい」
 そうして私たちは主によって命を与えられた。主は白銀の髪を持つ、年若い人間の男性。主は私たちに人間の形を取るように命じた。
「私は人間の形を知りません。主様はどのような人間をご所望ですか」
 もう一人の私が主に訊ねた。主は、私たちをある部屋に案内した。そこにはたくさんの肖像画が飾られていた。男、女、子供、年寄り、犬、馬。皆、美しい衣服を纏い、私たちの方にまっすぐな視線を向けている。
「ああ、そうだな、これがいい」
 主が指をさしたのは、二人の女性が描かれた肖像画だった。一人の若い女性がタペストリーで飾られた壁を背にして立っている。その隣にもう一人の女性が寄り添っている。こちらの女性の方が年上のようだ。二人とも同じブロンドの髪だ。もしかしたら二人は姉妹かもしれない。寄り添う二人は親密そうな雰囲気を醸し出している。けれども肖像画はかなり痛んでおり、所々に破損と修復の痕が見える。
「おまえは、この女になるがいい。名前はセリシアだ」
 そうして、もう一人の私はセリシアになった。肖像画の中の年上の方の女性だ。私は絵の中のもう一人の女性になった
「私の名前は何でしょうか」
 私は訊ねた。
「レディ・アデレードと名乗るがいい。高貴な女性の名前だ」
 私は喜び、自分の名前を何度も繰り返した。
 私はレディ・アデレード。私は高貴な女性。それが主からいただいたもの。それが私のすべて。

「お姉さま、どうやら私たちは『お嬢様』と呼ばれる人だったらしいの。肖像画の部屋で、お城の人が私たちの絵の前で話しているのを聞いたわ。『お嬢様』は伯爵家のご令嬢だったって」
「レディ、あまり城の中を歩いてはだめよ。私たちは主様にお仕えするためにここへ呼ばれたのよ。主様はもうこの城の中では故人なのだから……」
「お姉さま、お姉さま、でも、主様は、私たちにこの姿と名前を与えてくださったわ。主様は私たちに『お嬢様』になることを望んでいるのではなくて?」
「レディ、くだらない夢想にふけるのはやめなさい。私たちに人間の姿を与えたのは、異形の私たちの素性を隠すための便宜よ」
「で、でも……」
「言い訳はだめ。もう少し分別を持ちなさい、レディ」
 私たちは同じ闇の中から生まれた。「セリシア」となったもう一人の私は、「レディ・アデレード」となった私より少し年上の姿だった。そのせいか、もう一人の私は、年長者のように振る舞い、私も、もう一人の私のことをお姉さまと呼ぶようになった。主は私に「高貴な女性」の姿を与え、「高貴な女性」は姉のことを名前で直接呼ばずに「お姉さま」と呼ぶらしいという人間の習慣を知ったからだった。
 私は常に主のことを思っていた。主を愛し、主から愛されたかった。どうすればもっと主に愛されるのかを始終考えていた。もう一人の私は、あまり人間の暮らしに深入りするなと、ことあるごとに忠告したが、私は人間の暮らしに興味津々だった。主は私たちに人間の姿と名前を与えたのだから、私は人間になりたかった。主が望んだ存在に私はなりたかった。
 だから、時々、「高貴な女性」が着るような服を来て、こっそり城の中を歩いた。城の中では、主は私たちの世界の名前ではなく、「侯爵様」と呼ばれていた。
「メスドラーマ様……」
 私はそっと主の人間の名前をつぶやいた。私たちの主のことを人間の名前で呼ぶことは、もう一人の私が許してはくれなかった。だが、私はこの名前の方が好きだった。だって、こっちの方がとてもきれいな響きだったから。なんて美しい名前なのだろう。

 私は人目を偲んで、何度も肖像画の部屋に通った。レディ・アデレードとセリシア。二人の高貴な女性を、私は時が忘れるほど見つめた。だが不思議なことに他の肖像画の下には描かれた人の名前が刻まれているのに、この二人だけは名前が削り取られていたのだ。レディ・アデレードとセリシア。主は私たちをそう呼んで名前を与えた。だけど、どうして私たちの名前は絵の中から消されているのだろう。私は疑問に思った。消された名前を私たちに与えた主の真意が知りたかった。でもそんなことは怖くて聞けなかった。
 人間の暮らしに紛れるようになってしばらく経つと、闇の生まれである私にも人間の文化が分かるようになってきた。肖像画に描かれた細部の意味も分かるようになった。背景のタペストリーは、人間だった主が治めた土地とは遠く離れた辺境の地の貴族の紋章が描かれている。それはある伯爵家のものだった。伯爵は侯爵と呼ばれる主よりも一つ上の階級だった。主が私を「高貴な女性」と呼んだことに偽りはないようだった。
 絵の教養など全くない私が見てもはっきりと分かるくらいに肖像画は痛んでいた。下地の布地ごと切り裂かれ、何度か修繕された痕跡がみえる。この女性は斬られたことがあるのだ。私は不思議と悲しくなった。主も戦場で命を落としたと聞いた。
「あなたも、メスドラーマ様と一緒ね……」
 絵画の中の女性に、そっと手をのばす。この貴婦人もきっと亡くなっているのだ。なんとなく、そんな気がする。主が私を見つめる目はいつも悲しそうだったから。
「――私の許可なく、その人に触れるな」
「メスドラーマ様……?」
 背後から、突き刺さるような低い声がした。私は驚いて、手を引っ込めた。いつの間にか主が私の後ろに立っている。
「あ、あの、すみません……勝手に触れるつもりは……」
 しどろもどろの言葉が口から出てくる。主の気を悪くしてしまったらしい。
「そこから立ち去りなさい」
「待ってください! 私は別にふざけていたつもりはありません! 私は……ただ、この方のことが気になって……」
 主は、おそろしいほど冷たい視線を私に向けた。
「おまえが知る必要はない」
「でも、私もこの方と同じレディ・アデレードです。私は少しでも、この方に近づこうと思って……」
 私は主に顔を近づけた。
「見てください、このドレス。綺麗でしょう?」
 赤いベルベッドのスカートを持ち上げて、私はその場でくるりと身を翻した。肖像画の中のレディが着ているような綺麗なドレス。これで私も少しは絵の中のレディに近づけたかもしれない。私はもっと美しく、綺麗に、艶やで、気品のある女性になる。そして私が本物のレディ・アデレードになるのだ――そうすれば主はもっと喜んでくれるはずだ。
「ふっ……」
 主は笑った。私も笑った。よかった、主も喜んでくださる――
「馬鹿だな。おまえは何をやっているのだ。悪魔がドレスを着てどうする」
「え……」
 私は、主にそんなことを言われるなど想像していなかった。体がこわばった。そうだ、そうだった、私は悪魔だ……
「おまえは悪魔。私の眷属。おまえの役目は人の命を喰らうこと。だというのに、戯れにドレスを着飾り、人間の真似ごとをして、私を愚弄するつもりか」
「いえ、そんなつもりは……ござい……ません……」
 主を怒らせてしまった。私は慌てふためていて、頭を下げた。消え入りそうな声で謝った。膝の前で握りしめた両手がふるえた。そして、崩れ落ちるように床に座り込み、わっと泣き出した。
「申し訳ございません……もうしわけ、ございません……メスドラーマ様のお気を悪くなさるつもりはなかったのです……私は、ただ、メスドラーマ様に喜んでいただきたくて……」
 涙がとめどなくあふれてくる。主に喜んでもらいたかっただけなのに、主を気持ちを逆なでして怒らせてしまったなんて。
 主は何も言わない。両腕を胸の前で組み、無言で私をにらみつけている。私はとんでもない過ちを犯してしまったようだ――でも、何を?
「……だって、メスドラーマ様が、私に、このお姿とお名前をくださったから……だから私は……この肖像画の中の女性になろうと思って、必死で努力してきたんです……」
 涙で視界がぐしゃぐしゃになって、主の姿も絵の女性も見えなくなった。
「私が悪魔なら、どうして私に人間の姿と名前を与えてくださったのです――」
 私はあなたによって生み出された存在。あなたのためだけに生きる存在。あなたに嫌われてしまったら、私はどうやって生きていけばよいのだろう。私はひたすら泣きながら、主に謝り続けた。

