Aspects of Family:いつか来るその時まで

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・イズルード10歳くらい
・ウィーグラフ、ミルウーダ、ゴラグロスは幼なじみ設定。

     

  

いつか来るその時まで

     

  

「ハシュマリム、朗報だ! 我々の仲間が見つかったぞ!」
 ヴォルマルフは自宅の庭でイズルードに剣の稽古をつけている最中であった。そこへやってきたのは銀髪の眉目秀麗な男性である。
「……侯爵様、家族の居る前であちらの名前を呼ばないでいただけませんかと何度もお願いしているのですが」
「ああ、忘れていた」
 ヴォルマルフの息子イズルードはまだ十歳。幸い、父親の裏の仕事については何も感づいていないようだった。
 ヴォルマルフは銀髪の貴公子――エルムドア侯爵の後ろに控えている二人の美女の姿を見た。踊り子のような格好をしている。誰もが目を引く……露出度である。ヴォルマルフは一つ咳払いをした。
「それから、侯爵様……申し上げづらいのですが、この信仰の土地に踊り子を連れてやってくるのは、いかがなものかと……」
 正直言うと、目のやり場に困る。
「失礼な! 彼女たちは踊り子ではなくれっきとしたアサシンで私の有能な部下だ」
「……父上、アサシンとはどんな仕事をするのですか?」
 イズルードが純粋な視線をヴォルマルフに向けた。ヴォルマルフはますます困った。息子に「殺し屋」の言葉を教えるのはまだ早い気がしたのだ。
「あら、ベーゼの味を知るにはまだ早いわよ、坊や」
 髪の長い方の美女がイズルードの耳元にふっと息を吐きかけた。イズルードはどうして良いのか分からない様子でおろおろしている。
「……早く本題に入りましょう、侯爵様。仲間が見つかったというのは本当ですか?」
 このまま息子をビューティフル・アサシンと一緒に居させるのは教育上の問題がある。この銀の貴公子には早くお暇を願わなくては。
「ああ、そうだ。聖石が選んだのだから間違いない。ウィーグラフ・フォルズという男だ」
「誰ですか、その人は」
「私も、彼がガリオンヌに居るらしい、としか分からないのだが……聖石の見せるビジョンは曖昧でよく分からない」
 その時、イズルードが「父上」と間に入ってきた。「その人、知ってます。ガリオンヌの若い騎士で英雄のような人だと聞きました」
「聞いた? 誰がそんなことを言っていたのだ?」とヴォルマルフ。
「この間バルバネス様がミュロンドに来てくださった時に、そうお話ししていらっしゃいました」
「そうか……天騎士がそう言うのなら間違いないな」
 ヴォルマルフとエルムドアは顔を見合わせた。
「それで、ハシュ……マルフ、これからどうするのだ?」
「勿論、聖石を持って会いに行きます。そして、私たちの仲間にならないかと交渉してきます」

 ミュロンドからガリオンヌへは少々長旅である。ヴォルマルフは旅の準備をしながら、子供たちに声を掛けていた。家族をここに残したままガリオンヌへ行くのは不安だった。それに寂しい。
 ところが、イズルードはヴォルマルフと一緒に荷物をまとめていたが、メリアドールは行かないと言う。
「メリア……本当にパパと一緒に行かないのか? パパは少し寂しいぞ……」
「うん、行かない。だって北の国は寒いもの。そんなところ行きたくないわ」
 いつも父親の後ろを離れずくっついていた我が娘であるが……もうついてきてくれないとは。ヴォルマルフはショックを受けていた。
「姉さんはもったいないことするなぁ……ラーナーはカニがおいしいのに」
「私はアンタみたいに食い意地がはってないのよ、イズ」
「そんなこと言って! 姉さんの方がいつも大食いじゃないか! お土産は絶対に買ってこないからな!」
「別にいいわよ。お土産はパパにお願いするから。ね、パパ?」
 可愛い娘のおねだり。ヴォルマルフは「よしよし」と娘の頭を撫でた。「ちゃんと良い子で留守番してるのだぞ」
「心配しなくても大丈夫よ。ローファルがいるわ。騎士団のことはローファルに任せておけば大丈夫よ」
「私が心配してるのはお前のお転婆なのだが……」
 まあ、気を揉んだところで仕方あるまい。
「イズルード、行くぞ」
「はい、父上」

 ガリオンヌの市街地にある、とある邸宅。
「なんだ、ミルちゃん一人か。ウィーグラフはいないのか?」
「兄さんはイグーロスへ行ったわ。北天騎士団の将軍さんと話があるって。それと、一人じゃないわよ、あれが居るわ」
 ミルウーダは部屋の隅で一人で飲んだくれている男を指さした。「ゴラグロス、せっかく来たのならあれをつまみ出して。うちに長々と居座ってて邪魔だから」
 ゴラグロスはミルウーダの兄ウィーグラフの幼なじみで、小さい頃から三人で遊んできた仲だった。三人で仲良く石を投げて遊んでいた頃から変わらず、ゴラグロスはこうしてミルウーダの家にふらりとやってくる。ミルウーダの両親は共に数年前に病で亡くなった。今は両親亡き家に兄と二人で暮らしている。といっても兄は不在がちであったが。
「ギュスタヴ……おまえ、またここに居座ってるのか」
「なんだよ、俺がここに居たら悪いみたいなその言い方。骸騎士団の副団長が団長の家を訪ねてくるのは何もおかしくないだろ。ここで作戦を立てた方が効率的だ」ギュスタヴはゴラグロスに言い返した。
「ゴラグロス、そいつの言うことを真に受けちゃだめよ。酒場を出禁になっててうちにたかりに来てるだけだから。兄さんはお人好しすぎるのよ……こんなお荷物を持って帰ってきちゃって……」
 ミルウーダとゴラグロスはウィーグラフ率いる骸騎士団のメンバーだったが、ギュスタヴは元は北天騎士団の騎士だった。素行の悪さからイグーロスを追放され……世話好きの兄ウィーグラフが拾ってきてしまったのだ。ギュスタヴは貴族であった。そのためウィーグラフは、彼に骸騎士団の副団長という肩書きを気前よく用意したのであった。
「兄さんは迷いチョコボとかも律儀に世話するような人だから……なんでこんなお荷物を拾ってくるのよ」
「義理堅い奴なんだよなぁ、ウィーグラフは。ギュスタヴ! おまえはウィーグラフにもっと感謝しろよな」
「――ゴラグロス。おまえに話がある。外に出よう」
 ギュスタヴはゴラグロスを邸宅の外に連れ出した。ミルウーダはギュスタヴが散らかしたあとを悪態をつきながら片付けていた。

「なんだよ、話って」
「ミルウーダのことだ。兄貴は妹を一人残してどこへ行ったんだ」
「仕方ないだろ。ウィーグラフだって忙しいんだよ。ミルちゃんだってそれは分かってるはずだ。戦争が終われば落ち着くさ」
「問題はそこだ。この戦争は終わらない。イヴァリースが敗北を認めるまではな」
「そう、なのか……?」
 ギュスタヴは元は北天騎士団の軍師だった人物だ。今はこんな怠惰な生活を送っているが、イグーロスでは貴族として北天騎士団の軍務に携わっていたはずだ。彼の言うことなら一理あるのだろう、とゴラグロスはうなずいた。こんな奴に指摘されるのも癪に障るが……。
「でも、戦争が終わったら、骸騎士団は役目を終えて解散だろ? そしたらウィーグラフもこっちに戻ってくるんじゃないのか。ミルちゃんと一緒に暮らせる」
「おまえ、戦争が終われば平和になると本気で思ってるのか? ロマンダとオルダリーアへ払う賠償金はイヴァリースの王庫にはないぜ。王庫にない金は領主が払うんだ。つまり、俺たちが奴らの尻ぬぐいをするんだ。骸騎士団も役目を終えて解散するだろうが、報奨金も何も支払われないだろう」
「俺たちの未来は暗いということか……だが、ウィーグラフが俺たちを見棄てるはずがない」
 ゴラグロスは幼なじみのウィーグラフのことを思った。彼は誰からも慕われ、人望があった。彼の父親は商売で財産と名声を築いた地元の名士だった。流行病で父を亡くし財産を相続したウィーグラフはその財力を使って騎士団を立ち上げ、祖国救済のための貢献を惜しまなかった。だが、戦争を続けるには意外と金が掛かるのだ。ウィーグラフが騎士団を運営するために相当な財産を使い込んでいることはゴラグロスにも察せられることだった。
「そう、あいつは自分の騎士団を見放したりはしないだろう。俺みたいな落ちぶれた貴族の面倒まで見てる変わり者だ」
「ギュスタヴ……おまえが言うかよ。自覚してるのなら恩を返せ」
「ああ、そうだとも。兄貴があれじゃあミルウーダが苦労する。俺だってちゃんと考えてるんだぜ――何をするにしても金が必要だ。俺にいい案がある」
「何だ……?」
「貴族を誘拐して身代金をせびる」
「ああ……おまえの話を真面目に聞いた俺が馬鹿だった」

「ミルウーダ、元気にしてたか?」
「兄さん……やっと帰ってきたの」
「どうした? 機嫌が悪いな?」
 ウィーグラフはイグーロスでの用事を終え、一週間ぶりに家に戻ってきた。しかし……何故だか妹の機嫌が悪い。
「兄に会えなくて寂しかったか」
「違うわよ。それより兄さんイグーロスへ行っていたんでしょう。またザルバッグ将軍のお使い? 貴族の連中にいいように使われてるだけってまだ気づいてないの?」
「ミルウーダ……ザルバッグ将軍のことをそんな風に言うんじゃない。あの方は素晴らしい武人だ。ミルウーダ、貴族はギュスタヴのような外道ばかりじゃない」
「まあまあ、二人とも落ち着いてくれよ」
 ミルウーダと言い合いをしているとゴラグロスが仲裁に入る。いつものわが家の光景だ。普段と全く変わらない日常の風景だ。家に帰るとミルウーダが居て、ゴラグロスがいる。ギュスタヴが居候していることもあるが、今日は居ない。代わりに、見知らぬ少年が居る。
 こいつは誰だ? 
 まだ十歳くらいの大人しそうな茶髪の少年だ。騎士団にこんな純朴そうな少年が居ただろうか……?
「ミルウーダ……この子は誰だ」
「ゴラグロスに聞いて」
 妹はそっぽを向いている。どうやら相当機嫌が悪いようだ。
「……ゴラグロス、説明を頼む」
「ああ…ギュスタヴが……」
 ゴラグロスは事の次第をかいつまんで話した。
「つまり、金欲しさにどこかの貴族の御曹子を誘拐してきたと」
 ウィーグラフはゴラグロスを睨みつけた。「面倒なことを起こすな」
「俺じゃない! ギュスタヴの独断だ! あいつが俺の言うことなんか聞くものか」
「まあ、そうだろうな……」
 ウィーグラフはため息をついた。「ギュスタヴめ。厄介なことをしてくれたな。騎士の名誉にかけて、身の代金など要求できるか。むしろこちらが謝罪にいかねば……謝罪金として法外額を請求されたらどうするのだ」
「兄さんは甘いわ。相手が貴族だからって下手に出る必要はないわ」
 ウィーグラフは妹の忠告を無視した。わが妹・ミルウーダは騎士団の中では少々……いや、かなり過激な性格だ。ギュスタヴは副団長に置いてはいるが、騎士としてというより人としても論外の人間だ。次から次へとトラブルを持ち込んでくる。
 騎士団をまとめるのも一苦労だ。
「それで、坊やはどこの家の者だ? どこから来た?」
「はい、僕はイズルード・ティンジェルと言います」
 礼儀正しい少年だ。ギュスタヴに見習わせたいくらいの真面目さだ。
「父は神殿騎士団の騎士団長です」
「神殿騎士団……ミュロンドか。教会領から子供をかどわしてくるとはギュスタヴも罰当たりな」
 ミュロンドの神殿騎士団のヴォルマルフ・ティンジェル。ウィーグラフでさえ名前を知っている名高い騎士だ。ひどく短気で交渉ごとには応じない性格とも聞く。
 ウィーグラフは気が重くなった。どうやって穏便にこの子を返そうか。

