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*「文章リメイク交換」の企画で書かせていただいた小説です。元の小説は澪鈴さんの作品になります⇒原作『悪魔との契約 -side V-』:pixiv

 

 

悪魔との契約 –side V–

 

 

 

 

 I

 二人はもうすっかり死の準備をして了っているようだった。メリアドールは両親の姿を見てそう思った。ホールの一画に仕切られた、わずかばかりの狭い病室に伏す母と、その隣にうなだれるようにしてひざまずく父の姿があった。メリアドールの母親はもう長いこと病床についていた。そこに恢復の見込みはなく、しかしあまりに長いこと患っていたため、すでに彼女の顔に死への恐怖はなく、ただ穏やかに終末の日々を過ごしていた。そして母親にぴったりと寄り添うようにして看病をする父も、とても健康的とは言えない青ざめた顔つきをしていた。彼も同じ病気であった。両親が死の病にあると、幼いメリアドールは誰から知らされるでもなく、一人悟った。すっかり死を受け入れてしまった父母の姿は、まるで折れたまま咲く一対の花のようであった。寄り添うように、重なり合うように、静かに萎れていくようであった。
 メリアドールの父、ヴォルマルフ・ティンジェルは名高き騎士であり、ミュロンドの神殿騎士団を統べる長であった。そればかりか教皇猊下から聖石下賜の栄誉をいただいていた。彼は何もおそれなかった。勇士の名に相応しい気概をヴォルマルフは持っていた。しかし、彼の屋敷に勤める使用人たちはそうではなかった。畏国全土に恐ろしい死の病が吹き荒れていたことは誰の記憶に新しく、出火場所から飛び火をするより早く広がる黒い死を、誰もが恐れていた。ティンジェル夫人の場合はあの恐るべき黒死病ではなく(その忌まわしい脅威は既に畏国から去っていた)、原因も分からない不可解な病であったのだが、その得体の知れない不気味さに、かえって使用人たちは恐れおののいた。いつもは暖を求めてホールに集う彼ら使用人や、見習いたちも、夫人が床につくようになってからというもの、階下に籠もりがちになり、ついには夫人と、その家族だけが取り残されるように身を寄せて暮らしていた。そのため、広いホールの静謐な空間に、死の香りだけが漂っていた。
 夫人の具合が良い日などはヴォルマルフは、妻を伴って外出をした。階段を降りる時などは必ず、妻を、ほとんど抱きかかえるように自分の肩によせて「気を付けて」といたわるように声を掛けるのだった。メリアドールはそのような、礼儀正しい恋人同士のような振る舞いをする父母の姿をいつも見ていた。

