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*prologue

     

  

     

  

 ――鴎国首都ブラの王城にて

 イゾルデは城の地下の武器庫に逃げ込むと、その場に小さく縮こまった。部屋の四隅には剣やら槍やら斧やらが整頓されることなく無造作に積まれていた。イゾルデはその中から一本の長剣をそっと引き抜いた。それは深紅のドレスを纏ったレディには似つかわしくない物騒な武器だった。彼女は生まれて初めて持った剣の重さに驚き、少しよろめいた。
 彼女は不運なことにあと一時間もしないうちに死ぬ運命にあった。
 レディ・イゾルデ――彼女はオルダリーアの隣国<だった>ゼラモニア――今はオルダリーアの属州――の出身であり、父親はゼラモニアの名高き諸侯であった。オルダリーアによるゼラモニア併合に不満を持つ当地の諸侯の反乱をおそれたオルダリーア当局はゼラモニアの諸侯の妻子らを首都ブラの宮殿に招いた。つまり、<人質>を要求したのであった。イゾルデもその一人であった。彼女はブラの宮殿で何一つ不自由ない優雅な生活を送っていたが、それも祖国の服従あってのかりそめの自由だった。もし、ゼルテニアに独立反乱の気運が少しでもあろうものなら、彼女ら<人質>の命は保証されなかった。
 今、彼女はブラの宮殿の脱出を試みていた。大国への服従に耐えかねたゼラモニアがとうとうオルダリーアに対して挙兵したのである。彼女は祖国の動向を宮中の侍女らから伝え聞いた。ゼラモニアが反乱を表明したということは、つまり彼女ら<人質>の命が危ないということだった。イゾルデは彼女の世話をしていた侍女や小間使いたちにが戦さに巻き込まれないように安全な場所に逃がすと、自らも逃走をはかった。だが、どこへ逃げればよいのかさっぱり分からなかった。
 イゾルデは生まれてからこのから二十数年をブラの宮殿で過ごしていた。閑雅で享楽的な宮廷人たちと一緒に暮らし、イゾルデはすっかり楽観的な姫様暮らしが板に付いていた。しかし、いくら苦労知らずの姫様暮らしに慣れきっていたイゾルデであっても、彼女の祖国ゼラモニアが大国オルダリーアにどうあがいても太刀打ち出来るはずがないと思えるだけの理性は残っていた。彼女は今、城の地下の武器庫で剣を握りしめながら、父は気が狂ってしまったのではないかとさえ思っていた。父はどうして家族を見捨てて勝ち目のない戦さを挑んでしまったのだろう。ああ、私はあと一時間もしないうちにオルダリーア兵に殺されるんだわ――イゾルデの状況は絶望的だった。
 彼女が震える手で剣を握りしめている時、廊下に足音が響いた。誰かが近づいてくる。イゾルデはその足音の主が何者であるか分からなかった。逃げ出した<人質>を捕らえにきた城の衛兵か、それともオルダリーア側の兵士が城に乗り込んできたのかだろうか。父が敵国に捕らわれた娘を助けに颯爽と現れる――そんな奇跡的な展開は想像できなかった。名もなき騎士が捕らわれの姫を助けに来てくれるのは、吟遊詩人の歌うロマンスの中だけのことなのだ。こんな馬鹿げた空想にふける暇があるのなら、神に祈った方がまだ有益であるとイゾルデは思った。
 扉を叩く激しい音がした。武器庫に鍵はかかっていたが、蹴破られるのも時間の問題だった。イゾルデは身構え、剣を力強く握った。戦い方は全く知らなかったが、こうして剣を構えておけば少なくとも威嚇にはなるかもしれない、とわずかに願いながら。
 とうとう扉が破られた。現れたのは長身の甲冑姿の騎士だった。土埃で汚れた白いマントを羽織っていた。相手の騎士は武器庫に人が居ると思っていなかったのか、イゾルデを見つけると驚いてその場に立ち止まった。
 イゾルデはおそるおそる口を開いた。気分はさながら死刑執行前の罪人のようだった。
「騎士さま、あなたはどなたですの? ゼラモニアの方?」
「いいえ」
 その返事を聞いてイゾルデは身震いした。ではこの人はオルダリーアの兵士だわ。神よ!
「――では、オルダリーアの方ですの?」
「いいえ」
 その答えを聞いてイゾルデはその場で硬直した。ゼラモニアの兵士でもなく、オルダリーアの兵士でもなければ、この男は一体何者であるか。
「私はゼラモニアの者でもオルダリーアの者でもありません。私はあなたのお父様の名前のもとに、イヴァリースより来ました――バルバネス・ベオルブです」
 イヴァリース。それはゼラモニアのさらに向こうにある大国だ。でも、なぜイヴァリースの騎士がオルダリーアに居るのだろうか。その騎士がなぜ父の名を?
 バルバネスと名乗る騎士は兜を外した。兜の下の凛々しい顔を見てイゾルデは驚いた。事情はさっぱり分からないが、なんて端正な顔立ちをしているのだろうか。彼は長いブロンドの髪を後ろで無造作に束ねていた。額に汗がにじんでいた。そして、やっと彼女は気づいた――バルバネスと名乗る男はイゾルデの父親の名前を出した。つまり、この人はオルダリーア兵を倒して私を助けにきてくれたのだ!
 バルバネスは、自分のマントを外すと、イゾルデにそっと羽織らせた。イゾルデはその時、彼の白地のマントに緑の獅子刺繍でほどこされているのに気づき、獅子がイヴァリースの王家の紋章であるということを思い出した。
「あなたがレディ・イゾルデですね?」
 バルバネスの問いかけにイゾルデは「はい」とだけ答え、差し出された手を取る。
 この騎士さまは私の手をとって私の祖国へ連れていってくれるのだ! 自分はもはや殺されることなく、あとはこの騎士に全てを委ねればよいのだと思うとイゾルデは安堵のあまり体中の力が抜けた。なんて素晴らしいことかしら。無事ゼラモニアへ帰れたら城に来ている吟遊詩人に少しは敬意を払おうと彼女は密かに誓った。なぜなら、彼らの語る物語に真実があると分かったからだ。
「いやあ、城中を探しましたよ、レディ! しかしまさか武器庫にいらっしゃるとは!」
「あら――」
 イゾルデは自分が剣を手にしたままであることを思い出した。数分前まで彼女は生きるか死ぬかの必死の思いで剣を握っていたのだ。けれど、もうその心配はどこかに消え去っていた。突然現れたこの素敵なブロンドの騎士に任せれば、全てが大丈夫なように思えた。
「レディ、こんな場所で何をしていたのですか。まさか剣を持って戦うおつもりでは――」
「ええ、私も加勢しようと戦いの準備をしていたところだったのです」
 殺されるかもしれないという不安が消し飛んだおかげで、イゾルデは持ち前の明るさを取り戻した。ブラの宮廷に群がる騎士たちと楽しくおしゃべりをしていた日々を思い出した。すっかり安心したイゾルデは剣を棚に戻すと笑って答えた。「騎士さま、私も一緒に戦いたいのですが、あいにく私にぴったりな鎧がないようでして。オルダリーアの騎士たちがみんな持って行ってしまったようですわ」
 イゾルデの返答にバルバネスはほほえんだ。
「それは頼もしいお姫様だ。それでは私の護衛は必要ないかな?」
「いいえ! あなたのような騎士さまに護衛してもらえるのはとても光栄なことですわ! それに私、生まれてからずっとブラで暮らしているのです。ゼラモニアへの行き方も知りません――あなたのエスコートなしには故郷へ帰れませんわ」

  

  

  

>Chapter1