妻の名前を呼ぶ日

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・オーランが生きています。バルマウフラと結婚しています。バルマウフラは森の魔女です。
・「ヴァイゼフラウ・バルマウフラ」の続編のようなお話です。バルマウフラが「ヴァイゼフラウ(賢い女)」と呼ばれているのはそこからのオリジナル設定です。


 

 
妻の名前を呼ぶ日

 

 

 

 長い夢を見ていた気がする。熱い、炎に、焼かれるような、息苦しい夢。目を閉じたら二度と起きることができないような深い夢。
「旦那、お目覚めかい」
 オーランはふっと目を開けると、声の聞こえる方に顔をわずかに向けた。身体が思うように動かない。見知らぬ場所の見知らぬベッドの上に寝かされていて、ありったけの包帯と保護布で身体を覆われている。
「全身ひどい火傷だよ。焼けた家の下敷きにでもされたのかい?」
 火傷。その言葉にでオーランのぼんやりとした意識は完全に覚醒した。

 ――そうだ、私は火刑に処されて死ぬはずだった。

 杭に縛られ、足下に積み上げられてた薪に火がつけられ、有象無象の観衆から投げつけられる言葉を聞いているうちに息苦しくなってくる。白書を上梓し、後は森羅万象に身を委ねるつもりだった。しかし、いざ杭につけられ、我が身に迫る炎を見ると恐怖がせり上がってくる。この場においてみっともなくもがき苦しむよりは、と、オーランはそこで意識を手放した。いや、その前に「彼女」の姿を見た気がする。それが死ぬ前の幻覚が見せる夢だったのかどうか、彼には分からなかった。
 そして、再び意識を取り戻し、見知らぬ場所に寝かされている。やや心配そうな顔で寝ているオーランをのぞき込む男の名前も、当然知らない。
「しかし旦那、いったいどうしてこんなひどい怪我を? 家に放火でもされたんですかい?」
「ああ、火をつけられてしまってね……うっかりしていたよ」
 異端として火刑宣告されて我が身に火を放たれて、とは言えなかった。貴族ならばオーランの素性を知っており、処刑を生き延びたことを密告するかもしれない。この男がどこまで貴族と関係があるのか分からなかったが、オーランは念のため事情を伏せておいた
「あなたが私の治療を?」
 オーランはベッドの上で、そっと自分の身体を触った。かなり炎に炙られていたと思われる下半身は殆ど感覚がない。だが、わずかに手を下腹部にずらあしていくと軟膏と包帯とで手厚保護されているのが分かる。腕のよい治療師が手当てをしてくれたのだろう。
「いや、俺じゃない。ヴァイゼが旦那をここへ連れてきた。大方の治療はヴァイゼがやった。俺は彼女に指示された世話をしてるだけさ」
「ヴァイゼ……?」
「ヴァイゼフラウ――魔女だよ。村のはずれのラナの森にひとりで住んでる」
 村の男は木枠で覆われた窓をこんこんと叩いた。おそらく、叩かれたその方角に魔女の住まう森があるのだろう。
 オーランは、ヴァイゼフラウと呼ばれる魔女の正体を知っていた。どうやら死ぬ前に「彼女」を見たのは夢ではなかったようだ。そして、「彼女」が彼を助け出してくれたようだ。
「『彼女』は今どこに?」
 はやく会いたいな、とオーランは思った。
「ヴァイゼなら森へ帰ったさ。彼女はきっちり三日おきに村へやってくる。次にここ来るのは夜が三度来てからだ。それが魔女の流儀なのさ――ところで、旦那はいったい何者ですかい? あんたはヴァイゼが突然この村に連れてきた。怪我を追っているから看病をしてやってくれと。彼女といったいどういう関係だ?」
「私は彼女の夫です。彼女は私の妻です」
「旦那? ちいと煙を吸いすぎたのでは? 頭はしっかりしていますかい?」
 村の男はオーランの言葉を笑って流した。オーランがまだ昏睡状態で夢まぼろしの言葉をしゃべっていると思っているらしい。
「いや、これは本当です。領地には正式な結婚証明書があります。私たちの間には息子だっています。証明書はここにはないけれど、結婚の誓いをあげた時に作った指輪が――あれ、ないな……」
 オーランは自分の左手を見てがっかりした。処刑台にあがる前に、これだけはと司祭に懇願して最後まで身につけいていた結婚の指輪が見あたらない。
「旦那、無理は禁物ですさ。しっかり寝て起きれば、頭もしっかりしてきます」
「ああ、ありがとう……」

 ――せめて、あの指輪が見つかれば僕が「彼女」の夫だとこの人に伝えられるのに。

 オーランはがっかりした。肩を落として、そのまま目を閉じた。この場所にいればいずれ「彼女」に会える。その安心感が彼を安らかな眠りへと誘った。

 

 
 さっぱりした薬草の香りに目が覚めた。
「バルマウフラ……もう来てくれたのかい。村の人の話だと三日おきにしか顔を出さないとか」
「そうよ、私は三つの夜を数えてから森を出た。あなたがずっと眠っていただけよ」
 バルマウフラはベッドの上に横たわるオーランにそっと覆い被さり、頬を、髪を、両手ではさんで優しく撫でた。
「ゆっくり休んで身体を回復させるのよ」
 そう言いながら、バルマウフラはオーランの身体をベッドの上で転がしながら手際よく包帯の交換を行っていく。サイドテーブルにはオーランにも名前が分からない薬草の束がどっさりと積まれている。
「君は……ここではヴァイゼフラウと呼ばれているようだね」
「それは母の名前だ……森に住む賢い女は皆、ヴァイゼフラウと呼ばれる。母亡き後、私がヴァイゼフラウになったの。私の母は教会の騎士に異端の嫌疑をかけられ、その場で火炙りになって死んだ――だから、炎は、私は、きらい」
 仰向けに寝かされているオーランからは、テーブルの薬草を包帯に練り込んでいるバルマウフラの表情は見えない。オーランは無性にバルマウフラのことを抱きたくなった。今はただ静かに抱いて、謝りたい。