「私はもうじき死ぬのかしら。肉体が朽ちて、骨だけが残る頃、私はどうなっているのかしら」
「おまえ、何てことを言い出すんだ。その時は私ももういないさ」
 ある時の夫妻の会話である。
「でも、あの子たちはきっとまだ生きているわ。私、あの子たちの成長を見られず死んでいくのが怖いのよ」
 この時、彼女はひどく苦しんでいた。長いこと病魔にむしばまれ、もう抵抗する力もなくなった彼女は、すっかり四肢を寝台の上に投げだし、まだ年端もいかない子供たちの成長を案じていた。ヴォルマルフはそばに付き添い、膝をついて彼女の汗を拭っていた。彼女がひどく苦しげにしていた一方、彼もひどく疲労していた。病身の妻を養うのは並大抵のことではなかった。何々の臓物が病に効くという噂を聞けば、彼自ら弓を引いて狩りに出かけ、捌いて料理もした。どんな病でも癒せると評判の僧侶が居れば(そういった輩は聖都にはうじゃうじゃいた)、呼びよせて祈祷をさせた。妻の看病のためなら何でもした。しかし彼女の病状は昂進していく一方で、それに比例するように、彼は体力的にも精神的にも憔悴していった。彼自身が妻と同じき病に冒されていると知ったのもこの頃である。そして彼はもはや信仰にすがる他ないと、熱心に聖石に祈るようになった。
 彼は考え得る限りの献身的な看病を続けていた。もうそれ以上与えられるものは何もなかった。彼女も何も求めようとしなかった。そうして、すっかり死の準備をして了ったのである。
 ただ、子供たちだけがそうした死の影から取り残されていた。メリアドールは父の苦労を知っていたが、しかし父が母に対して不満を片言隻語でも漏らしたことはなかったと記憶している。彼女は時々、弟をあやしながら病の母を訪ねた。そしてその度に、母に取り憑く死の空気を実感するのだった。夫が妻にそうしたように、母は子たちに無類の愛情を捧げていたため、メリアドールたち姉弟は母の愛に守られていた。ヴォルマルフが妻に疲労と不満とを述べることがなかったように、彼女の母も、娘らに対して苦痛と恐怖とを見せることはなかった。であるから、メリアドールは母がすっかり安心して寝ているのだと思い、彼女も安心して寄り添って眠るのであった。しかし、一方父親はというと、傍目に看ても疲労と困憊の極みにあり、先が長くないであろうと容易に想像がついた。メリアドールは、両親亡きあとの自らの生活をぼんやりと思っていた。それ――両親が自分たちを置いたまま死んでゆく――は全く想像できないものであったために、ただ漠然と思い描くことしか出来なかった。
 そういった漠然とした不安に機敏に気づくのは母親の愛のなせる業である。彼女はヴォルマルフに再び問うた。私たちが死んだらあの子たちはどうなるのか、と。
「私が責任を持って成長を見届けよう」
「必ず、約束してちょうだいね」夫人は念を押した。
「命懸けても、その約束を果たそう」
 それがヴォルマルフの返事だった。

 まもなくして夫人は亡くなった。葬儀に際して、故人の亡骸を棺に移すため、ヴォルマルフは愛妻を抱き上げた。二人で出歩く際にいつもそうしていたように、自分の肩に寄せるように抱きかかえ、そして小さく「気を付けて」と呟いたのだった。メリアドールは、両親の姿を見て、二人は今も、互いに手と手を携えてこの世ならざる楽園を逍遙しているのだと思った。
 それからしばらくの間、母を失った悲しみにメリアドールは泣いていた。父の具合も良くなかった。それでも彼は、妻の追悼の礼拝をを済ませると墓を作り、墓前に花を撒いていた。来る日も、来る日も忘れることなく散華していたため、そこは常に様々な生花で彩られていた。カスミソウ、ツタ、ツリガネソウ、バラ、等々、墓前にせっせと小さな花園をこしらえていた。その習慣は何年も続いていたが、ある日を境にぱったりとやめてしまった。
 メリアドールは、母亡きあと、自分が急に大人になったような気がした。姉として弟を守らなければと思い、そして父を看なければ、とも思った。それほど、その時の父親の姿は衰弱して見えた。いつものように、父が花を携えて母に逢いに出掛けた後、メリアドールもそっとその跡を付けた。母の墓の前にうなだれる父の姿を見、そしてこう言おうとした。父さんは私が守る――しかし、彼女が口を開く前に、彼女は、長らく母に向けられていたあの無償の愛をもって父に抱き上げられた。
「メリアドール、私の心配はいらない。私はおまえの母さんに約束した。おまえたちを育て、成長を見守ると。さあ、その約束を果たそう」
 その時、彼女の眼に映ったのは、紛れもない、孤高の騎士の姿だった。その後、姉弟は父に導かれるように育てられ、そして父と同じように騎士になった。

 後になってメリアドールは、父が長年の習慣をやめたその日が、自分たち姉弟が騎士に叙された日だったと思い出したのだった。父が母の墓前に花を撒いた最後の日には、赤い薔薇が一輪だけ供えられていたのを、メリアドールはあれから何年もたった今でも鮮明に覚えている。

 

 

