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*chapter5

     

  

     

  

 王家に嫁ぐと分かってから覚悟はしていたが、婚礼の準備はとにかく煩雑だった。王家のしきたりは随分とややこしい。それに加えて、アンセルム王子とイゾルデの婚約が公表されるとすぐ、彼女のもとに数え切れないほど多くの役人や貴族たちが挨拶にきた。早くも未来の王妃に取り入ろうとしている狡猾で抜け目のない連中だ。こういう人たちって相手にすると面倒くさいのよね……ルザリアの宮廷にはこんなに出世欲にまみれた連中しかいないのかしら。イゾルデはサー・ヴォルマルフの穏やかな純朴さが恋しかった。だから王子から、誰かにルザリアを案内させようと言われた時にはすかさず「是非サー・ヴォルマルフにお願いしたい」と答えたほどだった。
「――それでは、イゾルデ様、いかがいたしましょうか?」
「ああ、ごめんなさい。少しぼんやりしていて……何の話でしたっけ?」
 イゾルデは部屋で婚礼の時に着るドレスの試着をしていた。婚礼に際して、花嫁にふさわしいドレスを新しく仕立てるのだ。イゾルデは婚礼衣装を着たまま、もう二時間も立ったり、座ったりしていた。そしてイゾルデが試着しているその場で何人ものお針子がレースを縫いつけていた。
「――お裾の模様と、レースの種類のことです、イゾルデ様。いかがいたしましょう?」
 侍女がイゾルデに装飾箱を差し出した。中には大粒の真珠がぎっしり詰まっている。「こちらの真珠でお裾を飾ろうかと思うのですが……イゾルデ姫様のために最高級のものをご用意いたしました」
 裾に真珠ですって! 歩く度にこぼれ落ちてしまいそうだわ。きっとアトカーシャ王家の王庫には財宝がぎっしりつまっているんだわ。
「お任せするわ。私には王家に嫁ぐ花嫁がどんなドレスを着ればよいのかさっぱり分かりませんもの」
 イゾルデがそう答えると、すぐに侍女はドレスの裾を作っているお針子たちにてきぱきと指示を出した。一体どんなドレスができあがるのか、イゾルデには皆目検討がつかなかった。唯一イゾルデに分かるのは、このドレスの試着作業があと数時間は続くということだけだった。本物のお姫様は着替えだけで一日が終わるというが、それもあながち間違えではなさそうだ。
 イゾルデはそっとあくびをかみ殺した。自分のドレスを作るために何人もの娘たちが働いているというのに、ここで自分一人が悠々と居眠りをするわけにはいかない。でも誰か話し相手がいないと退屈で寝てしまいそうだった。
「イゾルデ様、お部屋の外に殿方がいらっしゃっています」侍女がイゾルデに言った。
「どなた?」
 この退屈を紛らわせてくれる人だったら誰でもいいわ。
「侍従長官のご子息のフランソワ様です。お着替え中ですので、伝言だけ承ってきましょうか」
「待って! ちょうど話し相手が欲しいと思っていたところなの。追い返さないでこっちへ呼んできてくださる?」
 相手が侍従官とあっては退屈な話しか期待できなさそうだが、この際えり好みはできまい――けれど、侍女がつれてきた黒髪の若い青年を見てイゾルデは自分の予想が外れたことを喜んだ。
「イゾルデ姫様、これは失礼。お着替え中でしたか」
「いいのよ。これからあと二時間は着替え中ですもの――はじめまして、フランソワさん。侍従官というからもっと年輩の方だと思っていましたわ」
「侍従官は私の父の役職です。私はアンセルム王子に仕える詩人です」
「あら、素敵だわ。そういう華やかな人は大歓迎よ。婚約を発表してからというもの、私のもとに長々しい挨拶をしにくるお役人の方々が多くてうんざりしていたところですの。詩人さん、今日はどんなご用で私のもとへ? あなたも私にご挨拶にいらっしゃっただけかしら?」
「いいえ、私は貴女を退屈させるために上がったわけではありませんのでご安心を――」
 イゾルデは詩人と名乗る相手の姿を見た。自分よりはいくらか年上だろうが、きっとまだ二十代の若い青年だった。長く伸ばした黒髪を肩のところで切りそろえ、切り込みの入った袖口からレースをのぞかせている。瀟洒な格好でいかにも宮廷の詩人という出で立ちだった。
「実は、わが友ティンジェルが貴女の手を引いてこのルザリア宮殿をご案内するはずでしたが、あいにく彼は具合が悪いとのことで、こうして私が代理で参上したのです。ですが――」フランソワ氏はイゾルデの格好をちらりと見た。「そのドレスでは外を歩けませんね」
