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*chapter7

     

  

     

  

 ヴォルマルフはベオルブ邸を出ると、大通りの宿屋にまっすぐ向かった。階下の酒場を仕切る給仕にむかってエールを一つ頼むと、そのまま樫のテーブルの上に倒れ伏した。ヴォルマルフはベオルブ邸でレディ・イゾルデと交わした会話を頭の中から追い出そうと必死だった。何もかもが気まずい状況だった――のはヴォルマルフ一人であった。レディ・イゾルデはヴォルマルフの切迫した告白に対して、きょとんとした顔で「どうなさったの?」と答えただけだった。ヴォルマルフの意図が伝わっていなかったのは確かだ。
 私は、彼女とイヴァリースで暮らしたい。愛する女性とともに――ヴォルマルフはようやく言うことができた。レディ・イゾルデのことを愛している、と。王子の婚約者だからと誰にも言えずに胸に秘めていた想いをやっと口に出すことができた――他人の家の玄関で。
 はあ、とヴォルマルフは深いため息をついた。タイミングを誤ったことを深く後悔した。
「お、姫を探しに行くと息巻いていた騎士がどうして酒場で飲んだくれているんだ。姫さんに逃げられたのか?」
「フランソワか……いつからそこにいたんだ?」
 後ろからこづかれたヴォルマルフは親友の存在にやっと気付いた。
「いや、さっきからずっといたよ。テーブルに頭を打ち付けている悪酔いした客がいるのが目にはいって、よくよく見てみればわが王子の騎士ではないか。ヴォルマルフ、酒場での奇行は宮廷の噂の種だぞ。こんなところで酒を飲んでいないで、帰って下宿のおかみさんにミルク酒を作ってもらったほうが良いのではないか?」
 フランソワは手にエールと鶏肉のパイを抱えており、ヴォルマルフの正面にどかっと座ると、一人で軽食をつついていた。肉汁のこうばしい香りがしても、ヴォルマルフは心が動かされなかった。
「私は酔っていないし、状況の判断ができるほど思考は明晰だ。心配されるまでもない。泥酔して堀で泳ごうとするスキャンダル騎士とは違う。私は王子付きの騎士として常に節度ある行動を心がけている」
「なら聞こう、なぜレディ・イゾルデと一緒ではないのだ?」
「何故一緒にいないのかと? 当然だ。姫君をこんな粗野な旅籠に連れてくるはずがないだろう」
「俺の質問の意図が分かっていないようだな。おまえの思考は既に混線しているぞ。堀に飛び込んで頭を冷やしたほうがいい」
「フランソワ! 私は――」
「姫さんは無事だったのか? 結婚式ではずいぶんと落ち込んでいる様子だったからな。まさかおまえは姫さんを見捨てて酒場で飲んでいるわけではないだろう?」
「もちろんだ。レディ・イゾルデは、ベオ――さる貴族のお屋敷に庇護を求め、無事に城に戻るまでの安全を自ら確保した。だから、私はそこで……」ヴォルマルフはそこで言いよどんだ。「……彼女を見送ってきた」
「ヴォルマルフ! おまえは教会の伝道師に転職するつもりか? 浅からぬ仲の男女がキスの一つもなしに別れるとは正気の沙汰とは思えないな」
「別れのキスだと!」ヴォルマルフはテーブルを拳で叩いた。「そんな粗野なことを! 私は貴婦人に対する正しい礼節をもって彼女を見送ってきた――いや、分かっているさ。おまえに言われなくても――……そうだ、私は、確かに、彼女を愛している――このあふれる思いの丈をどうにかして彼女に伝えなければならない」
 フランソワはヴォルマルフのことをじっと見つめた。