 II

 ヴォルマルフ・ティンジェルは信心深い人間だった。神殿騎士になり、勇士に数えられ、聖石をいただいた時さえ、感謝を忘れることはなかく、常に謙虚の心を胸にいだいていた。しかし事はうまく運ばなかった。彼の妻、ティンジェル夫人の不治の病が発覚したのは、彼が聖石を拝領した直後だった。彼はますます信心深くなり、毎日聖石に向かって熱心な祈りを捧げるようになった。彼はその姿を誰にも見られないように、部屋にこもって祈っていた。そのような慎み深い神殿騎士団団長の噂は教会を統べる教皇のもとに届き、そうして彼はさらなる栄誉を授けられるのだった。
 ある日、いつものように、彼が一人静かに聖石に祈りを捧げている時、彼の耳にどこからか聞き慣れぬ声が届いた。
 ――お前は何者か。
 ――私は一塊の土くれです。
 姿もないその声は神々しい響きを持っていた。ヴォルマルフは謙虚に答えた。しかし、声の主はそれに満足せずに、彼の地位を聞き出した。彼が数多の神殿騎士を束ねる団長であることを知ると、声の主は満足げであった。
 ――人の子、お前は統制者に相応しい権力を持っている。これからも出世するであろうな? 我が思うに、お前はそれだけの気概を持っている。
 ――私はこれ以上の栄誉など望みませぬ。私が望むのは、ただ妻の病の平癒だけ。
 ヴォルマルフは信心深い人間だった。けれど、神を愛するのと同じように、彼の家族――妻とその子供たち――をこの上なく愛していた。彼の妻が病に罹り、死に瀕しているという現実は、彼を何よりも落胆させた。彼は必死で聖石の主に頼み込んだ。妻の病を癒して欲しいと。己の栄転はもはや望むものではないと。しかし、聖石の主はそれには答えなかった。
 ――それは叶わぬ相談だ。なぜなら、契約にはそれ相応の代価が必要だからだ。何の権力も持たないあの女に、それは払えない。
 ――ならば私が払う。私は何でも差し出せる。家族のため、何も惜しいものはない。私の命を捧げても良い。
 ――ならぬ。契約は契約者と取り交わすもの。誰かの介在をもって契約を交わすことは出来ない。我を喚び出したのは他ならぬお前自身。我はお前のためになら契約を結んでやろう。
 ヴォルマルフは絶望に打ちひしがれた。彼が家族のために出来ることはもはや何もないと知らされてしまったためである。
 ――人の子よ、何故それほどまでに落ち込むのだ。
 ――私は、己の無力さを知ったからです。私は死にゆく妻を、為すすべもなく、ただ見守る他はないと知ってしまったのです。
 ――全くその通りだ。人間は無知、そして非力な者どもだ。我らからすれば、所詮はただの塵芥だ。しかし、土からなる存在が何故、言葉を発し、生きていられるのかを考えたことがあるか?
 ――はあ……。
 ――それは我らが霊を吹き入れてやっているからだ。我らはお前たちに息吹を吹き入れ、そうして塵の子は初めて言葉を発せられるようになるのだ。
 ――私にはあなたの姿は見えません。しかし、私にはあなたの声が聞こえます。あなたは聖石に宿っている。石は肉体にはならない。言葉を発する口を持たずして、どうして言葉を発することが出来るのでしょうか。
 ――左様。我らは肉体を持たない。我らは決して、朽ちるべき肉体を持たないのだ。言うならば、我は肉体なき霊魂そのもの。霊、すなわち息吹そのものなのだ。永久に息吹を与え続ける存在だ。この意味が分かるか、人の子よ?
 ――つまり、永遠の命を有していると。
 ――お前はなかなか賢い。我は気に入ったぞ。
 ヴォルマルフは気に入らなかった。家族のためなら、己の命を差し出しても良いとさえ思っている彼にとって、永遠の命という響きは何の魅力も感じなかった。そればかりか、ひどく厭わしいものに感じられた。彼はこの声の主を、尊い存在として受け入れていた。しかし、彼の激しい落胆は、信仰に溢れたその心に一点の曇りをもたらした。すなわち、聖石に対する不信の念が生まれたのであった。