「ええ……せっかく来ていただいたのに申し訳ありません」
「でも綺麗なドレスです。特に、その胸元の赤い薔薇のブローチが目を引く。お美しいですよ、レディ・イゾルデ」
「ありがとうございます。この薔薇は……殿下がプロポーズの時に私にくださったのです」実際に渡したのはサー・ヴォルマルフだったけれど。イゾルデは胸の内でそっと付け足した。
「そういえば、ルザリアに来てからとんとサー・ヴォルマルフの姿をお見かけしなくなったけれど、具合が悪かったのね。お熱でもあるのかしら。お見舞いにあがった方がよろしくて?」
「いいえ――借家暮らしなのでどうかそれだけは勘弁してくださいと彼は念を押していましたので……それに、姫様の姿を見たら、彼はますます具合が悪くなるでしょう」フランソワ氏は笑った。
「そう……お会いしたいと思っていたのに残念ですわ。宮廷で話し相手になってくださる方がいなくて退屈しているところなの」
「そうでしたか。ですが、姫様がご足労いただく必要は全くございません。帰ったらすぐにでもわが親友の尻を蹴り飛ばして出仕させますので、どうぞ好きなだけ姫様の相手に使ってやってください」
「ふふ、仲がよろしいのね。サー・ヴォルマルフとは長い付き合いなのかしら?」
「ええ、彼が上京してきた時からの付き合いです」
 イゾルデは自分の後ろでせっせとレースと真珠を縫いつけるお針子たちを見た。まだまだ時間は掛かりそうだ。このままフランソワ氏にしばらく話し相手になってもらおう。
「ねえ、フランソワさん。サー・ヴォルマルフのことをお聞きしてもよろしいかしら? ルザリアまでの道中、ずっとご一緒していたのに、あの方ったら恥ずかしがって全然ご自分のことを話してくださらないから。サー・バルバネスはたくさんお話してくださったんですけど……」
「きっと殿下の花嫁の隣で緊張していたのでしょう。あの通りわが友は口べたで不器用な人間ですので……彼のエスコートはご不満でしたか、姫君?」
「いいえ! 全然! とっても礼儀正しくて――むしろ丁寧すぎるくらいでしたわ」イゾルデは、ルザリアまでの道中を思い出して言った。
「それは何より」
「そういえば、サー・バルバネスは士官学校がどうのこうのおっしゃっていたけれど、サー・ヴォルマルフもそういう場所に通っていらしたのかしら。あの方は、自分の騎士団が持ちたいとおっしゃっていたわ」
「士官学校……あそこは騎士団に入っていずれは指揮官となるような大貴族の子息や武家の血筋の者が通う学校です。つまり――」
 フランソワ氏が語るところによると、サー・ヴォルマルフの父親はルザリア郊外の下級官吏であり、息子を廷臣にしようと思って宮廷の貴族のもとに送り込み騎士修行をさせていたとのことだ。そうして彼はめでたく騎士として叙勲され、王子の信頼も勝ち得て、今に至る……ということらしい。
「おそらく、わが友は騎士の心得として剣技を身につけたものの、一度も戦場に立ったことがないということを気にしているのでしょう」
 だからサー・ヴォルマルフはブルゴントの古城で盗賊に襲われた時にあれほど落ち込んでいたのかしら。
 イゾルデはルザリアまでの長旅を護衛してくれたサー・ヴォルマルフにささやかな恩返しがしたかった。サー・ヴォルマルフが騎士団を持ちたいと夢みていることは知っていたので、自分が嫁ぐアトカーシャ王家の権力を拝借して彼のために小さな騎士団を作ってあげられないものかと考えていた。けれど、サー・ヴォルマルフやフランソワ氏の話を聞くかぎり、騎士団を持てる人間は大貴族の子息や武家の血筋の人間に限られているようだった。つまり――
「サー・ヴォルマルフのことを騎士団長さまと呼べる日はほど遠いということね……。残念だわ――そうだわ、いいことを思いついたわ!」ぱっと名案が浮かんだイゾルデは手を打った。
「伯爵家のような大貴族の爵位を持っていれば騎士団を作れるのでしょう? だったらサー・ヴォルマルフが伯爵家のお嬢様と結婚して爵位を継げば良いのではないかしら? サー・バルバネスはサー・ヴォルマルフのお年でもうすでに父親になっていたとおっしゃっていたわ。フランソワさん、あなたのお友達に伝えておいてください。もしご結婚するおつもりなら、私が――私ももうじきアトカーシャ王家の人間になりますから――きっといいお家のお嬢様をご紹介致します、と」
「それでは、姫様のお言葉を一字一句違わず伝えておきます――」
 フランソワ氏はにこやかに笑った。