「だから、私は彼女にプロポーズをしようと思うのだ。だが……愛を伝えるためには、適切な場所と適切な贈り物が必要だ」
 ヴォルマルフはゆっくりと話した。たとえこの場にレディ・イゾルデがいなくても、彼女に対する言葉は神聖なものでなければならない。「まさか、先刻結婚式を逃げ出したばかりの花嫁に手ぶらで求婚するわけにもいかないだろう?」
 ヴォルマルフは言った――自分自身に向けて。だから、場を整えてもう一度――いや、レディ・イゾルデはあれがプロポーズだったと気付いていすらいないのだから、今度こそ――彼女の手を借りてキスをするのだ。彼女のほっそりとした白い手は、どんなに甘く、優しい感触だろうか……いや、彼女の許可がないうちはこれ以上の妄想はいけない。ヴォルマルフは理性の力で頭の中にふつふつとわき上がってきた邪念を振り払った。
「そうかそうか……ヴォルマルフ、おまえもとうとう家庭を持って父親と呼ばれるようになるのか。俺はおまえが騎士になる前から面倒を見てきたが、感慨深いな……」
「ま、待て! まだ彼女は結婚を承諾していない! 彼女の許可なしに先走った妄想をしないでくれ!」
「結婚をせずとも父親になれる方法はあるぞ。国王も実践している由緒正しき方法だ」
 親友の言及した行為を軽薄に想像してしまったヴォルマルフは耳まで赤くなった。そのような火遊びの結果である庶子が宮廷にはあふれている。これ以上不幸な子どもを増やしてはいけない……ましてやレディ・イゾルデとそんな情熱を交わすなんて! ヴォルマルフは騎士道精神にもとる激しい邪念を再び振り払った。理性ある騎士として、ふさわしい振る舞いをしなければならない。
 だが、ふさわしい振る舞いとは何なのだ?
 ヴォルマルフはベオルブ邸でレディ・イゾルデから返されたルビーの薔薇のブローチをそっと取り出した。ついなすがままに受け取ってしまったが、ヴォルマルフはこの薔薇を本来の所有者へ返すつもりでいた。
「その薔薇が姫さんへの贈り物か?」フランソワが尋ねた。
「そうだ――と言いたいのだが、これはもともとレディ・イゾルデのものだ。故あって私が預かっているが……きちんと返しにいかなければ」
「ならば、求婚者はその薔薇にまさる贈り物をしなければな」
「それが問題なのだ」ヴォルマルフはこめかみを押さえた。「私にはこんな宝石を買うお金もない。誇るべき家名もない。騎士の名を飾る称号もない――私はレディ・イゾルデのことを愛しているが、求婚者となれる資格はない」
 そもそも、レディ・イゾルデとアンセルム王子の間に婚約の背景には政治的な背景――ゼラモニアとオルダリーアの戦争の終結――があったはずだ。彼女が祖国の独立を望んでいることはヴォルマルフも痛いほど分かる。しかし、ヴォルマルフが彼女に結婚を申し込んだとして、レディ・イゾルデには何の利益もないのだ――これから先ヴォルマルフがオルダリーアとの戦争を終結させ、<天騎士>の称号を授かる英雄になるというのならば話は別であるが。
「もしも私がサー・バルバネス・ティンジェルのような騎士であれば、今すぐにでも彼女に求婚できるのだが……私が騎士団長になるまでにあと十年はかかる。プロポーズするまでに十年もかける求婚者など聞いたことがない!」
 絶望的な状況にヴォルマルフは頭を抱えた。フランソワは落ち込む友人の肩に手をのばした。
「ヴォルマルフ、安心するんだ。英雄が偉業をなしとげるのに十年かかっても、詩人は十行で物語を語ることができる」
「……何だ?」
「友よ、物語の結末は必ず愛で終わるのだ――なぜなら、愛の一つさえ勝ち取れない英雄は物語に歌うに値しないからだ」