「イズルード……どこへ行ってしまったのだ……」
 ちょっと目を離した隙に息子とはぐれてしまったヴォルマルフは慌てふためいていた。すると、そこへ金髪の青年がイズルードを連れて表れたのであった。
「イズルード! 迷子になったのかと探し回ったぞ。どこにいたんだ」
「うん、知らないお兄さんに声を掛けられて」
「知らない人についていっては駄目だとあれほど言っただろう」
「でも、その人は騎士と名乗ってたよ。父さんみたいに立派な騎士かもしれない」
 息子の純朴さよ。ヴォルマルフはイズルードと再開できて安堵したが、同時に不安にもなった。人を疑うことを知らないこの子にいったいどうやって教えればよいのだろうか。騎士の全てが高潔な人間ではないと。その一例がこの私なのだが……。
「どうやら私の騎士団のメンバーがとんだ迷惑を掛けたようです。私は骸騎士団の長としてその件の謝罪にきました」
「おお、貴殿が噂のフォルズ殿か」
 ヴォルマルフは喜んだ。探す手間が省けた。この青年が聖石が選んだ噂の人間だ。どうやって勧誘しようか。
「それで……サー・ヴォルマルフ・ティンジェル、いかほど、お支払いすれば……」
「なんの話だ?」
「ご子息をトラブルに巻き込んでしまった謝罪金です。私としても神殿騎士団を敵にまわすつもりはありませんので。ここは一つ、どうか穏便にお願いしたいものです」
「金など受け取れない。いや、だが欲しいものはある……私は貴殿の身体がどうしても欲しいのだ」
 骸騎士団の団長ウィーグラフ・フォルズは困惑の表情を浮かべた。
「い、いや……決していかがわしい意味ではないぞ! ち、違うのだ……私は……貴殿にどうしても一目会いたいと思いはるばるミュロンドからやってきたのだ。どうだ、私と一緒にミュロンドで暮らす気はないか?」
 さすがに聖石と契約してその身体を捧げて欲しい、とは言えない。ヴォルマルフは念入りに言葉を選んで遠回しに勧誘をした……つもりが気色悪いことになってしまった。ウィーグラフはさっぱり意味が分からない、といった様子である。
「たとえ教会の要請であってもお断りします。私たち骸騎士団はどこの権力にもまつろわぬ身。私の身体も精神も私のもの。誰に捧げるつもりもありませぬ」
 そう言い残すとウィーグラフはさっと背中を向けて去って行った。イズルードをヴォルマルフの手に引き渡して。
 勧誘は失敗だ。ヴォルマルフはこういう交渉事は苦手だった。まあ、仕方ない。こういう仕事は副団長に任せるに限る。
「父上、あの方は……すごい騎士だと思います」
 イズルードが去りゆくウィーグラフの背中を目で追っていた。
「ああ、そうだな。イズルード……おまえもいつか、彼のような気高い騎士になるのだろうな」
 いずれ、子は父の背中を超えていくのだ。それが自然の摂理だ。その時が来た時……彼は父のことをどんな目で見るのだろうか。神殿騎士団の騎士団長ヴォルマルフ・ティンジェルのことを。
「父上、でも僕は父上のような騎士になりたいと思います」
「そうか……そう言ってもらえるのは嬉しい。だが、息子よ、いつか私の背中を超えていけ――父を倒し、その先へ進むのだ」
「父上……?」
「いつか分かる時がくるさ――さあ、メリアドールにお土産を買って帰ろう」
 いつか来るその時まで――その時までは家族三人で楽しく幸せに暮らすのだ。

     

  

2017.08.26

     

  

誇りを失った騎士:第四幕

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誇りを失った騎士

  

 

第四幕

  

 

 第一場 リオファネス城。地下牢。
 牢獄。部屋は木製の壁で狭く仕切られている。扉には鍵が掛かっている。イズルードが床に伏している。ラファが食事を持って登場。

イズルード< (独白)真っ暗だ――真っ暗で何も見えない――(聖石を取り出して)人は弱いからこそ神にすがるというが――クリスタルの輝きを以てしても何も見えない。まるで己の未来を暗示しているかのようだ。いっそこの暗闇の中で果ててしまいたい。光の中に戻れはしまい。(隠し持っていた短剣を取り出し)このまま死んでしまおうか――いや、恐ろしすぎる。怖い――オレにはとても出来ない――(短剣を放り出す)   (ラファが食事を持ってイズルードを訪ねる。扉の鍵を開ける音。イズルード、慌てて聖石を上着に隠す) ラファ 随分やつれているわね。何か食べたら。(イズルードをいたわって)兄さんがひどく撲ったのね? 可哀想に。
イズルード (返答なし。食事にも手を付けない)
ラファ いらないの? 別に毒を仕込んで殺そうなんて思ってないわよ。安心して。何か食べないと身体が保たないわ。
イズルード いっそ君がこの場で毒を仕込んでくれたなら!
ラファ ひどく憔悴しているようね。(間)――毒――なんですって!
イズルード ご覧、ここは全くの暗闇だ。誰かを葬り去るのにはうってつけの場所だ。捕虜を一人始末することくらい、君には容易いだろう? そうすれば、人質になったオレが大公の前に出ることもなく、父を困らせることもない。オレもこれ以上絶望に塞がれることもない。誰もかもが幸せだ。
ラファ (怒って)ひどい人! ひどい人! 私たちを何だと思っているの! そう、私達は暗殺者。誰かの命を奪い、それを生業に暮らしている――だけどこんな生活、私が望んだわけじゃない! 大公に村を焼かれ、親を殺され、望みもしない生活を与えられ――なのにあなたはそんな私に、人を殺せと言うのね。あなたは修道院で一体何人斬った! 聖石強奪のために、僧侶や学者を斬り捨ててきたのでしょう! なのに、此の期に及んで尚、自分の手を汚すことすら厭い、私にこの手を汚せと言うのね。他人の尊厳を踏みにじって!
イズルード すまない、すまない。君を傷つけるつもりはなかったんだ――(謝る)
ラファ あなたをそこまで絶望に陥らせるものは一体何? 私達に聖石を奪われたこと? それとも捕虜になってゾディアックブレイブの誇りを失ったこと? そんなものに命を懸ける程の価値があるのかしら。
イズルード 違う、オレが惨めなのはそこじゃないんだ。オレも君も同じ籠の鳥だ。まやかしの現実しか知らなかった。誇りを持っていたゾディアックブレイブも――ただ教会の威光を上げるためだけに作り上げられたまやかしだ。その実態など何もない。他人の聖石を奪い上げて得なければいけない、そんなまかやしの称号への誇りなどとうに失ってしまった――オレは教会への離反を決めた。もう教会のために剣は持つまいと心に決めた。だけど、ミュロンドには父がいる、姉がいる――家族を見捨てて、一人で逃げるわけにはいかないんだ。姉さんはきっと今でも、オレの帰りをたった一人で待っている――そう、オレが惨めなのは、騎士としての誇りを失ったからじゃない。そんなものは初めからなかったんだ。だけど――だけど――オレは教会を離れては生きていけない。何より信仰が全てだったんだ。しかし何を信ずべきかもはや分からなくなってしまった――(間)――君は絶望という言葉を知っているか?
ラファ (独白)この人大丈夫かしら。何を話しているのはさっぱり分からないわ。そうとう気が滅入っているようだわ。
イズルード (続けて)それは、神に見棄てられ、一切の望みを絶たれることだ。後にも先にも暗闇しか残らない。憩いなき永遠の夜――(間)――神に見棄てられ、だって!? オレは一体何を口走っているのだ。神を見棄てようとしたのはオレの方ではないのか! 教会が権力に腐心し、民の信仰心を利用しているというのに、オレはそれを知っていて、何もしようとしない! あまつさえ、そのまま逃げ出そうとすらした。神の創造たるこの命すら自ら投げ出そうとしている、なのに今でも都合良く神にすがろうとしている――そうだ、ゾディアックブレイブなど最初からおとぎ話で、何も信ずべきものなど何もなかったのだと思えば、もはや怖れるものなど何もない――! (短剣を再び取る)
ラファ (独白)可哀想に、この人はすっかり混乱しているわ。(イズルードに)気を確かに!
イズルード 絶望に身を委ね己が剣で恐怖心を切り裂く――

  (イズルード、ひと思いに短剣で首筋を斬りつける。そのまま倒れ伏す)

ラファ 大変――誰か――! (慌てて退場)

  (扉の鍵は開け放たれたまま。イズルードの呻き声。)

  

 

  第二場 前場に同じ。
  イズルード、ウィーグラフ。

  (ウィーグラフ、地下牢で血を流して倒れているイズルードを見つけ、慌てて駆け寄る)

ウィーグラフ (介抱して)どうしたんだ! 一体何があった――血がこんなにも――あのカミュジャの奴らにやられたのか! (イズルードが握ったままの短剣を見つける)――そうか、自分でやったのか――しかしなんということだ! なんというむごいことだ! こんなにも冷たくなって――どうにかして――助けてやりたいが――

  (ウィーグラフ、イズルードを抱き寄せたまますすり泣く。しばらくの間。)

ウィーグラフ そうだ、聖石! 私は聖石を持っている! そして幸いなことに私はその秘められた力を知っている。あのクリスタルには死者の魂を呼び戻す力が宿っているのだ。私はその奇跡をしかとこの目で見た――ほんの数日前に、修道院でその奇跡を目の当たりにしたばかりだ! 私は知っている。その恐ろしい力を――だが、イズルード、お前はそんな心配をしなくていい。私が聖石に祈る――こんな言葉は使いたくないが他に思いつかない――のだから。(イズルードを抱きしめて)死ぬのはさぞ怖かったことだろう。私はその恐怖が分かるぞ――真面目なおまえのことだ、捕虜になるなとの命令に従ったのか? 騎士として誇り高くあるために師を選んだのか? ああ、答えてくれ――イズルード! お前はこんな暗闇の中で、誰に看取られることなく、一人で死んではいけない――! そんなことは私がさせるものか――!

  (ウィーグラフ、白羊宮のクリスタルを取り出し、一心に祈りを捧げる。しばらくの間。ウィーグラフの持つクリスタルがイズルードの顔を照らし出す。)

ウィーグラフ (イズルードを見つめながら)きれいな寝顔だ、安らかな、いい顔だ――おまえは美しい。お前に比べてこの私のなんと醜いことか。かつて骸騎士団にいた頃、私は理想を持った騎士だった。その実現に燃える騎士だった。だが、その理想を守るため、思想を守るため、私は幾人もの仲間をこの手に掛け、粛清してきた。そこまでしても、この理想には守るべき価値があると思っていたのだ。だが、理想の実現のためには権力が必要だと気付いてしまったのだ。しかし、その権力を――ゾディアックブレイブの称号を――保持するために、私は、修道院で幾人もの修道士を斬り捨ててきた。そうまでして手に入れたのが、お前に託した処女宮のクリスタルだ。お前はきっと純粋に教会の信仰を守るために任務を果たしたのだろう。一方で、同じ任務を果たしながら、私は己の保身だけを考えていた――聖石を持ち帰らねば、私はミュロンドを追い出される、そうなれば、もう私に未来などない。そうするしかなかったのだ。ただ理想を求めていただけなのに、欲望は際限なく積み上げられ、もう後戻りなど出来ない。今になれば、本当に私が欲していたものなど何も分からない。ただ雲上の楼閣のような人生だった。何かを望めば血が流れる――そんな人生を歩んできた私に比べて、お前は美しい――

  (間。イズルードは身じろぎせずその場に倒れたまま動かない)

ウィーグラフ イズルード、お前だけは私のことを理想に燃えた高潔な騎士として見ていてくれた。お前だけだ! ベオルブの若造が修道院で私に向けた、あの蔑みと哀れみの視線――私は堪えられなかった――皆、私をそうやって見るのだ。イズルード! お前だけが私を誇り高き騎士として見ていてくれた! それがどんなに嬉しかったことか! お前の中で私は、修道院で志し半ばで倒れ、戦友にその遺志を託した――その姿のままなのだろう。どうか、その後で私におこった悲劇など知らないでくれ! 私がこうやって、生きて、リオファネス城に居ることなど、あってはならないことなのだから!

