ネバー・フォーエバー

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ネバー・フォーエバー


     

  

 

 自惚れていたわけじゃない。ただ事実として自分こそがこの世界の中心に立つ人間だと思っていた。それ相応の努力もした、生まれながらの才能だってあった。貴族の地位もあった。そして教会のミュロンド派の騎士になり、教皇に仕える身となった。
 誰もがうらやむような人生だったと自負していた。清貧の騎士として何も望むものはなかったが、大方のものは手に入った――ただ一人、あの女性をのぞいては。
 彼女の名前はメリアドール。私の上司の娘で、教会の中でも聖石を持つゾディアックブレイブという最上位の地位を持つ。私が……唯一頭が上がらない女性だった。それは彼女が地位を持っていたからという理由ではない、彼女はとんでもなく気が強く、私の話す言葉全てに反論してきた。むろん、私も反論した。だが、最終的には、決まって彼女はこう言うのだった。
「クレティアン? それが何?」
 そして涼しい顔で去っていく。
 彼女はいつだって私の前を歩いていた。その背中に追いつこうと必死で、気がつけば――

  

 

「とうとう、私の手の届かない場所に行ってしまったな」
 私は間違っていた。己が世界の中心にいたなど、なんと愚かなことを考えていたのだろうかと。
 彼女こそがこの世界のヒロインだったのだ。

  

 

 聖石を持っていたのは、親の七光でもない、彼女が真に道を切り拓くしなやかさと力強さを持っていたからだ。
 私のかつて抱いていた理想は彼女がやがて為すであろう。できることならば、共に、背中を追い続けていきたかったが、もはや我が身は死せる都のはるか奥に。
「物語のヒロインはなべて聖杯を手に凱旋し、世に平安をもたらすものだ。――マイ・レディ・メリアドール、汝の行く末にとこしえの光あらんことを」
 全てを捨てた私にできることは、ただ祈ることだけだ。
 でも、心の底から、そうであれと願っているよ――――

  

2021.06.20
iva*fesオンライン ワンドロ企画:テーマ「ヒロイン」

 

  

 

忘れじの

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忘れじの


     

  

 
 からん、と音がして小さなクリスタルが床に転がった。神殿騎士団団執務室の机に座っていたメリアドールは、あら、と転がる石を目で追った。「団長!」と若い神殿騎士が慌ててそのクリスタルを拾いあげた。
「メリアドール様! 聖石が!」
「あら、そんなに慌てなくても大丈夫よ。それは聖石ではありませんもの」
「そうですか……でしたら、これは……?」
 若い神殿騎士は、団長メリアドールに差し出したクリスタルをまじまじと眺めた。言われてみれば、聖石に特有の黄道十二宮の紋は刻まれていない。しかし、透き通る水晶はやはりクリスタルそのものだった。
「昔の知り合いのクリスタルよ」
「と、いうことは……」
 イヴァリースにはこんな伝承がある。記憶は石に継がれる――つまり、クリスタルには死者の魂が宿るという言い伝えられている。
「失礼いたしました」
 若い神殿騎士はそのクリスタルをメリアドールに丁重に差し出した。名も知らぬ故人への哀悼を示すかのように。
「いいのよ、そんなに丁寧に扱わなくても。なんなら、床にたたきつけて割ってもいいわよ……」
「ご冗談を、このクリスタルはたしかに傷だらけですが、割れることなく大切に扱われているのは一目瞭然。昔のご同胞とお伺いしましたが、その方にお悔やみ申しあげます。今も、こうしてメリアドール様に大切に想われていて、さぞ光栄なことでしょう」
「やめてちょうだい、そんなこと」
 メリアドールはクリスタルを受け取った。小さな石。小さな記憶の塊。死者の魂の、小さな思い出。

  

 
 ――そんな大切な人ではないのよ。だって、クレティアン、あなたは教皇を殺した大罪人なのだから……
 ――そんなクリスタルを今も忘れず持っている私も私だけれど。

  

 
 部下に言った通り、最初は床に投げつけて割るつもりだった。でも、どうしてもできなかった。それから、捨てる機会を待ちつつ、待ちつつ、月日が流れた。

  

 
 ――あなたは、私のことを、このミュロンドのことをどう思っていたのかしら。本当に、思い切って、いっそ割ってみようかしら。そうしたら、石に託したあなたの記憶が蘇るかもしれない。
 ――でも、きっとそんなことはできないわね……どうしてかしらね……

  

 
 メリアドールは机の上に静かに転がる物言わぬ石を眺めた。言葉にできないこと、言葉にできなかったこと。言葉にしたくなかったこと。数多の想いがこの石には宿っているのだろう。
 石があるかぎり、魂はそこにある。メリアドールはそんな気がしてならない。語らずとも、そこにあればいい。それだけで十分だ。それ以上のことはのぞまない。
 あなたの魂は暗い地下の底ではなく、今もここに、私と共に、教会と共にある。それだけで、満足なのだから。

  

  

2021.06.20
iva*fesオンライン ワンドロ企画:テーマ「クリスタル」

  

 
  

La Pourriture Noble

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La Pourriture Noble


     

  

 

 二人の男女がテーブルを囲んでディナーをとっている。時もたけなわ、食事が終わり、テーブルの上には最後のデザートワインが置かれた。これで終わりだ。これが最後なのだ。このワインを飲み、二人は別れる。

  

 

「メリアドール、私たちの関係はまさにこのワインのようだったと思わないか?」
 テーブルの上に置かれたのは、透き通る蜂蜜色の、特別に甘い、高価な貴腐ワインだ。
「あなたが、そう言うなら」
 二人の男女――クレティアンとメリアドールは静かにワインを飲み交わした。
 どちらが言うわけでもなく、二人は特別な関係になった。そして、二人は別れ、別々の場所に去っていく。
「なぜこのワインがこんなに甘美な香りを持っているか知っているか?」
「さあ。そういう知識に詳しいのはあなたの方でしょう、クレティアン?」
「このワインに使う葡萄は極限まで糖度を高めている――ある種の菌を使って疑似的に腐らせているんだ。そうすることで水分を蒸発させ、果汁を糖化させる。みためは醜い、腐敗した葡萄だ。だが、その成熟しきった甘さゆえに、その腐敗はPourriture Noble<貴腐>と呼ばれる」
「あなたの言うとおりね。腐敗しきって…………それでもそこには成熟した甘い愛があった、それは<貴腐>だったと言いたいのね」
 メリアドールは怒るでもなく呆れるでもなく笑うでもなく淡々と答えた。
「クレティアン、私はミュロンドを出る。いつかあなたに剣を向ける時がくると思う。でも、あなたが、私たちの関係をそう言うのならば、私もそう思うことにする。だって異論はないもの。過ぎた日々を憎しむのは好きじゃないわ。あの日々を貴い腐敗というなんて、あなたは最後まで粋な人ね。そういうところが、好きだったわ。でも愛は成熟しきった。文字通り腐り果ててしまったのよ。さあ、別れましょう、このワインと共に」

  

 

 そうして、二人は別々の道へと帰って行った。その後、二人は恋人として顔を合わせることは二度となかった。

  

 

  

2021.06.20
iva*fesオンライン ワンドロ企画:テーマ「ワイン」

  

 

Klondike Cooler

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Klondike Cooler

     

  

 

 夢を見ていたんだ。空を飛ぶ鳥のように、誰にも支配されることのない自由な世界をこの目で見たかったんだ。

  

 
「ボスッ! 教会の騎士になるって噂は本当かよ! 気でも狂っちまったのかよ!」
 ゴーグの裏路地、人通りのない街角で、機工士風のいでたちをした黒髪の男性に若い青年ジェイミーが声を荒げた。
「ああ、その通りさ。どう噂されてるかは知らんが」
 糞が、とジェイミーが怒声を吐いて壁を蹴った。
「嘘だろッ! 俺たちのボスであるアンタが教会の騎士になるってことがどういう意味かは分かるだろ! 俺たちは誰の支配も受けない、誰に支配されることのない世界を作るんだ――いつもそう言っていたじゃないか! だから俺たちはアンタに付いていくって決めたんだ。自由な世界を作るために……ッ」
「ジェイ、落ち着け。よくよく考えてみろ。ミュロンドは治外法権だ。あそこは貴族も王も手を出せない。つまり、俺たちの首を狙う、うるせえ雑魚どもは手も足もでねえってことだ。雑魚払いが楽になったってことだ」
 ジェイミーは全く腑に落ちない、という顔をしていた。
「だけど、教会の騎士になるってことは、教皇に仕えるってことだ。俺たちの理念に反するじゃないか」
「建前上は、な」
 ボスと呼ばれた機工士――バルクは服の塵払いをしながら片手でジェイミーをあしらった。
「――利用され、利用する関係を築くってことだ。奴らは俺の貴族殺しの腕を買った。教会にも始末したい奴らがいるんだろう。で、その代わりに俺に教会の領土で自由に暮らせる権利を与えてくれるという算段だ。教会の奴は俺に契約の証にと、この石を見せた。これがなんだかわかるか?」
 バルクはジェイミーに小さな石を放り投げた。
「クリスタル……?」
「ああ、教会の奴らは聖石なんて呼んだりしてるらしい。数千年の死者の魂を宿している叡智の石だとか、奇跡を起こして死者を生き返らせるクリスタルとか、そんな力が宿ってるなんて言ってるぜ」
「正気か? こんな石っころにそんな力があるわけないだろ。まさかそんな石のために、俺たちの機工士の誇りを捨てて教会の犬になるって言うんじゃないだろ……?」
「俺だって信じてないさ」
 二人の男性は――この街に住むものは誰もが――機工士の誇りを持って生きていた。教会が説く奇跡よりもよっぽど理知的で、論理的で、現実的な技術を使って生きている。
「ただのクソつまらない契約や勧誘ならすぐさまそいつの頭を撃ち抜いて帰ってきたぜ。だが、奴らはちょいと興味深い話をしたのさ」
 バルクは足で地面をコツコツとつついた。
「ジェイ、この下に古代の遺物が埋まってるのは知っているだろう?」
「あ、ああ……」
 ジェイミーはゴーグのスラムで生まれ育った青年だった。養ってくれる親もなく、生きる道は自分で探さなければならなかった。だが、幸運なことに、ゴーグの地下には、はるか昔に滅んだと言われる文明の欠片が埋まっていた。坑道に潜り、何かしらの機械の部品や、屑鉄まがいのものを拾うだけでもその日の食事くらいにはありつけた――決して楽な仕事ではなかったが。
「そう、かつてこの世界では空を飛ぶ船があったという。俺たち機工士はその飛空艇を蘇らせ、いつか自分の手で空を飛びたいと願っている。だが、現実はそう簡単ではない。ジェイ、このあいだ東四区画の五番坑道が崩落したのは聞いているか?」
「らしいな。奥にいた奴らは全員生き埋めだろうな。可哀そうに」
「こんな仕事、もう嫌だと思うか? 地べたに這いつくばり、生死と隣り合わせで、どこにあるのかも分からない古代の夢を掘りにいく生活はもう勘弁か?」
「そんなことは断じてない! 俺だって機工士だ! いつかこの手で飛空艇をよみがえらせ、空を飛んでみせるんだ」
 バルクはにやりと笑った。そうそう、それでこそ機工士だ、と。
「それと同じさ。俺も一攫千金の夢を見てみたいのさ」
「は……?」
「教会の奴らが言うには、この地下には飛空艇が空を飛んでいた頃の古代の都の遺構が眠っているらしい。それも、ゴーグで拾えるちっぽけな欠片のレベルじゃない、もしかしたら生き動いている機械そのものがあるかもって話だ。ま、やつらの狙いは機械ではないらしいがな」
「まさか……そんな話、信じられるわけない……しょせん、夢物語だ……」
「……だが、夢を見てみたいと思わないか? 俺はこの街で生まれ、この街で育った。だからゴミ溜めみたいなスラムで育ったお前らみたいなガキらのことはよく知ってるんだよ。坑道に今日の飯代を稼ぎにいったまま、地下に埋まって還らなかった奴らもな」
 バルクは教会から契約の証にもらったという小さなクリスタルを地面に叩きつけた。
「教会の犬どもは、こんな石を死者の魂が宿るクリスタルだと有難がっているが、俺は死んだ奴らに興味はない。俺はただ夢を見ているんだ。そしてガキどもに見せてやりたいんだよ。かつてこの世界には鳥のように空を飛ぶ船があった。その船に乗せて、自由に空を駆けさせてやりたいんだ」
「ボス……」
「お前だって誰の支配も受けずに自由に空を飛んでみたいと思ってるだろう? 同じことさ」
 ジェイミーはうなずいた。
「ボス、俺もついていく。アンタと同じ夢を見てみたい。そしてこの街の子供らが、空を飛ぶ鳥のように、誰にも支配されることのない自由な世界で生きていく様を見てみたい」
「翼を掴んで生きて帰ってくるか、地下で無様に死ぬか、これは賭けだ。覚悟があるならついてこい。死地まで連れてってやるぜ。そして翼を掴もうぜ」