  

  

「なんて長い一日!」
 イゾルデは王宮の寝室に無事にたどり着くと、すぐさまベッドに飛びこんだ。ぴんと網をはったマットレスの上に身体を転がすと、ビロード張りの立派な天蓋をぼんやりと眺めた。イゾルデはこのまま枕をふくらませてシーツと上掛けの間にもぐりこみたい衝動にかられた。だが、借り物のドレスを皺だらけにするわけにはいかない。何せこのドレスはサー・バルバネスの亡き奥方の形見の品なのだから……。イゾルデは疲れた頭でぼんやりと思った。王子様の花嫁になるはずだった私がサー・バルバネスの奥方のドレスを着ているなんて!
 イゾルデはベッドの上で、髪にささった太いヘアピンを引き抜いて結った髪をほどいた。髪は自分でなんとかできたが、ドレスを自力で脱ぐのはあきらめた。ベオルブ夫人の大事な服を破くわけにもいかない。部屋の中からでも大声で呼べば女中が飛んできてくれるだろうと思ったが、結婚式を逃走してきた後の気まずさもあり、イゾルデは誰とも顔を合わせず一人でいたかった。外の見張り番には、部屋には絶対に誰も通さないようにと念を押しておいた。
 私の人生はこれからどうなるのだろう。ブラを逃げ出してからというもの、イゾルデの人生はめまぐるしく変わり続けていた。今はこうして王宮のベッドの上でくつろいでいるが、明日の我が身のことはさっぱり分からない。イゾルデにできるのは、戦死した父のための喪章を作って、今すぐにでも荷造りをして王宮から静かに去ることだ。それから先のことは……考えただけで頭が痛くなるわ!
「――姫、入ってもよろしいですかな?」
「どなた?」
 来訪者の声にイゾルデは飛び起きた。誰も部屋に入れるなとあれほど言っておいたのに! 外の見張り番は居眠りでもしているのだろうか――そう思ってベッドの風除けのカーテンから顔を出したイゾルデは慌てて声をあげた。「王子殿下!」
 イゾルデはビロードのカーテンを押し開けると、転がり落ちる勢いでアンセルム王子の前へ飛び出てきた。ついでにヘアピンも床に飛び散った。「あら恥ずかしい……」イゾルデはヘアピンを足でベッドの下にそっと押し入れた。
「どうかお気になさらず。私も礼儀を欠いているのは承知の上ですから。しかし、夜分に姫の寝室に忍び寄るというたいへんな愚行をしでかしてでも、私はあなたに、どうしても言いたいことがあるのです」
「結婚式のことでしたら、もう何も言わないでください、殿下。私はサー・ヴォルマルフから殿下の十分なお言葉をいただきましたわ。それに、ああいうことは王家の婚姻にはよくあることなのでしょう?」そう言いながらイゾルデは部屋の隅から緑のビロード張りの椅子を見つけてきて、アンセルム王子に差し出した。王子は「姫、あなたに」と言ってイゾルデを椅子に導いた。そしてこう続けた。
「――いえ、よくあることではありません。よくあっては困ります。婚姻は神の前で誓う聖なる結びつきなのですから、そう簡単にほころばせて良いものではありません。それに、度重なる婚約不履行は外交上の問題にも障りがでますから……」
 アンセルム王子はどこか申し訳なさそうに話した。
「でも、私は――私たちゼラモニアの者はイヴァリースの大王様に文句を言ったりはしませんわ」そんなことが出来るはずもない! たとえ目の前に居るのが物静かで気性の穏やかな王子様だったとしても、この方はそう遠くない先に偉大なイヴァリースの王となるのだ。それに比べると、イゾルデの祖国ゼラモニアは何と小さな国だろう。イゾルデは国境近くの戦地に思いを馳せた。そこではデナムンダ王が、王国の騎士たちを束ねて戦っているはずだ。サー・バルバネスもそこで戦っている。あの騎士さまは無事だろうか……もしもの事があったら……イゾルデは胸が痛くなった。父が戦死したと聞いた時はとても驚いた。そしてあまり顔を合わせないまま逝ってしまった父を悲しんだ。まさか死ぬはずがないだろうと思っていた人が、あっけなく死んでしまったのだ。イゾルデは戦場で何が起きているのかを知る術はない。
「殿下……私、とてももどかしいですわ。戦地で命を掛けて祖国のために戦っている人がいるというのに、私にできるのはただこうして座っているだけなんて」