  (ウィーグラフ、その場を去ろうとするも、イズルードの様子が気になり振り返る)

ウィーグラフ 私は二度死ぬはずだった。骸旅団の騎士として死ぬはずだった。ミュロンドの騎士として死ぬはずだった。しかし私はこうして生きている。実現するはずだった理想を手放し、ミルウーダの仇も取らずに、こうして生きている。誇りを失った哀れな騎士だ。次に死ぬ時は、騎士ですらなく、人ですらなく、悪魔に魂を売り渡したなれの果てとして逝くのだろう――私もあのベオルブの若造に――ミルウーダの仇に――引導を渡されるか。
イズルード うう――
ウィーグラフ イズルード! ああ、だが私の姿を見ないでくれ――(去りかける)――だが、もし、この哀れな騎士の姿を見ることがあるならば――何も言わずに、どうか一滴の涙を注いでくれ――こうして憐憫の情を寄せられ、理想なき教会の犬と蔑まれることはあっても、この誇りを失った騎士の為に泣いてくれる人は誰もいないのだから――(立ち去る)
イズルード (目を覚ます)ああ、ここは――(辺りを見回す)――ウィーグラフの声を聞いた気がする。だからオレはてっきり彼の国へ渡ったものかと――だけど、ここはリオファネス城じゃないか! オレは確かにこの手で、この短剣で命を絶ったものだと思っていたのに、どうした訳だか、傷一つ残らない! あの流した血の感触は覚えているというのに――どうして、オレは生きているのか。――そうか、これが聖石の力か。なんということだ! 信仰を捨て去ろうとしていた、この己に奇跡が起きるとは! これこそ聖石の秘密! 偉大なるかな神の御業! 神の存在とは、まことに、己の力の及びえざる場所に在るものだな――(跪く)

  

 

  第三場 リオファネス城。
  指定なし。ウィーグラフ、バルク。二人、すれ違う。

バルク こんなところで会うとはな。
ウィーグラフ (バルクをちらりと見、そのまますれ違う)
バルク 修道院で戦死したと聞いたが。
ウィーグラフ (立ち止まる)戦地から辛くも生還した戦友にかける言葉は他にないのか。
バルク 祝って欲しいのか。喜んで欲しいのか。アンタは随分すさんだ目つきをしている。とても祝辞を述べられる雰囲気ではない。それに――アンタはオレの事が嫌いだっただろう。
ウィーグラフ (睨み付ける)
バルク オレだってだてに長いこと生きちゃいない。酸いも甘いも噛み分けてきたのさ。人の目を見ればだいたいそいつの本性は分かる。どんなに取り繕っても、その眼差しだけは偽れないんだよ。
ウィーグラフ お前の慧眼もそこまでだな。私は別段、お前を好いているように取り繕ってもない。ありのままの物事をさも分析しがいがあるように述べ散らかすのは阿呆のやることだ――
バルク そうだ、アンタはいつだってそうやって自分を高みに置いて人を見下してきたんだ。少なくとも自分は騎士だった。守るべき誇りがあった。果たすべき忠誠があった。理想を奉じて生きてきた。それに比べてオレたちみたいな活動家は、目先の利益だけを追い求める思想なき人間どもだ。一緒にされてたまるか――と、隠すことなく思っているのだろう。アンタはオレの事が嫌いだっただろう――今も、最も軽蔑すべき存在だと思っているんだろう?
ウィーグラフ 前言を撤回しよう。たいした慧眼だ。お前は歴史学者にでもなっていれば良かったものを。
バルク それは賛辞と受けとっておこう。アンタはいつでもお高くとまった英雄気取りだった。今でも、己を堕ちた英雄とでも思っているのだろう。だからそんなすさんだ目をしているんだ。だが、よく周りを見回すことだ。民衆を率いて鴎国と戦った指導者? 骸騎士団? 奴らはせいぜい盗賊崩れか、浮浪者まがいのゴロツキかだったじゃねえか。そんなところに騎士団なんて名前を付けるのが間違いだったんだ。名は体を表す。本性に反する名前を与えられた者は悲劇だ。見ろ、アンタのかつての仲間たちは戦争の終わりを待たずして離散していった。アンタはそいつらの尻ぬぐい。誰も手を貸さない。民衆がアンタのことを、農村から立ち上がった雄々しきリーダーとでも思ってると? よく見ろ! 目を開けてよく見るんだ! 誰もそんなこと思っちゃいない。思い上がりも甚だしいぞ。
ウィーグラフ 私は己を英雄だと思ったことはない。ただ惨めな人生だったと回顧するばかりだ。
バルク 英雄として高みに立った経験を知っているから、堕ちた惨めさがあるのだ。高みにいるなどと思わない方が幸せだっただろう。あんたは騎士になどならない方が幸せだった。そうすれば誇りを失った騎士だと、惨めに思うことはなかっただろうに。オレは誰かの上に立った覚えなど一切――金輪際――ないからな、幸せになることも、惨めにうちひしがれる事もなかった。アンタは自分が惨めだと泣いているが、その悲劇は全て己が引き起こしたことだとまだ分かっていないんだな。アンタがオレを見下すその高尚な理想とやらが、悲劇の引き金になっているのさ! (息巻く)アンタたちが英雄としてミュロンドに迎えられている頃、オレたちは裏で苦労していたんだ。オレたちはオレたちのやり方であの団長に仕えてきた! 誰に喜ばれることもなく、誰に褒められることもなく――
ウィーグラフ そうか、お前も英雄になりたかったんだな。一度で良いから誰かの上に立ち、称賛と喝采とを一心に集めたかったんだな。
バルク (怒る)そんなことは言っていない!
ウィーグラフ ならば、その苦労もじきに終わるぞ。私は貧乏神だった。行く先々で疫病を振りまいてきた。私の居たところは、どこも三年と待たずに崩壊の道を辿った。故郷も、家族も、仲間も、もう皆死んだ。見ろ、この教会もすでに腐敗を極めている。崩壊は近い。お前の苦労もそう長くはない。(独白)――そうだ、私は常に貧しかった。私の精神は常に満たされることがなかった。豊かさとは無縁の生活だった。理想を求める一方、不平不満を不断に抱え、これは私の望んだ道ではなかったと、ただただ己に言い続けてきた。だがそんな不満もじきに終わる――崩壊は近い――(二人退場)

  

 

  第四場 リオファネス城。客間。
  城の大広間。長テーブルが舞台中央に配置され、貴族諸侯が机を囲み歓談をしている。上座に大公。末席にヴォルマルフが控える。エルムドア、イズルード、その他貴族たち。

バリンテン (立ち上がって)諸卿には少々退席を願いたい。私はミュロンドの騎士団長と二人で内談したいことがある。また後ほど宴席に招きましょう。どうぞそれまでは城で、長旅の疲れを癒やし、ゆるりと滞在なされよ。(ヴォルマルフに手を招いて)さ、近くへ。

  (貴族ら、席を立つ)

エルムドア (ヴォルマルフに)ではまた後ほど。
ヴォルマルフ (小声で)そう遠くへは行くでないぞ。またすぐに用が出来ようから。あの間抜け面をした貴族どものように悠々と羽を伸ばされては困るのだ。
エルムドア 御意。勿論、近くに控えておりますぞ。それに私は伸ばすほどの羽を持っておりません。それはさておき、貴方のことだ、私の必要などないでしょう。貴方に比べれば私は蠅のごとき存在。獅子の狩った獲物の上に耳障りな羽音をまき散らし、徘徊するくらいしか出来ませぬ。
バリンテン 侯爵、どうしたのだ。具合でも悪いか。
エルムドア いいえ。私はこれから城を見学させてもらいますよ。我がランベリーの白亜城に比べてここは、いささか――無骨で――逆に見ていて飽きませんね。いや実に目新しいものだ。(退場)
バリンテン 私はランベリーに行ったことはないが、あそこの城が白く輝いているというのは真か。
ヴォルマルフ 湖――といっても先の戦争で、毒沼となった湖ばかりですが――に映える城であるのは確かです。
バリンテン だが、いくら見た目を着飾っても、実利が伴わなければその価値は半減だ。いや、半減どころではない、死滅だ。いくら白亜城と讃えられても、あの戦争で真っ先に落とされたのは、侯爵の城であったな? 戦略は歴史から学ぶもの。過去の戦いを振り返る者こそ、次なる戦場で勝利を勝ち得るのだ。さあ、騎士殿、侯爵はここから何を学ぶべきであったと思うか?
ヴォルマルフ ランベリーの東天騎士団が使いようもない屑連中であったこと。侯爵はまず、奴らを教育し直すべきですな。陥落したランベリーを救ったのがベオルブの将軍率いるガリオンヌの北天騎士団だったというのは、未来永劫笑い話になりましょう。おかげで東騎士団など、噂話にものぼらない始末。今となっては誰がその存在を知りましょうか。
バリンテン そうだ、全くその通りだ。城は堅固であればある程良い。何故なら、敵に攻められぬからだ。軍事力はあれば有る程良い。何故なら、敵を攻められるからだ。こそこそ私のモットーだ。これは我が家の家訓でもあるのだよ。私が武器王と讃えられる所以だ。
ヴォルマルフ しかし、わざわざ騎士団ではなく、異国の魔道士集団を育て上げるとは、たいした忍耐ですな。騎士団を抱える方がよっぽど手が掛からないでしょうに。私は異教の者どもを教育して暗殺者に仕立て上げるなど、まったく無理な話。公の忍耐は美談として語られるべきですなあ。流石は次期国王と噂されるお方。武器王などという粗野の称号は今すぐに返上するべきです。
バリンテン 勿論、私が武器――王――という浮き名を流しているのには訳あってのこと。私は誰より、あの公式礼装だけ立派な、軽佻浮薄だった王を憂いて畏国の未来を慮っています。大きな威厳と権威を持ちながら、何一つ指図しようとしなかったあの愚王――おっと失礼――国王陛下が為した事と言えば混乱だけだ。痴王――陛下がするべきだった事はただ一つ、後継者を育てれば良かったのだ。ところが、世継ぎを育てる前に王妃が王座を乗っ取った。なんという事態だ。おかげで王宮の御前で獅子らが三つどもえの争いを繰り広げているこの惨事。哀れなのは餓える国民だけ。あの獅子らに王座を渡してはならない。
ヴォルマルフ これはたいそうな憂国論をお持ちで。さぞや立派な賢王になることでしょう。。
バリンテン これは戦乱からの民の救済を掲げて、ゾディアックブレイブを結成した教会の意志とも合致するはず。そうでしょうな――?
ヴォルマルフ (笑う)――救済? ハハハ――いや、全くその通りだ!
バリンテン 同じ目的を持ち、同じ理想を掲げるのならば、同じ道を歩むのは当然という道理がありますな。――騎士殿、わざわざ我が城まで来て貰ったのには訳がある。我々と手を結びましょう。
ヴォルマルフ (笑う)これはこれは。既に畏国最強と言われる軍事力を持った武器王が我が貧しき騎士団に同盟を持ちかけるなど、どう考えても釣り合いませぬ。
バリンテン いいや、畏国最強の軍事力を持っているのは我々ではありません。それは間違いなく貴方たちだ。神殿騎士団だ。何故なら――あなた方は聖石を随分と持っていらっしゃる。
ヴォルマルフ 聖石! 貴公はおもしろい事をおっしゃる。聖石の奇跡を欲するとは余程信仰に篤い方だ。むしろ逆に我がミュロンドの騎士団にお招きしたいところですな。しかし、あれはただのクリスタルです。実際、ただの石です。剣ならば人を刺し殺せますが、投石如きで一体どうやって人を殺せましょう。我々が聖石を集めるのは教会の威信のためです。軍事力のためではありません。
バリンテン (ほくそ笑んで)――ほう、ならば枢機卿の死をどうお考えで?
ヴォルマルフ 病死だったと。
バリンテン そうですか、あくまでしらを切り通すおつもりですか。いいでしょう。私も言質を操る議論戦闘はあまり好みませんので――ですが、聖石が貴方がたにとって大切な神器であるのは事実だ。さらに事実をお伝えしましょう。我々は聖石を預かっています。タウロスとスコーピオは我が手中にあります――
ヴォルマルフ ハハ、おかしなことを――それは我々騎士団が欲していたクリスタルではありませぬ。
バリンテン (呼ぶ)マラーク!