  

 

 そうして、二人の男は、翼を求めてゴーグから姿を消した。

  

 

2021.06.16

  

 

Affinity

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Affinity

     

  

 

 ある日、父がひとりの少女を連れてきた。名前はバルマウフラ。無表情で、何も喋らず、年齢よりもずっと大人びていた。メリアドールは気になった。どうして彼女は笑わないのか、どうして彼女は誰とも喋らず、誰とも混じろうとせず、いつも一人でいるのか。
 だから、ある日、メリアドールは彼女に声を掛けた。
「お友達になりましょう?」
 彼女は笑ってくれると思った。友達はたくさんいれば嬉しいはず。だって、私もそうだから。
「どうして…? あなたは、あのヴォルマルフの子供で、聖石を持ったゾディアックブレイブで、私と関係を築く利益は何もないはず」
「えっ、友達になるのに理由がいるの……?」
「……そうね、あなたがそう望むのなら、『お友達』になりましょう」
 彼女はそっと微笑んだ。メリアドールが思っていたより、ずっとささやかな笑顔だったけれども。

  

 

 それから、時々、バルマウフラはメリアドールのところへやってくるようになった。一緒に本を読んだり。魔法のことを教えてもらったり。厨房で一緒に料理を手伝ったり。薬草畑の手入れをしたり。
 二人はたくさんのことを話した。そして笑った。でも、バルマウフラは決して自分のことを語ろうとしなかった。そして、バルマウフラは時々、ふらりと姿を消した。メリアドールが「どこに行っていたの?」と聞くと、彼女はただ「仕事」とだけ答えた。
 メリアドールはバルマウフラの『仕事』のことを詳しく知らなかったけれど、彼女が自分に話しかけてくれて、一緒に過ごせることが幸せだった。

  

 

「私と『友達』になってくれてありがとう、メリアドール。私はずっと忌み子だった。誰も私に近寄ろうとしなかった。皆、私に恐怖と侮蔑の目を向けた。親愛な目で見てくれたのはあなただけだった」
 私が笑えば、あなたも幸せそうに笑う。
 あなたが笑えば、私も幸せ。

  

 

「――父の非礼を詫びる。ラムザ、信頼の証としてこの聖石を貴公に託す。私も貴公に同行したい」
 幸せだった日々は長くは続かなかった。メリアドールは真実を知ってしまった。父・ヴォルマルフが多くの人を殺めていたことを――その中にバルマウフラの母親も含まれていたことを――知ってしまった。
 もう自分は教会の人間としては生きられない。そうして、メリアドールは教会の不正に対抗するために活動を続けるラムザ一行と行動を共にすると決意した。
「メリアドールさん、本当にいいのですか? 僕とともに行くということは、あなたのかつての仲間と戦うことになる。それは――」
「仲間ではない。私は裏切られた。剣を向ける覚悟はできている」
 その言葉に偽りはなかった。ただ一つ、心残りがあるとすれば――

  

 

 ――バルマウフラ、あなたはどうして私と『友達』になってくれたの?
 ――私の父があなたの母を殺したと知っていたのに、なのに、どうして私に笑いかけてくれたの?
 ――本当は、ヴォルマルフの娘である私のことなんか、憎くて、憎くて、殺したかったのではないの?
 ――あの笑顔は、一緒に過ごしたあの日々は、偽りのものだったの……?

  

 

「メリアドールさん、何か気がかりなことでも……?」
「いや、何でもない。ラムザよ、私は不正を働いた教会に正義の剣を振り下ろす。だが、一つ気がかりなことがあるとすれば……教会に『友』と呼び合う者がいた。だが、私が教会に裏切られたように、私もかの者に知らずのうちに裏切りをしていたことを知ったのだ。この動乱の中で消息は途絶えてしまったが……その者のために許しをこい願う時間をしばしもらいたい」

  

 

 ――親愛なる友よ、まだ友と呼んでくれるならば……汝の行く道に光あらんことを――

  

 

2021.06.09

  

 

MIMOSA

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MIMOSA

     

  

     

 彼女はいつも誰かの人生を歩かされていた。孤独て、惨めで、虚しい人生だった。彼女はいつか自分だけの人生を歩くことを夢見ていた。そのためなら、どんな悲惨な毎日だって耐えて、生き抜いてやるのだと自分に言い聞かせていた。
 彼女は、人里離れた森の魔女の子として育った。そのまま母親と同じように、森の中で静かに人生を送るのだと思っていた。でも、ある日、教会の騎士がやってきて母親を焼き殺した。そして、おまえは異端の子だと罵られ、そのまま教会の騎士に捕らえられた。自分も母親と同じように殺されるのだと思った。だが、教会は彼女を殺さなかった。彼女が――殺すにはあまりにも幼い少女だったから――ではない。ただ、魔女の子が持つ魔力を利用したかったからだ。彼女はいつしか教会の企みに気づいた。

     

  

 ――あいつらは、はじめから、私の魔力が欲しかったんだ。
 ――だからお母さんを殺して、私を駒にするために育てたんだ。

     

  

 彼女は、教会のいいなりだった。母が遺した魔力を、汚いことにも使った。悔しくて、惨めで、涙を流しながら誰かの命を奪った。そうしろと教会が命令したから。逆らえば母親と同じように焼き殺される。彼女は自分が死ぬことは恐れていなかった。ただ、母と自分を身勝手な駒として扱う教会に復讐するための機会をうかがっていた。いつか牙を向く日がくると信じて、涙を飲んで過ごした。

     

  

 だから、『その日』が来た時、彼女はどうしていいのか分からなかった。
 目の前にいるのは、自分が監視をする対象人物――ディリータ・ハイラル。彼は彼女に刃を向けている。
「俺はここでおまえを殺した――歴史ではそう書かれることになる」
「私に……ここから逃げろというの?」
 そうだ、と彼は答えた。そして、ポツリと言葉をこぼした。「おまえは俺と一緒だ。駒として、誰かの手のひらの上で踊らされている。それに気づいてないだけだ」
「違うわ! 私は自分が駒として扱われていることを知っている! でも、そうしなければ生きられない! 私は教会に復讐がしたいのよ、そのためなら駒にだってなる。どんな道だって耐えると自分に誓ったのよ」
「ふ……所詮、『駒』の考えることだ。惨めだと思わないか?」
 まるで自分を見ているようだ、だから俺は耐えられないんだ、と彼は付け足した。そして、彼女を放り出した――そして彼女は自由を得た。誰にも命令されない。誰からも監視されない。何をするのも彼女が自分で選べる。なのに、彼女は戸惑っていた。自分でも何をしていいのか分からなかったから。自分が『駒』に成り果てていたのだと気づき、みたび涙を流した。

     

  

「僕と一緒に来てくれないか? 正直、僕は困っている。脱獄の途中なんだ。だから手伝って欲しいんだ、頼むよ」
「誰……?」
せっかく、彼女が自分の人生を探そうと決めた、まさにその瞬間に彼――後に彼女の夫となる男――に手を持って行かれた。なかば強引に。彼女の返答なんて聞かずに。
「嫌よ、わ、私は自由に生きるって決めたのよ、見ず知らずのあなたなんかに……ッ」
「そこをなんとか、頼むよ。城の通路に詳しい人を探していたんだ――それに、君は僕と一緒にいる運命だって星が言っている」
 そんなことを言われても、と彼女は困惑した。でも、彼は彼女の手を掴んで、握って、離さず、二人は城から逃げ出していった。

     

  

 そのままずっと、この手を握ってくれるのだと彼女は思っていた。
 なのに――

     

 

「おかあさん、きれいなお花が咲いているよ。お空のお星様みたいな黄色いお花だね」
「そうね……これはミモザというお花よ。あなたがもう少し大きくなったら枝に手が届くかもね」
 そう言って彼女は、子どもをあやした。
「あなたのお父さんも空のお星様を見るのが好きだったのよ」
 彼女はそっと背伸びをして天の河のごとく咲き乱れる黄色の花をそっと手折った。そして空にかざした。星々がきらめいているようだ。

     

 

 ――無責任にもほどがあるわよ。全部、私に押しつけて先にいってしまうんだから。
 ――そうね、初めて出会った時からあなたはとてもせっかちだった。だから流星のごとく先にいってしまったのね。

     

 

 彼女は、結局、自分だけの人生を歩むことはなかった。誰かのために生きるなんてまっぴらだと思っていたのに。自分だけの人生が欲しかったのに。今、彼女の手には彼の忘れ形見の小さな子がしがみついている。

     

 

 ――オーラン、あなたが命を託してくれたから。だから、私もあなたのために生きようかなと思えたの。

     

 

 彼女は我が子を抱きかかえて家に帰り、手土産にと手折った黄色の花を一つ、窓辺に置いていた杯の上に散らした。もう、共に杯を交わしてくれる人はいないけれど、彼女は満足そうな顔をしていた。誰かのために生きることも、案外、幸せなことなのね、と呟きながら。

     

 

2021.06.07

  

     

花嫁の決断:Epilogue

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*epilogue

     

  

     

  