  

  

「ヴォルマルフ、姫からの伝言だ。『おまえ結婚する気はあるのか?』と」
「は? な、なんだ、出し抜けに……」
 ヴォルマルフが自宅のベッドで寝ていると、いきなりフランソワが上がり込んできた。ルザリア市街の役人通りにヴォルマルフが借りている小さな部屋である。
「姫はおまえが二十二にもなってまだ結婚していないのを嘆いておられた。しかし朗報だ、おまえにいいところのお嬢さんを嫁がせてやりたいそうだ――たとえば伯爵家のご令嬢とか」
「何なんだよ、唐突に。おまえは一体レディ・イゾルデと何の話をしてきたんだ」ヴォルマルフには話の流れがさっぱり分からなかった。
「どうせおまえが道中で延々と『自分の騎士団が欲しい』と語ってたんだろう? 役人貴族のおまえでも騎士団長になれる道はないだろうかと考えた姫様の気遣いだ。伯爵になれば騎士団が持てるからな」
「お、おい――私はおまえにルザリア宮殿の案内を頼んだのだぞ! なぜ私の家庭事情で盛り上がってるんだ!」
「いや、姫を迎えにいったらちょうど着替え中でな――」
「だったらそのまま引き返してこい! 婚前の姫君の部屋に入るなど失礼極まりない」
「姫さんが俺を迎え入れたんだ。婚礼衣装の準備に手間取っているようで死ぬほど退屈そうにしていた。ここは姫君の相手をして退屈をまぎらわせてさしあげるのが紳士のマナーだろ?」
「お、おまえ……まさかとは思うが、で、殿下より先にレディ・イゾルデの婚礼衣装を見たのか……」
 ヴォルマルフは絶句してベッドの上で悶絶しそうになっていた。王子の婚約者の部屋に軽々と入っていく親友にも問題はあるが、着替え中に若い男を軽々と招き入れる姫君も問題だ。どっちもどっちだ。しかも、私の結婚相手がどうのこうのと、二人は一体どんな話をしていたのだ?
「婚礼のドレスか? ああ見たよ。姫様に尻を向けて話すわけにもいかないしな。それはもう美しかったぞ。真珠とレースを――」
「黙れ、馬鹿者! それ以上言うな! 私は殿下より先にレディ・イゾルデの婚礼衣装を知るという不作法はおかさないからな――!」
 ヴォルマルフは頭の下にあった枕をつかむと、親友に向かって投げつけた。
「なんだよ」フランソワは飛んできた枕をさっとよけると、やれやれと肩をすくめた。「おまえが具合が悪いというから、代わりにこの仕事を引き受けてやったのに、元気じゃねえか。おまえが仮病を使って宮廷に上がらないから、姫は随分と寂しがっていたぞ」
「いや……仮病ではない。私は今、とても疲れて果てている。ルザリアまであのお転婆姫を護衛するのは本当に大変だったんだぞ」
 ヴォルマルフはベッドの上で親友に背を向けたまま話した。しばらくすると、ギシリとベッドがきしむ音がした。おそらく、そこにフランソワが腰掛けたのだろう。けれどヴォルマルフは振り向かなかった。
「おまえ……本当はあの姫様に惚れたんだろう」
 ヴォルマルフは答えなかった。
「惚れた女が主君の妻になる。それが見たくなくてこうやってふて寝してるんだろ? なのに当の姫様はのんきに構えて、おまえに結婚する気があるのかと聞いてくる始末」
 ヴォルマルフは何も答えなかった。答えたくなかった。だから、あえて話題をそらした。
「――私の縁談の心配をする前に、おまえこそ結婚したらどうなんだ。もうすぐ三十歳になるというのに」
「俺か? 俺は別に。結婚せずとも、愛した女はいるしな……」
「……そうか」