 ――君が炎を恐れているのはずっと昔から知っていた……そして僕はまた君を怖がらせてしまった………

「あなたが炎に包まれた時……私は……」
 バルマウフラが涙を飲む音が聞こえた気がした。
 彼女を泣かせてしまった。どうしよう。抱きしめたいのに。今すぐ彼女の肩に手を添えて、大丈夫だよ、と言ってあげたいのに。動かない身体がもどかしい。
「バルマウフラ、心配をかけてすまな――い、痛ッ」
 バルマウフラが、オーランの右足の包帯を締め上げた。
「――冗談じゃないわよ。次に炎の中に入るときがあったら、もう知らない。勝手に焼かれなさいよ」
 手際よく、古い包帯をはがし、焼けた皮膚を削り落として薬草と軟膏を塗り込んで新しい包帯で締め上げていく。その手つきが少々荒いのは、妻に心配をかけた夫への罰だろうか。それならば甘んじて受け入れるしかない。オーランはベッドの上に四肢を投げだし、彼女のされるがままになっていた。
「――そういえば、ここの村の人は、君が独り身だと信じているようだ。僕が君の夫なんだと言っても鼻で笑われたよ。頭でも打って錯乱しているだけだとね」
 バルマウフラは笑った。そしてベッドの側のスツールに腰をおろした。仰臥しているオーランと会話がしやすいように視線を落としてくれたのだ。
「そうね、都市には都市の法がある。そして森には森のしきたりがある。ここの村では教会で結婚をするというしきたりはないの。村の祭りで互いの名を呼び、村の人たちから認められればそれで夫婦になるの。だから、都市で作った結婚証明書を見せても、村の人はただの紙切れだと笑い飛ばすでしょうね」
「次の祭りはいつだい? もう一度君の名前を呼ぶよ」
「あら、二回目のプロポーズ? ふふ、嬉しいわね。でもそんなことをしなくてもよくてよ。私から村の人に事情を説明しておくわ――もちろん、あなたが火刑台にのぼって火傷を負ったことは伏せておくけれど」
 はい、とバルマウフラはオーランの寝ているベッドの横に置かれた、軟膏やら薬草やらがどっさり積まれた小さな木机の上に、銀の指輪をおいた。
「煤で焼けてしまったから磨いておいわたわ。村でも指輪を贈り合う夫婦は多いから、これを見せたら私たちの関係について信じてもらえると思うわ。それと、最後まで……身につけていてくれて、ありがとう……」
 オーランが探していた結婚指輪だ。服をはぎ取られ、罪人の服を着せられ、その麻服以外は何物も身につけることを許されなかった。それでも、この指輪だけは、と司祭にこいねがい、最後まで手放さなかったものだ。なくしたわけではなかったようだ。オーランは安心した。
「いや、でも僕は村のしきたりに従うよ。ここは君の大切な故郷だろう? 次の祭りはいつだい?」
 最初にこの村で目覚めた時、村人はバルマウフラの住む森のことをラナの森よ呼んだ。彼女は故郷の名前をずっと名乗っていたのだ――母を殺され、教会にさらわれ、故郷に帰ることすらできず、そして、貴族の妻となりその名前さえ捨ててくれた。だから、せめて彼女の大切な故郷のしきたりに従って、もう一度プロポーズをしたいとオーランは思った。
「次の祝祭はラマスね。収穫祭よ。だけど、間に合わないわ」
「どういうこと?」
「私は領地――あなたの領地よ――に帰るから。息子の世話をしないと。考えてみて。異端として殺された父親と、素性あやしく魔女と噂される両親の間に生まれた子が、周囲から干渉されずにまっとうに生きれると思う? 私たちの子を守ってあげないと……」
 オーランは歯がゆかった。白書を世に出すこと、それが自分の使命だと信じて疑わなかった。けれど、その使命のために、どれだけのものが犠牲になったのだろうか。
「バルマウフラ、君ひとりでは行かせられない。僕の息子だ。僕も一緒に――」
「何を言っているの? 寝言かしら? あなたは処刑された死んだ。私は夫を亡くした未亡人。これが事実なのよ。死んだ人が帰ってきたらお屋敷は大混乱して、死者の霊を祓う専属司祭を雇うことになるでしょうね」
「ああ……はい……ここでおとなしく寝ています……でも、僕がしでかしたこんな状況の中で、息子をひとりで育てるのは大変だろう。君ばかりに負担をかけたくない」
 バルマウフラは誇らしげに笑った。
「私は今まで誰と仕事をしてきたか知っている? 私の仕事仲間は今はこの国の王よ。息子には最高の処世術を伝授できるわ」
 オーランはむすっとした。国王――あの男――ディリータのことはどうも好きになれない。これはオーランの個人的な感情だ。妻が奴のことを誇らしげに語る時、オーランは不機嫌になる。オーランはベッドに積み上げられた毛布を顔まで引き上げた。
「あらあら、嫉妬?」
「……放っておいてくれ」
「オーラン、あなたは、つらく苦しい試練に耐えた。それはあなた自身が選んだ道。私もあなたの夫になり、貴族の妻になるという道を選んだ。だから私の使命を果たさせて。幼い我が子には庇護が必要……でも、彼が成人して、私たちがそうしたように、彼もまた自分の道を選択したのを見届けたら……そうしたら、またこの森に帰ってくる。その時には、また私の名前を呼んでね……その日をずっと楽しみにしているから……」

 

 
「旦那、旦那は本当にヴァイゼの旦那様だったんですな。ヴァイゼが指輪を見せてくれたんです」
 バルマウフラはオーランが寝ているうちに静かに旅立っていった。けれど、旅に立つ前にオーランとの関係をちゃんと説明してくれたようだ。おかげで村人がオーランに物珍しげな視線を投げかけてくるようになった。どこの都市でも村でも、男女の恋愛は話の種だ。きっと彼らは、オーランがどういう経緯で森の魔女の夫になったのか知りたくてしょうがないのだろう。
「いやぁ本当にびっくりしましたよ。まさか、あのヴァイゼが――森を出る時はあんなに小さな少女だったのに――十年ぶりに森に帰ってきたかと思えば夫を連れてくるとは……しかし、ヴァイゼはまた気まぐれに森を出て行ってしまった。旦那も後を追うんです?」
「いや、私はしばらくここで世話になるよ。まだ傷も当分治らないだろうし」
「夫婦なのに、離れて暮らすんですか?」
「ああ……それが私たちの選んだ道だからね。それに、私はまだここでは彼女の夫ではない。ここでは祝祭の時に互いの名を呼んで夫婦になるそうだね。その日まで、私は彼女の夫ではなく、ただの……」
 オーランはそこで言葉を詰まらせた。今や、自分は何者だろうか。貴族としての命は失ってしまった。魂をかけて書き上げた白書も、世に出した。貴族でもない、学者でもない、彼女の夫でもない……だとすると……
「旦那、いったい旦那は何者ですかい? 森の魔女は代々、私ら村の人間に知識を与えてくれた。そして、そのお礼に、私らは彼女らにパンや薪やらを渡し、生活を支えてきた。代々のヴァイゼフラウは時々珍しいものを持ってくることもあったが、人間の男をもってきたのは初めでね」
「ああ、そうだね、その通りだ。私は彼女の『知識』だ。占星術士――星を読む人間だ」
「ほう、それは珍しい。村に初めての『知識』だ」
 男は目を丸くした。天上の星の世界にも知識があるのかと驚いている様子だ。
「それで……旦那にはどんな対価をお支払いしましょう。ヴァイゼが留守にしているので今は旦那に対価をお渡ししましょう。けど、俺ら村人には、その、星の知識に対してどんなお礼を渡せばいいのかさっぱりでして……」
 オーランは答えた。
「多くは望みません。怪我が癒えるまでの手当てと、ここで生計を立てるまでの間の食べ物をください。あとは、いつか私が妻の名前を呼ぶ日に、あなたがたの祝福をください――それだけで十分です」
 彼女はいつ帰ってくるのだろうか。彼女の名前を呼べるまで、いったいどれだけの日を待つのだろうか。

 

 

 しかし、これで良いのだ。想う時間が長ければ長いほど、想いはあふれるのだから――

 

 

2020.08.16

それは余りものだからと彼女は言う

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それは余りものだからと彼女は言う

 

 

 

 コンコン、と扉を叩く音。クレティアンは読みかけの魔道書から目をあげた。夕べの勤めが終わり、騎士たちは隊舎に戻っている時間である。
 こんな時間に彼の自室を訪ねてくるのは、彼とある程度の親しみのある者に限られる。単に参謀長と話したい者は執務室へ行く。
「どうぞ――メリアドール?」
 クレティアンが扉をあけると、そこには騎士団長の愛娘、メリアドールがひとりでたたずんでいた。戦装束を解いて、黒い修道服をゆったりと纏っている。普段はフードで見えない髪が、今日はゆるい三つ編みになって肩の上に柔らかに下がっている。

 ――きれいだな。

 クレティアンは率直に思った。鎧を着込み、勇ましく剣をふるう姿からは想像もできないが、彼女の素顔はとても美しい。その美しさを知っているのは、彼女がこうして気兼ねなく素顔を見せてくれる相手――たとえば自分のような――だけだ。
「お邪魔してもよろしいかしら」
 クレティアンは片手で扉をあけたまま、片手でメリアドールを促す。といっても、メリアドールはクレティアンのエスコートに気づくことなく堂々と彼の部屋へ入り、手近なスルーツの上にちょんと座った。