「戦場のことはわが父上に任せましょう。父は王座に座っているより戦場で雄叫びを上げている方が性に合う人ですから。私は随分と手を焼かされてきましたが……その頑強さは戦いの場では大いに役立つでしょう。ですから姫、ご安心を。わがイヴァリースはオルダリーアを必ず退けます」
「それは頼もしいですわ。ゼラモニアの平和は陛下のおかげです」
「そして私の役目は王の不在の間、王座を守ること。戦いで疲れた兵士たちの帰ってくるべき故郷を守ること――」アンセルム王子は窓枠にそっと身体をもたせかけると、窓の外を見やった。座っているイゾルデからは見えないが、王子の目にはルザリアの城下町が見えているはずだ。「しかし、私は戦地から帰ってくる兵士だけを迎え入れる心狭き人間ではありません。イゾルデ姫、私とあなたの間にはもう何の関係もありませんが、私はあなたをルザリアから追い出したりはしません――あなたが望むのなら、好きなだけこの国に居てください。安全を保障しましょう」
「殿下……そのご寛大な気持だけいただきますわ。でもこの国には誰も縁者はおりませんし、私はゼラモニアへ戻ります。戦地へ戻るより殿下のお膝元にいた方が安全だと分かっているのですが、そうするより他はないのです」
 ブルゴントに戻ったら、ヒルデ母様はどんな顔をするかしら。結婚に失敗して舞い戻ってきた娘を非難するだろうか。次こそは婚約円満成就を願って娘に大変な花嫁修業をさせるかもしれない。城主となった兄は戦地に行っているだろうから、当分は母と二人きりのレッスンになりそうだ。「忙しい毎日になりそうね……」ぼそりと呟いた。
「どうされました?」
「ああ、失礼しましたわ――少しばかり家族のことを考えておりまして」
「家族ですか……そうですね、いずれあなたも結婚して家族を持つことでしょう。その時は私から祝福を贈らせてください。これはあなたの結婚式を台無しにしてしまった私の償いです。悲しみの記憶が癒え、これからの人生に幸多きこととなるようにと、花嫁のあなたに――」
「まあ、まあ、殿下、そんな畏れ多いことを……それに結婚なんてまだまだ先のことですわ。私はこれからブルゴント城に戻って母と花嫁特訓をします。ですから、殿下の祝福をいただけるのはずっと先のことですわ」
「姫、あなたはお美しい。ゼラモニアまで帰る前に、きっとあなたはいくつものプロポーズを受けるでしょう。私の騎士たちもあなたを見たら一目で恋に落ちるでしょう。そしてあなたをゼラモニアへ帰すまいと必死でこう言うでしょう――私と一緒にこの国で暮らしてください、と」アンセルム王子は笑った。「私にはあなたの幸福な未来が見えますよ」
「うふふ、殿下ったら、ご冗談がお上手で……」
 王子の言葉をどこかで聞いたような気がする。そしてイゾルデははっと思い出した。サー・ヴォルマルフは別れ際に――ついさっきのことだ――全く同じ言葉を言っていた。
 ええ? まさか、あれがプロポーズだったというの? 
 イゾルデはかぶりをふった。サー・ヴォルマルフと話したのはベオルブ邸の玄関だった。どう考えてもプロポーズを受けるのにふさわしい場所ではない。だけど……もしかしたら、サー・ヴォルマルフのことなら――イゾルデはふっと笑みをこぼした。だって、不器用な方だもの。あれが彼なりの求婚の言葉だったのかもしれない。イゾルデは何故か、そう確信することができた。心の中に幸福な感情がわき上がってきた。私に彼のプロポーズを受ける覚悟はあるだろうか? 彼と共にイヴァリースで暮らす覚悟はあるだろうか? イゾルデはその答えを分かっていた。
「……姫? どうやら私は話題を間違えたらしい。レディの前でわが騎士たちの好色ぶりを話すのはいささか不調法だったようです。あなたの帰路がわが国の若い求婚者たちに邪魔されないよう、優秀な護衛を用意しましょう」
「ええ、そうですね……でしたら、サー・ヴォルマルフ・ティンジェルをお願いします。私、あの方といるとても楽しい気持ちになりますの」
 サー・ヴォルマルフにはもう一度会わなければならない。
「そうですか、ではヴォルマルフにはよく言っておきましょう。騎士の務め――つまりあなたを守り、尊重すること――を果たして、あなたを必ずゼラモニアのブルゴント城まで送り届けるようにと」
「ええ、お願い致しますわ」
 イゾルデは笑った。王命を拝受したサー・ヴォルマルフはどんな顔をするのだろう。そして私に何と言うのだろう。今から彼に会うのが楽しみだった。