 そこでふっつりと会話は途切れた。ヴォルマルフは親友の女性関係についてあえて詮索するつもりはなかった――何故なら、自分のことですでに手一杯なのだから。
 静かな沈黙を破って、「そういえば――」とフランソワが切り出した。「おまえが駆け落ちしたイゾルデ姫を追っかけている間、俺は父親と会っていた」
「侍従長官殿と? ということは陛下も一緒だな」
「そうだ。国王の病状がよくない。時々発作をおこしている」
「陛下がご病気だと? そんな話は聞いたこともないが」
「国王が病気で先が長くないと分かっては、戦争の士気が下がるからな……ごくわずかな側近の者しか知らない事実だ。だが国王の年齢も年齢だ。そろそろアンセルム王子が新国王となる日も近いだろう。婚礼と葬式が重ならないといいんだが」
 とうとうアンセルム王子が戴冠するのか……そう思うとヴォルマルフは感慨深い気持ちになった。けれど実際は不安の方が大きかった。オルダリーアとの戦争が終わらないまま国王が身罷ってしまったら、誰が戦争の指揮をとるのだろうか。アンセルム王子が剣を持って戦線に立つ姿が、ヴォルマルフにはどうしても想像できなかった。
「フランソワ、殿下がデナムンダ三世として戴冠なさった時、この国はどうなっているのだろうか……それまでに戦争が終結していると良いのだが」
「問題はそれだけじゃない……あの戦大王は世継ぎを作りすぎた。王位継承権はアンセルム王子にあるとはいえ、アトカーシャ家から獅子の紋章を分け与えられた家がいくつもある。特に黒獅子と白獅子の紋章を与えられたあの両家の若獅子たちは遅かれ早かれ、いずれ王座を脅かすだろう。それぞれゼルテニアとガリオンヌの伯爵家の血筋も引いているのだからな」
「つまり、オルダリーアとの戦争が終わったら、こんどは国内で王座の簒奪戦争が起きるということか?」
「さあな。だが、その可能性は十分あるだろう。しかし俺たちが気に病んだところで何もできないしな……」
 ヴォルマルフは胸が締め付けられるようだった。レディ・イゾルデはやっとオルダリーアから逃れてきたというのに、嫁ぎ先でまた戦争に巻き込まれるかもしれないのだ。しかも玉座の奪い合いになれば、王妃となるレディ・イゾルデの命は誰も保証できない。最悪の未来を考えた時、ヴォルマルフは身体中の血が凍りそうになった。
「まあ、俺はそんなことを父親と話していた。で、おまえは何をしていたんだ? 天騎士と駆け落ちしたイゾルデ姫をどうやって王都まで連れてきたんだ?」
「ああ、実は、彼女はサー・バルバネスと駆け落ちするつもりは最初からなかったらしい……」
 ゼラモニアの古城であった一連の出来事をヴォルマルフは思い出していた。そして、枕元においたままのルビーの指輪を見た。王子から貰った指輪だ。これを見ると、レディ・イゾルデの胸元の深紅の薔薇と――同じ深紅の色をした天蝎宮のクリスタルのことを思い出す。頭の中から消し去りたい、苦々しい記憶だ。
「それで、そのあとは? 天騎士とは何も話さなかったのか?」
「……絶対に言わない」
 あんな醜態を誰に話せようか! 話したところで大笑いされるのが目に見えている。
 ヴォルマルフはベッドから親友を払い落とすと布団を頭からかぶり直した。完全にふて寝の体勢だが、親友の前で虚栄心をはってもしょうがない。
「結婚式にはちゃんと参列しろよ――一週間後だ」
 ヴォルマルフに追い出される形になったフランソワはそう言い残して出て行った。