  (マラーク、イズルードを連れて登場)

イズルード 父上――!

  (マラーク、バリンテンにタウロスとスコーピオを手渡す)

バリンテン (マラークに)ご苦労であった。あとで褒美を取らそう。(笑いながら)たっぷりとな――もちろん、妹御にもな。楽しみにしておきなさい。

  (マラーク退場)

ヴォルマルフ この愚か者め! (イズルードを平手打ち)
イズルード 申し訳ありません――
バリンテン どうです、この聖石をご覧下さい――(タウロスとスコーピオを見せる)
イズルード どうぞこの聖石を――(ヴァルゴをヴォルマルフに手渡す)
ヴォルマルフ 我々を見くびるなよ、バリンテン。(ヴァルゴを見せる)どうやら、我が息子の方が優秀であったようだ。次なる王座を狙う貴公のこと。まさか、たかが二つの聖石を手にいれただけで我々を御せるとお思いかな? 我がゾディアックブレイブは各々が聖石を持っている――このイズルードも――加えてこのヴァルゴ。貴公の目が節穴でなければ、我々が幾つ聖石を持っているかお分かりであろう。そして貴公はたった二つ――聖石が軍事力に代わる力を持っているのは貴公もご承知のこと。
バリンテン 私を脅そうというのか。無謀なことはおやめなさい。このタウロスとスコーピオがどうなっても良いのですか。
ヴォルマルフ 脅迫などしておりませぬ。私は事実を述べているまでのこと。タウロス? スコーピオ? それは異端者が所持していたただの石だ。我が教会の物ではない。貴公がそのまま所持なさると良い。何故私が、そんな物のために貴公に組みすると? その石をここで叩き割っても一向に私は困りませぬ。
イズルード そのクリスタルはアルマ嬢から信頼の証にと預かりました――
ヴォルマルフ この愚か者が! (イズルードを平手打ち)いつ異端者風情と信頼を結ぶ程になったのだ。お前は、あの娘にそそのかされて剣を棄てたと聞いたが? よく私の前に平然と戻ってこれたな。騎士の誇りを忘れたか。
イズルード 申し訳ありません――確かにオ――私は一度剣を棄てました。それは宥されることではないと存じます。けれど、彼女は――アルマ嬢は決して忌むべき異端者ではありません。彼女は正しい思想を持った人です。かつて私は貴族は搾取するばかりで何らの価値を持ち得ない腐った豚であると信じてきました。けれど、彼女らもまた誰かに虐げられて生きてきた人間たちです。現実を見もせず、彼女らを家畜と呼んできた自分の浅ましさを知りました。自分を傲ることなく、謙虚に生きることの尊さを知りました。
バリンテン (ヴォルマルフに)先ほどから貴下は聖石をただの石だとか、これは少々暴言がすぎますな。仮にも、信仰を奉ずるミュロンドの騎士団の総長の言葉とはとても思えませぬ。そして何より大公の御前に控えているということを忘れておられるようだ。私は優れた暗殺者たちを育てている。くれぐれも、これ以上傲慢にならぬよう助言を差し上げよう。謙虚になりなされ。
イズルード (続けて)そして、彼女は私に一つの道を示しました。それは教会の真の姿です。この戦乱の裏で手を引くのが猊下であると――我々神殿騎士団は、その片棒を担っているだけだと、彼女に言われたのです。父上、私はヴォルゴを持って参りました。教会のために貢献したかったのです。けれど、その聖石のためにはおびただしい血が流れました。同じグレバドス教徒の血です! こんなことは――あってはならないと――父上、お父上、どうか分かってください。私が剣を棄てようとしたのは、そのような神殿騎士の姿に絶望してしまったからです――
ヴォルマルフ (バリンテンに)傲慢! 私が傲慢だと言ったな! 貴様はゼルテニア領を統べるだけでは物足りずに王座を欲している。さらに我が騎士団の力をも得ようとしている。だが、私はその聖石を手放すと言っているのだ。どちらが傲慢だ。貴公の方が強欲ではないのか。
イズルード (続けて)――絶望! それは全くの暗闇です。私は道を失いました。全てを棄て、信仰をも投げ出そうとしていた時、奇跡が起こったのです。私はこの目で聖石の奇跡を見ました。この身体を持って知ったのです! 私の魂を救ったのは、この聖石に宿る計り得ざる神の御業です――
バリンテン (ヴォルマルフに)何を馬鹿なことを。領主が権力を求めるのは、統治者としてまったく必要なことです。戎井を着ることもなく、王杓を持とうともしなかったあの国王のせいでイヴァリースは荒れ果てている。統治者にはそれ相応の権力がなければ、困窮するのは民だ! そして貴殿は騎士だ。騎士は統治者に仕える者だ。身相応の振る舞いを心がけるように――特にあなたは、信仰の衣を着た貧しき騎士なのだから、我々のために戦い、あとはただ祈りの言葉を唱えていれば良いのだ。信仰に立ち戻られよ。
イズルード (続けて)私は信仰に立ち戻ることが出来ました。もう私は迷いません。正しい――神殿騎士として生きるべきだと確信しました。アジョラの御名にかけて――二度とこの剣を離さないと誓います。教会の腐心から信仰を守るべきです。神殿騎士団がこのまま権力行使のための浅ましい犬になり果てていくことに私は堪えられません。教会の犬としてではなく、神の僕として誇りを持って生きるべきだと悟ったのです。神殿騎士として、真に正しき道を示すために私は再び剣を持ちました。ですから――父上――どうか、その処女宮のクリスタルは元の修道院に謝罪と共にお返しください。同じグレバドス教徒たちの間でこれ以上血が流れるのを私は望みません。
ヴォルマルフ (バリンテンに)とうとう本性を現したな。貴様は愚王にもなれぬ。たかが人間如きが権力を求めようなどと思わぬことだ。貴様はうぬぼれているようだな、バリンテン。私が望んでいるのは血を流すことだ。貴様を始末することなど容易いぞ――(聖石レオを取り出す)
バリンテン おやめなさい――
イズルード 父上――?
ヴォルマルフ (イズルードに)確か、おまえは聖石の秘密を知ったと言ったな。
イズルード はい――聖石のおかげで私は死の淵から蘇ることが――出来――父上――?
ヴォルマルフ ならば気兼ねする必要はあるまいな――(咆哮)
バリンテン おやめなさい――(慌てて退場)

  (暗転)

  

 

  第五場 リオファネス城。
  指定なし。エルムドア、クレティアン、ローファル。

エルムドア (辺りを見回して)ほうほう、これはなかなか良い作りだ。難攻不落の城と言うだけあって見応えがある。(思い出しながら)特に屋上のから見える尖塔は素晴らしかった。実に良い眺めであった。我が城にも取り入れたい。戻ったら建築家を雇い入れよう。――おや、神殿騎士団のドロワ殿、こんなところでどうなされた。
クレティアン 侯爵が私のことを知っているとは驚きますね。どうも、良いお日柄で。(一礼)
エルムドア 貴方は経歴も人柄も華やかなお方だ。
クレティアン あなたも、銀の貴公子と慕われているとか。華やかな貴公子がこんな城のこんな暗い一角で一体何を。これから大公と晩餐会ではないのですか。
エルムドア ああ、残念ながら晩餐会は中止だ。大公は私がついさっき、屋根から投げ捨ててきた。うさぎを締めるより容易い仕事だった。
クレティアン ご冗談を――それにあの武器王は我が団長自ら首を刎ねる算段だったはずでは。
エルムドア 少々予定が狂いましてね。あの臆病なうさぎは彼の獲物には物足りないだろう。今頃は我が僕たちが後始末をしているだろう。私の僕たちはずいぶんと優秀でね、軽やかに絹をまとい、蝶が舞うより早くに仕留めるのだ。鋭い短剣を腰に仕込み、熱きベーゼで息の根を止める。ただ辺りを血の海に沈めるだけの凡人とは違う。暗殺は一つの芸術だ。逝かせる者を魅了させるのが最低限のマナーだ――そう思わないかね? 手がすることは、目も楽しまなくてはならんだろう。その点で我が僕たちは至極有能だ。いつか貴公にも紹介しよう。
クレティアン それは結構なことで、しかし私はあいにく女人の舞には興味がありませんので――
エルムドア おや、これは奇特な方だ。眉目秀麗な仕手はお嫌いか。時に貴方もこんなとこで暇をもてあましている場合ではあるまい。今頃はわが君が広間で一暴れしている頃だろう。私もこれから見にいくところだが、さぞや壮観だろう。
クレティアン 随分と血が流れた模様。衛兵どもも誰がこの騒ぎを起こしたかさっぱり見当もつかず、敵を仲間に斬らせ、仲間を敵と斬り、もはや手の付けようのない事態。皆、口を開けば人殺し、慈悲を、逃げろ、血が、死体が、化け物が、と怒声と叫び声だけ。生憎、私はうるさい場所を好みませんのでね――この騒乱が落ち着くまで引っ込んでいることにします。
エルムドア 俗世の汚れに卒倒したか。
クレティアン そんなことで気を失うほど私も若くはありませんので――為政者と、それに組みする者どもの手が血にまみれている事はとうに知っている。しかし、かつても私は若い頃があった。士官学校に居た頃――あの頃は、私も政治を志す若き理想家だったのだ――ザルバッグ将軍に誘われ、北天騎士団に身を委ねるつもりだったのだ。しかし、現実はむごたらしい。あの天騎士の称号を戴いたベオルブの名前などとうに朽ち果てていた! 私はダイスダーグ卿が――浅ましくも――――をしている様を見た時、すぐさまこの身を翻してガリオンヌを去った。なるほど卿は狡猾な策士だ。洞察力がある。指導者としての器もある。言葉巧みに操り、貴賤への影響力もある。卿がいなければラーグ公もここまで世を渡れなかっただろう。だかしかし不純だ。たった一つの染みは他の全ての栄誉を汚す。良心あるのはザルバッグ将軍だけだった。
エルムドア それで、純粋な将軍をガリオンヌの掃きだめの中に残し、将軍を支えるはずだった良き参謀は一人でミュロンドへ逃げてきたというわけか。
クレティアン 申し開きは神の前だけで充分。私の本心は誰にも打ち明ける気はありませぬ。政治の汚濁に私はとうてい耐えられない。そんな厭わしき生活はいっかな承知できまい。ならば、ミュロンドへ来れば、世俗の尺度ではない、信仰の尺度によった生活が出来ると信じていたのだ。――私はなんと愚かな若者だったのだろうか! この地上の世界に理想を求めるとは! 永遠不変の理想のイデアはただ神の国にのみ実在する!
エルムドア 所詮、教会も地上の組織だ――この地の上に存在する限り、野心と権力とにまみれた政治の渦中にあるのだよ。ようやく悟りましたか、青年よ? 北天騎士団も、神殿騎士団も衣が違うだけで、その服を着るのは同じ人間どもだ。我々のやり方に肯んぜないのなら、まだあの将軍の後ろに控えていた方が心穏やかであったろう。今からでも遅くないぞ、我々に手を貸す気がないのなら、ガリオンヌへ去ったらどうだ。
クレティアン この世に善悪をもたらすのは神の業。この世の善悪を判断するのは人の業。私も人ならば、善し悪しを判断するのは控えましょう。どうして私の選択が間違っていたと? それを判断するのは神の領域だ。世俗の権力者の間で、利用し利用される汲々とした暮らしに身を投げるのは嫌だが、神の膝元にこの身を――命を懸けても――捧げるのは私の望むところだ。私はミュロンドに留まる。
エルムドア そう、信仰のために血を捧げるのは良いことだ――

  (ローファル、登場)