 その記念すべき日をイゾルデはオーボンヌ修道院の礼拝堂で迎えた。小さな礼拝堂の前で、イゾルデは夫を待っていた。
「私たちの結婚式のためにこの礼拝堂をお貸しくださってありがとうございます、ファーザー・シモン」
「いえいえ、王家の頼みごととあらば、私たちは協力を惜しみません。この修道院は幾世紀にも渡ってイヴァリースの王家を支えてきたのですから」
 イゾルデと一緒に礼拝堂の外で花婿を待っていた初老のオーボンヌ修道院院長はイゾルデに向かってほほえんだ。「アンセルム殿下から伺ったお話では、なんでも、お忍びで結婚式を執り行いたいとのことでしたが……」
「はい、その通りです。私たちは静かに神の前で愛の誓いを立てたいのです」
 イゾルデは、きっぱりと言った。豪勢な結婚式にはもうこりごりだった。アンセルム王子は、できれば誰の目にも止まらずひっそりと挙式をしたいというイゾルデの願いを叶えてくれた。王都から遠く離れた辺境の修道院ならば人目を気にすることもないだろうと、オーボンヌ修道院院長に頼んでくれたのだ。イゾルデとヴォルマルフの結婚式が挙げられるようにと。
「私どもはただ神の前でなすべきことをするのみ。あなたがたの事情は聞きません。ですが、どうかご安心ください。こんな辺境の寂しい地ですが、この修道院は代々の王家のみなさまをお守りしてきた場所です。ここで挙式をするのは王家の品格を受け継ぐことと同じです」
「まあ……夫が喜びますわ。私の夫は王家に仕える騎士ですの。実は、この結婚の仲立ちをしてくださったのもアンセルム殿下なのです……このことは誰にも内緒ですけれど」
「では、あなたがたご夫妻のもとには、神のご加護とともに王子様の祝福があるのですね。それならば、あなたがたの仲は何人たりとも裂けないでしょう――とこしえの幸福を」
 修道院院長は目を細めた。笑うと目のそばに細い皺が集まる。幸福を祈る修道士の顔だ。
「しかし、あなたの夫はまだ来ないのですか。花嫁より支度に時間が掛かる花婿とは……いったい何をしているのですか」
「私の夫は恥ずかしがり屋なんです。ファーザー・シモン、少しの間だけ待っていただけないでしょうか。すぐに夫を探してきますから」
「どうぞごゆっくり。私は構いませんよ。とはいえ神に誓いを立てる前に二人で性急に世俗の契りを結ばないように――まあ、あなたの物静かな婿殿ならそんな心配はないと思いますが……」
 修道院院長は扉を開けて礼拝堂の中に入っていった。院長の姿を見届けるとイゾルデはくるりと後ろを向いた。
「ヴォルマルフ。近くにいるのでしょう? 隠れてないで早くこちらへいらして」腰に手を当てた。「ファーザー・シモンがお待ちよ」
「レディ・イゾルデ……私は本当に幻を見ているかのようです」
 ヴォルマルフは建物のかげからそっと姿を見せた。結婚式を前に怖じ気づいているのだろうか。不安そうな表情だった。
「幻じゃないわ! あなた、しっかりして!」
 イゾルデはヴォルマルフの手を取った。ヴォルマルフは気まずそうに顔を赤らめた。
 まずいわ、このままだと礼拝堂に私が花婿を引っ張っていくことになりそうだわ。なんとかしないと――
「ねえ、そういえば、下着姿の花嫁こそが最も価値があると、王宮にいた時に聞いたわ。下着しか持っていない貧しい花嫁でも愛せるということは、持参金目当ての結婚ではないから――つまり愛のための結婚だと誰の目にも分かるから、ということでしょう?」
「なんですか、出し抜けに……ええ、たしかに、そういう言い伝えは残っています。ですが、とうに廃れた風習です。それが何か?」
 怪訝そうな顔をするヴォルマルフの言葉を無視してイゾルデは続けた。
「それに、聞いたところによると、このオーボンヌ修道院は王家とも縁が深い、とても歴史ある場所だそうよ。だったら、私たちもその昔の風習にならって古式の婚礼を挙げるのもいいんじゃないかしら――私、ここで服を脱ぐわ」
 ドレスの裾をたくしあげ始めたイゾルデをヴォルマルフは慌てて止めた。
「お、お待ちください! そんなことをしてはファーザー・シモンが卒倒してしまうでしょう」
「そうかしら? さっき、ここの若い修練士からファーザー・シモン・ラキシュは修道院院長になる前は異端審問官としてたくさんの修羅場と死線をくぐってきたと聞いたわ。とても肝がすわっている方だそうよ。私が下着姿になったくらいでは驚かないと思うわ」
「いいえ、だめです! 私が卒倒しますから!」
「どうして? あなたは私の夫なのに、私の服を脱がせたいと思わないの?」
 ほんの少しの間、ヴォルマルフは口を開けたまま棒立ちになっていた。イゾルデはわくわくしながら、彼の返答を待っていた。やがて、ヴォルマルフの口から真っ当な答えが返ってきた。
「レディ・イゾルデ! 神の前で誓いを立てるのが先です! ファーザー・シモンが待ちくたびれてしまいます――早く行きましょう!」
 ヴォルマルフは早くこの話題を切り上げようと、急いでイゾルデの手を引いて礼拝堂の扉を開けた。イゾルデに背けた顔は赤かった。
 ヴォルマルフに手を取ってもらって、イゾルデは心躍った。ああ、やっと! イゾルデはこの時をずっと待っていた――愛する夫にエスコートしてもらう時を。その瞬間、彼女は幸福で満たされていた。そして、喜びをかみしめながらファーザー・シモンの言葉を繰り返した。「とこしえの幸福を」と。

  

 

連載期間:2017.05.25-2017.12.30

 

  

  

花嫁の決断:Chapter7

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*chapter7

     

  

     

  

 ヴォルマルフはベオルブ邸を出ると、大通りの宿屋にまっすぐ向かった。階下の酒場を仕切る給仕にむかってエールを一つ頼むと、そのまま樫のテーブルの上に倒れ伏した。ヴォルマルフはベオルブ邸でレディ・イゾルデと交わした会話を頭の中から追い出そうと必死だった。何もかもが気まずい状況だった――のはヴォルマルフ一人であった。レディ・イゾルデはヴォルマルフの切迫した告白に対して、きょとんとした顔で「どうなさったの?」と答えただけだった。ヴォルマルフの意図が伝わっていなかったのは確かだ。
 私は、彼女とイヴァリースで暮らしたい。愛する女性とともに――ヴォルマルフはようやく言うことができた。レディ・イゾルデのことを愛している、と。王子の婚約者だからと誰にも言えずに胸に秘めていた想いをやっと口に出すことができた――他人の家の玄関で。
 はあ、とヴォルマルフは深いため息をついた。タイミングを誤ったことを深く後悔した。
「お、姫を探しに行くと息巻いていた騎士がどうして酒場で飲んだくれているんだ。姫さんに逃げられたのか?」
「フランソワか……いつからそこにいたんだ?」
 後ろからこづかれたヴォルマルフは親友の存在にやっと気付いた。
「いや、さっきからずっといたよ。テーブルに頭を打ち付けている悪酔いした客がいるのが目にはいって、よくよく見てみればわが王子の騎士ではないか。ヴォルマルフ、酒場での奇行は宮廷の噂の種だぞ。こんなところで酒を飲んでいないで、帰って下宿のおかみさんにミルク酒を作ってもらったほうが良いのではないか?」
 フランソワは手にエールと鶏肉のパイを抱えており、ヴォルマルフの正面にどかっと座ると、一人で軽食をつついていた。肉汁のこうばしい香りがしても、ヴォルマルフは心が動かされなかった。
「私は酔っていないし、状況の判断ができるほど思考は明晰だ。心配されるまでもない。泥酔して堀で泳ごうとするスキャンダル騎士とは違う。私は王子付きの騎士として常に節度ある行動を心がけている」
「なら聞こう、なぜレディ・イゾルデと一緒ではないのだ?」
「何故一緒にいないのかと? 当然だ。姫君をこんな粗野な旅籠に連れてくるはずがないだろう」
「俺の質問の意図が分かっていないようだな。おまえの思考は既に混線しているぞ。堀に飛び込んで頭を冷やしたほうがいい」
「フランソワ! 私は――」
「姫さんは無事だったのか? 結婚式ではずいぶんと落ち込んでいる様子だったからな。まさかおまえは姫さんを見捨てて酒場で飲んでいるわけではないだろう?」
「もちろんだ。レディ・イゾルデは、ベオ――さる貴族のお屋敷に庇護を求め、無事に城に戻るまでの安全を自ら確保した。だから、私はそこで……」ヴォルマルフはそこで言いよどんだ。「……彼女を見送ってきた」
「ヴォルマルフ! おまえは教会の伝道師に転職するつもりか? 浅からぬ仲の男女がキスの一つもなしに別れるとは正気の沙汰とは思えないな」
「別れのキスだと!」ヴォルマルフはテーブルを拳で叩いた。「そんな粗野なことを! 私は貴婦人に対する正しい礼節をもって彼女を見送ってきた――いや、分かっているさ。おまえに言われなくても――……そうだ、私は、確かに、彼女を愛している――このあふれる思いの丈をどうにかして彼女に伝えなければならない」
 フランソワはヴォルマルフのことをじっと見つめた。
「だから、私は彼女にプロポーズをしようと思うのだ。だが……愛を伝えるためには、適切な場所と適切な贈り物が必要だ」
 ヴォルマルフはゆっくりと話した。たとえこの場にレディ・イゾルデがいなくても、彼女に対する言葉は神聖なものでなければならない。「まさか、先刻結婚式を逃げ出したばかりの花嫁に手ぶらで求婚するわけにもいかないだろう?」
 ヴォルマルフは言った――自分自身に向けて。だから、場を整えてもう一度――いや、レディ・イゾルデはあれがプロポーズだったと気付いていすらいないのだから、今度こそ――彼女の手を借りてキスをするのだ。彼女のほっそりとした白い手は、どんなに甘く、優しい感触だろうか……いや、彼女の許可がないうちはこれ以上の妄想はいけない。ヴォルマルフは理性の力で頭の中にふつふつとわき上がってきた邪念を振り払った。
「そうかそうか……ヴォルマルフ、おまえもとうとう家庭を持って父親と呼ばれるようになるのか。俺はおまえが騎士になる前から面倒を見てきたが、感慨深いな……」
「ま、待て! まだ彼女は結婚を承諾していない! 彼女の許可なしに先走った妄想をしないでくれ!」
「結婚をせずとも父親になれる方法はあるぞ。国王も実践している由緒正しき方法だ」
 親友の言及した行為を軽薄に想像してしまったヴォルマルフは耳まで赤くなった。そのような火遊びの結果である庶子が宮廷にはあふれている。これ以上不幸な子どもを増やしてはいけない……ましてやレディ・イゾルデとそんな情熱を交わすなんて! ヴォルマルフは騎士道精神にもとる激しい邪念を再び振り払った。理性ある騎士として、ふさわしい振る舞いをしなければならない。
 だが、ふさわしい振る舞いとは何なのだ?
 ヴォルマルフはベオルブ邸でレディ・イゾルデから返されたルビーの薔薇のブローチをそっと取り出した。ついなすがままに受け取ってしまったが、ヴォルマルフはこの薔薇を本来の所有者へ返すつもりでいた。
「その薔薇が姫さんへの贈り物か?」フランソワが尋ねた。
「そうだ――と言いたいのだが、これはもともとレディ・イゾルデのものだ。故あって私が預かっているが……きちんと返しにいかなければ」
「ならば、求婚者はその薔薇にまさる贈り物をしなければな」
「それが問題なのだ」ヴォルマルフはこめかみを押さえた。「私にはこんな宝石を買うお金もない。誇るべき家名もない。騎士の名を飾る称号もない――私はレディ・イゾルデのことを愛しているが、求婚者となれる資格はない」
 そもそも、レディ・イゾルデとアンセルム王子の間に婚約の背景には政治的な背景――ゼラモニアとオルダリーアの戦争の終結――があったはずだ。彼女が祖国の独立を望んでいることはヴォルマルフも痛いほど分かる。しかし、ヴォルマルフが彼女に結婚を申し込んだとして、レディ・イゾルデには何の利益もないのだ――これから先ヴォルマルフがオルダリーアとの戦争を終結させ、<天騎士>の称号を授かる英雄になるというのならば話は別であるが。
「もしも私がサー・バルバネス・ティンジェルのような騎士であれば、今すぐにでも彼女に求婚できるのだが……私が騎士団長になるまでにあと十年はかかる。プロポーズするまでに十年もかける求婚者など聞いたことがない!」
 絶望的な状況にヴォルマルフは頭を抱えた。フランソワは落ち込む友人の肩に手をのばした。
「ヴォルマルフ、安心するんだ。英雄が偉業をなしとげるのに十年かかっても、詩人は十行で物語を語ることができる」
「……何だ?」
「友よ、物語の結末は必ず愛で終わるのだ――なぜなら、愛の一つさえ勝ち取れない英雄は物語に歌うに値しないからだ」

  

  