  

   
 
 結局、イゾルデは婚礼の日までサー・ヴォルマルフの姿を見ることはなかった。
 式は王都近郊の聖堂で挙げることになっていた。この聖堂は、普段は王家の儀式で使われる由緒正しき大寺院であった。双塔と鐘塔を備え、内陣後方には袖廊や側廊や周歩廊まで設けられた巨大な聖堂だった。どっしりとした分厚い石壁は鮮やかな壁画で彩られ、柱からつり下げられた鉄のシャンデリアにはたくさんの蝋燭がともされていた。そのおかげで聖堂の中はほのかな明かりで満たされていた。
 結婚式は聖堂の中心に位置する主礼拝堂で執り行われる予定であった。イゾルデはそこで夫と結ばれ、晴れて王子夫妻として認められることになる。イゾルデは主礼拝堂の隣の控えの部屋に入り、そこで花嫁衣装に袖を通して婚礼の準備をしていた。侍女たちがイゾルデの着替えを手伝い、付き添い役の娘たちがイゾルデの婚礼服を切り花で飾った。一週間近くも掛けて仕立てあげた婚礼の衣装はおそろしく豪華なものであった。純白のドレスに輝くような真珠が惜しげもなく縫いつけられてる。一体アトカーシャ家の王庫にはどれほどのお金が眠っているのかしら?
「姫様、衣装の準備ができましたわ。とってもお綺麗ですこと」花嫁の付き添い役の娘に一人がイゾルデのドレスの裾を持ち上げながら言った。
「ありがとう」
 イゾルデは花嫁のヴェールを被った。もう王家に嫁ぐ花嫁の覚悟はできている。
「姫様は輝くようなブロンドのお髪ですもの。純白のドレスがお似合いですわ。王子様もこんなに素敵な花嫁様をお迎えするのなら、ミュロンド寺院で式をお挙げなさればよいのに」
「ミュロンド寺院?」
 聞き慣れない地名にイゾルデはヴェールの下から首を傾げた。
「最近ミュロンドの大聖堂が完成したんです。それはもう大聖堂と呼ぶにふさわしい立派な大寺院が建立されたんですよ!」娘は興奮気味に話した。どうやらこれが王都の娘たちの関心を引く最新の噂話らしい。
「このルザリアの聖堂も随分と立派だと思うけれど……王家の儀式で使うのでしょう? 私、こんなに大きな教会には初めて入ったわ」
 娘は首を振った。「いいえ! 違うんです――」そして両手を広げて言った。「もっと天井が高くて大きいんです。塔が天の彼方に向かって延びているようで……窓には色ガラスが使われていて、きらめく光が教会の中に降り注いでくるんです。王都でもガラスは貴重なのに、ミュロンドの大聖堂には色ガラスがあるんです! そのきらめく色ガラスのおかげで、大聖堂の中にはまるでこの世のものとは思えないほどたくさんの光が振ってきて……きっとミュロンドの大聖堂だったら姫様のドレスだってもっとずっと美しく輝きますわ」
 娘の語る言葉にイゾルデは興味を覚えた。このルザリアの聖堂も蝋燭の光で煌々と照らされている。それでも分厚い石壁に覆われた聖堂内部は薄暗い。でもミュロンド寺院は違うという。色付きガラスがあって、日の光が外から降ってくるなんて! その様はどんなに美しいことだろう。
「ミュロンドは遠いのかしら? 私も巡礼に行ってみたくなったわ」
「ええ、ミュロンドに行くには、ルザリア領の隣のガリオンヌ領の港から舟で渡るか、陸路でゴーグまで行って舟で行くしかないんです」
「どのみち舟で行くのね」
「はい、ミュロンドは黒珊瑚の海に浮かぶ孤島です。そこには要塞のようなお城があって、騎士様に守られて教皇猊下が暮らしてらっしゃいます」
「いつか夫に連れて行ってもらうことにするわ」
 新婚旅行が楽しみだわ。
 イゾルデはいよいよ婚礼の儀にのぞんだ。ヴェールをしっかりと被ると、顎を引いて伏し目がちに主礼拝堂へ入っていった。内陣は王子の結婚式を見物しに来た参拝客で埋め尽くされていた。階上席まで人があふれているわ。イゾルデは主礼拝堂に入った瞬間から、数多の群衆の視線が自分に注がれるのを感じた。はるばるゼラモニアからやってきたという王の二番目の妻になる女の素顔を誰も彼もが見たがっていた。けれどイゾルデは数え切れない人だかりを前にして怖じ気付くような性格ではなかった。不躾な視線を投げつけられたらつんとすまして、そのままにらみ返してやろうとさえ思っていた。
 結婚式に参列しているのは宮廷で暮らす貴族や大臣たち、それに王家の関係者、聖堂の近くに住む裕福な市民たちであった。参拝客は祭壇を取り囲むように輪になって群がっており、前列にいくほど高貴な身分の者であった。
 イゾルデは歩きながら人々の顔をそっと見ていった。まだルザリアに来てからの日は浅く、人だかりの中に知り合いは少なかった。けれど、その中によく見知った顔を見つけた。サー・ヴォルマルフだった。華やかに着飾る宮廷人の中で一人だけ地味な黒っぽい服を来ているので逆に目立っていた。隣には孔雀の羽で飾った帽子を被ったフランソワ氏が立っていた。フランソワ氏はイゾルデと目が会うと会釈をしてくれたが、サー・ヴォルマルフは終始うつむいたままだった。
 あの方はまだ具合が悪いのかしら? あとでフランソワ氏からサー・ヴォルマルフの暮らす家の住所を聞き出して押し掛けてみようとイゾルデは思った。それに、婚礼の準備で忙しくてサー・バルバネスから教えてもらったベオルブ邸に挨拶に行く時間もなかった。サー・ヴォルマルフを誘って一緒にベオルブ邸に遊びにいこうかしら。
 いけない、私ったらまた集中力を切らせていたわ。今は自分の結婚式に意識を集中させなければ。
 イゾルデは付き添い役の娘たちにドレスの裾を持たせながら、アンセルム王子の待つ祭壇へゆっくりと歩いていった。