ローファル 侯爵、これはとんだご労足を。(一礼)
エルムドア 何、たいしたことではない。大公は始末した。為すべき事は為した。後は頼んだぞ。(退場)
ローファル (クレティアンに)お前も少しは足を動かしたらどうだ。仕事がないなどとはぬかすなよ。見ろ、手柄を銀髪鬼にまんまとかすめ取られてしまった。あの男は隙が無い。
クレティアン どうせ、誰がうさぎを始末したかなんて誰も見ちゃいないだろ。目撃者は死体だけだ。もしヴォルマルフ様に慈悲の心があるなら話は別だが。ああ、私はすっかり気が滅入った! 一足先にミュロンドに帰らせてもらうぞ。
ローファル 忘れずにバルクも回収してから帰ってくれ。
クレティアン イズルードはどうした。回収しなくていいのか。メリアドールが待ってるのはバルクじゃないだろ。
ローファル ――それは――(言いよどむ)
クレティアン ――私は、今まで、一度も己の選択を誤ったと思ったことはない。全く後悔はしていない。その判断は神のみ知ることだ。しかし、生まれて初めて私は自分が哀れになった――
ローファル ならばプライドを棄てろ、己を棄てろ、そして全てを投げ出せ。さすれば楽になれる。
クレティアン 私がこの身を投げ出してひれ伏すのはただアジョラの前のみ。他は誰であろうと――愚人どもの前に、私は私をくれてやる気は微塵もない! (退場)

  (次いでローファル、無言で退場)

  

 

  第六場 リオファネス城。客間。
  第四場に同じ。イズルードが血を流して壁にもたれている。アルマが駆け寄る。

アルマ 大変! イズルード! (駆け寄って抱き寄せる)
イズルード 君の言ったことは本当だった――(血を吐く)――真っ暗で何も見えないんだ――
アルマ もうしゃべらないで。私が傍にいるわ。
イズルード 剣を――剣を手放してはいけない――オレの剣はどこにある――
アルマ (なだめて)もう戦わなくていいの。あなたはもう何もしなくていいのよ。
イズルード (アルマの声が聞こえず、続けて)剣を――オレこの剣を離すまいと誓った。そして正しい神殿騎士の姿を示さなければならないと。だけど、オレは見てしまったんだ――
アルマ 可哀想に、こんなに怪我をして。震えているわ。無理もないわ。ここであれの姿を見たんでしょう! この血だらけの部屋で! 何もかもが切り裂かれ、踏みにじられているわ。とても人間の所業とは思えない。イズルード、あなたはこの惨状を目の当たりにしたのね――(抱き寄せ、頭を撫でる)
イズルード (続けて)あの姿を!
アルマ (抱きながら)悪魔の姿を!
イズルード (続けて)父親の姿を! 悪魔のような化け物だった――奴を倒さねばイヴァリースは滅んでしまう。信仰を守らなければならない。教会を不正と腐敗から救わなければならない――だかしかし、あれは誰だ、一体誰だ。父親ではない何かだ。そこには血に餓えた獣しかいなかった――だが、その魔が差した眼差しの向こうに――誇りを失った騎士の姿を見た――
アルマ もう戦わなくていいのよ。あの化け物は兄さんがすっかり倒したわ。
イズルード ――オレは剣を揮えなかった――どうしても――何故なら――彼は、誰に赦しを請うこともなく、人知れず涙を――流していたから――オレはとうとう剣を手放した――
アルマ それでいいの。それで良かったのよ。あなたはもう充分立派に戦ったわ。ゆっくり休むといいわ。
イズルード (呼ぶ)アルマ――いつか君がオレに信頼の証として聖石を託してくれたね――(パイシーズを手渡す)――今度は――この聖石を君に――(斃れる)
アルマ (受け取る)いってらっしゃい――永遠の夜の国へ。まぶしい光でなく、穏やかな暗闇が住まう憩いの国へ――(そっとキスをして)いつか私も一緒に行くわ。そして二人で世界の涯を見にいきましょう――(立ち去る)

  

 

[幕]
2015.07.05

  

 

レディの肖像

.

・エルムドア侯爵の過去話。レディがメインです。
・レディとセリアについて激しい捏造設定を含んでおります

◆登場人物
・メスドラーマ…領主の嫡男。アルビノ(白子)。
・レディ・アデレード…伯爵家のご令嬢。メスドラーマより年上。
・セリシア…アデレードの侍女。アデレードよりさらに年上。アデレードのことをお嬢様と呼ぶ。

・「主」…セリアとレディの主人。メスドラーマの肉体に宿った死の天使ザルエラ。
・レディ・アデレード(レディ)…闇の眷属。暗殺者。セリアのことをお姉さまと呼ぶ。
・セリシア(セリア)…闇の眷属。暗殺者。


   
「レディの肖像」

   

  
*レディの涙

   

「今日からおまえは私のしもべとして生きるがいい」
 そうして私たちは主によって命を与えられた。主は白銀の髪を持つ、年若い人間の男性。主は私たちに人間の形を取るように命じた。
「私は人間の形を知りません。主様はどのような人間をご所望ですか」
 もう一人の私が主に訊ねた。主は、私たちをある部屋に案内した。そこにはたくさんの肖像画が飾られていた。男、女、子供、年寄り、犬、馬。皆、美しい衣服を纏い、私たちの方にまっすぐな視線を向けている。
「ああ、そうだな、これがいい」
 主が指をさしたのは、二人の女性が描かれた肖像画だった。一人の若い女性がタペストリーで飾られた壁を背にして立っている。その隣にもう一人の女性が寄り添っている。こちらの女性の方が年上のようだ。二人とも同じブロンドの髪だ。もしかしたら二人は姉妹かもしれない。寄り添う二人は親密そうな雰囲気を醸し出している。けれども肖像画はかなり痛んでおり、所々に破損と修復の痕が見える。
「おまえは、この女になるがいい。名前はセリシアだ」
 そうして、もう一人の私はセリシアになった。肖像画の中の年上の方の女性だ。私は絵の中のもう一人の女性になった
「私の名前は何でしょうか」
 私は訊ねた。
「レディ・アデレードと名乗るがいい。高貴な女性の名前だ」
 私は喜び、自分の名前を何度も繰り返した。
 私はレディ・アデレード。私は高貴な女性。それが主からいただいたもの。それが私のすべて。

「お姉さま、どうやら私たちは『お嬢様』と呼ばれる人だったらしいの。肖像画の部屋で、お城の人が私たちの絵の前で話しているのを聞いたわ。『お嬢様』は伯爵家のご令嬢だったって」
「レディ、あまり城の中を歩いてはだめよ。私たちは主様にお仕えするためにここへ呼ばれたのよ。主様はもうこの城の中では故人なのだから……」
「お姉さま、お姉さま、でも、主様は、私たちにこの姿と名前を与えてくださったわ。主様は私たちに『お嬢様』になることを望んでいるのではなくて?」
「レディ、くだらない夢想にふけるのはやめなさい。私たちに人間の姿を与えたのは、異形の私たちの素性を隠すための便宜よ」
「で、でも……」
「言い訳はだめ。もう少し分別を持ちなさい、レディ」
 私たちは同じ闇の中から生まれた。「セリシア」となったもう一人の私は、「レディ・アデレード」となった私より少し年上の姿だった。そのせいか、もう一人の私は、年長者のように振る舞い、私も、もう一人の私のことをお姉さまと呼ぶようになった。主は私に「高貴な女性」の姿を与え、「高貴な女性」は姉のことを名前で直接呼ばずに「お姉さま」と呼ぶらしいという人間の習慣を知ったからだった。
 私は常に主のことを思っていた。主を愛し、主から愛されたかった。どうすればもっと主に愛されるのかを始終考えていた。もう一人の私は、あまり人間の暮らしに深入りするなと、ことあるごとに忠告したが、私は人間の暮らしに興味津々だった。主は私たちに人間の姿と名前を与えたのだから、私は人間になりたかった。主が望んだ存在に私はなりたかった。
 だから、時々、「高貴な女性」が着るような服を来て、こっそり城の中を歩いた。城の中では、主は私たちの世界の名前ではなく、「侯爵様」と呼ばれていた。
「メスドラーマ様……」
 私はそっと主の人間の名前をつぶやいた。私たちの主のことを人間の名前で呼ぶことは、もう一人の私が許してはくれなかった。だが、私はこの名前の方が好きだった。だって、こっちの方がとてもきれいな響きだったから。なんて美しい名前なのだろう。

 私は人目を偲んで、何度も肖像画の部屋に通った。レディ・アデレードとセリシア。二人の高貴な女性を、私は時が忘れるほど見つめた。だが不思議なことに他の肖像画の下には描かれた人の名前が刻まれているのに、この二人だけは名前が削り取られていたのだ。レディ・アデレードとセリシア。主は私たちをそう呼んで名前を与えた。だけど、どうして私たちの名前は絵の中から消されているのだろう。私は疑問に思った。消された名前を私たちに与えた主の真意が知りたかった。でもそんなことは怖くて聞けなかった。
 人間の暮らしに紛れるようになってしばらく経つと、闇の生まれである私にも人間の文化が分かるようになってきた。肖像画に描かれた細部の意味も分かるようになった。背景のタペストリーは、人間だった主が治めた土地とは遠く離れた辺境の地の貴族の紋章が描かれている。それはある伯爵家のものだった。伯爵は侯爵と呼ばれる主よりも一つ上の階級だった。主が私を「高貴な女性」と呼んだことに偽りはないようだった。
 絵の教養など全くない私が見てもはっきりと分かるくらいに肖像画は痛んでいた。下地の布地ごと切り裂かれ、何度か修繕された痕跡がみえる。この女性は斬られたことがあるのだ。私は不思議と悲しくなった。主も戦場で命を落としたと聞いた。
「あなたも、メスドラーマ様と一緒ね……」
 絵画の中の女性に、そっと手をのばす。この貴婦人もきっと亡くなっているのだ。なんとなく、そんな気がする。主が私を見つめる目はいつも悲しそうだったから。
「――私の許可なく、その人に触れるな」
「メスドラーマ様……?」
 背後から、突き刺さるような低い声がした。私は驚いて、手を引っ込めた。いつの間にか主が私の後ろに立っている。
「あ、あの、すみません……勝手に触れるつもりは……」
 しどろもどろの言葉が口から出てくる。主の気を悪くしてしまったらしい。
「そこから立ち去りなさい」
「待ってください! 私は別にふざけていたつもりはありません! 私は……ただ、この方のことが気になって……」
 主は、おそろしいほど冷たい視線を私に向けた。
「おまえが知る必要はない」
「でも、私もこの方と同じレディ・アデレードです。私は少しでも、この方に近づこうと思って……」
 私は主に顔を近づけた。
「見てください、このドレス。綺麗でしょう?」
 赤いベルベッドのスカートを持ち上げて、私はその場でくるりと身を翻した。肖像画の中のレディが着ているような綺麗なドレス。これで私も少しは絵の中のレディに近づけたかもしれない。私はもっと美しく、綺麗に、艶やで、気品のある女性になる。そして私が本物のレディ・アデレードになるのだ――そうすれば主はもっと喜んでくれるはずだ。
「ふっ……」
 主は笑った。私も笑った。よかった、主も喜んでくださる――
「馬鹿だな。おまえは何をやっているのだ。悪魔がドレスを着てどうする」
「え……」
 私は、主にそんなことを言われるなど想像していなかった。体がこわばった。そうだ、そうだった、私は悪魔だ……
「おまえは悪魔。私の眷属。おまえの役目は人の命を喰らうこと。だというのに、戯れにドレスを着飾り、人間の真似ごとをして、私を愚弄するつもりか」
「いえ、そんなつもりは……ござい……ません……」
 主を怒らせてしまった。私は慌てふためていて、頭を下げた。消え入りそうな声で謝った。膝の前で握りしめた両手がふるえた。そして、崩れ落ちるように床に座り込み、わっと泣き出した。
「申し訳ございません……もうしわけ、ございません……メスドラーマ様のお気を悪くなさるつもりはなかったのです……私は、ただ、メスドラーマ様に喜んでいただきたくて……」
 涙がとめどなくあふれてくる。主に喜んでもらいたかっただけなのに、主を気持ちを逆なでして怒らせてしまったなんて。
 主は何も言わない。両腕を胸の前で組み、無言で私をにらみつけている。私はとんでもない過ちを犯してしまったようだ――でも、何を?
「……だって、メスドラーマ様が、私に、このお姿とお名前をくださったから……だから私は……この肖像画の中の女性になろうと思って、必死で努力してきたんです……」
 涙で視界がぐしゃぐしゃになって、主の姿も絵の女性も見えなくなった。
「私が悪魔なら、どうして私に人間の姿と名前を与えてくださったのです――」
 私はあなたによって生み出された存在。あなたのためだけに生きる存在。あなたに嫌われてしまったら、私はどうやって生きていけばよいのだろう。私はひたすら泣きながら、主に謝り続けた。