 夫人が歿した。彼のもとには、彼女と交わした約束と、彼女の忘れ形見である子供たちとが残された。彼はまだ幼い子供たちの成長を見届けるつもりであった。しかしそれは叶わぬ願いであった。彼もまた、夫人と同じき病に罹っていた。彼は憔悴していた。先の見えない暗路で、一人もがいていた。しかし、その絶望的な状態は彼に鋭い洞察をもたらした。元々、彼は騎士団を束ねる程の力量と洞察力と度量とがあったのだが、妻の喪失と自身の病とを経て、それは一層研ぎ澄まされていった。そして、鋭い感覚を培うに反比例して、信仰心が失われていった。もはや、聖石は拝み奉るべき聖遺物ではなくなっていた。にもかかわらず、聖石の主は、ヴォルマルフの許に、形なき姿を現し続けていた。
 ――どうだ、紫紺の衣を纏った騎士よ、我と契約を結ばぬか。
 声の主は再三、問いかけた。その度ごとにヴォルマルフはその問いを退けた。というのも、彼の深い洞察は、聖石の主が尊ぶべき存在ではないということを悟らせていたからである。幾たびも「契約を」と問うその声の主の善悪は、ヴォルマルフには判断しかねたが、むしろ一家に病魔を振り撒いた存在なのではないかとさえ思い始めた。
 ――我と契約せば千古不易の知識、永遠なる命が得られる。
 三度、聖石の主が問いかけを発した時、ヴォルマルフはとうとうその問いを退けなかった。彼には選択の余地がなかった。既に彼の魂の灯火は尽きかけており、ついに彼は自らその契約を取り交わす決心をしたのだった。
 ――私は永遠の命が欲しい。今すぐにでも欲しい。その命が手にはいるのなら、進んでその契約を結ぼう。
 ――ほう。今まで永遠の命など不要と散々我を退けてきたが、今になって死ぬのが怖くなったか?
 ――まさか。私は妻を失った。だが、子供たちがいる。彼らを失うわけにはいかない。そのためなら、私は悪魔にもこの命を差し出す。
 彼は、この声の主が悪魔じみた存在であり、ここで己が果ててしまったらその魔の手が己の子らに及ぶであろうと恐れていた。けれどその脅威を退けるだけの力を彼らはまだ持っていない。それは子供たちがまだ、幼い子であるが所以である。庇護の手を差し伸べ、守り、自ら脅威を退けられるよう導く必要があった。それはヴォルマルフが妻と交わした約束であり、彼自身が感じている使命でもあった。
 ――命で命を買うか、なんとも不可解なことだ。だがそれが契約というもの。よかろう。だが、人の子よ。誤解するな。我が求めているのはお前の命ではない。我はお前の権力者たる気概を理解した。高く評価しよう。だから我が欲するのは貴様の命ではない、肉体を所望する。我が欲するのはただそれだけだ。命はお前のため、残しておいてやろう。
 ――人間は、肉体がなければもはや人間ではない。
 ――全くその通りだ。それが土からなる人の子の定めだ。
 ――ならば、お前の欲する契約は私にここで死に果てよと言うことだな。それは契約ではない、脅迫だ。永遠の命をくれてやると言うが、その実、私を殺そうとしているだけではないか。
 ――我が言葉に偽りはない。お前は我と渾然一体となり共に生き続けるのだ。我らは塵の肉体を持たない。我らは霊の息吹そのもの。塵に霊を与えることが出来る存在。その働きこそが我らの実相なのだ。働きであるがゆえに、我らは形なき、見えざる存在だ。肉体を得て、初めて実在を得られる。
 ――良いだろう。私の肉体をくれてやる。好きにするがいい。ただし、命は私のもの、それが契約だな?
 ――我が言葉に偽りはなし。よかろう契約成立だ。ただし、聡明なお前のこと。己のものとして保有できない肉体を持った命の行く末が分からない訳ではないだろう。
 ――無論。だが誤解するなよ、私がこの契約を望んだのは、私のためではない。私の子たちのためだ。
 ――我が、彼らを殺そうと言ったらどうする。
 ――見くびるなよ。私はあの子らを育てるためにこの肉体を棄てるといった。私が育てる子らが悪魔に屈するはずがない。
 ――重畳重畳! だが、どうだろうか。我が英知を甘くみない方が身のためだと忠告しておこう。
 聖石の主の言葉には気迫があった。それこそ、彼が人を超越した存在であるが故に発せられる気迫なのである。一方で、ヴォルマルフの語る言葉にも真に迫るものがあった。彼は全幅の信頼を我が子らに寄せていた。――後に、両者の気迫に偽りがなかったことが分かるのだが、それはこの契約の儀から何年も経ってからのことである。
 こうして、騎士ヴォルマルフは契約を交わした。彼には、その脅迫的な契約に際して選択の余地がなかった。だが、彼は自らの意思でその契約を結んだのであり、彼にはまだ、行使できうる重大な権利が残っていた。しかし、その権利を行使するまでに五年の歳月を待たねばならなかった――