 ――やれやれ、夜中に男部屋に一人で入ってくるとは、勇敢なお嬢様だ。

 クレティアンは貴族の屋敷で育ち、同じような貴族子息たちの通う士官学校で育ってきた。彼からすると、メリアドールの『大胆な』行動にはいつも驚かされる。そして、自分の方が気を遣ってしまう。相手は団長の愛娘だ。彼女の機嫌を損なうようなことがあれば、団長の叱責が飛んでくる。とはいえ、メリアドールとは騎士団に入ってからの付き合いも長く、彼女の豪快な、そしてやや鈍感な性格についてはクレティアンもよく知っているので、細かいことは気にしない。
「メリアドール、こんな時間にどうしました?」
 クレティアンは自分の机に戻った。開きっぱなしだった魔道書を閉じ、椅子をメリアドールの方に向けた。メリアドールとは、本を読みながら適当に相づちをうっている時もあるが、今日の彼女はやけにおとなしい。スツールの上で顔をうつむけ、そわそわと所在なさげにしている。こういう時のメリアドールは、何か問題を抱えていることが多い。
「……お父上と喧嘩でもしましたか? また仲裁ですか?」
 これはよくある事例だ。
「いいえ、そ、そうではなくて……」
「では、また上官の剣を壊してしまいましたか? ローファルに工面してもらいましょう」
 これもよくある事例だ。
「いいえ! 違うの! 私は……あなたに渡したいものがあって来たの……ッ」
 メリアドールが意を決したように立ち上がる。クレティアンも反射的に腰を浮かせた。これは貴族時代に身につけた習慣だ。
 爆薬でも押しつけられるのかと思った。彼女があまりにも気迫凄まじく迫ってきたので、クレティアンはたじろいた。が、メリアドールから渡された――押しつけられた――ものを見て安堵した。
 それは、東方の意匠が凝らされた古代風の金の髪飾りだった。ミュロンドの金細工屋では見かけない。市が開かれた時に買っておいたものだろう。
「きれいですね。でも髪飾りなら、きっとあなたの方が似合うでしょう。よければつけて差し上げましょう」

 ――輝く金髪に、輝く髪飾り。最高の組み合わせだ。そして、その光景を私が独り占めできる。

「わ、私じゃなくて! それ、魔道士用の髪飾りなの! 市で見かけて、きれいだから買ったのだけど、魔道士用のだと知らなくて……そ、それであなたにお渡ししようと思って……」
 クレティアンはメリアドールの髪にそっと手をのばした――が、彼女は「違うの!」とクレティアンの手を拒絶した。頬が紅潮している。
「魔道士のアクセサリーを間違えて買うとは、鈍くさいお方だ」
 クレティアンはとっくに気づいている。戦経験豊富な彼女が、魔道士と騎士のアクセサリーを見間違うはずはない。最初から自分に渡すために用意してくれていたのだと。だが、どうやら素直になれないらしい。贈り物を一つ渡すのにこんなにも手間取っている。乙女の気むずかしい心か、団長の娘としてのプライドか。
「いいでしょう、あなたのご好意をお受けいたします。つけてくださいますか?」
「はい――」
 クレティアンはメリアドールの手の届く高さに腰をかがめようとした――自然と彼女の前に膝まづく姿勢になった。
「そんなに仰々しくなさらなくても……」
 メリアドールの手がクレティアンの頭にふれた。ゆっくりと髪を梳くように、柔らかい手つきでクレティアンの髪を優しく撫でていく。
「――戦地へ旅立つ騎士たちは、こうして姫君から贈り物をいただき、愛を授かりました。詩人の歌う戦歌にはこういう場面がよく出てきます。私も、聖石の騎士から贈り物をいただける日がくるとは、光栄です」
「……んん? それって……」
 メリアドールが手を止めた。何やら考え込んでいる。
「……もしかして、私があなたに愛を贈っているように見えるということ……?」
「違いますか?」
「だ・か・ら! これは間違って買っちゃったのよ! 一番手近な魔道士があなただったから渡してるだけです。お分かりいただけまして?」

 ――ああ、分かっるとも。君が素直になれない手の掛かるお嬢様だといいうことが。
 ――ミュロンドに市が開かれるのは年に一回。どれだけの時間をかけて、この髪飾りを探したのだろうか。

 メリアドールはやや機嫌を損ねたらしい。つんと顔をあげて「帰ります」と言った。
「お礼は何がいい? あなたの誕生日までに何か用意しておきましょう」
「お好きにどうぞ。それを受け取るかどうかは私が決めることですがら」

 ――難しいな。あの気むずかしいお嬢様はいったい何を気に入るというのだ。

 クレティアンはひとり笑った。メリアドールも同じことを考えていたに違いない。何を贈れば喜んでくれるか、気に入ってもらえるか、そんなことをあれこれと考えるのは何にもまして、幸せで、楽しい時間であるのだから。

  

  

 

 
・クレティアンは恋愛経験そこそこあるけど、メリアドールはクレティアンが初恋だと思う、ので純情乙女で、贈り物一つにあれこれ悩んだりしてそうです。もちろんプライドも高いのでデレないツンです。
・上官(ヴォルマルフ団長)の娘と部下の関係なので、二人とも敬語で喋ってます。もう少し親密度があがったら、じょじょにタメ語が増えていきます(そして喧嘩の嵐になる)。
・6/6クレティアンお誕生日おめでとう小説でした。

 

 

2020.06.06

 

Aspects of Family:作品設定

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Aspects of Familyシリーズについて

※別題:男やもめの騎士団長ヴォルマルフ・ティンジェルによる子育て奮闘記シリーズ

 

 
・ヴォルマルフ様が子煩悩を炸裂させているだけの親馬鹿SS連作集です(各話読み切り)。
・時代は五十年戦争の終わりかけ。ヴォルマルフ・バルバネス・シドの三人は顔見知り設定。
・神殿騎士団は原作通り聖天使への生き血を集めている暗黒騎士団設定ですが、シリアスな要素はほとんどありません。
・イズルード×アルマ、クレティアン×メリアドールを前提に書いてますが、カップリング要素は薄めです。
・メリアドールはヴォルマルフのことを「パパ」と呼んでいます。個人的な趣味です。
・ローファルはイズルード&メリアドールに対して敬語で話します(お嬢様=メリアドール)。個人的な趣味です。
・Aspects of Families–家族の諸相。家族愛がテーマの作品です。

 

 

輝く日を仰いで

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輝く日を仰いで

 

 

 

 
 メリアドールは私の娘だった。もちろん、私は彼女の父親ではない。
 父親は死んだのだ。
 娘と息子二人を残して。幼い子供らを庇護できるのは私しかいなかった。否、私にしかできないと思った。
「ウォドリングおじさん」
 彼女ははじめ、私のことをそう呼んだ。だが、いつしか時は流れ、私のことを名前で呼んでくれるようになった。屈託のない笑顔と一緒に。

 

 
 私は父親。彼女は誰より大切な私の娘。

 

 
 その日は突然にやってきた。
「こんど騎士団に来る人、アカデミーの首席だった人なんですって。ローファル知ってる?」
 メリアドールはルザリアから来る士官に興味津々な様子だった。私が何と答えたかは記憶にない。
 都会から来る士官学生がろくな奴であった試しはない、のだが――鳶色の髪のすらりとした背格好の青年が年頃の娘の気を引かない訳がない。
 私は心配だった。愛する娘が、野心あふれる若者にもてあそばれるのではないかと気に病んでいた。だが、彼女の口から「クレティアン、クレティアン」と若き士官の名前がこぼれるのを聞いて、私は諦めた。
 私は父親であり彼女は娘だった。そこに彼が加わっただけのこと。家族が二人から三人になっただけのことだ。

 