   
*消された名前

   

 私は非情な男だと言われてきた。人間だった頃はまるで悪魔のように命を刈り取る、などと噂され、いつしかついた称号が「銀髪鬼」だった。
 私は悪魔よりたちが悪い。なぜなら、悪魔を泣かせてしまったのだから。レディが声をあげてないている。たかが悪魔のくせに、どうしてそんなに泣きわめくのだ。あんまり声をあげて泣きじゃくるせいで、身体がまっぷたつに折れてしまいそうだ。悪魔はこんなにも繊細な存在なのか。
 床に崩れ落ちたレディと、その前に掲げられたレディの肖像画を見比べた。私の気まぐれな思いつきで、悪魔の眷属は、この肖像画の中の令嬢と同じ姿形をしている。我を忘れたように泣いているレディにつられ、私の視界も混乱してきた。絵画の中のレディも涙を流している。今、私の前で二人のレディが泣いている。

 ――くそ、記憶がおかしくなってきた。

 記憶の中のレディは涙を流したことなどなかった。そうだったはずだが……いや、私の記憶にないどこかで泣いていたはずだ。記憶が逆流してきて、ますます混乱してきた。私もその場に倒れそうだ。

「――どうされました! 何かございましたか!」
 乱れた気配を察知して、私の優秀な護衛がやってきた。セリシアだ。彼女は壁に身体を預けてしかめっ面をしている私と、床で号泣しているレディを順番に見た。そして、冷静にこの状況を分析したらしい。
「レディ、落ち着きなさい。何があったかは知らないけれど、主様を困らせてはだめ。一体何をしでかしたのよ」
 セリシアはレディの腕を引っ張り上げて立たせようとした。
「もう! しっかりしなさい! 小娘みたいに泣いちゃって――主様、申し訳ございません。この子は使命を忘れて人間の暮らしに馴染みすぎているんです。ここは私が片づけておきますので、主様は、お部屋でお休みください。顔色が悪うございますので」
「顔が悪いのはもとからだ。無愛想だとよく言われるが、別に頭が痛いわけではない。それと、レディを泣かせたのは私だ」
「あら。でもいつものこと、きっとレディが粗相をしたのでしょう」
「いや……」
 私は何と答えようか迷った。レディを泣かせたのは、私の発言のせいだ。レディの涙には責任がある。私の眷属のレディと、もう一人のレディに対しても――
「心ここにあらず、という様子ね。主様、しっかりなさってください。あなたは私たちの主人、あなたがいてくださらないと、私たちも使命を果たせません」
 セリシアは靴と靴下の間に仕込んでいた短刀を取り出した。
「私の使命は、人の命を刈り取ること……私は、次に葬るべき標的がわかりました。『私たち』です」
 セリシアは短刀の切っ先を迷うことなく肖像画に向けた。
「主様、私はレディより少しだけ分別があります。だから私には分かってしまいました。なぜ、主様が私たちにこの女性の姿を模倣するように命令したのか――主様は、この女性たちに対して負い目や迷いを抱えている。それは主様が肖像画と同じ似姿をしている私たちに向ける視線で分かります。私たちを見つめる目は、ザルエラ様のものではなく、あなたの骸のエルムドア侯爵のもの。主様、お目覚めください。あなたはもう侯爵ではありません――『私たち』の存在が主様を迷わせるというのなら、私は容赦しません。今すぐ死んでいただきます」
 セリシアは短刀を絵画に向かって振り上げた。暗殺者が狙いを外すことはない。私は彼女の手を制止した。
「おまえの言うことはおおむね当たっている」
「ならば、どうして私のナイフを止めたのです」
「おまえが殺す必要はない。彼女らはもう死んでいる。二度も殺す必要はないだろう」
 私はセリシアから短刀を取り上げると、床に投げ捨てた。そして肖像画を眺めた。傷だらけの絵画。記憶がよみがえってきた。かつて、この絵画にナイフを叩きつけた女がいた。奇しくも、その人こそが、この絵画に描かれた女性――セリシアだった。
「セリシア、君は生まれ変わってもやはりこの絵を切り刻もうとするとは」
 私はため息をついて首を振った。
「感傷に浸りすぎた。そうだな、おまえの言う通り、私はもう侯爵ではない。混乱して申し訳ない。私は部屋に戻って先に休む。レディの面倒を頼んだ」
 セリシアに泣きじゃくるレディを託すと、私は自分の部屋に戻った。ここは私がかつて領主だったころに使っていた部屋だ。セリシアには、人間だった頃の記憶に引きずられるなと叱られたが……この部屋にいて、領主だった頃の記憶を思い出さない方が難しい。
 机の引き出しから布に包まれた一枚の板を取り出した。これは、あの肖像画の下につけられていたプレートだった。肖像画の中の二人の女性の名前が刻まれている。遠い昔に、私が自らの手で絵の中から削り取ったものだ。

『アデレードとセリシア。我らの幸福な時を祝福する』

 私はため息をついた。レディに泣かれたように、そもそも悪魔の眷属に人間の彼女の名前を与えてしまったことがすべての間違いだった。私はなぜそんな狂ったことをしてしまったのだろうか?

 ――今更、二人に会いたいなど思うものか……私を憎んだ女たちに……ああ、頭が痛い。今日は早く寝よう。過去のことなど思い出すものか。

   
*灰色の記憶

   

 過去のことを思い出したくないのは、過去の記憶があまりにも悲惨だったからだ。

 私はランベリーの領主である父の嫡男として生まれた。私には未来の領主として何もかもが保証されていた――はずだった。この銀髪さえなければ。
 私はイヴァリースでは誰も見たことのない白い髪をもって生まれた。白い髪、白い肌、白い目、いわゆる白子だった。父は生まれてきた跡取りが異形の生まれだったことにショックを隠せずにいた。そして、白い髪を持った私の存在が、父の統治者としての仕事を脅かすのではないかとおそれた。そして、私を城の塔の一室に隠して育てた。おそらくは、私を幽閉し、そのまま存在を闇に葬って次に生まれた子を嫡子として育てるつもりだったのだろう。だが、私にとっても、父にとっても不幸なことに、私の後に生まれた男子は全て死んでしまった。そのうち母も亡くなった。父は私が呪いをかけて弟たちを殺したのではないかと、私の存在をますます恐れた。だから、私は塔の中で幽閉されて育ったが、父は金を惜しむことなく、私にあらゆるものを与えた。私に自由はなかったが、この上なく豊かに育った。私は誰とも会うことを許されなかったが、私の部屋は父が買い集めた美しい調度品であふれかえっていた。父は私が欲しがるものは何でも買い与えてくれた。
 私は自分の暮らしが不幸なのか、幸福なのか、自分でも分からなかった。父以外の人間には会った記憶がなかったから、比べようがなかったのだ。だが、やがて15歳になり、成人を迎える頃になると、さすがの私も父への反抗の気持ちが芽生えていた。私は父を困らせようと、無理難題を父にふっかけた。イヴァリースは決して手に入らないような異国の珍品が欲しいと私は父に言った。父が困る姿を見たかった。だが、父は難なくその珍品を私のもとに持ってきた。父には莫大な財産があったのだ。金を積んで、交易人を動かしたのだろう。そこで私は考えた。金で買えないものをねだろうと考えた。
「父上、僕は女が欲しい」
「そうか、おまえも成人した。そろそろ嫁が必要だな。私がとびきり綺麗な娘を見つけてきてやろう。どんな女が好みだ?」
「僕が欲しいのは妻じゃない。ただ一緒に遊びたいだけだ」
「ふっ……女の遊び相手が欲しいとは、大人になったな。いいだろう。畏国で一等美しい高級娼婦をおまえのために用意する。おまえは昔から金のかかる息子だった」
 私は女遊びなどしたことはなかった。だから、本当に女と遊びたかったわけではない、ただ、父を困らるために言ったことだ。そして、友達が欲しかった。一人で暮らす生活にそろそろ耐えられなくなってきたのだ。
 私は、塔の窓から見渡せる城の中庭を歩く女性を指さした。日傘を差し、侍女を連れて歩く女性。見るからに貴族の令嬢という雰囲気だった。結われていない髪型から、彼女が未婚の若い令嬢であることも分かった。しかも、そばには伯爵家の紋章を背負った騎士の姿が見えた。私はその令嬢が伯爵家の血統を引いていることを確信した。だから、その女性を指さした。父は困るだろうと思ったから。侯爵家よりも位の高い、未婚の女性を、妻にするためではなく、遊び相手として、城の中に連れてくるのはどう考えても不可能だった。
 私は勝った、と思った。父が、それだけはできないと言って私に頭を下げるのだ。そして、この幽閉生活から私は解放されるはずだった。

 だが、父は手強かった。次の日、塔の中に、伯爵家の令嬢が侍女を連れて私に挨拶をしにきた。
 私は父に敗北した。父は、この貴族の令嬢を、こんな塔の中に連れてくるためにいくら金を積んだのだろうか。この女性はいくらで、父である伯爵に売り払われたのだろうか。
 私が完全な敗北を感じたのは、次のことに気づいた瞬間だった――私は誰とも話したことがない! この綺麗な女性にどうやって話しかけていいかすら分からない。妻などいらない、女と遊びたい、と父に豪語してみたものの、私は自分の名前すら恥ずかしくて名乗れない始末だった。
 気まずい沈黙が流れた。おそらく何も分からず連れてこられたご令嬢は、困惑しているようだった。侍女の方は、こんな状況に巻き込まれたことに苛立っているようだった。
「あの……僕の名前はメスドラーマ。あ、あなたは……」
「私はセリシア。お嬢様はあなたよりずっと高貴なお方なのですよ。直接名前を聞くなどマナー違反にもほどがあります」
「まあ、まあ、セリシア。よいではないですか。私たちはこれから『お友達』になるのよ。堅苦しいことは抜きにしましょう」
 部屋の絵画を眺めていたお嬢様がくるりと振り向いた。ブロンドの髪がふわりと宙を舞った。太陽のように美しい人だ。私は阿呆の子のように、口をあけて、その人に見とれた。そして安心した。「友達」にならなれるかもしれないと思ったからだ。
 それが、父以外に私が初めて話した人間だ。その後、お嬢様は名前を名乗ったが、セリシアと名乗った侍女に言われたように、直接名前を呼ぶのは気が引けた。だから私は彼女のことをずっとレディと呼んだ。
 こうして、私たち三人の奇妙な関係が始まった。

   
*灰色の記憶②

   

「この部屋はたくさんの絵がありますわね。若様は絵画がお好き?」
「うん、僕は絵がいちばん好きだ」
 レディは約束通りに私の友達になった。毎日、城の塔の私の部屋にセリシアを連れてやったきた。私の部屋には畏国中から取り寄せた工芸品や絵画であふれかえっていたから、会話に困ることはなかった。
「私、絵の教養は全くないけれど、この絵がとても美しいのはよく分かるわ。ねえ、セリシア、あなたもそう思うでしょう」
「はい、お嬢様が美しいと思うものは全て美しいです」
 セリシアが言うまでもなく、レディが美しいといったものは全て美しくなった。彼女は穏やかで、おっとりした物腰で、私の部屋にある調度品を一つ一つ褒めていった。それらは父が私を懐柔するために置いていったものたちだ。私はさして興味も持たなかったが、レディが美しいと言葉をかける度に、それらのものはまるで生命をもったかのように色鮮やかに輝いていった。彼女がいると、灰色の世界に色彩が戻るのだ。
「でも、あなたの髪もとてもきれいだわ。私、白銀の髪の方は初めてみましたわ」
 レディが私の髪を見ていった。私は怖じ気付いた。この忌まわしい髪が、私から自由を奪った。父は不気味だとしか言わなかった。美しいなどと言われたことはなかった。
「レディ、君は僕の髪が恐ろしくはない?」
「いいえ、ちっとも。とってもきれい。いつかあなたは領主様になるでしょう。そしたらみんな、他の国の方に自慢するわ。このお城には白銀の貴公子様が暮らしているって」
「私もそう思います。だいたい、若様は自信がなさすぎですよ。未来の領主様がそんなに自信がなくてどうするのですか。人の上に立つためにはもっと勉強しないと」
「うん、なら僕はもっと勉強する。本もたくさん読む。財政のことも父から聞いておく。剣の練習だってするよ。レディ、僕が立派な領主になれたら、僕のことをほめてくれる?」