「なんて長い一日!」
 イゾルデは王宮の寝室に無事にたどり着くと、すぐさまベッドに飛びこんだ。ぴんと網をはったマットレスの上に身体を転がすと、ビロード張りの立派な天蓋をぼんやりと眺めた。イゾルデはこのまま枕をふくらませてシーツと上掛けの間にもぐりこみたい衝動にかられた。だが、借り物のドレスを皺だらけにするわけにはいかない。何せこのドレスはサー・バルバネスの亡き奥方の形見の品なのだから……。イゾルデは疲れた頭でぼんやりと思った。王子様の花嫁になるはずだった私がサー・バルバネスの奥方のドレスを着ているなんて!
 イゾルデはベッドの上で、髪にささった太いヘアピンを引き抜いて結った髪をほどいた。髪は自分でなんとかできたが、ドレスを自力で脱ぐのはあきらめた。ベオルブ夫人の大事な服を破くわけにもいかない。部屋の中からでも大声で呼べば女中が飛んできてくれるだろうと思ったが、結婚式を逃走してきた後の気まずさもあり、イゾルデは誰とも顔を合わせず一人でいたかった。外の見張り番には、部屋には絶対に誰も通さないようにと念を押しておいた。
 私の人生はこれからどうなるのだろう。ブラを逃げ出してからというもの、イゾルデの人生はめまぐるしく変わり続けていた。今はこうして王宮のベッドの上でくつろいでいるが、明日の我が身のことはさっぱり分からない。イゾルデにできるのは、戦死した父のための喪章を作って、今すぐにでも荷造りをして王宮から静かに去ることだ。それから先のことは……考えただけで頭が痛くなるわ!
「――姫、入ってもよろしいですかな?」
「どなた?」
 来訪者の声にイゾルデは飛び起きた。誰も部屋に入れるなとあれほど言っておいたのに! 外の見張り番は居眠りでもしているのだろうか――そう思ってベッドの風除けのカーテンから顔を出したイゾルデは慌てて声をあげた。「王子殿下!」
 イゾルデはビロードのカーテンを押し開けると、転がり落ちる勢いでアンセルム王子の前へ飛び出てきた。ついでにヘアピンも床に飛び散った。「あら恥ずかしい……」イゾルデはヘアピンを足でベッドの下にそっと押し入れた。
「どうかお気になさらず。私も礼儀を欠いているのは承知の上ですから。しかし、夜分に姫の寝室に忍び寄るというたいへんな愚行をしでかしてでも、私はあなたに、どうしても言いたいことがあるのです」
「結婚式のことでしたら、もう何も言わないでください、殿下。私はサー・ヴォルマルフから殿下の十分なお言葉をいただきましたわ。それに、ああいうことは王家の婚姻にはよくあることなのでしょう?」そう言いながらイゾルデは部屋の隅から緑のビロード張りの椅子を見つけてきて、アンセルム王子に差し出した。王子は「姫、あなたに」と言ってイゾルデを椅子に導いた。そしてこう続けた。
「――いえ、よくあることではありません。よくあっては困ります。婚姻は神の前で誓う聖なる結びつきなのですから、そう簡単にほころばせて良いものではありません。それに、度重なる婚約不履行は外交上の問題にも障りがでますから……」
 アンセルム王子はどこか申し訳なさそうに話した。
「でも、私は――私たちゼラモニアの者はイヴァリースの大王様に文句を言ったりはしませんわ」そんなことが出来るはずもない! たとえ目の前に居るのが物静かで気性の穏やかな王子様だったとしても、この方はそう遠くない先に偉大なイヴァリースの王となるのだ。それに比べると、イゾルデの祖国ゼラモニアは何と小さな国だろう。イゾルデは国境近くの戦地に思いを馳せた。そこではデナムンダ王が、王国の騎士たちを束ねて戦っているはずだ。サー・バルバネスもそこで戦っている。あの騎士さまは無事だろうか……もしもの事があったら……イゾルデは胸が痛くなった。父が戦死したと聞いた時はとても驚いた。そしてあまり顔を合わせないまま逝ってしまった父を悲しんだ。まさか死ぬはずがないだろうと思っていた人が、あっけなく死んでしまったのだ。イゾルデは戦場で何が起きているのかを知る術はない。
「殿下……私、とてももどかしいですわ。戦地で命を掛けて祖国のために戦っている人がいるというのに、私にできるのはただこうして座っているだけなんて」
「戦場のことはわが父上に任せましょう。父は王座に座っているより戦場で雄叫びを上げている方が性に合う人ですから。私は随分と手を焼かされてきましたが……その頑強さは戦いの場では大いに役立つでしょう。ですから姫、ご安心を。わがイヴァリースはオルダリーアを必ず退けます」
「それは頼もしいですわ。ゼラモニアの平和は陛下のおかげです」
「そして私の役目は王の不在の間、王座を守ること。戦いで疲れた兵士たちの帰ってくるべき故郷を守ること――」アンセルム王子は窓枠にそっと身体をもたせかけると、窓の外を見やった。座っているイゾルデからは見えないが、王子の目にはルザリアの城下町が見えているはずだ。「しかし、私は戦地から帰ってくる兵士だけを迎え入れる心狭き人間ではありません。イゾルデ姫、私とあなたの間にはもう何の関係もありませんが、私はあなたをルザリアから追い出したりはしません――あなたが望むのなら、好きなだけこの国に居てください。安全を保障しましょう」
「殿下……そのご寛大な気持だけいただきますわ。でもこの国には誰も縁者はおりませんし、私はゼラモニアへ戻ります。戦地へ戻るより殿下のお膝元にいた方が安全だと分かっているのですが、そうするより他はないのです」
 ブルゴントに戻ったら、ヒルデ母様はどんな顔をするかしら。結婚に失敗して舞い戻ってきた娘を非難するだろうか。次こそは婚約円満成就を願って娘に大変な花嫁修業をさせるかもしれない。城主となった兄は戦地に行っているだろうから、当分は母と二人きりのレッスンになりそうだ。「忙しい毎日になりそうね……」ぼそりと呟いた。
「どうされました?」
「ああ、失礼しましたわ――少しばかり家族のことを考えておりまして」
「家族ですか……そうですね、いずれあなたも結婚して家族を持つことでしょう。その時は私から祝福を贈らせてください。これはあなたの結婚式を台無しにしてしまった私の償いです。悲しみの記憶が癒え、これからの人生に幸多きこととなるようにと、花嫁のあなたに――」
「まあ、まあ、殿下、そんな畏れ多いことを……それに結婚なんてまだまだ先のことですわ。私はこれからブルゴント城に戻って母と花嫁特訓をします。ですから、殿下の祝福をいただけるのはずっと先のことですわ」
「姫、あなたはお美しい。ゼラモニアまで帰る前に、きっとあなたはいくつものプロポーズを受けるでしょう。私の騎士たちもあなたを見たら一目で恋に落ちるでしょう。そしてあなたをゼラモニアへ帰すまいと必死でこう言うでしょう――私と一緒にこの国で暮らしてください、と」アンセルム王子は笑った。「私にはあなたの幸福な未来が見えますよ」
「うふふ、殿下ったら、ご冗談がお上手で……」
 王子の言葉をどこかで聞いたような気がする。そしてイゾルデははっと思い出した。サー・ヴォルマルフは別れ際に――ついさっきのことだ――全く同じ言葉を言っていた。
 ええ? まさか、あれがプロポーズだったというの? 
 イゾルデはかぶりをふった。サー・ヴォルマルフと話したのはベオルブ邸の玄関だった。どう考えてもプロポーズを受けるのにふさわしい場所ではない。だけど……もしかしたら、サー・ヴォルマルフのことなら――イゾルデはふっと笑みをこぼした。だって、不器用な方だもの。あれが彼なりの求婚の言葉だったのかもしれない。イゾルデは何故か、そう確信することができた。心の中に幸福な感情がわき上がってきた。私に彼のプロポーズを受ける覚悟はあるだろうか? 彼と共にイヴァリースで暮らす覚悟はあるだろうか? イゾルデはその答えを分かっていた。
「……姫? どうやら私は話題を間違えたらしい。レディの前でわが騎士たちの好色ぶりを話すのはいささか不調法だったようです。あなたの帰路がわが国の若い求婚者たちに邪魔されないよう、優秀な護衛を用意しましょう」
「ええ、そうですね……でしたら、サー・ヴォルマルフ・ティンジェルをお願いします。私、あの方といるとても楽しい気持ちになりますの」
 サー・ヴォルマルフにはもう一度会わなければならない。
「そうですか、ではヴォルマルフにはよく言っておきましょう。騎士の務め――つまりあなたを守り、尊重すること――を果たして、あなたを必ずゼラモニアのブルゴント城まで送り届けるようにと」
「ええ、お願い致しますわ」
 イゾルデは笑った。王命を拝受したサー・ヴォルマルフはどんな顔をするのだろう。そして私に何と言うのだろう。今から彼に会うのが楽しみだった。

  

  

「ヴォルマルフ様、殿下から伝言です。レディ・イゾルデがゼラモアニにお戻りになられるそうです。そしてヴォルマルフ様に護衛の騎士をつとめて欲しいとのことです」
「そうか……だが少し待ってくれ」ヴォルマルフは剪定はさみを持ったまま答えた。彼は今、王宮の薔薇園でプロポーズに使う薔薇を熱心に選別していた。「私は今、気を散らせない大事な仕事に取り組んでいる。殿下のもとにはにはすぐ行くと伝えておいてくれないか」
「ですが……できればお急ぎになった方がよいかと」王子の小姓はおずおずと言葉をつないだ。「姫様がもうこちらにいらっしゃってますので……」
「そう、王宮の騎士さまは王子の命令より薔薇を愛でる方が大切なのね」
「レディ・イゾルデ!」
 少年と入れ替わるように、レディ・イゾルデが姿を現した。ヴォルマルフは思わず声を上げ、赤面した。薔薇を捧げようと思っていた相手に下準備の場を目撃されるのは非常に気まずい。
「レディ・イゾルデ……私は決して職務放棄をしようと思っているわけではありません」
「あら、では、あなたは庭園管理人の仕事も兼業なさっていたのかしら?」
「いいえ、違います。私の仕事は王家のためにこの身を挺して戦うことです」
「そのはさみで?」
「いいえ!」
「冗談よ! 笑ってお流しになって」
 レディ・イゾルデはくすくすと笑った。まったく、彼女はヴォルマルフの手におえない姫君だ。彼女といると苦労が絶えない。
「そうよ、あなたは剣で戦う騎士さま。帽子に差すお花を自分で摘みにくるような方ではないわ。分かっていてよ。だからそのお花は贈り物に使うのでしょう? どう、当たっていて?」イゾルデは涼しげな声で言った。
「ええ、その通りです。私はこの薔薇を、とあるある方に捧げるつもりです。ですから――どうか私にほんの少しの時間をください。その方は白くて美しい手をしていらっしゃる。薔薇の棘でけがをしないように、棘を抜きたいのです」
 ヴォルマルフは摘み取ったばかりの薔薇を握りしめた。あまりきつく握りしめては、薔薇が――情熱の花が――萎れてしまう。
「――ですが、あなたが今すぐにでもゼラモニアに帰りたいとおっしゃるなら、私はその通りにします。あなたの望む答えをください」
「いいえ、私、そんなにせっかちではありませんわ。あなたが準備を終えるまで、いくらでも待てます」
 その言葉を聞いてヴォルマルフは胸をなで下ろした。それからヴォルマルフは一つ一つ、かたく尖った棘を削り取っていった。ほんの僅かな手間で済む作業だったが、どうしてかヴォルマルフの手はゆっくりと動いた。そして、二人の間に静かな時間が流れた。
 先に口を開いたのはレディ・イゾルデだった。「……王の庭で丹精された、この綺麗な薔薇を捧げられる幸運な方は、いったいどんな方ですの?」
「……その方は私よりずっと、豊かな財力を持ち、私よりずっと尊い名前を持っています。少々お転婆が過ぎますが、私にはそれすらこの上ない魅力に思えます。そう、私は恋に落ちてしまいました。私には彼女に贈る宝石を買うお金はなかった。けれど、高価な宝石に勝るこの愛を今すぐにでも捧げにいきたいと思っています」
「では、今すぐにでもそれをしないのは何故? あなたの手の中の薔薇が役目を果たす前に萎れてかけてるわよ、求婚者さん」
「それは――」
 何故だ。ヴォルマルフは自分に問いかけた。目の前に愛を捧げたい女性が立っている。彼女の名前を呼び、気持ちを伝える。何故それをしないのか。この薔薇は一体何のためにあるのだ。
「どうやら、あなたはまだ花婿になる覚悟ができていないようね。その点に関して、私は二回もプロポーズされたわ。私の方が熟練者よ。花嫁の覚悟について語ってあげるわ。一回目は、エッツェルの古城で王子様から求婚された時――」
「その時のことはよく覚えています。私が殿下の代わりに求婚しましたのですから」
 ヴォルマルフはその日のことを思い出した。ゼラモアニでレディ・イゾルデと初めて会った日のことだ。忘れるはずもない。しかし、不幸な事故によってなくしてしまった王家のクリスタルについては忘却の彼方に葬りたい。レディ・イゾルデがその時のことを詳細に思い出してくれると、ヴォルマルフは騎士として面目が立たない。「レディ・イゾルデ、あなたにとってアンセルム王子との結婚式のことを思い出すのはおつらいことでしょう。あの婚約についてはもう忘れてしまうのが良いのでは?」
「そうね。そうかもしれないわ。では二回目にプロポーズされた時のことを語りましょう。あれは私がサー・バルバネスのお屋敷から出てきた時のことで――」
 なんということだ! どうして彼女は、ヴォルマルフが忘れようとしている出来事ばかり思い出してくれるのだろう。
「その時は……私の記憶が正しければ、その場に私もいたはずです」
「そうね。あなたも一緒だったわね」
 レディ・イゾルデは瞳にいたずらめいた笑みを浮かべた。やんちゃざかりの子猫のようだ。おそらくヴォルマルフの気持ちなどお見通しなのだろう。ヴォルマルフは何も言わなかった。
「サー・バルバネスのお屋敷で私に求婚してくれたのは、若くて誠実で、それでいてとてもハンサムな騎士さんよ。確かその方はご自身の騎士団を持ちたいとずっとおっしゃっていたわ。夢に向かって歩き続けられる素敵な人ね」
 レディ・イゾルデは豊かに香る庭園の花々を眺めながら、静かに言った。
「……その人は、身の丈に合わない夢を持ち、それを未練がましく捨てられないだけではないのですか」
「そんなことはないわ。理想に満ちた大きな夢を描けるのは澄んだ心をお持ちの方だけ。飾らぬ心は何より貴いもの」
 レディ・イゾルデがヴォルマルフをまっすぐ見つめる。「私は、そういう方を心の底から尊敬いたします」
 ヴォルマルフの胸の奥にあたたかい感情がこみ上げてくる。名前を言わずとも、彼女が誰について話しているのか分かる。
「……でも、少しばかり不器用な方ね。だって私は最初、プロポーズされたのだと気づかなかったもの! それでも、後になって私はその方の愛に気づいたの。そして思ったわ。ただ一人故郷へ帰るよりも、その方と一緒にこの国で暮らして、同じ夢を見てみたいと――」
 ヴォルマルフはあわてた。両手に握りしめたこの薔薇は何のためにあるのか――そうだ、彼女に捧げるためだ。今がその時だ。
「しかし、これだけは言わせてください――いくら心映えが立派でも、身一つ手ぶらで求婚をするのはわが身が貧乏人だと主張するようなもの。そのような器量の悪い求婚者のプロポーズは今すぐに忘れるべきです」
「サー・ヴォルマルフ! 私はあなたのことを話しているのよ。お分かりになって! 私はあなたの妻になりたいと言っているのに、それのどこが不満なの?」
「ええ、ええ。分かっています。あなたからこの上ない愛の言葉をいただいていることは――不満なのは私自身です。満足なプロポーズの一つもできないこの私です! あなたは私の愛に答えてくれる寛大な心をお持ちです。だから、その広い、慈愛に満ちた心で私の願いを聞いてください――私はこの薔薇をあなたに捧げたいのです。あなたの記憶の中に、他の誰にもまさる最高の求婚者としての私の姿をとどめておいてほしいのです」
 ヴォルマルフは膝をついてレディ・イゾルデに薔薇を差し出した。
「……私の妻になっていただけないでしょうか?」
 レディ・イゾルデはにっこりと微笑んだ。瞳に優しさが浮かんでいる。
「あなたはもう私の返事を知っているわ。でもあなたが望むのなら何度でも答えます。あなたが私にくださった飾らぬ心と同じものをお返します――愛をこめて」
 ヴォルマルフの唇に、彼女の唇が重なった。
「レディ・イゾルデ、あなたはとうとう私の夢をかなえてくださった。私は騎士として最高の栄誉を手に入れたのです――愛する妻の夫になるというこの世で最も幸福な肩書きを!」