 
「私はメリアドールには手を出すなと何度も言った。なのにおまえは私の話を全く無視したな、クレティアン」
「手は出していない……ああ、信じてないって顔だな。だが誓ってもいい。私は誠実であり、彼女は気高く清純だ。騎士の誓いを破ったことは一度もない」
「そうか……おまえがそう言うのなら、そうなのだろうな」
「それにしてもひどいな。なぜ私がメリアドールに手を出すなどと思ったのだ」
「野心ある若者がよくやることだ」
「私をそのような下卑な連中と一緒にしないでくれ。私が彼女の手を借りなければ出世できないような俗人に見えるか」
「ああ、そうだったな」
 5年、10年と一緒に暮らして過ごせば相手の性格は分かるようになるものだ。今や私は副団長。彼は参謀。良きパートナーであった。
「しかしローファル。はっきり言うぞ。おまえのメリアドールへの執着は異常だ。なぜ父親でもないおまえが、彼女をそこまで庇うのだ」
「私が父親なんだ」
「ほう。私の頭がいかれてなければ、彼女の父である騎士団長殿は存命だ」
「死んだんだよ。おまえがミュロンドに来るよりずっと前にな。そう……あれは不幸な事故だった。ヴォルマルフ様は魂を悪魔に喰われて死んだ。だから私は誓った。幼い子供たちを死んだ父親に代わって守り抜くと」
「――そうだったのか」
「信じるのか? こんな荒唐無稽な話を。私が狂っているとは思わないのか」
「おまえがそう言うのなら、それが真実なのだろう。私はおまえを信じるよ、ローファル」

 

 
 普通ではない。これは普通の家族ではない。本当は家族でもない。分かっていたことだ。いつか彼女が真相を知った時、この家族ははかなく消え去ってしまうことを。
 輝かしい思い出だけを残して。

 

 
 団長が死都に向かうと言った。私は何も言わずについて行った。メリアドールはとうに私の手を離れていた。私の役目は終えたのだ。あとは見届けるだけだった。
 しかしこれだけは予想もしていなかった。まさかメリアドールが自らの手で終焉をもたらすとは。
 その剣を振り下ろすまでに、彼女はいったいどれほど涙を流したのだろうか。私には決して分からない。分かってあげられない。それがどれほど悔しいのかも、彼女に分かってもらえない。

 

 
「……クレティアン、待っていてくれたんだな……」
 身体中の力が抜けていくのが分かる。身も心もぼろぼろだった。修道院の深淵の、暗い、暗い、廃墟の街。こんなところで自分を待っていてくれる人がいるとは。
「ローファル、おまえが来るのを待っていたんだ。だって、もうおまえしかいないじゃないか……あの日々のことを覚えているのは」
 そうだった。あの懐かしい日々。彼女と過ごしたあの日々。もう決して戻ってこないあの輝かしい日々。
「……ローファル、一つ言っておくことがある。私は約束を果たしたぞ……彼女には指一本触れなかった。彼女は尊く清らかだ。実のところ、私は彼女に感謝しているのだ。こんな状況になっても、な……。彼女を思えばこそ、こんな汚れた地獄の世界のまっただ中でも正気を失わずに生きてこられた。この想いを、ローファル、おまえに、伝えておきたかった……」
 息も途切れ途切れに、それはほとんど愛の告白だった。
「なぜ私に?」
「いつか言っただろう、おまえが彼女の父親だったと」
「ああ……」
 そうだ。私が父親だったなら、愛する娘に向けられたこの上ない讃辞を涙なしには聞けなかっただろう。私が父親だったなら……
「その言葉、たしかに受け取ったぞ。だが、真にその言葉を受け取るべき人は私じゃない」
 私の返事を聞くことなく彼は力尽きたようだった。そっと彼の身体を抱き寄せた。
「よく頑張ったな……おまえに会わせたい人がいる。さあ、これから一緒に会いに行こう――」

 

 
 ――ヴォルマルフ様、あなたの誇り高い魂に誓って、彼女をこの命に代えても守り抜くと誓います。

 

 
 はるか彼方。遠い昔の誓いの言葉。
 この誓いは果たされた。私は為すべきことを為した。

 

 

 

 

 家族は遠く離れてしまった。子供たちはもう二度と私の元へ戻ってはこないだろう。私のこの血に汚れた手で抱きあげることもかなわないだろう。
 息子よ、娘よ。
 彼らは死んだ父親に何を言うのだろうか。せめて叱責してくれようものなら赦しを請うこともできるのだが。

 

 
「ヴォルマルフ様」
 聞き慣れた二人の男の声。振り返らずとも誰に呼ばれているのか分かる。私の忠実な部下たち。
「おまえたちか」
 やはり来てくれたのか、と安堵する。しかし、やはり来てしまったのか、とも思う。ここまで忠義を尽くす必要もなかっただろうに。<統制者>である私に。
「ヴォルマルフ様……やっと……お会いできました。私はあなたに、<統制者>に代わって死んだ<本当の>あなたに会える日を楽しみに、ここまで生きてきたのです」とローファル。
 後ろを振り返ると、そこにはクレティアンに寄り添ったローファルの姿があった。そうだ、この二人はいつも一緒だった。互いに支え合う二人の姿。そんな日常が毎日だった昔に戻ったようで微笑ましい。
 ここまで来て、やっとあなたに会えました、と震える声を絞り出すローファル。私はそんなにも慕われていたのか。
「ローファル。さぞ憎かったことだろう、私を殺した<統制者>のことが。剣を向けてもよかったのだぞ。私の娘がそうしたように」
「いいえ……それだけはできませんでした。たとえ魂は離れようと、その身体はあなたのもの。私が剣を向けることなどできませぬ」
「そうか、そうか。ならば私はその忠節に応えてやらねばならないな……だが、私はもはや何もかもを失った身。家族にすら見放された私に何ができようか」
 私は息子に手をかけた。その報いを娘の手により受けた。愛する家族にすら何もしてやれなかったのだ。
「ヴォルマルフ様、私たちは何も望みません。騎士団の仲間と過ごしたあの日々は、楽しく、輝かしいものでした。その思い出だけで私たちは十分なのです」
「ローファル、クレティアン。おまえたちは特に娘の面倒をよく見てくれていたな」
「ええ、それはとても」
 と、二人そろって笑い合った。その談笑の輪に私は入れない。私は娘に父と呼んでもらえない。私はあの子たちと家族になれなかった。だが、私の部下たちが――私の忠実な部下たちがあの子たちの家族となってくれた。
 それだけで十分ではないか。

 

 
「ヴォルマルフ様。だから私たちは戻ってきたのです」
「……どういう意味だ?」
「私たちは、お嬢様とこの上なく楽しい日々を過ごしました。この、お嬢様との思い出を、父であるあなたに知ってもらいたいのです。だから、こうしてお返しにきました――あの輝かしい日々を」
「語り合いましょう、三人で。尽きせぬ時間があるのですから」

 

 
 私、神殿騎士団団長のヴォルマルフ・ティンジェルは良き部下に恵まれた。心からそう思った。

 

 
輝ける日々
それは家族の記憶
私がいるはずだった家族の記憶
戻らぬ時を経て、懐かしき思い出は今や私の手の中に
いかなる喜びぞ

 

 

 

2017.05.13

 

 

痕跡

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 痕跡

 

 

 

 