   
*消された名前

   

 私は非情な男だと言われてきた。人間だった頃はまるで悪魔のように命を刈り取る、などと噂され、いつしかついた称号が「銀髪鬼」だった。
 私は悪魔よりたちが悪い。なぜなら、悪魔を泣かせてしまったのだから。レディが声をあげてないている。たかが悪魔のくせに、どうしてそんなに泣きわめくのだ。あんまり声をあげて泣きじゃくるせいで、身体がまっぷたつに折れてしまいそうだ。悪魔はこんなにも繊細な存在なのか。
 床に崩れ落ちたレディと、その前に掲げられたレディの肖像画を見比べた。私の気まぐれな思いつきで、悪魔の眷属は、この肖像画の中の令嬢と同じ姿形をしている。我を忘れたように泣いているレディにつられ、私の視界も混乱してきた。絵画の中のレディも涙を流している。今、私の前で二人のレディが泣いている。

 ――くそ、記憶がおかしくなってきた。

 記憶の中のレディは涙を流したことなどなかった。そうだったはずだが……いや、私の記憶にないどこかで泣いていたはずだ。記憶が逆流してきて、ますます混乱してきた。私もその場に倒れそうだ。

「――どうされました! 何かございましたか!」
 乱れた気配を察知して、私の優秀な護衛がやってきた。セリシアだ。彼女は壁に身体を預けてしかめっ面をしている私と、床で号泣しているレディを順番に見た。そして、冷静にこの状況を分析したらしい。
「レディ、落ち着きなさい。何があったかは知らないけれど、主様を困らせてはだめ。一体何をしでかしたのよ」
 セリシアはレディの腕を引っ張り上げて立たせようとした。
「もう! しっかりしなさい! 小娘みたいに泣いちゃって――主様、申し訳ございません。この子は使命を忘れて人間の暮らしに馴染みすぎているんです。ここは私が片づけておきますので、主様は、お部屋でお休みください。顔色が悪うございますので」
「顔が悪いのはもとからだ。無愛想だとよく言われるが、別に頭が痛いわけではない。それと、レディを泣かせたのは私だ」
「あら。でもいつものこと、きっとレディが粗相をしたのでしょう」
「いや……」
 私は何と答えようか迷った。レディを泣かせたのは、私の発言のせいだ。レディの涙には責任がある。私の眷属のレディと、もう一人のレディに対しても――
「心ここにあらず、という様子ね。主様、しっかりなさってください。あなたは私たちの主人、あなたがいてくださらないと、私たちも使命を果たせません」
 セリシアは靴と靴下の間に仕込んでいた短刀を取り出した。
「私の使命は、人の命を刈り取ること……私は、次に葬るべき標的がわかりました。『私たち』です」
 セリシアは短刀の切っ先を迷うことなく肖像画に向けた。
「主様、私はレディより少しだけ分別があります。だから私には分かってしまいました。なぜ、主様が私たちにこの女性の姿を模倣するように命令したのか――主様は、この女性たちに対して負い目や迷いを抱えている。それは主様が肖像画と同じ似姿をしている私たちに向ける視線で分かります。私たちを見つめる目は、ザルエラ様のものではなく、あなたの骸のエルムドア侯爵のもの。主様、お目覚めください。あなたはもう侯爵ではありません――『私たち』の存在が主様を迷わせるというのなら、私は容赦しません。今すぐ死んでいただきます」
 セリシアは短刀を絵画に向かって振り上げた。暗殺者が狙いを外すことはない。私は彼女の手を制止した。
「おまえの言うことはおおむね当たっている」
「ならば、どうして私のナイフを止めたのです」
「おまえが殺す必要はない。彼女らはもう死んでいる。二度も殺す必要はないだろう」
 私はセリシアから短刀を取り上げると、床に投げ捨てた。そして肖像画を眺めた。傷だらけの絵画。記憶がよみがえってきた。かつて、この絵画にナイフを叩きつけた女がいた。奇しくも、その人こそが、この絵画に描かれた女性――セリシアだった。
「セリシア、君は生まれ変わってもやはりこの絵を切り刻もうとするとは」
 私はため息をついて首を振った。
「感傷に浸りすぎた。そうだな、おまえの言う通り、私はもう侯爵ではない。混乱して申し訳ない。私は部屋に戻って先に休む。レディの面倒を頼んだ」
 セリシアに泣きじゃくるレディを託すと、私は自分の部屋に戻った。ここは私がかつて領主だったころに使っていた部屋だ。セリシアには、人間だった頃の記憶に引きずられるなと叱られたが……この部屋にいて、領主だった頃の記憶を思い出さない方が難しい。
 机の引き出しから布に包まれた一枚の板を取り出した。これは、あの肖像画の下につけられていたプレートだった。肖像画の中の二人の女性の名前が刻まれている。遠い昔に、私が自らの手で絵の中から削り取ったものだ。

『アデレードとセリシア。我らの幸福な時を祝福する』

 私はため息をついた。レディに泣かれたように、そもそも悪魔の眷属に人間の彼女の名前を与えてしまったことがすべての間違いだった。私はなぜそんな狂ったことをしてしまったのだろうか?