  

  

  

>Epilogue

  

 

花嫁の決断:Chapter6

.

     

  
*chapter6

     

  

     

  

「殿下、どうか再び、私にレディ・イゾルデの護衛の命令を下さい」
 ヴォルマルフは花嫁が投げ捨てていったヴェールを手に握ったまま、アンセルム王子に懇願した。婚礼の突然の中断に、聖堂の中はまだざわついていた。ヴォルマルフはすぐにでも彼女を探しに行きたかった。逃げ出したレディ・イゾルデの姿は人混みの中に消えてしまい行方は分からなかった。
「ヴォルマルフよ。言われるまでもない。すぐに彼女を探しにいってくれ。そして伝言を頼む――父の非礼を詫びると。私にできることは何でもしよう」
「殿下のそのお心遣い、私が必ずお伝え致します」
 よりによって自身の結婚式で晒し者にされるという屈辱を味わったレディ・イゾルデの心中を察するとヴォルマルフの心は痛んだが、つらいのは王子も同じなのだ。アンセルム王子は父王と婚約者の間で板挟みになって動けずにいる。アトカーシャの名前を持っているとはいえ、この国を動かすことができるのは王座に座る国王陛下ただ一人だ。王子は不在の国王に代わって玉座を守っているだけなのだ。
「本来であれば、私がイゾルデ姫を探しにいくべきなのであろうが……」
「殿下が心を煩わせることはございません。私が殿下に代わって彼女に誠心誠意を尽くします」
「頼んだぞ、ヴォルマルフ。私は父に押しつけられたこの結婚を望んでいなかった――とはいえ、このような形で婚約を破棄するのは私の本意ではない」
 ヴォルマルフはうなずいた。そしてすぐに踵を返した。
「フランソワ! レディ・イゾルデの姿を見なかったか?」
 ヴォルマルフは人の輪をくぐり抜けて、入り口近くで待っていた親友に尋ねた。
「聖堂を出て行った。だけどあの格好だ。婚礼衣装のままではまともに走れないだろうし、何より目立ちすぎる。まだ近くにいるんじゃないか」
「そうだな。護衛もなしにドレスのレディが一人で歩くなど危険だ。まだ教会の敷地にいるといいのだが……」
 ヴォルマルフは聖堂の扉を押した。何としてでも探し出さねば。
「ヴォルマルフ! 姫を探しに行くのか?」
「もちろんだ。なぜ分かりきった事を聞くのだ」
「王子の命令か?」
「殿下の意志でもあるが、私の意志でもある。どちらにせよ、このまま彼女を放っておくわけにはいかないだろう」
「だが今度は探し出してどうするというのだ。姫はもうルザリアの王宮には戻らないだろう。ゼラモニアまで黙って見送るのか?」
「そ、それは……」
 ヴォルマルフは足を止めた。レディ・イゾルデを探し出して、それからどうするのかなど考えてもいなかった。こんな侮辱の後で彼女がイヴァリースに留まりたいと望むはずはなかった。だとしたら故郷のゼラモニアまで送り届けるのが礼儀かもしれない。しかし、父親という後見人を失った彼女が故郷のエッツェル城でそうやって暮らしていくのだろうか――
「いや、考えるのは後だ! 今は先にレディ・イゾルデを探しに行く。レディ・イゾルデがゼラモニアへ戻ると言うのなら護衛の役目を果たすまでだ――私は騎士なのだから。あらゆる侮辱から彼女を護り、危害を遠ざける。私は彼女が望むことをするだけだ」
 ヴォルマルフは扉を開けた。なすべきことは分かっている。

  

  

 何という仕打ち! 何という屈辱!
 結婚式の最中に花嫁が捨てられるなど前代未聞の大事件だ。イゾルデは憤慨した。怒りのあまり、祭壇に王子を置き去りにして飛び出してきてしまった。
 それにしても、伝奏官が持ってきたたった一枚の紙切れで結婚式が取りやめになるなんて。当の国王は不在だというのに、王の名前を出すと皆がひれ伏した。これがイヴァリースの偉大なるデナムンダ王の権力なのだと、イゾルデはあらためて思い知った。
 聖堂を出てると、イゾルデは少しでも身軽になろうとしてドレスの裾を自ら破いた。こんな格好では歩くのにも難儀する。裾の真珠がぽろぽろこぼれ落ちたがイゾルデは気にもとめなかった。侍女を呼び寄せて悠長に着替えている余裕はなかった。参列者たちはまだ聖堂の中に居たが、外での仕事をに従事している何人かの教会の使用人たちがドレスを引きちぎるイゾルデをぎょっとして見ていた。
 けれども、そんな周りの視線は気にもせずイゾルデはつんとすまして歩いていった。
 お生憎様。私は見捨てられてそのまま泣き寝入りするようなやわなお姫様じゃないのよ。
 イゾルデはそのまま厩舎に向かうと、チョコボを一羽拝借した。教会の持ち物を盗むのは結構な罪だ。だけど私の受けた仕打ちを考えると、神様もこれくらいことは大目に見てくださるに違いない。イゾルデはひらりと――ドレスが軽くなったおかげで――チョコボの背に飛び乗った。
「さて……どこへ行こうかしら」
 イゾルデはチョコボの背にまたがったまま考えた。もうイヴァリースに留まるつもりはなかった。このまま何事もなかったかのように平穏なままルザリアで暮らせるとは思えない。だとしたらゼラモニアへ帰るしかない。ゼラモニアのエッツェル城は、父が亡くなり兄が継ぐのだろう――同じ血をわけた兄とは顔を会わせたこともなかったが、嫁ぎ先から追い出された妹をむげに扱うことはないだろう。
 問題は、ここルザリアからどうやってオルダリーアまで帰るかということだ。このまま一人で国境を越えるのは不可能だ。オルダリーアからゼラモニアへはサー・バルバネスに、ゼラモニアからイヴァリースへはサー・ヴォルマルフにそれぞれ案内をしてもらった。だけど、サー・バルバネスは今はオルダリーアの戦場にいて直接頼みに行くには遠すぎる場所にいる。サー・ヴォルマルフは……破談になった婚約者である王子の騎士なのだから、助けを求めに行くなど論外だ。つまり、自力で何とかしないといけないのだ。
 自力でゼラモニアまで帰る方法は一つ。王宮まで戻って、母から相続したブルゴントの宝を売るのだ。そうすれば護衛を雇って羽車で快適で安全な旅ができるだろう。
 イゾルデはチョコボの腹を蹴った。王宮に戻るのだ。でもドレスはズタズタで今のイゾルデは下着姿も同然だった。こんな不審者みたいなひどい格好で、警備の厳しい王宮に戻れるのかしら?

  

  

「アリー、外に変な格好の女の人が立ってる」
 椅子に座って必死で縫い物をしていたアリーの袖をダイスダーグが引っ張った。
「お坊ちゃま? どうなさいました?」
 アリーは針を手に仕事を続けながら聞き返した。縫っているのはアリーの袖を引く幼いダイスダーグ坊ちゃんの制服だ。ダイスダーグ・ベオルブ――十三歳になるベオルブ家の若き御曹司がもうすぐ士官学校の寄宿舎に入る。その準備でルザリアのベオルブ家のお屋敷は大わらわだった。お屋敷の家政婦アリーが多忙にしているのもそのためだった。
「外にお客さんが来てる」ダイスダーグが繰り返した。
 お客さん! その言葉を聞いてアリーは椅子からぱっと飛び上がった。
「宮廷の方だったらどうしましょう……旦那様もいらっしゃらないのに……」
 心配のあまり気を揉むアリーであったが、戸口に立っている女性の格好を見た瞬間、その心配は困惑に変わった。
 純白のドレスを纏ったレディだ。あちこちに真珠が縫いつけられており、胸元にはルビーで出来た薔薇の大きなブローチが輝いている。高貴な身分の姫君なのだろうということはすぐに分かった。けれどドレスは無惨にも引き裂かれ、綺麗に編み上げられていたであろうブロンドの髪もところどころほつれている。もしかしたらこの方は暴漢に襲われて逃げてきたのではないかとアリーは不安になった。
「あの……うちの警備兵を呼びましょうか? レディ――」
「いいえ、警備兵は結構よ。あなたの心配には及ばなくてよ。私は自力で逃げてきましたもの――はじめまして。私の名前はレディ・イゾルデ。あやしい者ではありませんわ――こんな格好でも!」
 レディ・イゾルデの言葉にはオルダリーア訛りが混じっていた。そのせいかルザリアの宮廷にいる姫様たちとはどこか違った雰囲気を持っていた。この人はただの姫様ではない。アリーはレディ・イゾルデの雰囲気に気圧された。
「大丈夫よ」
 事情が全く飲み込めないアリーに向かってレディ・イゾルデは自信たっぷりにうなずいた。アリーには何が大丈夫なのかさっぱり分からなかったが、レディ・イゾルデの言葉にうなずき返した。

  

  