「そうか、アドラメレクもやられたのか……あの小僧に」
 ローファルは呟いた。彼は元来、焦りや苛立ちを表情に出すことは殆ど無かったが、内心は激しい焦燥感に駆られていた。
「ベリアスも、ザルエラも駄目だった。何の役目を果たす間もなく逝ってしまった――いや、そうでもなかったな。奴らは存分に血を流してくれたではないか。それだけでも役目を果たしたと言えるか。だが、アドラメレクは……」
 彼は目の前に対峙する金髪の小僧を見た。名前はラムザ、ベオルブ家の出自を持つ貴族の青年だった。ローファルから見れば年齢も人生経験も足りない世間知らずの小僧だ。ローファルはベオルブの者に少なからず因縁を感じていた。密かにベオルブ家を崩壊させるように差し向け、アドラメレクを呼び出したのは他ではなく、ローファルであったからだ。
 ラムザは蔑むような、冷ややかな視線をローファルに投げかけた。ローファルは無視するように剣を握り直した。彼は何故この青年がこうも平静で居られるのか、不思議に思った。この金髪の青年はここオーボンヌ修道院に来るまでに、凄惨な道を辿ってきている。実兄の企てた陰謀、そして実家の崩壊――彼は兄たちを失っている。それも、ラムザ自身が、自ら兄たちに手を掛けたのである。勿論、そうさせるように仕向けたのはこの神殿騎士の仕業であったが。
 どうせこの小僧は、すぐに絶望にうちひしがれて逃げ出すだろうと、ローファルは考えていた。彼の知っているものは、皆そうであった。逃げ出すことなく、無謀にも眷属たちに立ち向かってきた者は、血の海に沈んでいった――あのイズルードのように。それなのに、この世間知らずの青年は逃げ出すことなく、それどころか、次々に眷属らを打ち倒してた。ベリアス、ザルエラ、アドラメレク……あとはハシュマリムただ一人になってしまった――ローファルはいらだった。とてもこの小僧にそんな恐るべき力があるとは思えなかったからだ。
「おまえは人間ではないな。この感じ……セリアやレディと同じだ」
「そうだ。私は人間ではない。私は人間を超越した力を得たのだ。ヴォルマルフ様のお力により、老いることや無知であり続けることをやめ、永遠の命を手にいれたのだ!」
 ――それなのに私は、何も知らないこんな若造に負けるのか。私は聖石の力を得たというのに、この若造を倒すことすら出来ないのか!
 ローファルがいきり立った時、彼の耳に見知った声が聞こえた。
「ローファル」
 そう呼んだのは、彼のかつての仲間、メリアドールだった。彼女は怒るでもなく、悲しむでもなく、ただ彼の名前を呼んだ。ラムザの隣にたち、彼と同じセイブザクィーンの剣を携えて。彼と彼女はその格好こそ、同じ神殿騎士の出で立ちであったが、彼らの間には決して交わることの出来ない深い溝があった。もう私は彼女の声に感情を探せない程、人ではない領域に足を踏み入れてしまったのか――彼はそう思った。その時、彼の中に抑えきれない激しい感情が沸き上がった。
 全てを投げ出せ。
 ローファルはそう思った。ベリアスがラムザに殺された時点で、もはや手遅れだったのだろう。もはやハシュマリムただ一人が、この小僧――世間知らずの若造――に太刀打ちできるはずがなかった。だから、全てを投げ出し、捨て去るのは自分の方である、と彼は悟ったのだった。彼が敗北を認めた瞬間であった。当然、ラムザはその隙を見逃さなかった。すかさず、剣を構え、斬りかかってきた。しかし、ローファルの方がさすがに熟練の騎士であった。その剣を自らの剣で受け流すと、懐に抱えていたゲルモニーク聖典をすかさず取り出した。
 その幻の聖典は彼が苦労して見つけたものであった。長い間秘匿され続けてきたこの書物には死都への道を開く呪文が書かれている。彼はその禁断の言葉を唱えた。もはやこの地上に彼の生きる道はなく、生命の絶えた死せる都へと自ら進み入ることを望んだのであった。
「我は時の神ゾマーラと契約せし者、悠久の時を経て――」
 長い詠唱の間、ローファルの脳裏にあったのはただ一人であった。人として生きる道を棄てて久しい彼にとって、この世への未練は微塵も残っていなかった。それよりも、彼と同じ道を選びとった青年のことが気がかりだった。「何度でも殺せ」とまるで生きることに執着しなかったあの青年は、ローファルより早く死都に足を踏み入れていた。ローファルは彼の許へ行くつもりだった。
「待て! させるか!」
 ラムザがローファルの詠唱を遮るように叫んだ。
「異端者ラムザよ、私の邪魔をするでない――だが、望むのならば、貴様も地獄へ招待してやろう――」
 ローファルは構わず詠唱を続け、渾身の力をもって異界へと続く魔方陣を捻出した。

 

 

 廃墟の陰からに閃光が見えた。クレティアンは訝しんで光の在り処を振り返った。そこは、つい先刻、彼が魔方陣を展開した死都の入り口だった。何か建物でも崩れたか、程度にしか思わずに振り返ったクレティアンは、己が目の当たりにした光景に背筋を凍らせた。そこに一人の騎士が力尽きて斃れていたからだった。
「ローファル!」
 クレティアンは悲鳴を漏らすと今にも息絶えそうなローファルの傍に駆け寄ろうとした。しかし、それを邪魔する者の姿があった。ラムザが剣を持ったまま彼を睨み付けていた。
「そうか、おまえがローファルを殺したのか……ならば、仇を討たねば、彼に合わす顔がないな。異端者ラムザよ!」
 クレティアンはラムザの姿を見て、ここに至るまでに何が起きたのか、見当を付けた。そして、ラムザに向き直った。彼もまたローファルと同様、ラムザの実力を嫌々ながら認めていた。否、認めざるを得なかった。彼は何度も何度もラムザに叩きのめされてきた。幾度も斬られ、聖剣技の的にされ続けてきた。その度に死の淵から呼び戻してくれたのは他ならぬローファルであった。クレティアンはアジョラを追う一心で大して気にも留めなかったが、戦場で倒れ伏す度に律儀に助け起こしてくれたローファルの姿を思った。
 まっすぐと先を見据える力強い眼差しをクレティアンは感じた。死都に足を踏み入れ、歴史から身を引いた者であるにもかかわらず、ラムザの顔に迷いは見えなかった。その凜々しい表情を見てクレティアンはわずかに顔を翳らせた。クレティアンは思った。この青年は果たすべき使命を持っているのだ。私も彼と同じように使命を持っているのだが――
「私には、ほど遠い」
 だがここで身を引く訳にはいかない。ローファルに報いねばならない。クレティアンはラムザに魔法を撃ち込もうと構えた。だか、その時、身体に鈍い痛みを感じた。死角から弓を射られたのだと気付いた時には、もう彼女が近くに立っていた。
「私も仇を討たなければならないの。一人で果敢に戦い、そして孤独に死んでいったイズルードに報いなければ。ごめんあそばせ」
 剛弓を持ったままメリアドールは颯爽と言い放った。反撃することも出来ず、痛みに耐えきれずに身体を折って膝を付いたクレティアンにメリアドールはたたみかけるように言った。
「ふ、馬鹿なことをしたわね、クレティアン。恨むなら自分の神を呪うといいわ」
 とどめの一撃をさそうともせず、メリアドールはラムザを促して去って行った。
 クレティアンは痛む身体を引きずりながらローファルの元へ近づいた。
「――ローファル、ローファル」
 かすれた声で彼を呼び求めた。ローファルは倒れたままぴくりとも動こうとしない。
「おまえの仇をとれなかった。申し訳ない――」
 詫びるクレティアンに、ローファルがふっと呟き、小さく答えた。
「クレティアン、お前は馬鹿な奴だな。私があの小僧に敗れたとでも思うか? 私はそこまで脆弱ではない。私は、聖典で門を開くために力を使い果たしてしまったのだ。お前ほど魔法には長けていないからな……」
「そうか、そうだったのか。だが、どうしてこんなところまで来てしまったのだ。お前まで死都まで来る必要はなかっただろうに」
 最期にお前に会うために、とローファルが答えた時、クレティアンはローファルの身体を抱いて彼の血に汚れた顔を撫でていた。二人は寄り添いながら、誰もいない廃墟の闇の中で息絶えようとしていた。