  

  

「ヴォルマルフ、いい加減に顔を上げたらどうだ。それにまったく、僧院にいるような格好じゃないか。もっと華やかな服を着てこいよ。婚礼の場を葬式にでも変えるつもりか?」
「おい、やめてくれ。物騒なことは言わないでくれ」ヴォルマルフは慌ててフランソワをたしなめた。
 ヴォルマルフはフランソワと一緒にレディ・イゾルデの結婚式に参列していた。二人が聖堂に着いた頃にはすでに内陣に人の輪ができあがっていた。ヴォルマルフはその一番後ろに並んだ。
「こんな後ろに陣取っていては花嫁の頭も見えないぞ」フランソワはやや不満げだった。
「最前列に居るのは枢機卿や大臣たちだ。私にはそんな大仰な顔ぶれの中に混じる勇気はない」
「だからって後ろに引っ込んでいる道理もないだろう――おっ、姫様が通るぞ」
 式が始まり、花嫁が主礼拝堂に入ってきた。祭壇への道には赤い絨毯が敷かれており、純白のドレスに身を包んだレディ・イゾルデが花道をしずしずと歩いてきた。若い娘たちが花嫁の歩く道に花を撒いている。レディ・イゾルデはヴェールの下からヴォルマルフの方をちらりと見た。
「あ――」
 ヴォルマルフはとっさに顔を背けた。彼女はあまりに美しかった。ほの暗い聖堂の中で、彼女の歩く場所だけがまるで光り輝いているように見える。
 だめだ、これ以上見てはいけない――この美しさは王子のものなのだから。
 婚礼の儀式は順調に進んでいるようだった。けれど参列者たちは思い思いにおしゃべりに高じており、祭壇の前にいる司教の言葉はヴォルマルフらのいる内陣後方までは聞こえてこなかった。
 その時、礼拝堂の扉が強く開け放たれた。内陣後方にいたヴォルマルフはすぐにその物音に気づいた。ヴォルマルフの近くにいた参列者の何人かが異変を察知して彼と一緒に振り返った。
「何事だ?」
 ヴォルマルフの視界に息を切らした役人が飛び込んできた。獅子の紋章をつけた服を着ており、手には儀式用の槍を持っている。
「王の伝奏官だ……」ヴォルマルフはつぶやいた。
「ああ、しかも式の途中で乱入してくるとは相当な急ぎの用件らしい――おい、ヴォルマルフ、見ろよ。槍の先に喪章が付いている」
 フランソワが指さした先には、黒のリボンが翻っていた。誰かが亡くなった印だ。
「まさか……戦地にいる陛下の身に……」
 嫌な予感がした。ヴォルマルフは胸の動悸を感じ、その場で立ち尽くした。もし伝奏官が持ってきた報せが王の死であったなら――
 伝奏官は人の波をかき分け、祭壇の前へと走っていった。王子に報告しに行ったのだろう。突然の式の中断に、聖堂の中はどよめきで包まれた。参列者たちがざわざわと騒ぎ、何が起きたのかを知ろうとして祭壇へと詰めかけた。
「いけない! 殿下たちをお守りしなくては――」
 ヴォルマルフには、騎士として王子と姫を守る義務がある。ヴォルマルフも参列者たちを押しのけて、祭壇へと急いだ。