 五年の後、彼の子たちは騎士になった。その日、彼はいつも以上に子供たちに厳しく接した。騎士として一人前になった時、その身を守ることが出来るのは己自身だけであると繰り返した。そして、彼は護身のための剣を愛する娘に手渡した。それは守護の秘剣である。
「この剣は、お前の身を守る盾となる」
「ありがたく拝領いたします」
 ヴォルマルフは、その瞬間に、子供たちがもはや己の手を離れて巣立っていったのだと理解した。――とうとう、約束を果たしたのだった。
 果たすべき使命を全て終えたと彼が悟った時、いよいよ彼はその権利を実行に移した。それは塵の肉体を持った人間にだけ許された特権、つまり彼は剣を手に取り、自らの身体を刺し貫いたのであった。霊の存在、息吹そのものである神――悪魔ですらその権利を持ち得なかった。それがため、その権利は、「聖霊に逆らう罪」として人々に恐れられている。
 だが、聖石の主はむしろその恐るべき行為を高く評価した。ヴォルマルフのささやかな反抗は、聖石の主を弑するには至らなかったが、彼――統制者と呼ばれる――を満足させるには十分であった。聖石の主はますます、この勇士の肉体を得ることを望んだ。そしてその通りになった。しかし、その統制者が最後まで理解できなかった事は、ヴォルマルフが行為に至った理由、つまり、死を望まず契約の果てに永遠の命を得た男が不可解にも自ら死を選ぶに至った経緯である。それは、その場に残された、鮮血に染まった一輪の薔薇と大いに関係があったのだが、人間を超越した者、統制者と呼ばれる聖石の主は、そういった人間のささやかな機微には気付かなかったようである。

 

 

III

 メリアドールは確かにヴォルマルフの娘だった。彼女の父親は、畏国の内紛の調停に一役買ったとか、はたまた教皇を殺したとか、自ら腹を割いて死んだとか、この上なく高価な聖石を持ったまま消息を絶ったとか、伝説の悪魔を蘇らせたとか、とかく噂の絶えない人物であった。その途方もない数々の噂はイヴァリースを離れた近隣諸国にもやや伝説じみて届いていたため、故国を離れて暮らすメリアドールの生活の中から父親の影が消えることはなかった。しかし彼女は自身の経歴について、また、父の行いについて直接語ることは滅多になく、穏やかに、つつましやかに暮らしていた。実際、彼女の過去を知らない者は皆、彼女のことを異国からやって来た、物静かで、礼儀正しい婦人だと思っていた。彼女がかつて、畏国で一瞬のうちに栄光と凋落とを人々に知らしめたあの神殿騎士団の精鋭だったとは誰が想像できただろうか。それも、あのヴォルマルフ・ティンジェルの名前を父に持っているとは、今の彼女の振る舞いからは全く知り得ないことだった。
 それでも、メリアドールは時折、父について尋ねられることがあった。大抵の者は(彼らの多くは畏国人でないこともあってか)、ミュロンドの騎士団長はどのような人物であったのか、彼の業績は噂どおりなのか、聖石にまつわる真偽、といったことに興味を持っていた。そういった質問に対しても、彼女は不快な顔をすることなく、丁寧に答えていた。つまりこうである。ヴォルマルフは自分の父であり、その業績を知りたいのであれば最近上梓された『デュライ白書』を読んで欲しいと(ただし、この書物は時を待たずして禁書に処されたので入手は容易ではない)。聖石は自分も一時所持していたが、つまりそれはクリスタルで、クリスタルである以上、そこには死せる人の魂が宿るものである、といった返答である。
 それでも満足しない者、あるいはひどく攻撃的な性格で、あえて彼女を侮辱しようと考えている者はメリアドールに対して、彼女の父の悪口を述べたてた。まだメリアドールが故国に居た頃は、彼女に向かって石を投げる者や、あからさまに呪いの言葉を吐くもの、平然と唾を吐くような侮蔑的で不適切な行為をする者さえいた。流石にイヴァリースを離れるほど、そういった挑発行為は少なくなったが、皆無という訳ではなかった。けれど、彼女はそのような挑発に対しても平然としていた。それは、王や人々の上に立つ指導者らが、下々から投げつけられる無責任で身勝手な、それでいて的を得ているむき出しの批判に一人孤独に耐え、憎まれはしても誰からも感謝されない治世を行う心意気に近かった。彼女は孤高の獅子の心を持っていた。このような気概はまさしく父親譲りのものであったが、彼女がそのことに気づいていたのかは定かではない。