 

 

「――見ろ、この血が役に立った。ヴォルマルフ様の望むものが我らの仲間の血で充たされるとは思っていなかったがな」
「そんなこと思ってもないだろ」
「私は……虚しい人生だったと認めたくない。せいぜい夢を見させてくれ。我らの為したことに意義があったと。そこに我々の生きた痕跡があったと」

 

 

 

あなたのぬくもりを

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あなたのぬくもりを

 

 

 

 

「その傷、どうしたんだ」
 クレティアンは彼の自室を訪ねてきたローファルの手元を見て言った。黒いローブの袖から見えるローファルの手首に大きな傷跡が残されていた。
「ああ、これか。ルーンブレイドの破片が飛んできたのだろう……気にしてもいなかった」
 剣や鎧が砕けて飛び散ることは剛剣使いにとって、あまりにも日常茶飯事な出来事だった。ローファルはクレティアンに言われて初めて自分が負傷していることに気づいた。
「化膿しているじゃないか。そこに座れ」
 クレティアンはローファルをベッドのそばへと引っ張ってくると、そこに座らせた。
「腕を貸せ」慣れた手つきでローファルの手首に包帯を巻いていった。
 そうだ、こいつは魔道士だった。怪我の手当をしてくれているのだな。
 ローファルは自分の手を取るクレティアンの手を間近で見つめた。普段、こんなにまじまじと見ることはない。ローファルは騎士団長と一緒に外へ出て行くし、クレティアンは館に残って机に向かっている。一緒に戦場に立つことなどなかった。
 ローファルがぼんやりと考え事にふけっていると、クレティアンは包帯の上からローファルの手にキスをした。唇が触れたその瞬間――ローファルの全身に熱い感覚が駆けめぐった。
「ほら、包帯を外してみろよ」
 キスじゃない、ただ魔法を使っただけだ――気づいたのはクレティアンにそう言われてからだった。
「おお……すごいな、傷跡がきれいになっている」
「俺を褒めるなよ。こんなのは下級の魔道士の仕事だ。俺の力を使えば聖石がなくても、おまえが死んでたら生き返らせてやる」
 クレティアンはつんとすましていった。「だがローファル、あまり怪我はしてくるなよ」
「生傷が絶えないのは剣を使う者の宿命だ、あきらめてくれ」
「そうか……」
 クレティアンは呟いてベッドに座るローファルの隣にどすんと腰掛けた。そのまま身体を倒してローファルの後ろにうつ伏せに寝そべった。ローファルは治療への感謝の意味を込めてクレティアンの頭に手をおいた。
「……私のことより、自分を大事にしろよ、クレティアン」
 気がつけば自分の手が剣を振るうちに切り傷であふれていたのとは対照的に、クレティアンの手は灼熱の魔法を使う時の反動なのか火傷の痕がずいぶんと残っていた。白魔法より黒魔法を使ってきた経験の方が長いと分かる熟練の魔道士の手だ。
「私は魔法が使えないからな……おまえが怪我をしても癒してやれない」
「早死には魔道士の宿命さ。おまえだって戦場で先に殺るのは魔道士だろ」
「ああ、そうだ。だが――」
 ローファルはクレティアンの頭を撫でた。「部下より先に指揮官が死んでしまっては話にならないではないか。おまえは士官学校で一体何を学んできた?」
 もしも、そのような時が訪れるとしたら自分より彼の方が先に死ぬだろう。そんな時は想像したくもないが、ローファルはそう感じていた。それが戦場の定める宿命なのかもしれないが。
「生き急ぐなよ。おまえが瀕死の状態で戦地から帰ってくるのは私の心が痛む」
「俺は別に……血が流れれば、その分だけ主も喜んでくださる」
「だとしても、だ。私より先に逝くなよ」
 ローファルはクレティアンの背中に顔を埋めた。こうしているとぬくもりが伝わってくる。今はその温かさをしばらく感じていたかった。

 

 

 

2018.8.20

君にならびて、共に

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 君にならびて、共に

 

 

 

 
 その一閃は空気をも切り裂いた。メリアドールに対峙した相手の剣の一薙ぎは彼女の武器と鎧を壊すのに充分であった。彼は剛剣の使い手だった。相手の装備を破壊する剛剣、剣技の一種であるが、それはかなり特殊なものであった。表向きは相手の武装を解除することにより、相手に降伏を促すという手法を用いる。相手の懐に直接斬り込む野蛮な剣技ではないと、剛剣の使い手たちは云った。彼らの多くは信仰をもった騎士たち、神殿騎士団に属していた。そうはいえども、実際は聖剣技に代表される他の剣技と何ら変わりはない、戦場で命を奪い合う騎士どもの使う危険極まりないものであった。砕かれた武器は持ち主の手に突き刺さり、叩き壊された鎧は服を破き、皮膚を傷付ける。
「すまなかった、メリアドール。大丈夫か?」
 声の主はディバインナイトの一人、いわばメリアドールの同僚だった。
「いいえ、模擬戦だからといってメンテナンスを怠った私悪いのよ。あなたに非はないわ。これが戦場だったらとっくに私は斬られてるわ」
 そういいながらも、彼女の身体は傷だらけだった。血にまみれた両の手で、必死に鎧の破片で傷ついた脚をかばっている。着ていた深緑のサーコートは裾が破れていた。そこに点々と深紅の染みができていた。大丈夫、大丈夫、そうはいっても彼女一人では立つことも難しいようだった。
「誰か、人を呼んでくれ! 怪我人がいる! はやく施療院に――」
 騎士が叫ぶと同時に、偶然そこを通り掛かったと見える長身の魔道士がメリアドールの側に寄った。年若い青年ながらも、彼が着ている服からは相応の位を持った魔道士であることが伺える。それもそのはず、彼はイヴァリースでソーサラーの称号を持つ数少ない魔道士の中の一人であった。魔道士らしく白のローブを緩やかに羽織り、精緻な刺繍が施された帯を腰に締めている。訓練場の石畳の上にカツカツと靴音を響かせながら歩いてくると、ローブの裾が汚れるのも構わずに、崩れるように座り込むメリアドールの隣りにしゃがんだ。
「何事だ?」
「訓練中の模擬戦の事故でして……」
 答える例の騎士に、そんな事を聞いているのではないと魔道士の青年が目で制す。
「私が彼女を施療院まで運ぼう」
「クレティアン? 私、一人で大丈夫よ?」
 やんわりと拒否したメリアドールを無視するとクレティアンはそのまま彼女を軽々と抱き上げた。ここを片付けておくように、と言い残すと急ぎ足で施療院へと向かった。

 