  

  

「ヴォルマルフ様、殿下から伝言です。レディ・イゾルデがゼラモアニにお戻りになられるそうです。そしてヴォルマルフ様に護衛の騎士をつとめて欲しいとのことです」
「そうか……だが少し待ってくれ」ヴォルマルフは剪定はさみを持ったまま答えた。彼は今、王宮の薔薇園でプロポーズに使う薔薇を熱心に選別していた。「私は今、気を散らせない大事な仕事に取り組んでいる。殿下のもとにはにはすぐ行くと伝えておいてくれないか」
「ですが……できればお急ぎになった方がよいかと」王子の小姓はおずおずと言葉をつないだ。「姫様がもうこちらにいらっしゃってますので……」
「そう、王宮の騎士さまは王子の命令より薔薇を愛でる方が大切なのね」
「レディ・イゾルデ!」
 少年と入れ替わるように、レディ・イゾルデが姿を現した。ヴォルマルフは思わず声を上げ、赤面した。薔薇を捧げようと思っていた相手に下準備の場を目撃されるのは非常に気まずい。
「レディ・イゾルデ……私は決して職務放棄をしようと思っているわけではありません」
「あら、では、あなたは庭園管理人の仕事も兼業なさっていたのかしら?」
「いいえ、違います。私の仕事は王家のためにこの身を挺して戦うことです」
「そのはさみで?」
「いいえ!」
「冗談よ! 笑ってお流しになって」
 レディ・イゾルデはくすくすと笑った。まったく、彼女はヴォルマルフの手におえない姫君だ。彼女といると苦労が絶えない。
「そうよ、あなたは剣で戦う騎士さま。帽子に差すお花を自分で摘みにくるような方ではないわ。分かっていてよ。だからそのお花は贈り物に使うのでしょう? どう、当たっていて?」イゾルデは涼しげな声で言った。
「ええ、その通りです。私はこの薔薇を、とあるある方に捧げるつもりです。ですから――どうか私にほんの少しの時間をください。その方は白くて美しい手をしていらっしゃる。薔薇の棘でけがをしないように、棘を抜きたいのです」
 ヴォルマルフは摘み取ったばかりの薔薇を握りしめた。あまりきつく握りしめては、薔薇が――情熱の花が――萎れてしまう。
「――ですが、あなたが今すぐにでもゼラモニアに帰りたいとおっしゃるなら、私はその通りにします。あなたの望む答えをください」
「いいえ、私、そんなにせっかちではありませんわ。あなたが準備を終えるまで、いくらでも待てます」
 その言葉を聞いてヴォルマルフは胸をなで下ろした。それからヴォルマルフは一つ一つ、かたく尖った棘を削り取っていった。ほんの僅かな手間で済む作業だったが、どうしてかヴォルマルフの手はゆっくりと動いた。そして、二人の間に静かな時間が流れた。
 先に口を開いたのはレディ・イゾルデだった。「……王の庭で丹精された、この綺麗な薔薇を捧げられる幸運な方は、いったいどんな方ですの?」
「……その方は私よりずっと、豊かな財力を持ち、私よりずっと尊い名前を持っています。少々お転婆が過ぎますが、私にはそれすらこの上ない魅力に思えます。そう、私は恋に落ちてしまいました。私には彼女に贈る宝石を買うお金はなかった。けれど、高価な宝石に勝るこの愛を今すぐにでも捧げにいきたいと思っています」
「では、今すぐにでもそれをしないのは何故? あなたの手の中の薔薇が役目を果たす前に萎れてかけてるわよ、求婚者さん」
「それは――」
 何故だ。ヴォルマルフは自分に問いかけた。目の前に愛を捧げたい女性が立っている。彼女の名前を呼び、気持ちを伝える。何故それをしないのか。この薔薇は一体何のためにあるのだ。
「どうやら、あなたはまだ花婿になる覚悟ができていないようね。その点に関して、私は二回もプロポーズされたわ。私の方が熟練者よ。花嫁の覚悟について語ってあげるわ。一回目は、エッツェルの古城で王子様から求婚された時――」
「その時のことはよく覚えています。私が殿下の代わりに求婚しましたのですから」