 イゾルデはルザリアのベオルブ邸に来ていた。サー・バルバネスが「ルザリアで困ったことがあれば屋敷に来てくれ」と言っていたことを思い出したのだった。今がまさにその時だ。サー・バルバネスの助けが必要だ。
 ベオルブ邸はルザリアの宮廷のすぐ近くの武家屋敷が並ぶ通りの一角にあった。イゾルデを迎えてくれたのはアリーと名乗るお屋敷の家政婦だった。焦げ茶色の髪の毛をうしろで一つにまとめている。家政婦といってもまだ十五、六歳くらいの少女で、そして同年代の少女たちよりもずっと小柄だった。白い小さなエプロンを前にかけていて、まるでコマドリのような愛らしい少女だった。
「――まあ、それでは、イゾルデ様は護衛の騎士様もいないのに、ここまで一人でいらっしゃったのですか?」
 イゾルデがベオルブ邸を訪ねた経緯をかいつまんで話すと、アリーが驚いてイゾルデを見つめた。
「前は護衛の方がいたのだけれど……オルダリーアではサー・バルバネスに助けていただいたの」
「旦那様に!」アリーはイゾルデを屋敷の客室に案内しながら言った。「旦那様のお知り合いの方ならいつでも歓迎いたしますわ。さあ、どうぞ中へ。それに、その格好では外を歩くのも大変でしょう。今すぐにでもお着替えをお持ちしたいのですが……」
 アリーはそこで言葉を濁して言いよどんだ。
「どうしたの?」
「お着替えをお持ちしたいのですが……お屋敷には姫様の着るようなお召し物がないのです。奥方様が亡くなってしまわれてから、新しいドレスを買うこともなくなってしまって……かといって使用人の服を姫様にお出しするわけにはいきませんし……」
「あら、私はどんな服でも構わないわ。だって、せっかくのドレスをこんなにズタズタにしたのはこの私ですもの」
 小さな家政婦が困っておろおろと歩き出したのでイゾルデは慌てて付け加えた。けれどアリーは「でも……姫様にそんな服を……」と繰り返すばかりでとりつく島もない。
「だったら母様の服をあげたら?」
「ダイスダーグ様!」
 イゾルデが通された客室の扉を押し開けて精悍な顔つきの少年が入ってきた。イゾルデはアリーが名前を呼ぶまでもなく、この子がサー・バルバネスの長男ダイスダーグなのだとすぐに分かった。
「お坊ちゃま……本当によいのですか? お母様の思い出の品を……」
「うん。だって母様が生きてたらこうしてたと思う。困ってる人がいたらその人のために尽くしなさいと、いつもそう言っていたんだ。僕だってベオルブの名前を継ぐ者だ。母様の言うような立派な騎士になりたい」
「ああ、ダイスダーグ様……! 坊ちゃまの口からそのようなお言葉が聞けて、私は嬉しゅうございます。奥方様も天国で喜んでおられることでしょう!」
 アリーは感激のあまりその場で泣き出しそうな勢いだった。きっとわが子の成長を見守る母親のような心境なのだろう。といっても、二人の年齢からすると、親子というより姉弟の関係といった方が近いのかもしれない。イゾルデは二人のやりとりをほほえましく見ていた。
「ありがとう、若い騎士さん」
 イゾルデはダイスダーグにお礼を言った。「あなたのお母様の服、あとできちんと返しにきますわ。大丈夫よ、お母様のドレスを着たまま逃げ出したりしないから。私は今はこんな格好だけれど、お金に困っているわけではないの」
 イゾルデはダイスダーグの頭をそっとなでた。あと十年が経ったとき、きっとこの子は父親に引けを取らない立派な騎士になっていることだろう。

  

  

 ヴォルマルフは姿を消したレディ・イゾルデを探してルザリアのベオルブ邸の前に来ていた。まさか花嫁がチョコボに乗って逃走をはかるとは想像もしていなかったが、目立つ婚礼衣装のおかげか目撃情報も多く、後を追いかけやすかった。
 ヴォルマルフが邸宅の扉を叩こうとする前に、レディ・イゾルデが扉を開けた。ヴォルマルフはさっと身体を引いた。
「あら……サー・ヴォルマルフ、どうしましたの? こんなところでお会いするなんて」
 世間話でもするかのようなレディ・イゾルデのあっさりとした挨拶にヴォルマルフは拍子抜けした。レディ・イゾルデが聖堂を泣きながら飛び出していったので、ヴォルマルフは心の底から心配していたのだが、どうやらその心配は杞憂だったらしい。レディ・イゾルデは婚礼衣装を脱いで、新たに深紅のドレスを纏っている。髪も結い直して口に紅をさして小綺麗にめかし込んでいる。
「レディ・イゾルデ、私は殿下に代わってデナムンダ王の非礼を詫びにきたのです。どうか私に謝らせてください」
「ああ、そのことね……たしかに、あなたの国の王様は少しばかり無神経な方だと思うけれど、政略結婚が破綻するのはよくあることよ。あなたや王子様が気に病むことはないわ。父親同士が決めたことですもの。私は今回はちょっと不幸な事故にあったのだと思うことにするわ」
「レディ・イゾルデ……あなたのその前向きな精神のおかげで、殿下はご自身を責めることなく心穏やかに過ごすことができるでしょう。あなたの持つその天性の明るさに皆が――私も含めて――救われているのです」そこでヴォルマルフは一度言葉を切った。そして続けた。「ですが、このまま何事もなかったかのようにあなたをお見送りするわけにはいきません。あなたの力になります。どうかそうさせてください。私に出来ることなら何でも――」
「ありがとう。でもそのお申し出は気持ちだけ受け取っておくわ。あとは自分の力でなんとかするつもりよ」
 レディ・イゾルデは両手を胸の前で広げて、ヴォルマルフの申し出をやんわりと断った。
「つまり、私では、あなたの力にはなれないのですね……」
 ヴォルマルフは肩を落とした。聖堂を逃げ出したレディ・イゾルデが真っ先に駆け込んだ先はベオルブ邸だった。レディ・イゾルデの目と鼻の先にいるのはこの自分だというのに!
「サー・ヴォルマルフ? どうしてそんなことをおっしゃるの? だってあなたは王子様の騎士じゃないの! こんな状況であなたを頼れないわ――別にあなたじゃ力不足だと言っているわけではないのよ」
「……はい、あなたの言う通り、私は王家に仕える騎士です。だからこそあなたの力になりたいのです――あなたに侮辱を与えたデナムンダ王に代わって、私に償いをさせてください。レディ・イゾルデ、どうか私に命令を下さい。私はあなたのために尽くします」
「サー・ヴォルマルフ……私はもう王子様の婚約者ではないのよ。あなたは私に仕える義務もないし、それに私もあなたには何の命令も望まないわ」
 そうだ。その通りだ。彼女はもう王子の婚約者ではない――だからこそ、やっと本音が言える。今ここでレディ・イゾルデに本心を打ち明けなければならない。
「レディ・イゾルデ――」
 悩みに悩んだ末、ヴォルマルフはやっとの思いで彼女の名前を呼んだ。けれどその呼びかけは、ほぼ時を同じくして口を開いたレディ・イゾルデの言葉によってかき消されてしまった。
「これ、お返しします。王子様との婚約は白紙になってしまったから」レディ・イゾルデはルビーの薔薇のブローチをヴォルマルフに差し出した。
「これは……」
 レディ・イゾルデに王子からのプロポーズの品としてヴォルマルフが贈ったものだ。とはいえ、元々はゼラモニアの古城で本来の贈答品をなくしたヴォルマルフにかわってレディ・イゾルデが用意してくれた宝石だ。
「いいえ、本来の所有者はあなたです。レディ・イゾルデ、あなたが持っているべきです」
「でも、もう私には必要ないわ。あなたにあげるわ。記念にどうぞ」
 レディ・イゾルデはヴォルマルフの手の中に薔薇を押し込んだ。
「私は自分の国へ帰ります。これから一度王宮へ戻って、母から相続した財産を売ってゼラモニアまでの旅の支度を整えるわ――だから、あなたとはここでお別れね。ごきげんよう」
「ま、待ってください! 私はここで別れるつもりは――」
 レディ・イゾルデはヴォルマルフに軽く一礼をするとそのまますたすたと歩きはじめた。まずい、このまま別れてしまってはもう二度と会えない。ヴォルマルフは大声で彼女を引き留めた。
「レディ・イゾルデ! まだ行かないでください――」
 しかしヴォルマルフの心中などつゆ知らず、レディ・イゾルデが振り向いてくれそうになかったので、ヴォルマルフは仕方なく背中越しに叫んだ。
「――私と一緒にイヴァリースで暮らしませんか!」
 ようやくレディ・イゾルデが振り向いた。しかし、どうやらヴォルマルフの意図は伝わらなかったようだ。レディ・イゾルデは首をかしげた。
「サー・ヴォルマルフ? あなた何を言っているの?」
 レディ・イゾルデの反応を見て、ヴォルマルフは勢い余って叫んだ言葉を激しく後悔した。
「あの、どうかなさいました? うちのお屋敷で何か問題でも……」
 しかも、玄関先で大声を上げてしまったため、この邸宅の使用人と思われる少女がわざわざ様子を見に来てくれた。
 ヴォルマルフにとって大変な問題が発生したことには違いない。プロポーズ――とレディ・イゾルデに認識してもらえていることを祈るばかりだが――の時と場所を間違えたのだ。ヴォルマルフはその場で頭を抱えた。これは大問題だ。

  

  

  

>Chapter7

  

 

花嫁の決断:Chapter5

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*chapter5

     

  

     

  