 ――今更、二人に会いたいなど思うものか……私を憎んだ女たちに……ああ、頭が痛い。今日は早く寝よう。過去のことなど思い出すものか。

   
*灰色の記憶

   

 過去のことを思い出したくないのは、過去の記憶があまりにも悲惨だったからだ。

 私はランベリーの領主である父の嫡男として生まれた。私には未来の領主として何もかもが保証されていた――はずだった。この銀髪さえなければ。
 私はイヴァリースでは誰も見たことのない白い髪をもって生まれた。白い髪、白い肌、白い目、いわゆる白子だった。父は生まれてきた跡取りが異形の生まれだったことにショックを隠せずにいた。そして、白い髪を持った私の存在が、父の統治者としての仕事を脅かすのではないかとおそれた。そして、私を城の塔の一室に隠して育てた。おそらくは、私を幽閉し、そのまま存在を闇に葬って次に生まれた子を嫡子として育てるつもりだったのだろう。だが、私にとっても、父にとっても不幸なことに、私の後に生まれた男子は全て死んでしまった。そのうち母も亡くなった。父は私が呪いをかけて弟たちを殺したのではないかと、私の存在をますます恐れた。だから、私は塔の中で幽閉されて育ったが、父は金を惜しむことなく、私にあらゆるものを与えた。私に自由はなかったが、この上なく豊かに育った。私は誰とも会うことを許されなかったが、私の部屋は父が買い集めた美しい調度品であふれかえっていた。父は私が欲しがるものは何でも買い与えてくれた。
 私は自分の暮らしが不幸なのか、幸福なのか、自分でも分からなかった。父以外の人間には会った記憶がなかったから、比べようがなかったのだ。だが、やがて15歳になり、成人を迎える頃になると、さすがの私も父への反抗の気持ちが芽生えていた。私は父を困らせようと、無理難題を父にふっかけた。イヴァリースは決して手に入らないような異国の珍品が欲しいと私は父に言った。父が困る姿を見たかった。だが、父は難なくその珍品を私のもとに持ってきた。父には莫大な財産があったのだ。金を積んで、交易人を動かしたのだろう。そこで私は考えた。金で買えないものをねだろうと考えた。
「父上、僕は女が欲しい」
「そうか、おまえも成人した。そろそろ嫁が必要だな。私がとびきり綺麗な娘を見つけてきてやろう。どんな女が好みだ?」
「僕が欲しいのは妻じゃない。ただ一緒に遊びたいだけだ」
「ふっ……女の遊び相手が欲しいとは、大人になったな。いいだろう。畏国で一等美しい高級娼婦をおまえのために用意する。おまえは昔から金のかかる息子だった」
 私は女遊びなどしたことはなかった。だから、本当に女と遊びたかったわけではない、ただ、父を困らるために言ったことだ。そして、友達が欲しかった。一人で暮らす生活にそろそろ耐えられなくなってきたのだ。
 私は、塔の窓から見渡せる城の中庭を歩く女性を指さした。日傘を差し、侍女を連れて歩く女性。見るからに貴族の令嬢という雰囲気だった。結われていない髪型から、彼女が未婚の若い令嬢であることも分かった。しかも、そばには伯爵家の紋章を背負った騎士の姿が見えた。私はその令嬢が伯爵家の血統を引いていることを確信した。だから、その女性を指さした。父は困るだろうと思ったから。侯爵家よりも位の高い、未婚の女性を、妻にするためではなく、遊び相手として、城の中に連れてくるのはどう考えても不可能だった。
 私は勝った、と思った。父が、それだけはできないと言って私に頭を下げるのだ。そして、この幽閉生活から私は解放されるはずだった。

 だが、父は手強かった。次の日、塔の中に、伯爵家の令嬢が侍女を連れて私に挨拶をしにきた。
 私は父に敗北した。父は、この貴族の令嬢を、こんな塔の中に連れてくるためにいくら金を積んだのだろうか。この女性はいくらで、父である伯爵に売り払われたのだろうか。
 私が完全な敗北を感じたのは、次のことに気づいた瞬間だった――私は誰とも話したことがない! この綺麗な女性にどうやって話しかけていいかすら分からない。妻などいらない、女と遊びたい、と父に豪語してみたものの、私は自分の名前すら恥ずかしくて名乗れない始末だった。
 気まずい沈黙が流れた。おそらく何も分からず連れてこられたご令嬢は、困惑しているようだった。侍女の方は、こんな状況に巻き込まれたことに苛立っているようだった。
「あの……僕の名前はメスドラーマ。あ、あなたは……」
「私はセリシア。お嬢様はあなたよりずっと高貴なお方なのですよ。直接名前を聞くなどマナー違反にもほどがあります」
「まあ、まあ、セリシア。よいではないですか。私たちはこれから『お友達』になるのよ。堅苦しいことは抜きにしましょう」
 部屋の絵画を眺めていたお嬢様がくるりと振り向いた。ブロンドの髪がふわりと宙を舞った。太陽のように美しい人だ。私は阿呆の子のように、口をあけて、その人に見とれた。そして安心した。「友達」にならなれるかもしれないと思ったからだ。
 それが、父以外に私が初めて話した人間だ。その後、お嬢様は名前を名乗ったが、セリシアと名乗った侍女に言われたように、直接名前を呼ぶのは気が引けた。だから私は彼女のことをずっとレディと呼んだ。
 こうして、私たち三人の奇妙な関係が始まった。

   
*灰色の記憶②

   

「この部屋はたくさんの絵がありますわね。若様は絵画がお好き?」
「うん、僕は絵がいちばん好きだ」
 レディは約束通りに私の友達になった。毎日、城の塔の私の部屋にセリシアを連れてやったきた。私の部屋には畏国中から取り寄せた工芸品や絵画であふれかえっていたから、会話に困ることはなかった。
「私、絵の教養は全くないけれど、この絵がとても美しいのはよく分かるわ。ねえ、セリシア、あなたもそう思うでしょう」
「はい、お嬢様が美しいと思うものは全て美しいです」
 セリシアが言うまでもなく、レディが美しいといったものは全て美しくなった。彼女は穏やかで、おっとりした物腰で、私の部屋にある調度品を一つ一つ褒めていった。それらは父が私を懐柔するために置いていったものたちだ。私はさして興味も持たなかったが、レディが美しいと言葉をかける度に、それらのものはまるで生命をもったかのように色鮮やかに輝いていった。彼女がいると、灰色の世界に色彩が戻るのだ。
「でも、あなたの髪もとてもきれいだわ。私、白銀の髪の方は初めてみましたわ」
 レディが私の髪を見ていった。私は怖じ気付いた。この忌まわしい髪が、私から自由を奪った。父は不気味だとしか言わなかった。美しいなどと言われたことはなかった。
「レディ、君は僕の髪が恐ろしくはない?」
「いいえ、ちっとも。とってもきれい。いつかあなたは領主様になるでしょう。そしたらみんな、他の国の方に自慢するわ。このお城には白銀の貴公子様が暮らしているって」
「私もそう思います。だいたい、若様は自信がなさすぎですよ。未来の領主様がそんなに自信がなくてどうするのですか。人の上に立つためにはもっと勉強しないと」
「うん、なら僕はもっと勉強する。本もたくさん読む。財政のことも父から聞いておく。剣の練習だってするよ。レディ、僕が立派な領主になれたら、僕のことをほめてくれる?」