 
 何故こんな事態になったのだろうと、メリアドールは訝しんだ。騎士に傷は付き物。生傷は耐えず彼女の肌につきまとった。だが、ここまでの深手を負ったのは初めてだった。大丈夫、そうはいったものの、彼女の身体の傷は疼いていた。全身の力が抜け、自力で歩けない程であった。もしここが、一寸の間断なく弓矢の降り注ぐ戦場であったなら、自分のような者は真っ先に切り捨てられるのだろうとメリアドールはぼんやりと思った。だがここは死に物狂いの激戦が繰り広げられる戦場ではなく、静かで平和な島ミュロンドであり、傷ついた騎士も見捨てられることはなく、むしろ優しく抱かれていた。
「ね、降ろして、ってさっきから言ってるんだけど?」
「何か不満でも? ふ、素直になればいいものを……」
 クレティアンの腕の中でぶつぶつとメリアドールは不平をこぼしていた。施療院まで運ぶと自ら買って出た彼は、急ぎ足ながらもメリアドールをしっかりと抱いていた。一方メリアドールは自分で歩けない自覚はあり、満更でもない様子で大人しく抱かれているのであった。
「恥ずかしいのよ。もしこんな姿を誰かに見られたらと思うといても立ってもいられなくの」
「なるほど、私に抱きかかえられるのが恥ずかしいとは、それは嬉しいことを言ってくれる」
「違うわ! 誤解しないで頂戴。私はもう一人前の騎士になったのよ。あのディバインナイトにね。剛剣を使う身なのよ、それが、あろうことかその剛剣によってこんな怪我をするなんて……みっともないじゃないの」
 口こそ達者にクレティアンと言い合っていたが、実際は身体中がもう疲労の限界近くまで達していた。ほぼ無意識的に彼女は身体をクレティアンに預けていた。
「そんなに人に見られるのを気にしてるなら、ほら……」
 クレティアンはメリアドールの頭をそっと胸に近づけた。他人に彼女の顔が見えないように腕の裾で彼女を覆い、人目に配慮してくれたのである。
 メリアドールは顔が火照るのを感じた。身体も熱い。ぼうっとするのは怪我のせいだろうか。いやそれだけではない。その感情には薄々気付いていたが、あえて無視していた。クレティアンの胸に顔を埋めると、古びた書物の香りがうっすらとした。魔道書やら研究書やらに埋もれてるせいね、そうメリアドールは思った。実に魔道士らしい。幾重にも折り重なった歴史の放つ、莫々たる香り。それに比べて自分の何と汗臭いことか。今なお止まらず流れ続けている血でどれほど彼の白いローブを汚していることか。そんなことをぼんやりと頭の片隅で気にしていた。
 だがしかしそんなことを考える余裕もだんだんとなくなりつつあった。クレティアンがメリアドールの耳に一言、二言ささやき優しく抱き締めた。それが何だったのかも分からず、ゆっくりと眠りに落ちるようにメリアドールは意識を失った。

 

 
 気がつくとベットの上だった。どうやら自分は無事に施療院まで運び込まれたらしい。四肢を動かすのもだるく、ベッドの上で寝転んだままあたりを見回した。
「おや、お気づきになりましたか」
 声を掛けてきたのは、施療院の院長であった。初老を過ぎた白魔道士であり、その腕は確かなものであった。ここに運ばれてきた自分を看てくれたのも彼なのだろう。クレティアンの姿は見えなかった。もうどこかへ行ってしまったらしい。他の仕事で忙しいのだろう、とメリアドールは見当を付けた。
「なかなかに、深い傷でしたよ。まったくこれだから騎士というものは野蛮でならない…こんな美しい婦人に怪我を負わせるとはね。さあ、もう少し看てさしあげましょう」
 そう言うや否、メリアドールの黒のロングスカートをおもむろにめくりあげ、彼女の白い足をあらわにした。腿の傷を見ると、巻いた包帯の上からなでさすった。その慣れた手つきにメリアドールは思わず嫌悪感を覚えた。
「こういう機会でもないと、なかなか貴女のような方には近づきになれませんからね」
 悪寒が走った。この男は私をいやらしい目つきで見ている。涼しい笑顔の裏に獣の本性が見えるようだった。
「去りなさい」
 メリアドールは一喝した。
「え、何か……」
「私の側から離れなさい、そういったのよ。早く出て行ってちょうだい。あなたに用はないわ」
「ですが、貴女はまだ治療が必要な身、私が側にいないと」
「去りなさいッ!」
 その迫力に気圧されて、思わず男が身を引いた。メリアドールはベッドの上から一歩も動かなかったが、男を睨め付けた。男はしぶしぶといった風情で部屋を後にした。その後も何人かの魔道士が彼女の部屋の扉を叩いたが、メリアドールは一切を無視して寝ていた。少々機嫌が悪かった。

 

 
 トントンと、扉を叩く音で目が覚めた。誰だろうかと思いつつも、無言で返した。しばしの静寂のあと、今度はドンドン、といらだたしげに叩く音。メリアドールが寝たまま返事をしようか逡巡している間に、音の主は扉を蹴破るように入ってきた。
「姉さん! なんでオレを無視するんだ」
「あら、イズだったの。ごめんなさいね、気付かなかったのよ。またどうでもいい輩が群がってきたんじゃないかと思って」
「院長を追い出したんだって? 一体何をやらかしたんだよ…」
 イズルードはベッドの側まで寄ると、横になっている姉の頬にキスをした。メリアド-ルも弟の挨拶にいつものように口づけで応えた。
「だってあの男は、私をまるで……」
 そこまで答えて言いよどんだ姉の姿をイズルードは見た。髪こそスカーフで覆っているものの、うっすらと汗の光る首筋、シーツの上に絡まるスカートの裾からのぞく、形の整った白い脚。それに年相応の色気が上乗せされて、何とも言えない趣を醸し出している。身内の贔屓目を除いても、姉は美しかった。
「ま、院長の気持ちも分からなくはないが……。姉さんは綺麗なんだから」
「あなたまでそんなことを言うのね。私は女でる前に騎士よ、騎士として見て欲しいの。なのに…」
「勿論、姉さんのことは騎士として尊敬してるよ。だってオレ、剣だったら姉さんには敵わないし。で、傷の方はどうなのさ。結構心配してるんだけど」
 オレと違って姉さんは女なんだからあんまり傷が残るかどうか心配で、そう言おうとしたがまた機嫌を損ねそうだったので言わないことにした。
「そうね、さっきまで寝ていたから痛みは大分引いたけど、そろそろ包帯を替えたいのよ。ちょっと替えの包帯を取ってきてくれないかしら。それにお湯とポーションと……あと何か役に立ちそうなものがあればそれも頼むわ。よろしくね、イズ」
「役に立つものね……」

 

 
 わずかな睡眠からメリアドールが目を覚ますと、身体の痛みにうずいた。だが半分夢うつつで、ベッドの上に身体をあずけてまどろんでいた。イズルードを使いに出してからどれくらいが経っただろうかと、彼女が訝しんだその時、扉を叩く音が聞こえた。誰かが来たのだった。「入ってもいいかな」と尋ねる声。イズルードではなかった。あの院長でもなかった。そのまま深く考えずに返事をした。
「メリー、具合は?」
 薄暗がりの部屋に透き通った声が低く響いた。クレティアンだった。予想外の人物にメリアド-ルは飛び上がらんばかりに驚いた。実際にベッドの上に跳ね起きた。
「あぁっ…」
 起きた衝撃の痛みに耐えかねて声を漏らすと、クレティアンが心配そうな顔をした。
 狭い石造りの部屋の中、クレティアンがさっと身を翻してメリアドールの側へ近寄った。丁寧に、ベッドに腰掛けてもいいかと聞いてきたので、もちろん、メリアドールは承知した。ミュロンドの騎士達の中で、彼は珍しくそういった細やかな騎士道精神を持ち合わせた人であった。大方は、彼が学生時代を送ったアカデミーで仕込まれたものだろうとメリアドールは見当を付けている。ガリランドのアカデミーは貴族御用達の場所だと聞いている。そういった身分の人々と接する機会も多かったのだろう。
「ところで、どうしてあなたが……? 私はイズルードに、包帯と、役に立つものと――」
「私なら随分と役に立つだろうな」
 嫌みをこめつつも涼やかな顔で笑うと、クレティアンはさっそくメリアドールを看た。失礼、そう言ってそっとメリアドールの掛け布団をどかすと、服の上から傷を触って確認していった。メリアドールもおとなしく、従順にされるがままになっていた。不思議と嫌な気持ちは起こらなかった。クレティアンが包帯を替え、メリアドールには聞こえない声で何か、おそらくは呪文の類、を呟くのを何とはなしに聞いていた。薄暗がりの部屋の中、その表情はよくわからなかった。ただ静かな、穏やかな時が流れていった。