「婦人、畏国では戦乱によってただでさえ多くの血が流れたというのに、加えて、身勝手な思想を抱いた者らが無垢な人々を屠ったと聞く。政治の争いはまだ国を平定するという大義があっただろうが、高慢な思想を抱いた者らにその大義はあっただろうか? 然るべき裁きを受けるべきではないだろうか?」
 こういった問いを発する人々は、メリアドールのことを“婦人”とは見ていなかった。その大抵は彼女のことを、血に飢えた教会の子飼いの“犬”くらいに思っていたのである。勿論、その教会の名の下に虐殺事件を引き起こした(と噂される)神殿騎士団団長ヴォルマルフへの非難が言外に含まれていた。メリアドールもそれに気づかない訳はなかった。が、彼女の艱難に満ちた人生は、感情――特に怒りや憤怒――を露骨に噴出する危険性を彼女自身に悟らせていた。また、彼女も父の行為のの大半は肯ずることが出来ないものであったと十分に理解していた。だから淡々と答えるのだった。
「人は各々、その魂の働きに見合った報酬を受けると考えます。たとえこの地の上でその報いを受けずとも、然るべき場所で然るべき報いを受けるでしょう」
「それはいささか抽象論にすぎませんかね。あなたは血を流し、不本意なままに殺される無辜の人々を見てきたはずだ。そしてその流血の惨事の要因に無関係だったとはいえないでしょう。具体的にはどうお考えで?」
「時に善良な人が時に悪魔と取り交わし道を踏み外し、時に非道な情け知らずの者たちが人知れず憐憫の涙を流します。他人から善人だ、悪人だ、といくら称されようと、その人の価値は分からないものです。しかし、人の根元にある魂はもはや飾りたてることが出来ません。その人を裁量するなら、外の衣で判断すべきではなく、魂を見極める必要があります」
「それでは、あなたがたの行いについて、あれは善ではなく悪だったと言うことも、悪ではなく善だったと言うことも出来ますね。あなたは善人に対して罪状を渡し、悪人に対しては酌量を与えるつもりですか。あなた方は教会の人間だった。人を裁くことは誰よりも長けているようだ」
「それは分かりません。人の為すことは決して人の域を出ませんから。真の裁きは人ならざる者の手にゆだねるべきです。私は正義と復讐にかられ、自ら私的な裁きを下したこともありました。手を下すことはいとも容易いのです。しかし、その判断が正しいものであったかなど、いったい誰が分かるでしょう? 私の醜い復讐心が私自身の価値判断をゆがめたように、人の手による判断が全く公平である保証はどこにもないのです。人はとかく外の衣に目がいきがちです。ましてその奥底にある魂の真意など、どうして知ることができましょうか? どうして他人の心を他人が知ることが出来ましょうか? 私も幾たびと判断を誤り、後悔をしました。人の為すことはこんなにも間違うのです。ですから、人が人を裁くのは人の身にはかなわぬことです」