 この頃になると、セリシアもよく笑うようになった。私は毎日が楽しかった。二人にずっと側にいて欲しかった。
「セリシア、レディはどんな宝石が好き? 流行の型のドレスは嫌いではない? どんな贈りものをあげたらいいだろう」
 私はセリシアからレディの好みを聞き出しては、父の金を使ってありったけの宝飾を贈った。私が贈りものをすると、レディはいつもそれを身につけてくれた。彼女に喜んで欲しい。私に色彩あふれる世界を教えてくれた彼女に感謝の気持ちを伝えたかった。

 ある日、いつものように城にやってきたレディは、いつもと違ってずっと窓の外を見ていた。セリシアは静かにたたずむレディの髪をすいて、きちんと編み直していた。
「レディ、どうしたの? 今日はお話はしてくれないの?」
「私は……今日は外の景色を見ていたわ」
 レディは窓の外に手をのばした。
「あの山を越えた先に私の国があるわ」
 私は普段と違うレディの雰囲気に、急に不安になった。
「レディ、セリシア、どうしたの。どうして今日は二人とも静かなの?」
「若様、お嬢様はしばらく里に戻ります。里のお屋敷で大事な用がありまして」
 セリシアのその言葉を聞いて、私はひどく狼狽した。二人が城から去って、そのまま永遠に戻ってこない気がした。私の不安をいち早く察知したのはレディだった。
「大丈夫よ、お屋敷に戻ったら、里の絵師を呼んで私たちの絵を描かせるわ。そしてあなたの元に送ります。そうしたら、寂しくないでしょう?」
 私は無邪気に喜んだ。レディの肖像画があれば、私は毎日、彼女に会える。彼女のことをずっと見ていられる。それに、私が絵が好きだと話したことを彼女が覚えてくれていたことが嬉しかった。
「ありがとう、僕は嬉しい。レディ、お礼に何が欲しい? ドレスがいい? それとも宝石の方がいい? この前、大陸から取り寄せた翡翠の首飾りがあるんだ。君がつけたらとても似合うと思う」
「若様、お気持ちだけで結構です。お嬢様はこれから里に帰る準備をしなくてはなりません。私たちの国までは長旅ですから、荷物が増えると大変ですし、宝石をたくさん持っていると盗賊におそわれる危険が増えますから」
「そう……」
 そうし私は二人を見送った。

 それからの日々は退屈と孤独との戦いだった。今まで、幽閉された生活に孤独を感じたことなどなかったのに、二人が去った後は、一人で暮らす毎日が退屈で、話相手もいない日々は孤独で気が狂いそうだった。自分の生活が、ひどく惨めで、不幸で、さびしいものだと気づいてしまったのだ。

 暦を数えるのも諦めかけた頃、ようやく、セリシアが城に戻ってきた。だけど一人だった。黒い服を着ていた。喪服だった。
「レディは? 一緒じゃないの?」
「お嬢様は亡くなりました」
 私は言葉を失った。レディが亡くなった? 嘘だ! 
「……だって、だって、まだ若かったじゃないか……病気とは思えない。事故でもあったの?」
「若様は、何もお気づきにならないのですか……?」
「え……? 気づくって、何に……」
 セリシアの表情がみるみる険しくなっていく。初めて会った時のようだ。
「お嬢様は心を病んで自ら命を絶ちました。若様の言う通り、お嬢様は若かった。まだ結婚もしていない――幼い頃に結婚の約束を交わした婚約者がいたのよ。私たちが城に召された日、お嬢様はたまたま、ランベリーの知り合いに会うために里のお屋敷を離れてこの城に来ていただけ。なのに、突然、お嬢様は若様の相手役に召されて、毎日お城に通う日々。あなた、想像したことがある? 婚約者のいる若い令嬢が、領主のお城の若息子の部屋に毎日毎日通う姿が。お嬢様は外では、あなたの愛人だってずっと陰口を言われていたのよ!」
「そ、そんなこと、僕は知らなかった……!」
「伯爵家のご令嬢が娼婦まがいことをして、男遊びに夢中になっている、お嬢様はそういう野卑な視線に耐え続けていたわ。お城をでる度に、お嬢様はずっと泣いていた。なのに、あなたは何も気づかず、ただ、お嬢様に綺麗な宝石を与えるだけ。あなたは自分の絵画を愛でるように、お嬢様にも綺麗なドレスを着せ、宝石で飾って愛でるだけ。城から出てくる度に、宝飾品を貢がれ、豪華な服を来て出てくるお嬢様を見て、城の使用人は笑ったわ。若様も娼婦と寝るようになった、無事に成人できた、とね」
「知らない……僕はそんなこと知らない! 僕はこの部屋から出ることを父から許されていない。城の噂なんて聞いたことがなかった。レディに宝石を贈ったのは、ただ、彼女に喜んでほしかっただけなんだ!」
 誰とも会うことを許された私には、どうやって友達と話せばいいかなんて分からなかった。父は私にたくさんの宝飾品を与えることしかしなかった。だから私もそうするしかできなかったのだ。
「でも、お嬢様は死んだわ。噂が里のお屋敷まで広がり、お嬢様は婚約者に疑われ、どんな言葉を尽くしても疑いを晴らせず、泣きながらナイフで自ら命を捨てたわ――お嬢様は、ランベリーの若息子の娼婦だって言われたのよ!」
 セリシアの目には、明らかに憎悪が宿っていた。私はどうしていいか分からず、立ったり、座ったり、部屋の中をうろうろと歩き回った。レディが亡くなったショックで気を失いそうだったのに、彼女が私のせいで辱められていたという事実に、私も死にそうになった。ああ!
「レディ、申し訳ないことをした……本当に……今更謝ってもどうにもならないけれど……僕がレディを城に呼んだばかりに。ああ、僕のせいだ。でも、婚約者がいたなら、最初から断ってくれればよかったのに。そうしたら、こんな悲劇はおきなかったのに。父は一体、君たちにいくら払ったんだ?」
 最初から不思議だった。伯爵家の令嬢が、侯爵家の幽閉された異形の息子の相手に召されるなど、ありえない話だ。私の父は一体、どれほどの金額で、伯爵家を動かしたのだろうか。
 セリシアはかっと目を見開いて私をにらみつけた。そして啖呵をきるように言い放った。
「お金、お金、お金! あなたはいつもお金のことばかり! お嬢様の潔白のために私は言いますが、お嬢様も伯爵様も、一切お金は受け取っておりません! まるでお嬢様が侯爵様のお金で身売りされたみたいな言い方はよしてください!」
「セ、セリシア、ごめん。そうだったなんて。君たちを傷つけるつもりはなかった。でも、父がお金を出さなかったというなら、どうして、僕のところに来てくれたんだ……?」
 その時、レディの死のショックに打ちひしがれていた私の心に、わずかな希望がわき上がった。レディはお金のためにこの城へ通っていた訳ではなかった。つまり、もしかしたら、私のことを愛してくれていたのでは、と幼く純粋だった私は憶測を抱いた。だが、その儚い憶測もセリシアの次の言葉によって、あっけなく砕かれた。
「お嬢様は、若様のことを不憫に思っていたのです。領主の跡取りに生まれながら、異形の生まれだったために外界から閉ざされ、塔の奥に幽閉された若い少年にひどく心を痛め、同情されました。ですから、ここへ通って、少しでも若様のお気を紛らわせようと思っていらっしゃいました――お嬢様のそんな殊勝なお心にも、あなたは全く気づいていないようでしたが」
 同情、ああ、そうだったのか。私はずっと不憫な少年として哀れみの視線を向けられていたのだ。私は、そのことに、ひどく落胆した。レディが死んだことより、憐憫の情を向けられていたことに、鈍感にも気づかなかった自分がどうしようもなく情けなかった。
「若様、お約束のものをお持ちいたしました。お嬢様からの贈り物です」
 もう相手にもしたくないというとげとげしい雰囲気のセリシアから渡されたのは、布でくるまれた身の丈半分ほどの板――二人の肖像画だった。