 王家に嫁ぐと分かってから覚悟はしていたが、婚礼の準備はとにかく煩雑だった。王家のしきたりは随分とややこしい。それに加えて、アンセルム王子とイゾルデの婚約が公表されるとすぐ、彼女のもとに数え切れないほど多くの役人や貴族たちが挨拶にきた。早くも未来の王妃に取り入ろうとしている狡猾で抜け目のない連中だ。こういう人たちって相手にすると面倒くさいのよね……ルザリアの宮廷にはこんなに出世欲にまみれた連中しかいないのかしら。イゾルデはサー・ヴォルマルフの穏やかな純朴さが恋しかった。だから王子から、誰かにルザリアを案内させようと言われた時にはすかさず「是非サー・ヴォルマルフにお願いしたい」と答えたほどだった。
「――それでは、イゾルデ様、いかがいたしましょうか?」
「ああ、ごめんなさい。少しぼんやりしていて……何の話でしたっけ?」
 イゾルデは部屋で婚礼の時に着るドレスの試着をしていた。婚礼に際して、花嫁にふさわしいドレスを新しく仕立てるのだ。イゾルデは婚礼衣装を着たまま、もう二時間も立ったり、座ったりしていた。そしてイゾルデが試着しているその場で何人ものお針子がレースを縫いつけていた。
「――お裾の模様と、レースの種類のことです、イゾルデ様。いかがいたしましょう?」
 侍女がイゾルデに装飾箱を差し出した。中には大粒の真珠がぎっしり詰まっている。「こちらの真珠でお裾を飾ろうかと思うのですが……イゾルデ姫様のために最高級のものをご用意いたしました」
 裾に真珠ですって! 歩く度にこぼれ落ちてしまいそうだわ。きっとアトカーシャ王家の王庫には財宝がぎっしりつまっているんだわ。
「お任せするわ。私には王家に嫁ぐ花嫁がどんなドレスを着ればよいのかさっぱり分かりませんもの」
 イゾルデがそう答えると、すぐに侍女はドレスの裾を作っているお針子たちにてきぱきと指示を出した。一体どんなドレスができあがるのか、イゾルデには皆目検討がつかなかった。唯一イゾルデに分かるのは、このドレスの試着作業があと数時間は続くということだけだった。本物のお姫様は着替えだけで一日が終わるというが、それもあながち間違えではなさそうだ。
 イゾルデはそっとあくびをかみ殺した。自分のドレスを作るために何人もの娘たちが働いているというのに、ここで自分一人が悠々と居眠りをするわけにはいかない。でも誰か話し相手がいないと退屈で寝てしまいそうだった。
「イゾルデ様、お部屋の外に殿方がいらっしゃっています」侍女がイゾルデに言った。
「どなた?」
 この退屈を紛らわせてくれる人だったら誰でもいいわ。
「侍従長官のご子息のフランソワ様です。お着替え中ですので、伝言だけ承ってきましょうか」
「待って! ちょうど話し相手が欲しいと思っていたところなの。追い返さないでこっちへ呼んできてくださる?」
 相手が侍従官とあっては退屈な話しか期待できなさそうだが、この際えり好みはできまい――けれど、侍女がつれてきた黒髪の若い青年を見てイゾルデは自分の予想が外れたことを喜んだ。
「イゾルデ姫様、これは失礼。お着替え中でしたか」
「いいのよ。これからあと二時間は着替え中ですもの――はじめまして、フランソワさん。侍従官というからもっと年輩の方だと思っていましたわ」
「侍従官は私の父の役職です。私はアンセルム王子に仕える詩人です」
「あら、素敵だわ。そういう華やかな人は大歓迎よ。婚約を発表してからというもの、私のもとに長々しい挨拶をしにくるお役人の方々が多くてうんざりしていたところですの。詩人さん、今日はどんなご用で私のもとへ? あなたも私にご挨拶にいらっしゃっただけかしら?」
「いいえ、私は貴女を退屈させるために上がったわけではありませんのでご安心を――」
 イゾルデは詩人と名乗る相手の姿を見た。自分よりはいくらか年上だろうが、きっとまだ二十代の若い青年だった。長く伸ばした黒髪を肩のところで切りそろえ、切り込みの入った袖口からレースをのぞかせている。瀟洒な格好でいかにも宮廷の詩人という出で立ちだった。
「実は、わが友ティンジェルが貴女の手を引いてこのルザリア宮殿をご案内するはずでしたが、あいにく彼は具合が悪いとのことで、こうして私が代理で参上したのです。ですが――」フランソワ氏はイゾルデの格好をちらりと見た。「そのドレスでは外を歩けませんね」
「ええ……せっかく来ていただいたのに申し訳ありません」
「でも綺麗なドレスです。特に、その胸元の赤い薔薇のブローチが目を引く。お美しいですよ、レディ・イゾルデ」
「ありがとうございます。この薔薇は……殿下がプロポーズの時に私にくださったのです」実際に渡したのはサー・ヴォルマルフだったけれど。イゾルデは胸の内でそっと付け足した。
「そういえば、ルザリアに来てからとんとサー・ヴォルマルフの姿をお見かけしなくなったけれど、具合が悪かったのね。お熱でもあるのかしら。お見舞いにあがった方がよろしくて?」
「いいえ――借家暮らしなのでどうかそれだけは勘弁してくださいと彼は念を押していましたので……それに、姫様の姿を見たら、彼はますます具合が悪くなるでしょう」フランソワ氏は笑った。
「そう……お会いしたいと思っていたのに残念ですわ。宮廷で話し相手になってくださる方がいなくて退屈しているところなの」
「そうでしたか。ですが、姫様がご足労いただく必要は全くございません。帰ったらすぐにでもわが親友の尻を蹴り飛ばして出仕させますので、どうぞ好きなだけ姫様の相手に使ってやってください」
「ふふ、仲がよろしいのね。サー・ヴォルマルフとは長い付き合いなのかしら?」
「ええ、彼が上京してきた時からの付き合いです」
 イゾルデは自分の後ろでせっせとレースと真珠を縫いつけるお針子たちを見た。まだまだ時間は掛かりそうだ。このままフランソワ氏にしばらく話し相手になってもらおう。
「ねえ、フランソワさん。サー・ヴォルマルフのことをお聞きしてもよろしいかしら? ルザリアまでの道中、ずっとご一緒していたのに、あの方ったら恥ずかしがって全然ご自分のことを話してくださらないから。サー・バルバネスはたくさんお話してくださったんですけど……」
「きっと殿下の花嫁の隣で緊張していたのでしょう。あの通りわが友は口べたで不器用な人間ですので……彼のエスコートはご不満でしたか、姫君?」
「いいえ! 全然! とっても礼儀正しくて――むしろ丁寧すぎるくらいでしたわ」イゾルデは、ルザリアまでの道中を思い出して言った。
「それは何より」
「そういえば、サー・バルバネスは士官学校がどうのこうのおっしゃっていたけれど、サー・ヴォルマルフもそういう場所に通っていらしたのかしら。あの方は、自分の騎士団が持ちたいとおっしゃっていたわ」
「士官学校……あそこは騎士団に入っていずれは指揮官となるような大貴族の子息や武家の血筋の者が通う学校です。つまり――」
 フランソワ氏が語るところによると、サー・ヴォルマルフの父親はルザリア郊外の下級官吏であり、息子を廷臣にしようと思って宮廷の貴族のもとに送り込み騎士修行をさせていたとのことだ。そうして彼はめでたく騎士として叙勲され、王子の信頼も勝ち得て、今に至る……ということらしい。
「おそらく、わが友は騎士の心得として剣技を身につけたものの、一度も戦場に立ったことがないということを気にしているのでしょう」
 だからサー・ヴォルマルフはブルゴントの古城で盗賊に襲われた時にあれほど落ち込んでいたのかしら。
 イゾルデはルザリアまでの長旅を護衛してくれたサー・ヴォルマルフにささやかな恩返しがしたかった。サー・ヴォルマルフが騎士団を持ちたいと夢みていることは知っていたので、自分が嫁ぐアトカーシャ王家の権力を拝借して彼のために小さな騎士団を作ってあげられないものかと考えていた。けれど、サー・ヴォルマルフやフランソワ氏の話を聞くかぎり、騎士団を持てる人間は大貴族の子息や武家の血筋の人間に限られているようだった。つまり――
「サー・ヴォルマルフのことを騎士団長さまと呼べる日はほど遠いということね……。残念だわ――そうだわ、いいことを思いついたわ!」ぱっと名案が浮かんだイゾルデは手を打った。
「伯爵家のような大貴族の爵位を持っていれば騎士団を作れるのでしょう? だったらサー・ヴォルマルフが伯爵家のお嬢様と結婚して爵位を継げば良いのではないかしら? サー・バルバネスはサー・ヴォルマルフのお年でもうすでに父親になっていたとおっしゃっていたわ。フランソワさん、あなたのお友達に伝えておいてください。もしご結婚するおつもりなら、私が――私ももうじきアトカーシャ王家の人間になりますから――きっといいお家のお嬢様をご紹介致します、と」
「それでは、姫様のお言葉を一字一句違わず伝えておきます――」
 フランソワ氏はにこやかに笑った。

  

  

「ヴォルマルフ、姫からの伝言だ。『おまえ結婚する気はあるのか?』と」
「は? な、なんだ、出し抜けに……」
 ヴォルマルフが自宅のベッドで寝ていると、いきなりフランソワが上がり込んできた。ルザリア市街の役人通りにヴォルマルフが借りている小さな部屋である。
「姫はおまえが二十二にもなってまだ結婚していないのを嘆いておられた。しかし朗報だ、おまえにいいところのお嬢さんを嫁がせてやりたいそうだ――たとえば伯爵家のご令嬢とか」
「何なんだよ、唐突に。おまえは一体レディ・イゾルデと何の話をしてきたんだ」ヴォルマルフには話の流れがさっぱり分からなかった。
「どうせおまえが道中で延々と『自分の騎士団が欲しい』と語ってたんだろう? 役人貴族のおまえでも騎士団長になれる道はないだろうかと考えた姫様の気遣いだ。伯爵になれば騎士団が持てるからな」
「お、おい――私はおまえにルザリア宮殿の案内を頼んだのだぞ! なぜ私の家庭事情で盛り上がってるんだ!」
「いや、姫を迎えにいったらちょうど着替え中でな――」
「だったらそのまま引き返してこい! 婚前の姫君の部屋に入るなど失礼極まりない」
「姫さんが俺を迎え入れたんだ。婚礼衣装の準備に手間取っているようで死ぬほど退屈そうにしていた。ここは姫君の相手をして退屈をまぎらわせてさしあげるのが紳士のマナーだろ?」
「お、おまえ……まさかとは思うが、で、殿下より先にレディ・イゾルデの婚礼衣装を見たのか……」
 ヴォルマルフは絶句してベッドの上で悶絶しそうになっていた。王子の婚約者の部屋に軽々と入っていく親友にも問題はあるが、着替え中に若い男を軽々と招き入れる姫君も問題だ。どっちもどっちだ。しかも、私の結婚相手がどうのこうのと、二人は一体どんな話をしていたのだ?
「婚礼のドレスか? ああ見たよ。姫様に尻を向けて話すわけにもいかないしな。それはもう美しかったぞ。真珠とレースを――」
「黙れ、馬鹿者! それ以上言うな! 私は殿下より先にレディ・イゾルデの婚礼衣装を知るという不作法はおかさないからな――!」
 ヴォルマルフは頭の下にあった枕をつかむと、親友に向かって投げつけた。
「なんだよ」フランソワは飛んできた枕をさっとよけると、やれやれと肩をすくめた。「おまえが具合が悪いというから、代わりにこの仕事を引き受けてやったのに、元気じゃねえか。おまえが仮病を使って宮廷に上がらないから、姫は随分と寂しがっていたぞ」
「いや……仮病ではない。私は今、とても疲れて果てている。ルザリアまであのお転婆姫を護衛するのは本当に大変だったんだぞ」
 ヴォルマルフはベッドの上で親友に背を向けたまま話した。しばらくすると、ギシリとベッドがきしむ音がした。おそらく、そこにフランソワが腰掛けたのだろう。けれどヴォルマルフは振り向かなかった。
「おまえ……本当はあの姫様に惚れたんだろう」
 ヴォルマルフは答えなかった。
「惚れた女が主君の妻になる。それが見たくなくてこうやってふて寝してるんだろ? なのに当の姫様はのんきに構えて、おまえに結婚する気があるのかと聞いてくる始末」
 ヴォルマルフは何も答えなかった。答えたくなかった。だから、あえて話題をそらした。
「――私の縁談の心配をする前に、おまえこそ結婚したらどうなんだ。もうすぐ三十歳になるというのに」
「俺か? 俺は別に。結婚せずとも、愛した女はいるしな……」
「……そうか」
 そこでふっつりと会話は途切れた。ヴォルマルフは親友の女性関係についてあえて詮索するつもりはなかった――何故なら、自分のことですでに手一杯なのだから。
 静かな沈黙を破って、「そういえば――」とフランソワが切り出した。「おまえが駆け落ちしたイゾルデ姫を追っかけている間、俺は父親と会っていた」
「侍従長官殿と? ということは陛下も一緒だな」
「そうだ。国王の病状がよくない。時々発作をおこしている」
「陛下がご病気だと? そんな話は聞いたこともないが」
「国王が病気で先が長くないと分かっては、戦争の士気が下がるからな……ごくわずかな側近の者しか知らない事実だ。だが国王の年齢も年齢だ。そろそろアンセルム王子が新国王となる日も近いだろう。婚礼と葬式が重ならないといいんだが」
 とうとうアンセルム王子が戴冠するのか……そう思うとヴォルマルフは感慨深い気持ちになった。けれど実際は不安の方が大きかった。オルダリーアとの戦争が終わらないまま国王が身罷ってしまったら、誰が戦争の指揮をとるのだろうか。アンセルム王子が剣を持って戦線に立つ姿が、ヴォルマルフにはどうしても想像できなかった。
「フランソワ、殿下がデナムンダ三世として戴冠なさった時、この国はどうなっているのだろうか……それまでに戦争が終結していると良いのだが」
「問題はそれだけじゃない……あの戦大王は世継ぎを作りすぎた。王位継承権はアンセルム王子にあるとはいえ、アトカーシャ家から獅子の紋章を分け与えられた家がいくつもある。特に黒獅子と白獅子の紋章を与えられたあの両家の若獅子たちは遅かれ早かれ、いずれ王座を脅かすだろう。それぞれゼルテニアとガリオンヌの伯爵家の血筋も引いているのだからな」
「つまり、オルダリーアとの戦争が終わったら、こんどは国内で王座の簒奪戦争が起きるということか?」
「さあな。だが、その可能性は十分あるだろう。しかし俺たちが気に病んだところで何もできないしな……」
 ヴォルマルフは胸が締め付けられるようだった。レディ・イゾルデはやっとオルダリーアから逃れてきたというのに、嫁ぎ先でまた戦争に巻き込まれるかもしれないのだ。しかも玉座の奪い合いになれば、王妃となるレディ・イゾルデの命は誰も保証できない。最悪の未来を考えた時、ヴォルマルフは身体中の血が凍りそうになった。
「まあ、俺はそんなことを父親と話していた。で、おまえは何をしていたんだ? 天騎士と駆け落ちしたイゾルデ姫をどうやって王都まで連れてきたんだ?」
「ああ、実は、彼女はサー・バルバネスと駆け落ちするつもりは最初からなかったらしい……」
 ゼラモニアの古城であった一連の出来事をヴォルマルフは思い出していた。そして、枕元においたままのルビーの指輪を見た。王子から貰った指輪だ。これを見ると、レディ・イゾルデの胸元の深紅の薔薇と――同じ深紅の色をした天蝎宮のクリスタルのことを思い出す。頭の中から消し去りたい、苦々しい記憶だ。
「それで、そのあとは? 天騎士とは何も話さなかったのか?」
「……絶対に言わない」
 あんな醜態を誰に話せようか! 話したところで大笑いされるのが目に見えている。
 ヴォルマルフはベッドから親友を払い落とすと布団を頭からかぶり直した。完全にふて寝の体勢だが、親友の前で虚栄心をはってもしょうがない。
「結婚式にはちゃんと参列しろよ――一週間後だ」
 ヴォルマルフに追い出される形になったフランソワはそう言い残して出て行った。