 

 
「あなたの魔法の腕はたいしたものね」
 彼女の傷口はすっかりふさがっていた。まだ完治には相当の時間を有するだろう、そうつぶやいたクレティアンにメリアドールはこう言い返したのであった。
「魔法ってすごいわね。あんなひどい怪我だったのに、もうどこが傷口なのか分からないわ」
「見た目はね。魔法だった万能じゃないんだよ。外見だけは元通りに治せるけど、実際は身体の回復は追いついていないんだから、安静にするように」
「だけど、手練れの魔道士は魂をも引き戻せるって……」
「それは魔法の賜物というよりは、神の奇跡と言うべきだな」
「そうね、信仰心のなせる業ね」
 イヴァリースにおいては、魔法の使い手たちの多くは聖職者であった。信仰が魔法を生み出すのだと、信じられていた。それがイヴァリースの掟であった。
 魔法、それは傷を癒し怪我を治すもの。だが、本質的に癒しを与えるのは魔法の力ではない、その魔法の使い手の信じる力、癒しを与えることが出来ると、目に見えぬその存在を信じること、その信仰だった。
 メリアドールが運び込まれたこの施療院はミュロンド寺院の敷地に建てられた施設であったが、多くの神殿騎士団員たち――その大半は魔道士であったが――がここで奉仕していた。もともとは貴族や高貴な身分の者のための私的な、小さな礼拝堂として建立されたのだが、過去の黒死病の大流行に加え、一向に収まる気配のない戦乱により傷ついた民のための、安息と治療の場として施療院として使われるようになった。ここで奉仕する者の多くは篤い信仰を持った者達、すなわち手練れの魔道士らであった。だが信仰に生きる者全てが高い徳を持っているという訳ではなかった。
「私をここへ運んできたのはあなたでしょう、クレティアン?」
 メリアドールはベッドの上、顔をうつむけながら小声でありがとう、と呟いた。クレティアンはそれには何も答えず微笑んだだけだった。
「でもどうして、わざわざここを選んだの? 下の階に放って置いてくれてもよかったのに」
 この施療院は二階建てであり、一階を民衆に解放し、上階は、本来の目的である礼拝堂として使われている。メリアドールの運ばれた部屋は、小さく、明かり採り用に上部に申し訳程度に窓があるだけの質素な部屋であった。ベッドに、書き物ようの小型の机。それに人が二人も入ればもう満室となるであろう狭い部屋であったが、壁に掛けられた宗教画、机の上のガラス製のインク壷に飾りペン、ベッドの上の清潔なシーツを見ればここが貴人のために用意された場所であるのが分かった。
「下の階に? あそこはうるさいだろう。ここの方が落ち着いて安静に寝ていられる。それにこの部屋の隣は礼拝堂になっている、祭壇に少しでも近い方が怪我にも効くだろうと思って……」
「ああ、そんなこと、そんなことにも気を配ってくれたなんて、あなたは気の付く人ね。本当に」
「この部屋は貴人らが宿泊した際に、個人的な祈りを捧げる場所か、告解に使うと聞いた。普段はここの院長が使用しているそうだが」
 メリアドールは先程の院長とのやりとりを思い出し、きまりが悪くなった。部屋の隅に置かれた跪拝台を見やった。ここにひざますくべき人物は、まずあの院長だろう。
「罪深き子よ――」

 

 
「――罪深き子よ」
 メリアドールの独り言に近いその言葉を聞いて、反射的にクレティアンは跪拝台の上に膝を落とした。腕を組み、膝を折りこうべを垂れた。礼拝の時に常にそうするように、従順の祈りの形を取った。それに慌てたのはメリアドールだった。
「あら、違うのよ、さっきの独り言はあなたに言ったわけじゃないの」
 取り繕うメリアドールの言葉を、クレティアンは跪拝台に身をもたせたまま聞いていた。両手を台の上で組んだまま頭をあげ、彼女の方へ視線を向けた。
「そう? てっきり、何か怒っているのかと……。ここへ運んでくる時も機嫌悪そうだったからね」
「そ、それは……」
「そんなことより、さっきは院長を追い払ったのは、男と二人きりになりたくなかったのだろう? いいいのか、妙齢のご婦人がこんな男と一緒にいて気に障らないのかい?」
 彼は、多少の嫌みを含んでメリアドールに質問を投げかけた。
「あら、だってあなたはそんなことに興味がないもの」
「それはどういう……?」
「女たちが身を飾り、服を彩り、男たちそんな彼女らの気をひこうと武勲をあげて、そうやって忙しくやりとりしている、そんな俗世のしきたりにはあなたは関心がないでしょう。あなたはもっと、清らかな、信仰の世界を生きる人だわ。だから……」
「ふ、失敬な。私だって人を愛することは出来る。お望みなら――」
 クレティアンは、膝を立て、メリアドールのベッドへ近づこうとした。それを彼女はほほえんで制した。
「あら、だめよ。その愛は私にはもったいないわ。神に捧げるべきものよ」
「ならば、望みのままに。君の回復を祈っておこう」
 クレティアンはそのまま壁へと顔をうつむけ、跪拝台の上、祈りの姿勢を取った。そのまま無言の時が流れた。静謐な時間だった。メリアドールはベッドの上、微動だにせずにそんな彼を見守っていた。床にこぼれるように広がった白いローブの裾、台の上に組まれた綺麗な両手、瞑想に入る穏やかな端正な、横顔。彼の周りの全てのものが美しく調和していた。
 彼は私のために祈ってくれているのだ。メリアドールは思った。それだけで幸せだった。
 自分に近づいてくる男はたくさんいる。団長の娘という立場上、他の騎士たちから注目されることも多い。目立つということは良いことばかりではない。虎視眈々と出世の道を探るものはたくさんいる。そういった人々の中で暮らすのはなかなかに気を遣うことである。他人のために無償で祈りを捧げてくれるような人は希有であった。たとえ信仰を合わせ持った神殿騎士団といえど、中で暮らすのは世俗の人間なのである。
 彼だけは周りの人たちとは一線を画していた。もともとアカデミー出身のエリート意識があるのか、プライドが高いだけなのか、人に媚びへつらうということを一切しない人だった。団長、すなわち彼女の父親に取り入り、高い役職を望む騎士たちを彼女は多く知っていた。いい年をした勇壮な騎士たちが愛想を振りまきながら彼女に近づいてくる。彼は、クレティアンは違った。
 黙々と祈りを捧げるクレティアンの側へ、メリアドールは近づこうと、ベッドから起き上がった。それを気配で察したクレティアンは、まだ安静に、と彼女に言った。
「もう平気よ。それに、あなたの祈りの邪魔をするつもりはないのよ。私も一緒に祈ろうと思って。あなたの隣に座ってもいいかしら」
 彼ほどの学位を持ち得るならば、高位の僧侶となり教会の指導者たることも出来得たはずである。その道を潔く棄てて騎士団へと入ってくるほどの男である。その姿は清々しかった。どういう志を抱いてこの道を選んだのだろう、とメリアドールは常々思っていた。彼の口からその理由が語られることはなかった。信仰に厚い分、世俗の関心事には興味がないのかもしれない……。
 だから、せめて、隣に立って時間を共有したかった。少しでも長く、たくさん、一緒にいたかった。

 

 
 お互いの祈りが済むと、クレティアンは、床に座り込んだままのメリアドールの手を取ると、甲にそっと口づけをした。
「おやすみ」
 それだけ言うと長い白のローブをはためかせながら彼は部屋を去った。
 手のひらにまだ残る彼のぬくもりを撫でながら、嬉しそうにメリアドールもつぶやいた。
「おやすみなさい」