『アデレードとセリシア。我らの幸福な時を祝福する』

 絵に刻まれた二人の名前と、その後の言葉に私はぞくりとした。背筋が凍るようだった。この言葉はレディが望んで絵師に刻ませたのだろうか。
「さあ、若様、ご満足いただけましたか。これがお嬢様からあなたへの最期のお気持ちです。私はこれで役目を果たしましたから」
「幸福な時か……」
 レディの死と、彼女から私に向けられた心の真相を知った今となっては、あの日々を幸福な時と感じることは、もはやできなかった。
「ああ、お嬢様にとっても、おつらい日々でした――お嬢様の涙にあなたは一度でも気づいたことがありましたか?」
「いや……」
 私はうつむいた。知らなかった。何も知らなかった。悲しいことに、それが事実だった。
「それでも、それでもお嬢様は、せめてあなたが悲しまないようにと、この絵に『幸福な時を祝福する』と書かせたのです。お嬢様は、ほんとうに、お優しい方だった……だけど、あなたが殺した! お嬢様を死に追いやったのはあなたよ!」
 セリシアは服にしのばせていたナイフを取り出すと、目にも留まらない早さで、ナイフを肖像画に叩きつけた。その素早い一撃はレディの胸を切り裂いた。まるで私に、レディが死んだことを見せつけるように。
「私は最初から、お嬢様がお城に通うことには反対だったのよ! あなたのせいで、お嬢様が……ああ、お嬢様が……あの方なしには私は生きていけないわ……!」
 セリシアはヒステリックに叫び散らした。私は止めようとしたが、レディに対する激しい罪悪感に苛まれ、彼女にかける言葉も見つからなかった。やがて、パニック状態の極限に達した彼女は、塔の窓から身を乗り出し、私が「あ!」と叫んだ頃には宙に飛んでいた。すぐに、どしんと鈍く重い音が聞こえた。私は窓から地面を見下ろす勇気がなかった。そして、ただぼんやりと、部屋に残された、切り裂かれた二人の肖像画を見ていた。
 私にも、レディにも、セリシアにも、誰にとっても苦痛の日々だった。私はセリシアが投げ捨てていったナイフを拾うと、彼女たちの名前を削り取った。もう二度と、彼女たちの名前を口にすることはないだろうと私は思った。

   
*涙の意味

   

「主様……先ほどは取り乱して、申し訳ございませんでした……」
 私は、主の寝室の扉をそっと叩いて、中に入った。もう一人の私から、取り乱してしまったことを主にきちんと詫びてくるように叱られたからだ。
「主様?」
 私は天蓋の下のベッドをそっとのぞき込んだ。シーツの上にきれいな銀髪が流れている。私はじっとみつめた。初めて見たときから、とても美しい髪色だと思っていた。
「誰だ、そこにいるのは」
「あ、あの……お休み中にお邪魔でしたらすみません。すぐに出て行きます」
「レディか、おまえなら別に気にしない」
 私は主の好意に甘えて、ベッドのそばのスツールにすとんと腰をおろした。
「主様はとてもきれいな銀の髪をもっていらっしゃるのですね」
「ああ、これか……」
 ベッドで寝ていた主は、半身を起こして、自分の髪を無造作にかきあげた。
「若い頃はいろいろ気味悪がられたのだが。悪魔の子だとか、ずいぶん言われた。この国では白子は珍しいからな――そういえば、私の髪を美しいと初めて褒めたのもレディだった」
「私……ではなくてアデレード様ですよね」
 主が自ら、あの肖像画のレディ・アデレードについて語るのは初めてのことだった。私は肖像画の令嬢たちについて質問したいことが山のようにあった。だが、もう一人の私に、主の過去に関する人間たちのことには口を突っ込むなと散々叱られたばかりだったので、私は何も言わなかった。
 少し休んだ後だったので、主は少し上機嫌になったようだ。主はベッドから出ると、サイドテーブルの上に置かれていた木片を私に手渡した。そこには、二人の女性の名前と「幸福な時を祝福する」という言葉が書かれていた。
「レディ・アデレード……高貴な女性だった。私は一度もその名前で呼んだことはないが」
「……だから私はずっとレディと呼ばれていたのですね……きっと主様の、いえ、メスドラーマ様の幸福な記憶なのでしょう。闇の眷属の私めがこの名前を口にしたら、きっとその幸福な記憶を壊してしまいます」
 私は主にその板を返した。主は笑った。
「その必要はない。私が彼女たちを殺したのだから……幸福な日々ではなかった。その間逆だ。その女のうちの一人は私に憎悪の目を向けさえした」
「……っ!」
 私は困惑した。肖像画の女性はもう亡くなっているのだろうとは思っていた。だが、主が殺し、主にとって忌まわしい記憶だったとは。
「では……その、ご自身で殺した女性と同じ姿をした私たちをそばに置いておくのは、おつらいのでは……どうして私に、その方の名前と姿を与えたのですか?」
「さあな。私でもよく分からない。もうどうでもよいことだ。彼女らも、私の魂もとうに故人だ。死んだ人間が死んだ人間の魂を喚びだし、昔の記憶と戯れているだけだ」
 私は主の言葉を聞くと、静かに部屋を出た。よい夜を、とだけ声をかけた。