 アンセルム王子が参列者に向かって何かを話しているが、人々のざわめきにかき消されてしまいヴォルマルフには全く聞こえなかった。参列者たちの断片的な話し声がヴォルマルフの頭上に降ってきた。「本当に亡くなったのか?」「戦死だそうだ」「結婚は取りやめだとか」「婚礼が葬式になるとは」「可哀想に」等々。
 亡くなった? 一体何が起きたというのだ。ヴォルマルフはぞっとする思いを抱えながら祭壇へと急いだ。
「王子殿下! イゾルデ姫様! ご無事ですか?」
「ヴォルマルフよ……」
 アンセルム王子とレディ・イゾルデは祭壇の前に立っていた。レディ・イゾルデはまだヴェールを被ったままであり、二人とも呆然とした様子であった。王子の側には伝奏官が控えており、式を執り行っていた司祭はすでに後ろに下がっていた。
「何事です? この騒ぎは……」
「たった今、オルダリーアの戦地から戦死の報告が入った」アンセルム王子の手には伝奏官から受け取った手紙が握られていた。
「まさか! 陛下が……」
「いや、亡くなったのはエッツェル城城主だ……」
「私のお父様が戦死したのよ」
 レディ・イゾルデがヴォルマルフに言った。無表情で低い声だった。
 なんということだ!
「それは、あまりにも突然――お悔やみ申し上げます――し、しかし……何故、式が中止になったのです……?」
 ヴォルマルフはアンセルム王子とレディ・イゾルデの顔を交互に見た。王子は無表情で王からの手紙を持ったまま何も言わない。伝奏官も直立不動でその場を動かない。ただ参列者だけがざわざわと騒ぎ立てていた。
「この状況が分からない?」レディ・イゾルデがヴェールの下からきっとヴォルマルフをにらみつけた。「後見人のいない女と結婚する価値はない――あなたの王様はそう言っているのよ!」
 ヴォルマルフは、はっと息を飲んだ。
「やっとお分かりになって? この人たちはみんなで私を笑い者にしているのよ! 結婚式の途中で放り捨てられた哀れな花嫁のことを!」
 レディ・イゾルデは自らヴェールをむしり取り、もうこんなものは要らないと言うかのように床に投げ捨てた。そして、アンセルム王子が止めるより早く、その場から走り去っていった。祭壇に群がった人々は蜘蛛の子を散らすようにレディ・イゾルデの進む道をあけた。
「なんということだ……わが父上は彼女にとんでもない無礼を働いた……もはや取り返しもつくまい……」
 アンセルム王子は絶句していた。ヴォルマルフも言葉を失っていた。
 レディ・イゾルデは一度も振り返ることなく走り去っていった。けれど、ヴォルマルフは気づいてしまった。ヴェールを投げ捨てた時に、彼女の頬に一筋の涙の跡があったことを。あれは父親が戦死したから悲しんで泣いたのではない――侮辱に耐えかねて流した涙の跡だ。
 ヴォルマルフは無惨にも踏みにじられた花嫁のヴェールをそっと拾った。心が千切れそうだった。

  

  

  

>Chapter6