 この頃になると、セリシアもよく笑うようになった。私は毎日が楽しかった。二人にずっと側にいて欲しかった。
「セリシア、レディはどんな宝石が好き? 流行の型のドレスは嫌いではない? どんな贈りものをあげたらいいだろう」
 私はセリシアからレディの好みを聞き出しては、父の金を使ってありったけの宝飾を贈った。私が贈りものをすると、レディはいつもそれを身につけてくれた。彼女に喜んで欲しい。私に色彩あふれる世界を教えてくれた彼女に感謝の気持ちを伝えたかった。

 ある日、いつものように城にやってきたレディは、いつもと違ってずっと窓の外を見ていた。セリシアは静かにたたずむレディの髪をすいて、きちんと編み直していた。
「レディ、どうしたの? 今日はお話はしてくれないの?」
「私は……今日は外の景色を見ていたわ」
 レディは窓の外に手をのばした。
「あの山を越えた先に私の国があるわ」
 私は普段と違うレディの雰囲気に、急に不安になった。
「レディ、セリシア、どうしたの。どうして今日は二人とも静かなの?」
「若様、お嬢様はしばらく里に戻ります。里のお屋敷で大事な用がありまして」
 セリシアのその言葉を聞いて、私はひどく狼狽した。二人が城から去って、そのまま永遠に戻ってこない気がした。私の不安をいち早く察知したのはレディだった。
「大丈夫よ、お屋敷に戻ったら、里の絵師を呼んで私たちの絵を描かせるわ。そしてあなたの元に送ります。そうしたら、寂しくないでしょう?」
 私は無邪気に喜んだ。レディの肖像画があれば、私は毎日、彼女に会える。彼女のことをずっと見ていられる。それに、私が絵が好きだと話したことを彼女が覚えてくれていたことが嬉しかった。
「ありがとう、僕は嬉しい。レディ、お礼に何が欲しい? ドレスがいい? それとも宝石の方がいい? この前、大陸から取り寄せた翡翠の首飾りがあるんだ。君がつけたらとても似合うと思う」
「若様、お気持ちだけで結構です。お嬢様はこれから里に帰る準備をしなくてはなりません。私たちの国までは長旅ですから、荷物が増えると大変ですし、宝石をたくさん持っていると盗賊におそわれる危険が増えますから」
「そう……」
 そうし私は二人を見送った。

 それからの日々は退屈と孤独との戦いだった。今まで、幽閉された生活に孤独を感じたことなどなかったのに、二人が去った後は、一人で暮らす毎日が退屈で、話相手もいない日々は孤独で気が狂いそうだった。自分の生活が、ひどく惨めで、不幸で、さびしいものだと気づいてしまったのだ。

 暦を数えるのも諦めかけた頃、ようやく、セリシアが城に戻ってきた。だけど一人だった。黒い服を着ていた。喪服だった。
「レディは? 一緒じゃないの?」
「お嬢様は亡くなりました」
 私は言葉を失った。レディが亡くなった? 嘘だ! 
「……だって、だって、まだ若かったじゃないか……病気とは思えない。事故でもあったの?」
「若様は、何もお気づきにならないのですか……?」
「え……? 気づくって、何に……」
 セリシアの表情がみるみる険しくなっていく。初めて会った時のようだ。
「お嬢様は心を病んで自ら命を絶ちました。若様の言う通り、お嬢様は若かった。まだ結婚もしていない――幼い頃に結婚の約束を交わした婚約者がいたのよ。私たちが城に召された日、お嬢様はたまたま、ランベリーの知り合いに会うために里のお屋敷を離れてこの城に来ていただけ。なのに、突然、お嬢様は若様の相手役に召されて、毎日お城に通う日々。あなた、想像したことがある? 婚約者のいる若い令嬢が、領主のお城の若息子の部屋に毎日毎日通う姿が。お嬢様は外では、あなたの愛人だってずっと陰口を言われていたのよ!」
「そ、そんなこと、僕は知らなかった……!」
「伯爵家のご令嬢が娼婦まがいことをして、男遊びに夢中になっている、お嬢様はそういう野卑な視線に耐え続けていたわ。お城をでる度に、お嬢様はずっと泣いていた。なのに、あなたは何も気づかず、ただ、お嬢様に綺麗な宝石を与えるだけ。あなたは自分の絵画を愛でるように、お嬢様にも綺麗なドレスを着せ、宝石で飾って愛でるだけ。城から出てくる度に、宝飾品を貢がれ、豪華な服を来て出てくるお嬢様を見て、城の使用人は笑ったわ。若様も娼婦と寝るようになった、無事に成人できた、とね」
「知らない……僕はそんなこと知らない! 僕はこの部屋から出ることを父から許されていない。城の噂なんて聞いたことがなかった。レディに宝石を贈ったのは、ただ、彼女に喜んでほしかっただけなんだ!」
 誰とも会うことを許された私には、どうやって友達と話せばいいかなんて分からなかった。父は私にたくさんの宝飾品を与えることしかしなかった。だから私もそうするしかできなかったのだ。
「でも、お嬢様は死んだわ。噂が里のお屋敷まで広がり、お嬢様は婚約者に疑われ、どんな言葉を尽くしても疑いを晴らせず、泣きながらナイフで自ら命を捨てたわ――お嬢様は、ランベリーの若息子の娼婦だって言われたのよ!」
 セリシアの目には、明らかに憎悪が宿っていた。私はどうしていいか分からず、立ったり、座ったり、部屋の中をうろうろと歩き回った。レディが亡くなったショックで気を失いそうだったのに、彼女が私のせいで辱められていたという事実に、私も死にそうになった。ああ!
「レディ、申し訳ないことをした……本当に……今更謝ってもどうにもならないけれど……僕がレディを城に呼んだばかりに。ああ、僕のせいだ。でも、婚約者がいたなら、最初から断ってくれればよかったのに。そうしたら、こんな悲劇はおきなかったのに。父は一体、君たちにいくら払ったんだ?」
 最初から不思議だった。伯爵家の令嬢が、侯爵家の幽閉された異形の息子の相手に召されるなど、ありえない話だ。私の父は一体、どれほどの金額で、伯爵家を動かしたのだろうか。
 セリシアはかっと目を見開いて私をにらみつけた。そして啖呵をきるように言い放った。
「お金、お金、お金! あなたはいつもお金のことばかり! お嬢様の潔白のために私は言いますが、お嬢様も伯爵様も、一切お金は受け取っておりません! まるでお嬢様が侯爵様のお金で身売りされたみたいな言い方はよしてください!」
「セ、セリシア、ごめん。そうだったなんて。君たちを傷つけるつもりはなかった。でも、父がお金を出さなかったというなら、どうして、僕のところに来てくれたんだ……?」
 その時、レディの死のショックに打ちひしがれていた私の心に、わずかな希望がわき上がった。レディはお金のためにこの城へ通っていた訳ではなかった。つまり、もしかしたら、私のことを愛してくれていたのでは、と幼く純粋だった私は憶測を抱いた。だが、その儚い憶測もセリシアの次の言葉によって、あっけなく砕かれた。
「お嬢様は、若様のことを不憫に思っていたのです。領主の跡取りに生まれながら、異形の生まれだったために外界から閉ざされ、塔の奥に幽閉された若い少年にひどく心を痛め、同情されました。ですから、ここへ通って、少しでも若様のお気を紛らわせようと思っていらっしゃいました――お嬢様のそんな殊勝なお心にも、あなたは全く気づいていないようでしたが」
 同情、ああ、そうだったのか。私はずっと不憫な少年として哀れみの視線を向けられていたのだ。私は、そのことに、ひどく落胆した。レディが死んだことより、憐憫の情を向けられていたことに、鈍感にも気づかなかった自分がどうしようもなく情けなかった。
「若様、お約束のものをお持ちいたしました。お嬢様からの贈り物です」
 もう相手にもしたくないというとげとげしい雰囲気のセリシアから渡されたのは、布でくるまれた身の丈半分ほどの板――二人の肖像画だった。

『アデレードとセリシア。我らの幸福な時を祝福する』

 絵に刻まれた二人の名前と、その後の言葉に私はぞくりとした。背筋が凍るようだった。この言葉はレディが望んで絵師に刻ませたのだろうか。
「さあ、若様、ご満足いただけましたか。これがお嬢様からあなたへの最期のお気持ちです。私はこれで役目を果たしましたから」
「幸福な時か……」
 レディの死と、彼女から私に向けられた心の真相を知った今となっては、あの日々を幸福な時と感じることは、もはやできなかった。
「ああ、お嬢様にとっても、おつらい日々でした――お嬢様の涙にあなたは一度でも気づいたことがありましたか?」
「いや……」
 私はうつむいた。知らなかった。何も知らなかった。悲しいことに、それが事実だった。
「それでも、それでもお嬢様は、せめてあなたが悲しまないようにと、この絵に『幸福な時を祝福する』と書かせたのです。お嬢様は、ほんとうに、お優しい方だった……だけど、あなたが殺した! お嬢様を死に追いやったのはあなたよ!」
 セリシアは服にしのばせていたナイフを取り出すと、目にも留まらない早さで、ナイフを肖像画に叩きつけた。その素早い一撃はレディの胸を切り裂いた。まるで私に、レディが死んだことを見せつけるように。
「私は最初から、お嬢様がお城に通うことには反対だったのよ! あなたのせいで、お嬢様が……ああ、お嬢様が……あの方なしには私は生きていけないわ……!」
 セリシアはヒステリックに叫び散らした。私は止めようとしたが、レディに対する激しい罪悪感に苛まれ、彼女にかける言葉も見つからなかった。やがて、パニック状態の極限に達した彼女は、塔の窓から身を乗り出し、私が「あ!」と叫んだ頃には宙に飛んでいた。すぐに、どしんと鈍く重い音が聞こえた。私は窓から地面を見下ろす勇気がなかった。そして、ただぼんやりと、部屋に残された、切り裂かれた二人の肖像画を見ていた。
 私にも、レディにも、セリシアにも、誰にとっても苦痛の日々だった。私はセリシアが投げ捨てていったナイフを拾うと、彼女たちの名前を削り取った。もう二度と、彼女たちの名前を口にすることはないだろうと私は思った。

   
*涙の意味

   

「主様……先ほどは取り乱して、申し訳ございませんでした……」
 私は、主の寝室の扉をそっと叩いて、中に入った。もう一人の私から、取り乱してしまったことを主にきちんと詫びてくるように叱られたからだ。
「主様?」
 私は天蓋の下のベッドをそっとのぞき込んだ。シーツの上にきれいな銀髪が流れている。私はじっとみつめた。初めて見たときから、とても美しい髪色だと思っていた。
「誰だ、そこにいるのは」
「あ、あの……お休み中にお邪魔でしたらすみません。すぐに出て行きます」
「レディか、おまえなら別に気にしない」
 私は主の好意に甘えて、ベッドのそばのスツールにすとんと腰をおろした。
「主様はとてもきれいな銀の髪をもっていらっしゃるのですね」
「ああ、これか……」
 ベッドで寝ていた主は、半身を起こして、自分の髪を無造作にかきあげた。
「若い頃はいろいろ気味悪がられたのだが。悪魔の子だとか、ずいぶん言われた。この国では白子は珍しいからな――そういえば、私の髪を美しいと初めて褒めたのもレディだった」
「私……ではなくてアデレード様ですよね」
 主が自ら、あの肖像画のレディ・アデレードについて語るのは初めてのことだった。私は肖像画の令嬢たちについて質問したいことが山のようにあった。だが、もう一人の私に、主の過去に関する人間たちのことには口を突っ込むなと散々叱られたばかりだったので、私は何も言わなかった。
 少し休んだ後だったので、主は少し上機嫌になったようだ。主はベッドから出ると、サイドテーブルの上に置かれていた木片を私に手渡した。そこには、二人の女性の名前と「幸福な時を祝福する」という言葉が書かれていた。
「レディ・アデレード……高貴な女性だった。私は一度もその名前で呼んだことはないが」
「……だから私はずっとレディと呼ばれていたのですね……きっと主様の、いえ、メスドラーマ様の幸福な記憶なのでしょう。闇の眷属の私めがこの名前を口にしたら、きっとその幸福な記憶を壊してしまいます」
 私は主にその板を返した。主は笑った。
「その必要はない。私が彼女たちを殺したのだから……幸福な日々ではなかった。その間逆だ。その女のうちの一人は私に憎悪の目を向けさえした」
「……っ!」
 私は困惑した。肖像画の女性はもう亡くなっているのだろうとは思っていた。だが、主が殺し、主にとって忌まわしい記憶だったとは。
「では……その、ご自身で殺した女性と同じ姿をした私たちをそばに置いておくのは、おつらいのでは……どうして私に、その方の名前と姿を与えたのですか?」
「さあな。私でもよく分からない。もうどうでもよいことだ。彼女らも、私の魂もとうに故人だ。死んだ人間が死んだ人間の魂を喚びだし、昔の記憶と戯れているだけだ」
 私は主の言葉を聞くと、静かに部屋を出た。よい夜を、とだけ声をかけた。