「レディ、主様にちゃんと謝れた?」
「お姉さま……」
 私は主の部屋から出ると、外で待っていたもう一人の私の胸に飛び込み、こらえきれずに泣き出した。
「あらあら、また泣いているの。あなたは手間のかかる子ねえ」
「そう、私は泣いてる……でも、悲しいのは私じゃなくて、主様なの。主様のかわりに泣いているの……とても胸がしめつけられて、もう私、どうしたらいいのか分からないわ」
 私は悪魔。闇の一族。私は人間の魂を喰らい、大いなる主のために血を集めるために生み出された存在。命の奪い方は知っていても、失われた魂のために嘆く人にかける言葉は知らない。
「レディ、泣かないで。私たちは私たちの役目を果たせばいいのよ」
「お姉さま……?」
「私たちは、主様のために魂を尽くして生きるのよ。主の悲しみは私たちの悲しみ。私たちの喜びは主の喜び。あなたが泣いていたら主様はますます悲しむわ。前を向きなさい。私たちは主様の手となり足となり、盾となり、剣となるのよ」
 もう一人の私は私に、短剣を握らせた。
「殺しなさい」
「殺す……? 誰を?」
「レディ・アデレードはまだ生きている。殺すのよ」
「レディを殺す? え、だって、レディ・アデレードは主様が、自分の手で殺したって、さっき言ってたわ……それとも私を?」
 もう一人の私は、何も言わずに、私の手にある短剣を指さして、うながした。
 短剣を持ったまま、私はその場で立ちすくんだ。どうすればいいのだろうか。

   
*さしのべる手

   

 ――何度、この過ちを繰り返えすのだろうか。

 私は、寝室の窓をあけ、城の東の尖塔をぼんやりと眺めた。そこが、領主の息子だったかつての私が幽閉されていた場所だ。そこで、レディの死を聞き、セリシアの死を見届けた。私の記憶の中のもっとも灰色の部分だ。
 レディとセリシアの死の責任はずっと感じ続けていた。人知れず泣いていたレディの涙に気づけなかった責任は私にある。そのことをずっと責め続けていた。私はもう、メスドラーマ・エルムドアではないというのに。死んだあとでさえ、灰色の記憶がこの身体にこびりついていて、離れない。
 なぜ、眷属たちに彼女らの名前を与えてしまったのか。自分でも分からない。彼女たちに側にいて欲しかったのか。今度こそ、自分を愛して欲しかったのか。それとも――罪の償いをしたかったのか……いや、私も、彼女たちも死んでいるというのに、どうやって贖罪をすればよいのか。
 灰色の記憶が詰まった塔を眺めながら、私はぼんやりと夜の時間を過ごしていた。すると、部屋の外から、レディのすすり泣きが聞こえる。あまりにも過去の記憶に浸っていたから、レディの亡霊が私の耳元で泣いているのかと思ったが――いや、たしかにレディが泣いている。私の眷属のレディが。
「やれやれ、困った子だ」
 悪魔なのに、と口に出しかけて私は硬直した。
 レディの涙。私が気づけず無視し続けた涙。私にはその涙をふきはらう必要があったはずだ。今になって気づいた。レディ、私が失った魂。そして私が再び呼び戻した魂が泣いている。私がするべきことはただ一つ――その涙にこの手をさしのべるのだ。
「レディ!」
 私は、窓から身を離し、扉をあけるために部屋を走った。
 もう過ちは繰り返さない。泣いているレディは、私た殺したレディではない。今更、手を差し出したところで、私の偽善が満たされるだけかもしれない。だが、もう私は彼女の涙を無視するわけにはいかない。そのために彼女の魂を呼んだのだ――
「今、私がいくから――」
 そして、扉をあけた私は想定外の光景に驚いた。そこにいるはずだった涙を流すレディはいなかった。かわりに、思い詰めた表情でナイフを握りしめてたたずんでいるレディの姿があった。
「レディ! 何をしている、そのナイフを捨てなさい!」

   
*新しい世界のために

   

「主様……」
 私はナイフを握ったまま主を見つめた。
「私は闇に生きる暗殺者。お姉さまから、私が次に殺すべき標的を教えてもらいました――レディを殺せと」
 握ったナイフで、私は自分のブロンドの髪をざっくりと切り落とした。肖像画の中の彼女は長い髪を垂らしていた。でも私は貴婦人じゃない。私は暗殺者。長い髪で飾る必要はない。それから、おもむろにドレスの裾を破いた。
「主様は私にレディ・アデレードとしての姿と名前を与えました。ですが、私はその名前と姿を捨てます。主様にいただいたものを捨てるわがままを、どうかお許しください」
 そして、私は、持っている力の全てを使って姿を替えた。できるだけ貴族の姿から離れた衣装をまとい、闇に生きる暗殺者にふさわしい姿に――
「どうです、私の新しい姿、気に入ってくださいましたか? レディ・アデレードは私が闇に葬りました。これから先、私がドレスをまとうことも、あの高貴な方のお名前を口に出すことも二度とありません。私は名前を捨てました。私のことは、ただ『レディ』とお呼びください。レディ・アデレードを再び殺したのは、この私です。主様が気に病むことはございません」
 主はにこやかに笑った。
「眷属に心配されるとは、私も主としての自覚が足りないようだな」
「そうですよ、ザルエラ様。あなたはもう侯爵ではなく、死を司る天使様なのですよ」
 もう一人の私が姿を現した。もう一人の私も、ドレスを捨てて私と同じ闇の衣装をまとっている。
「主様、申し訳ございません。私もいただいた姿を捨ててしまいました。私のことは……そうですね、セリアとお呼びください。セリシア様はもう私が消してしまいましたから」
「ああ、そうだな、それがいい」
 主は、くるりと向きを変えて、ベッドのそばのサイドテーブルに置かれた小さな木片を手に取った。そこには二人の名前が刻まれている――私たちが捨てた二人の女性の名前が。
「さらばだ、レディ・アデレード、セリシア――そしてメスドラーマよ……」
 主は板をまっぷたつに折った。そうして、板の半分を窓の外に手放した。二人の名前は風に乗ってどこかへ流れていく。
「死者の記憶はしかるべき場所に還るがよい。私たちはなすべきことをしよう」
 主は、残った板の半分を私に手渡してくれた。そこにはこう刻まれている。

『我らの幸福な時を祝福する』

 私は声に出してその言葉を読み上げた。顔を上げると主と目があった。
「主様……」
 私は嬉しかった。主が私を見ている。レディ・アデレードに向けられる視線ではない。私に向けられる視線だった。はじめて、主は私を見てくれた。
「私は主様のおそばにずっとおります。片時も離れず、あなたをお護りいたします」
 主は私たち抱きしめてくれた。

「レディ、よかったわ。主様が私たちのことを祝福してくださったわ。死の天使様の加護をいただいたのよ」
「ええ、お姉さま。私は主様のために、たくさんの血を集めるわ――私たちの生きる新しい世界を作るために」

 私はこれからレディになる。私は私になるのだ――私がレディだ。

   

   

2019.3.19

黒の夜明け

.