 たとえもう二度と剣を持つ機会がなくとも、メリアドールは全く、騎士の心意気を分かっていた。それがは間違いなく、父親の教育の賜物であった。正しい行いをせよ、というのが父の教えだった。まっすぐに剣を持つ父の姿を見て、その父の剣捌きを受け継ぐように騎士になったメリアドールは、正義を重んじる騎士道にかなった生き方を心がけてきた。しかし、それは完全なものではなかったと、彼女は悔恨の念に駆られることも少なくはなかった。だが父親の薫陶を受けていた彼女の気質はどこまでも実直で、誠実なものだった。であるから、信じていた教会の不正を感じ、己の身体をもってでその不実な行為を目の当たりにした時には(彼女は実際に自身の目で見るまでは物事を判断しないという信念があった)、迷わず、教会に反旗を翻した。因果なことであるが、不実を許さぬ父親の教育により、不実な行為を働く父親に手をかけることになったのである。
 弟はついに父親に手をかけることが出来なかった。獣じみた異形の怪物の中に、物言わぬ父親の無念を感じ取ってしまったのである。彼はどうしても剣をふるうことが出来ず、とうとう剣を手放し、リオファネス城に果てた。しかし、姉は――メリアドールは、そうではなかった。彼女の決意は鋼のように堅く、何者も彼女の意志を変えることは出来なかった。父の成敗に向かう彼女の足取りに迷いはなかった。わずか二十数歳にして不惑の境地に達していたのであった。母の死に泣き、弟の死に嘆いた彼女であったが、父の死は彼女に涙をもたらさなかった。父親を墓に弔うこともなかったので、そこに花を供えることもなかった。故国を離れる前も、離れた後も、「私はヴォルマルフの娘である」ということを表明し続けた。父のした行為をことさらに述べ立てることもなかったが、弁明することもなかった。
 一つだけ、彼女の鋼の意志に逆らったものがあった。それは紛れもなく、父の死であった。彼女は父を討ち取るのだと確信し、そうしなければならないのだと言い聞かせ、また、それが出来る自信と決意があった。しかし、父の意志はそれを上回っていたと言える。なぜなら、彼は娘に引導を渡されることを拒否し、自ら命を絶ったからである。メリアドールは、まさか獣――あるいは父――が目の前で自ら腹を割いて血を流し、生命を絶つとは想像だにしなかったため、その瞬間、何が起きたのか全く分からなかった。どういった手法をとるにせよ、命を棄てるという恐るべき権利を行使するのは少なくとも人間だけであるとメリアドールは思っていた。そして、目の前の存在が獣であるのか、父であるのか、もはや何者なのかさっぱり分からなくなった。――だが、それはおびただしい量の血をまき散らしながら終わった。
 リオファネスの惨劇にしろ、死都の死闘にしろ、あまりに多くの血が流れた。父と、彼と一緒に身体を共にしたであろう何者かとの間に交わされた会話を彼女は知らず、そして今となっては知りようもないことだが、真実その血の報酬を父は受けるであろう、とも彼女は思っていた。それでも時折、亡き母のために毎日、毎日、律儀に花を手向け続けた、こぼれ落ちそうな程色あせた記憶の中の父の姿を思い出し、父のためにも、しみじみと祈りたくなるのだった。しかし、今更神に慈悲を乞うことも出来ず(又、そうするつもりもなかった)、誰にとりなしを頼むのかというと決まって彼女の母親なのだった。彼女はまもなく、遠い記憶の中の母と同じ年齢に達する。もはや親の庇護を求める年齢でもなくなった彼女であるが、その時ばかりは父母の許にすがりつく幼い娘に戻り、記憶の中の淡い色をした母の姿に向けて頭を下げ、こう祈るのだった。母よ、父は約束を果たしました。どうか、それに答えてください――と。

 

 

・「奥さんと子供たちを想う家庭的なヴォルマルフ」「メリアドールとイズルードの成長を見守るヴォルマルフ」「ルカヴィと対等に渡り合うかっこいいヴォルマルフ」「奥さんにお花を捧げる愛妻家ヴォルマルフ」「ハシュマリムに一目置かれているヴォルマルフ」というテーマに触発されて書きました。
・作品を提供してくださった澪鈴さん、ありがとうございました!