 ヴォルマルフはその日のことを思い出した。ゼラモアニでレディ・イゾルデと初めて会った日のことだ。忘れるはずもない。しかし、不幸な事故によってなくしてしまった王家のクリスタルについては忘却の彼方に葬りたい。レディ・イゾルデがその時のことを詳細に思い出してくれると、ヴォルマルフは騎士として面目が立たない。「レディ・イゾルデ、あなたにとってアンセルム王子との結婚式のことを思い出すのはおつらいことでしょう。あの婚約についてはもう忘れてしまうのが良いのでは?」
「そうね。そうかもしれないわ。では二回目にプロポーズされた時のことを語りましょう。あれは私がサー・バルバネスのお屋敷から出てきた時のことで――」
 なんということだ! どうして彼女は、ヴォルマルフが忘れようとしている出来事ばかり思い出してくれるのだろう。
「その時は……私の記憶が正しければ、その場に私もいたはずです」
「そうね。あなたも一緒だったわね」
 レディ・イゾルデは瞳にいたずらめいた笑みを浮かべた。やんちゃざかりの子猫のようだ。おそらくヴォルマルフの気持ちなどお見通しなのだろう。ヴォルマルフは何も言わなかった。
「サー・バルバネスのお屋敷で私に求婚してくれたのは、若くて誠実で、それでいてとてもハンサムな騎士さんよ。確かその方はご自身の騎士団を持ちたいとずっとおっしゃっていたわ。夢に向かって歩き続けられる素敵な人ね」
 レディ・イゾルデは豊かに香る庭園の花々を眺めながら、静かに言った。
「……その人は、身の丈に合わない夢を持ち、それを未練がましく捨てられないだけではないのですか」
「そんなことはないわ。理想に満ちた大きな夢を描けるのは澄んだ心をお持ちの方だけ。飾らぬ心は何より貴いもの」
 レディ・イゾルデがヴォルマルフをまっすぐ見つめる。「私は、そういう方を心の底から尊敬いたします」
 ヴォルマルフの胸の奥にあたたかい感情がこみ上げてくる。名前を言わずとも、彼女が誰について話しているのか分かる。
「……でも、少しばかり不器用な方ね。だって私は最初、プロポーズされたのだと気づかなかったもの! それでも、後になって私はその方の愛に気づいたの。そして思ったわ。ただ一人故郷へ帰るよりも、その方と一緒にこの国で暮らして、同じ夢を見てみたいと――」
 ヴォルマルフはあわてた。両手に握りしめたこの薔薇は何のためにあるのか――そうだ、彼女に捧げるためだ。今がその時だ。
「しかし、これだけは言わせてください――いくら心映えが立派でも、身一つ手ぶらで求婚をするのはわが身が貧乏人だと主張するようなもの。そのような器量の悪い求婚者のプロポーズは今すぐに忘れるべきです」
「サー・ヴォルマルフ! 私はあなたのことを話しているのよ。お分かりになって! 私はあなたの妻になりたいと言っているのに、それのどこが不満なの?」
「ええ、ええ。分かっています。あなたからこの上ない愛の言葉をいただいていることは――不満なのは私自身です。満足なプロポーズの一つもできないこの私です! あなたは私の愛に答えてくれる寛大な心をお持ちです。だから、その広い、慈愛に満ちた心で私の願いを聞いてください――私はこの薔薇をあなたに捧げたいのです。あなたの記憶の中に、他の誰にもまさる最高の求婚者としての私の姿をとどめておいてほしいのです」
 ヴォルマルフは膝をついてレディ・イゾルデに薔薇を差し出した。
「……私の妻になっていただけないでしょうか?」
 レディ・イゾルデはにっこりと微笑んだ。瞳に優しさが浮かんでいる。
「あなたはもう私の返事を知っているわ。でもあなたが望むのなら何度でも答えます。あなたが私にくださった飾らぬ心と同じものをお返します――愛をこめて」
 ヴォルマルフの唇に、彼女の唇が重なった。
「レディ・イゾルデ、あなたはとうとう私の夢をかなえてくださった。私は騎士として最高の栄誉を手に入れたのです――愛する妻の夫になるというこの世で最も幸福な肩書きを!」

  

  

  

>Epilogue