     

     

     

「おじちゃんはどうしていつも黒い服をきているの?」
 黒い服のおじさんに、おそるおそる近づく小さな少女。ふわっと金髪が肩の上で跳ねる。少女は好奇心旺盛だ、普通の人なら近づかない怖いおじさんにも物怖じせずに近寄っていく。だからおじさんの方が怖じ気付いてしまう。黒い服のおじさんは畏国で一番恐れられた暗殺者だった。夜にとけ込む漆黒のマントで素性を隠し、彼の素顔を見たものは誰一人としていなかった――近づく前に彼に心臓に打ち抜かれてしまうのだ。おじさんは凄腕の狙撃手でもあった。
「嬢ちゃん、興味半分に俺に近づくなよ。火傷するぜ」
「だって……知らない人には近づいたら駄目ってパパが言うの。おじちゃん、騎士団のひとでしょ。パパの騎士団の人なのに、一緒にいたらパパに怒られるなんてわけがわからない」
 この嬢ちゃんは、騎士団長の箱入り娘。メリアドール嬢ちゃん。大事に大事に甘やかされて育てられてる。
 おじさん――バルクは思った。俺がもし父親だったら、俺みたいな輩には娘を近づかせないぜ。騎士団長も父親だな。
「ね、おじちゃん。パパは騎士団のみんなは家族だって言ってる。私もおじちゃんともっと仲良く――」
 バルクは笑った。
「ごっこ遊びは別の兄ちゃんにやってもらいな。俺は向かねぇよ」
 バルクはきびすを返してメリアドールに背を向ける。家族ごっこなんて冗談じゃない。ちびちゃんと遊ぶのは向いてない。俺は……
「バルク」
 どこから現れたのか、背後から低い声で呼びかけられた。振り向かざるを得ない圧力を感じる。渋々、声の主を振り返る。げ、副団長じゃねえか。こいつは堅物だ。いつも不機嫌だ。説教が長い。融通が利かない。ともかく面倒だ。
「あんだよ」
「なぜ、メリアドール様のご要望を無視するのだ。メリアドール様はヴォルマルフ様のご息女。彼女の命令をすることは、すなわち団長に離反すること。たたき斬るぞ」
 バルクはため息を一つついた。こう言われたら相手をするほかはない。バルクは少し居心地が悪くなった。嬢ちゃんのわがままにつきあうのが嫌なわけではない。

   

   

   
 だたちょっと、過去を思い出して感傷に浸っているだけだ。
 バルクは、胸の中に密かに隠している。銀のリングに手を当てた。昔の記憶はここにある。
 ――どうしておじちゃんはいつも黒い服を着ているの?
 嬢ちゃん、俺はまだ夜の中に生きてるんだよ。

   

   

   
 ――俺あ、ゴーグに帰るぜ。
 ――どうしたんだよ、バルク。しけたこと言うなよ。一緒に王の首を狩りに行こうって誓った仲じゃねえかよ。この腐った国を変えられるのは俺しかいないって、おまえは何度も言った。途中で降りるなんて承知しねえぞ。おめえの頭、腐っちまったのか。
 ――ガキができたんだよ。帰って顔見せてやらねえと。一回くらい抱いておかないと親父の顔も覚えてくれねえだろう。顔みせたらすぐ戻ってくるよ。
 ――やめとけ、一度でも抱いたら情がうつる。そしたら二度と戻ってこれなくなる。

   

   

   
 その言葉に嘘はなかった。ゴーグに帰って、女房に小言を言われ、かわいい赤子に対面するのだ。この日のために、ちょっとした銀細工を彫金してきた。そういや婚約指輪も作ってなかったしな。女房に待たせてごめんよと謝るつもりだった。
 けれど、その日は永遠にこなかった。
 女房が待つ家はなかった。瓦礫の下だった。夫の帰りを待っていた妻は腹ごと潰れていた。

   

   

   
 バルクはそこで自分が何者かを思い出した。
 畏国で最も恐れられるテロリスト。それが未来の国家を作るためだと信じて、壊し、奪い、崩してきた。たやすいことだった。破壊するのはあまりにも簡単だった。
 ――これが俺のしてきたことかよ。すまねぇ。
 俺の子だった。抱き上げて名前を呼びたかった。女だったのかも男だったのかも分からず。名前をつける間もなく。世の光を見る間もなく瓦礫の下へ。

   

   

   
 ――抱いたら、二度と戻ってこれなくなる。
 でも抱けなかった。因果だ。破壊者として生きてきた報いを受けたのだ。
 なんでだよ。俺はガキらが虐げられない国を作るために、生きてきたんじゃないのかよ。幸福を願うと不幸がやってくる。それが世界なのかよ。世知辛えな。神なんてクソくらえ。

   

   

   
「黒い服のおじちゃん、私も騎士になるの。いつかパパの騎士団ので一番強い騎士になるわ! 私もおじちゃんと一緒の騎士よ! そうしたら……家族になれるよね?」
「嬢ちゃん……」
 家族なんて言葉の意味はとうの昔に忘れてしまった。

   

   