  

   
 
 結局、イゾルデは婚礼の日までサー・ヴォルマルフの姿を見ることはなかった。
 式は王都近郊の聖堂で挙げることになっていた。この聖堂は、普段は王家の儀式で使われる由緒正しき大寺院であった。双塔と鐘塔を備え、内陣後方には袖廊や側廊や周歩廊まで設けられた巨大な聖堂だった。どっしりとした分厚い石壁は鮮やかな壁画で彩られ、柱からつり下げられた鉄のシャンデリアにはたくさんの蝋燭がともされていた。そのおかげで聖堂の中はほのかな明かりで満たされていた。
 結婚式は聖堂の中心に位置する主礼拝堂で執り行われる予定であった。イゾルデはそこで夫と結ばれ、晴れて王子夫妻として認められることになる。イゾルデは主礼拝堂の隣の控えの部屋に入り、そこで花嫁衣装に袖を通して婚礼の準備をしていた。侍女たちがイゾルデの着替えを手伝い、付き添い役の娘たちがイゾルデの婚礼服を切り花で飾った。一週間近くも掛けて仕立てあげた婚礼の衣装はおそろしく豪華なものであった。純白のドレスに輝くような真珠が惜しげもなく縫いつけられてる。一体アトカーシャ家の王庫にはどれほどのお金が眠っているのかしら?
「姫様、衣装の準備ができましたわ。とってもお綺麗ですこと」花嫁の付き添い役の娘に一人がイゾルデのドレスの裾を持ち上げながら言った。
「ありがとう」
 イゾルデは花嫁のヴェールを被った。もう王家に嫁ぐ花嫁の覚悟はできている。
「姫様は輝くようなブロンドのお髪ですもの。純白のドレスがお似合いですわ。王子様もこんなに素敵な花嫁様をお迎えするのなら、ミュロンド寺院で式をお挙げなさればよいのに」
「ミュロンド寺院?」
 聞き慣れない地名にイゾルデはヴェールの下から首を傾げた。
「最近ミュロンドの大聖堂が完成したんです。それはもう大聖堂と呼ぶにふさわしい立派な大寺院が建立されたんですよ!」娘は興奮気味に話した。どうやらこれが王都の娘たちの関心を引く最新の噂話らしい。
「このルザリアの聖堂も随分と立派だと思うけれど……王家の儀式で使うのでしょう? 私、こんなに大きな教会には初めて入ったわ」
 娘は首を振った。「いいえ! 違うんです――」そして両手を広げて言った。「もっと天井が高くて大きいんです。塔が天の彼方に向かって延びているようで……窓には色ガラスが使われていて、きらめく光が教会の中に降り注いでくるんです。王都でもガラスは貴重なのに、ミュロンドの大聖堂には色ガラスがあるんです! そのきらめく色ガラスのおかげで、大聖堂の中にはまるでこの世のものとは思えないほどたくさんの光が振ってきて……きっとミュロンドの大聖堂だったら姫様のドレスだってもっとずっと美しく輝きますわ」
 娘の語る言葉にイゾルデは興味を覚えた。このルザリアの聖堂も蝋燭の光で煌々と照らされている。それでも分厚い石壁に覆われた聖堂内部は薄暗い。でもミュロンド寺院は違うという。色付きガラスがあって、日の光が外から降ってくるなんて! その様はどんなに美しいことだろう。
「ミュロンドは遠いのかしら? 私も巡礼に行ってみたくなったわ」
「ええ、ミュロンドに行くには、ルザリア領の隣のガリオンヌ領の港から舟で渡るか、陸路でゴーグまで行って舟で行くしかないんです」
「どのみち舟で行くのね」
「はい、ミュロンドは黒珊瑚の海に浮かぶ孤島です。そこには要塞のようなお城があって、騎士様に守られて教皇猊下が暮らしてらっしゃいます」
「いつか夫に連れて行ってもらうことにするわ」
 新婚旅行が楽しみだわ。
 イゾルデはいよいよ婚礼の儀にのぞんだ。ヴェールをしっかりと被ると、顎を引いて伏し目がちに主礼拝堂へ入っていった。内陣は王子の結婚式を見物しに来た参拝客で埋め尽くされていた。階上席まで人があふれているわ。イゾルデは主礼拝堂に入った瞬間から、数多の群衆の視線が自分に注がれるのを感じた。はるばるゼラモニアからやってきたという王の二番目の妻になる女の素顔を誰も彼もが見たがっていた。けれどイゾルデは数え切れない人だかりを前にして怖じ気付くような性格ではなかった。不躾な視線を投げつけられたらつんとすまして、そのままにらみ返してやろうとさえ思っていた。
 結婚式に参列しているのは宮廷で暮らす貴族や大臣たち、それに王家の関係者、聖堂の近くに住む裕福な市民たちであった。参拝客は祭壇を取り囲むように輪になって群がっており、前列にいくほど高貴な身分の者であった。
 イゾルデは歩きながら人々の顔をそっと見ていった。まだルザリアに来てからの日は浅く、人だかりの中に知り合いは少なかった。けれど、その中によく見知った顔を見つけた。サー・ヴォルマルフだった。華やかに着飾る宮廷人の中で一人だけ地味な黒っぽい服を来ているので逆に目立っていた。隣には孔雀の羽で飾った帽子を被ったフランソワ氏が立っていた。フランソワ氏はイゾルデと目が会うと会釈をしてくれたが、サー・ヴォルマルフは終始うつむいたままだった。
 あの方はまだ具合が悪いのかしら? あとでフランソワ氏からサー・ヴォルマルフの暮らす家の住所を聞き出して押し掛けてみようとイゾルデは思った。それに、婚礼の準備で忙しくてサー・バルバネスから教えてもらったベオルブ邸に挨拶に行く時間もなかった。サー・ヴォルマルフを誘って一緒にベオルブ邸に遊びにいこうかしら。
 いけない、私ったらまた集中力を切らせていたわ。今は自分の結婚式に意識を集中させなければ。
 イゾルデは付き添い役の娘たちにドレスの裾を持たせながら、アンセルム王子の待つ祭壇へゆっくりと歩いていった。

  

  

「ヴォルマルフ、いい加減に顔を上げたらどうだ。それにまったく、僧院にいるような格好じゃないか。もっと華やかな服を着てこいよ。婚礼の場を葬式にでも変えるつもりか?」
「おい、やめてくれ。物騒なことは言わないでくれ」ヴォルマルフは慌ててフランソワをたしなめた。
 ヴォルマルフはフランソワと一緒にレディ・イゾルデの結婚式に参列していた。二人が聖堂に着いた頃にはすでに内陣に人の輪ができあがっていた。ヴォルマルフはその一番後ろに並んだ。
「こんな後ろに陣取っていては花嫁の頭も見えないぞ」フランソワはやや不満げだった。
「最前列に居るのは枢機卿や大臣たちだ。私にはそんな大仰な顔ぶれの中に混じる勇気はない」
「だからって後ろに引っ込んでいる道理もないだろう――おっ、姫様が通るぞ」
 式が始まり、花嫁が主礼拝堂に入ってきた。祭壇への道には赤い絨毯が敷かれており、純白のドレスに身を包んだレディ・イゾルデが花道をしずしずと歩いてきた。若い娘たちが花嫁の歩く道に花を撒いている。レディ・イゾルデはヴェールの下からヴォルマルフの方をちらりと見た。
「あ――」
 ヴォルマルフはとっさに顔を背けた。彼女はあまりに美しかった。ほの暗い聖堂の中で、彼女の歩く場所だけがまるで光り輝いているように見える。
 だめだ、これ以上見てはいけない――この美しさは王子のものなのだから。
 婚礼の儀式は順調に進んでいるようだった。けれど参列者たちは思い思いにおしゃべりに高じており、祭壇の前にいる司教の言葉はヴォルマルフらのいる内陣後方までは聞こえてこなかった。
 その時、礼拝堂の扉が強く開け放たれた。内陣後方にいたヴォルマルフはすぐにその物音に気づいた。ヴォルマルフの近くにいた参列者の何人かが異変を察知して彼と一緒に振り返った。
「何事だ?」
 ヴォルマルフの視界に息を切らした役人が飛び込んできた。獅子の紋章をつけた服を着ており、手には儀式用の槍を持っている。
「王の伝奏官だ……」ヴォルマルフはつぶやいた。
「ああ、しかも式の途中で乱入してくるとは相当な急ぎの用件らしい――おい、ヴォルマルフ、見ろよ。槍の先に喪章が付いている」
 フランソワが指さした先には、黒のリボンが翻っていた。誰かが亡くなった印だ。
「まさか……戦地にいる陛下の身に……」
 嫌な予感がした。ヴォルマルフは胸の動悸を感じ、その場で立ち尽くした。もし伝奏官が持ってきた報せが王の死であったなら――
 伝奏官は人の波をかき分け、祭壇の前へと走っていった。王子に報告しに行ったのだろう。突然の式の中断に、聖堂の中はどよめきで包まれた。参列者たちがざわざわと騒ぎ、何が起きたのかを知ろうとして祭壇へと詰めかけた。
「いけない! 殿下たちをお守りしなくては――」
 ヴォルマルフには、騎士として王子と姫を守る義務がある。ヴォルマルフも参列者たちを押しのけて、祭壇へと急いだ。
 アンセルム王子が参列者に向かって何かを話しているが、人々のざわめきにかき消されてしまいヴォルマルフには全く聞こえなかった。参列者たちの断片的な話し声がヴォルマルフの頭上に降ってきた。「本当に亡くなったのか?」「戦死だそうだ」「結婚は取りやめだとか」「婚礼が葬式になるとは」「可哀想に」等々。
 亡くなった? 一体何が起きたというのだ。ヴォルマルフはぞっとする思いを抱えながら祭壇へと急いだ。
「王子殿下! イゾルデ姫様! ご無事ですか?」
「ヴォルマルフよ……」
 アンセルム王子とレディ・イゾルデは祭壇の前に立っていた。レディ・イゾルデはまだヴェールを被ったままであり、二人とも呆然とした様子であった。王子の側には伝奏官が控えており、式を執り行っていた司祭はすでに後ろに下がっていた。
「何事です? この騒ぎは……」
「たった今、オルダリーアの戦地から戦死の報告が入った」アンセルム王子の手には伝奏官から受け取った手紙が握られていた。
「まさか! 陛下が……」
「いや、亡くなったのはエッツェル城城主だ……」
「私のお父様が戦死したのよ」
 レディ・イゾルデがヴォルマルフに言った。無表情で低い声だった。
 なんということだ!
「それは、あまりにも突然――お悔やみ申し上げます――し、しかし……何故、式が中止になったのです……?」
 ヴォルマルフはアンセルム王子とレディ・イゾルデの顔を交互に見た。王子は無表情で王からの手紙を持ったまま何も言わない。伝奏官も直立不動でその場を動かない。ただ参列者だけがざわざわと騒ぎ立てていた。
「この状況が分からない?」レディ・イゾルデがヴェールの下からきっとヴォルマルフをにらみつけた。「後見人のいない女と結婚する価値はない――あなたの王様はそう言っているのよ!」
 ヴォルマルフは、はっと息を飲んだ。
「やっとお分かりになって? この人たちはみんなで私を笑い者にしているのよ! 結婚式の途中で放り捨てられた哀れな花嫁のことを!」
 レディ・イゾルデは自らヴェールをむしり取り、もうこんなものは要らないと言うかのように床に投げ捨てた。そして、アンセルム王子が止めるより早く、その場から走り去っていった。祭壇に群がった人々は蜘蛛の子を散らすようにレディ・イゾルデの進む道をあけた。
「なんということだ……わが父上は彼女にとんでもない無礼を働いた……もはや取り返しもつくまい……」
 アンセルム王子は絶句していた。ヴォルマルフも言葉を失っていた。
 レディ・イゾルデは一度も振り返ることなく走り去っていった。けれど、ヴォルマルフは気づいてしまった。ヴェールを投げ捨てた時に、彼女の頬に一筋の涙の跡があったことを。あれは父親が戦死したから悲しんで泣いたのではない――侮辱に耐えかねて流した涙の跡だ。
 ヴォルマルフは無惨にも踏みにじられた花嫁のヴェールをそっと拾った。心が千切れそうだった。

  

  

  

>Chapter6