   
 ――探したぞ、ブラックリスト一番手のテロリストよ。
 ――おい、取り込み中だ。話は後だ。
 家族のために即席の墓を作った。妻と、まだ生まれてこなかった子供のために。バルクはいつもと変わらず素顔を隠す黒のマントで身を覆っていた。だが、これは暗殺者の衣じゃない。死を悼む喪服の色だ。
 そこへやってきたローブの男。相手も黒色のローブをまとっている。黒。闇にとけ込む影の色。祈りの黒色。バルクにはその黒色の意味が分からない。こいつぁ、誰だ? 
 ――てめえ、誰だよ。俺の首を狩りにきた野郎か? いいぜ、存分に戦ってやるぜ。俺の首は安くないからな。だが、今は駄目だ。俺は祈っているんだ。邪魔するな。5分待て。
 ――5分と言わず、いくらでも祈るがいい。私も祈ろう。それが私の仕事でもあるから。
 バルクは首を傾げた。怪しい男だが敵対心は感じられない。
 ――申し遅れた。私は神殿騎士のヴォルマルフ・ティンジェル。今日は剣を持っていない。戦う準備はしてない。頼むから、私に銃を向けてくれるなよ。丸腰だからな。
 変な野郎だ。騎士団長ともあろう人間が丸腰で、テロリストの隣に座って、墓石を見つめている。何を考えているのやら。
 ――家族を亡くし、寂しかろう。
 ――……あたりめえだ。
 バルクは妻の墓石を撫でた。生きてるうちにできなかった愛撫。冷たい石を撫でるのがこんなに虚しいとは。あんたは寂しくない。子供と一緒に逝っちまったから。だから俺は寂しい。一人取り残された、我が身の、どうしようもない寂しさ。
 ――私も細君を亡くしてな……
 この風変わりな騎士団長は唐突に語り出した。彼の妻のこと。妻がいかに美しく、きれいで、可愛らしかったか。自分がいかに妻を愛し、愛されていたか。もう亡き人だが……と、永久に終わらぬ愛の言葉にバルクは静かに耳を傾けた。いつもなら他人の惚気話なんてごめんだぜ、そう思うはずだった。でも、今は嫌じゃない。

   

   

   
「私のパパはね、とてもすごい騎士なの。ね、ローファルもそう思うでしょ? 私のいちばん憧れる人なの!」
「はい。お嬢様のおっしゃるとおりで」
 嬢ちゃんの口から、パパがいかにすばらしい騎士か、次々に言葉があふれてくる。
 ここの親父は愛されてるな。バルクは、嬢ちゃんの父親が妻をこよなく愛する良き夫だったことを知っている。まだこの騎士団に入る前に、長々と聞いたことがある……あの時、あの日、懐かしい。
 記憶は過去から現在へ、現在から過去へ、ゆるやかに駆けめぐる。

   

   

   
 ――騎士団長さんよ、それで、俺に何の用だ。まさか俺のかみさんの墓参りにつきあってくれたわけじゃねえだろう。用件を話しな。くだらない用だったら俺は帰るぜ。
 帰るといっても、もう家はなく。かつてのテロリスト仲間のもとへ帰る気もなく。どこへ行くのかさっぱり分からなかった。分からなくていい。俺は夜の生きる人間。行く宛なんて見当もつかない。
 騎士団長は麻袋を取り出した。金だ。バルクにはその袋を持たずとも、音、大きさ、それだけで勘定がつけられる。
 ――俺を買おうって話か。全然足りねぇよ。俺の懸賞金いくらか知ってんのかよ。俺の首はそんなはした金じゃ売れん。
 ――あいにく、我が騎士団は清貧を誓っていてな……これ以上の金は出せない。だが、いい人材は惜しみなく私の騎士団に迎え入れよう。偉大なテロリストよ、今からおまえは騎士になるのだ。
 ――忠誠を誓って生きるなんて俺の性分には合わないね。帰れ。それかもっと金を出せ。俺を満足させろ。
 ――テロリストよ……いや、バルク。おまえはもう一人ではない。騎士団には同胞がいる。アジョラの血を分け合った仲間がいる。もう一人で孤独に戦う必要はない。
 バルクは黙っていた。今し方家族を失った男の同情を惹こうと、この騎士は巧みに言葉を操っているのだろう。そこで、はい、喜んで、と答える男はそもそもテロリストにはならない。バルクもそうだ。無言で、険しい表情をする。
 ――俺は感情では動かない。騎士団に入ることで、それに見合う報酬が得られるのなら、考えてやってもいい。
 ――報酬? そうだな、私の娘を抱っこする権利を特別におまえにやろう。特別に1回だ。これは私と副団長にしか許されていない特別な権利だ……1回だけだからな!
 ――はあ?
 バルクはあきれ顔で聞き返した。この男は何を言っているのだ。
 ――この上ない報酬だ。どうだ、好条件だろう。
 でも、付いてきてしまった。他に行くところがなかったからだ。

   

   

    
 そうしてテロリストは教会の騎士になった。
 そして、今――噂のお嬢ちゃんに出会った。騎士団長の溺愛している、かわいいお嬢ちゃん。

   

   

   
「おじちゃん、パパよりずっと背が高いのね。ねえ、お肩をかして?」
 人なつっこいお嬢ちゃんは、怖じ気付くこともなくバルクに絡んでくる。俺に抱っこして欲しいというのか? この俺に? 自分の子すら抱けなかったこの俺に?
 バルクはおそるおそる、手をさしのべる。
「ちょっと」すかさず副団長が眉間に皺をよせて制止してきた。「団長の許可なくお嬢様を抱かないでください」
 いつもは頷くしかない副団長の言葉だが、今日ばかりは、鼻高々に答えられる。
「はん、俺はな、団長の許可をもらってるぜ。嬢ちゃんを抱き上げてもいいってな――ほら、嬢、こいよ」
 手をさしのべる。騎士団長からもらった1回だけの特別なチャンス。
 メリアドールはバルクの手にぱっと飛びついた。バルクは軽く抱き上げる。嬢、軽いな。女の子はこんなもんか。肩にかつぐのも軽々だ。メリアドールはバルクの頬に顔をすりよせた。「すごいわ、お空が高く見える――おじちゃん、大好き」
 ああ、いいな、こういうの。可愛い。すごく可愛い。
「バルク、頼むから、お嬢様を抱いたまま外へいかないように。誘拐犯がお嬢さまをさらったみたいに見える」
 副団長のあからさまなため息。だがバルクもメリアドールを抱き上げるまでは同じことを考えていた。俺みたいなアウトローが嬢ちゃんに触れたら、釣り合わない、と。俺には父親なんてなれっこない、と。
「ローファル! おじちゃんは誘拐犯なんかじゃないわ。わるいひとじゃないでしょう?」
「あ、ああ……」バルクは答えに困った。俺は何者だろう。もうテロリストじゃない。騎士になった。でも相変わらず黒い衣を着たまま。影に身を隠す黒。いつまでも明けない喪の色。

   

   

  
 ――一度抱いたら、二度と戻ってこれなくなる。
 ああ、その通りだ。俺はもう二度と戻れない。あの頃には。選んでしまったのだ。この仲間たちと生きることを。時は戻らない。瓦礫の下から妻が生き返ることもない。

   

   

   
「嬢、強くなりな。騎士になるんだろう。だったら自分の身は自分で守れるくらいに」
「うん。おじちゃんのことも守ってあげる」
「はは、それは頼もしいな」

   

   

   
 夜明けは近い――長き喪がようやく明けるのだ。

   

   

   

2019.02.13