「レディ、主様にちゃんと謝れた?」
「お姉さま……」
 私は主の部屋から出ると、外で待っていたもう一人の私の胸に飛び込み、こらえきれずに泣き出した。
「あらあら、また泣いているの。あなたは手間のかかる子ねえ」
「そう、私は泣いてる……でも、悲しいのは私じゃなくて、主様なの。主様のかわりに泣いているの……とても胸がしめつけられて、もう私、どうしたらいいのか分からないわ」
 私は悪魔。闇の一族。私は人間の魂を喰らい、大いなる主のために血を集めるために生み出された存在。命の奪い方は知っていても、失われた魂のために嘆く人にかける言葉は知らない。
「レディ、泣かないで。私たちは私たちの役目を果たせばいいのよ」
「お姉さま……?」
「私たちは、主様のために魂を尽くして生きるのよ。主の悲しみは私たちの悲しみ。私たちの喜びは主の喜び。あなたが泣いていたら主様はますます悲しむわ。前を向きなさい。私たちは主様の手となり足となり、盾となり、剣となるのよ」
 もう一人の私は私に、短剣を握らせた。
「殺しなさい」
「殺す……? 誰を?」
「レディ・アデレードはまだ生きている。殺すのよ」
「レディを殺す? え、だって、レディ・アデレードは主様が、自分の手で殺したって、さっき言ってたわ……それとも私を?」
 もう一人の私は、何も言わずに、私の手にある短剣を指さして、うながした。
 短剣を持ったまま、私はその場で立ちすくんだ。どうすればいいのだろうか。

   
*さしのべる手

   

 ――何度、この過ちを繰り返えすのだろうか。

 私は、寝室の窓をあけ、城の東の尖塔をぼんやりと眺めた。そこが、領主の息子だったかつての私が幽閉されていた場所だ。そこで、レディの死を聞き、セリシアの死を見届けた。私の記憶の中のもっとも灰色の部分だ。
 レディとセリシアの死の責任はずっと感じ続けていた。人知れず泣いていたレディの涙に気づけなかった責任は私にある。そのことをずっと責め続けていた。私はもう、メスドラーマ・エルムドアではないというのに。死んだあとでさえ、灰色の記憶がこの身体にこびりついていて、離れない。
 なぜ、眷属たちに彼女らの名前を与えてしまったのか。自分でも分からない。彼女たちに側にいて欲しかったのか。今度こそ、自分を愛して欲しかったのか。それとも――罪の償いをしたかったのか……いや、私も、彼女たちも死んでいるというのに、どうやって贖罪をすればよいのか。
 灰色の記憶が詰まった塔を眺めながら、私はぼんやりと夜の時間を過ごしていた。すると、部屋の外から、レディのすすり泣きが聞こえる。あまりにも過去の記憶に浸っていたから、レディの亡霊が私の耳元で泣いているのかと思ったが――いや、たしかにレディが泣いている。私の眷属のレディが。
「やれやれ、困った子だ」
 悪魔なのに、と口に出しかけて私は硬直した。
 レディの涙。私が気づけず無視し続けた涙。私にはその涙をふきはらう必要があったはずだ。今になって気づいた。レディ、私が失った魂。そして私が再び呼び戻した魂が泣いている。私がするべきことはただ一つ――その涙にこの手をさしのべるのだ。
「レディ!」
 私は、窓から身を離し、扉をあけるために部屋を走った。
 もう過ちは繰り返さない。泣いているレディは、私た殺したレディではない。今更、手を差し出したところで、私の偽善が満たされるだけかもしれない。だが、もう私は彼女の涙を無視するわけにはいかない。そのために彼女の魂を呼んだのだ――
「今、私がいくから――」
 そして、扉をあけた私は想定外の光景に驚いた。そこにいるはずだった涙を流すレディはいなかった。かわりに、思い詰めた表情でナイフを握りしめてたたずんでいるレディの姿があった。
「レディ! 何をしている、そのナイフを捨てなさい!」

   
*新しい世界のために

   

「主様……」
 私はナイフを握ったまま主を見つめた。
「私は闇に生きる暗殺者。お姉さまから、私が次に殺すべき標的を教えてもらいました――レディを殺せと」
 握ったナイフで、私は自分のブロンドの髪をざっくりと切り落とした。肖像画の中の彼女は長い髪を垂らしていた。でも私は貴婦人じゃない。私は暗殺者。長い髪で飾る必要はない。それから、おもむろにドレスの裾を破いた。
「主様は私にレディ・アデレードとしての姿と名前を与えました。ですが、私はその名前と姿を捨てます。主様にいただいたものを捨てるわがままを、どうかお許しください」
 そして、私は、持っている力の全てを使って姿を替えた。できるだけ貴族の姿から離れた衣装をまとい、闇に生きる暗殺者にふさわしい姿に――
「どうです、私の新しい姿、気に入ってくださいましたか? レディ・アデレードは私が闇に葬りました。これから先、私がドレスをまとうことも、あの高貴な方のお名前を口に出すことも二度とありません。私は名前を捨てました。私のことは、ただ『レディ』とお呼びください。レディ・アデレードを再び殺したのは、この私です。主様が気に病むことはございません」
 主はにこやかに笑った。
「眷属に心配されるとは、私も主としての自覚が足りないようだな」
「そうですよ、ザルエラ様。あなたはもう侯爵ではなく、死を司る天使様なのですよ」
 もう一人の私が姿を現した。もう一人の私も、ドレスを捨てて私と同じ闇の衣装をまとっている。
「主様、申し訳ございません。私もいただいた姿を捨ててしまいました。私のことは……そうですね、セリアとお呼びください。セリシア様はもう私が消してしまいましたから」
「ああ、そうだな、それがいい」
 主は、くるりと向きを変えて、ベッドのそばのサイドテーブルに置かれた小さな木片を手に取った。そこには二人の名前が刻まれている――私たちが捨てた二人の女性の名前が。
「さらばだ、レディ・アデレード、セリシア――そしてメスドラーマよ……」
 主は板をまっぷたつに折った。そうして、板の半分を窓の外に手放した。二人の名前は風に乗ってどこかへ流れていく。
「死者の記憶はしかるべき場所に還るがよい。私たちはなすべきことをしよう」
 主は、残った板の半分を私に手渡してくれた。そこにはこう刻まれている。

『我らの幸福な時を祝福する』

 私は声に出してその言葉を読み上げた。顔を上げると主と目があった。
「主様……」
 私は嬉しかった。主が私を見ている。レディ・アデレードに向けられる視線ではない。私に向けられる視線だった。はじめて、主は私を見てくれた。
「私は主様のおそばにずっとおります。片時も離れず、あなたをお護りいたします」
 主は私たち抱きしめてくれた。

「レディ、よかったわ。主様が私たちのことを祝福してくださったわ。死の天使様の加護をいただいたのよ」
「ええ、お姉さま。私は主様のために、たくさんの血を集めるわ――私たちの生きる新しい世界を作るために」

 私はこれからレディになる。私は私になるのだ――私がレディだ。

   

   

2019.3.19

侯爵様は吸血鬼になりたい

.            

        

        

        
侯爵様は吸血鬼になりたい

        

        
「メスドラーマ様、お召し替えのお時間ですよ。さあ、早くお起きになって」
  心地よい午睡のまどろみを遮る、叱責じみた女性の声。メスドラーマ・エルムドアはベッドの上で寝返りを打った。
「セリア、カーテンを閉めてくれ。日光は身体に悪い」
「それは昼過ぎまでうたたねなさってる主様がだらしないだけですから」
 エルムドアに長年仕えてきた侍女のレディは主の扱い方を心得ている。カーテンを引いて部屋に明かりを入れると、シーツにしがみつく二日酔いの主をたたき起こした。
「まあ、お髪もみっともないことになっているではありませんか」
「もう少し寝かせてくれ」
「だめです。セリアお姉さまが教皇様のお使いを連れてくる前に、早く支度をオワラセナイト」
 外の日光から隠れて夢の世界へ戻ろうとする主にレディは不満だった。ベッドの上で縦横無尽に乱れた主の髪の毛を綺麗に整えようと格闘している。
「教皇の使い? ああ、ヴォルマルフの娘のことか。教皇に気に入られて聖石をもらったとか。あの娘なら城の庭で遊んでいた頃から知っている。今更かしこまる必要も……」
「メスドラーマ様! あなたはもうこのお城の領主様なのですから、そんなふざけた態度ではいけません。それにメリアドール様は教皇猊下の代理でいらっしゃるのですよ。お嬢様扱いしてはいけません。そもそもメリアドール様は次代の神殿騎士の長となる方で……」
 またレディの長いお説教がはじまった。
 エルムドアはベッドの上に身体を起こし、上の空で窓の外の景色を見ていた。領主様、か。もう気ままに暮らしてはいられないのか。いい加減起きるか。そう意気込んだものの、
「あ……」ワインに手が当たってしまった。
「メ・ス・ド・ラ・ー・マ・様」
 レディが用意してくれた白シャツに赤ワインの染みが広がる。当のレディはポーカーフェイスでそつなくエルムドアの身支度を整えていたが、声のトーンがおそろしいことになっている。侍女の逆鱗に触れてしまったようだ。こういうときは笑ってごまかすのが一番だ。
「大丈夫だ、問題ない。そうだ、あの黒のビロードのマントを羽織ろう。あのマントは丈が長いから服の汚れも見えないだろう」
「主様? 正気ですか? あれは舞踏会用の衣装で……そんな吸血鬼みたいな恰好で外の人に会うのはおやめください」
「なに、ヴォルマルフの娘っ子だ。あれはなかなか豪胆な騎士だと聞く。マナーにうるさい貴族や役人の類ではない」
 エルムドアはひらりとベッドから飛び降り、小言を述べ立てるレディかわすと特注の黒のマントを身にまとった。
「うむ、これで良い。これは舞踏会で吸血鬼の仮装をしようと思って作らせた一品物だ。私によく似合っているだろう」
「ああ……ランベリーの領主様が吸血鬼の格好など……メリアドール様が誤解なさったらどうするんですか。領主様が吸血鬼に襲われたと思われたら、きっと撃ち殺されますよ。あの方はとてもお強い方ですら……」
 エルムドアは鏡の前でくるりと回った。漆黒のマントに輝く銀髪。我ながら良い見栄えだ。レディは気に入らないようだが。
「レディ、そんなにごちゃごちゃ言うな。私も武人だ。刀は肌身離さず持ち歩いている」
「先の戦争の時、お城を取られて北天騎士団の将軍様に泣いて助けを求めたのはどなただったかしら? ガリオンヌへ遊びに行くと言って誘拐されて身代金を払ったのは誰かしら?」
「……」
 エルムドアは言葉に詰まった。しまった、自分だ。
「メスドラーマ様、わたくしは心配しているのです。主様はとても目を惹く容貌で、戦場を歩けば流れ矢が飛んでくるような方なんですよ。だから、せめてもう少しお静かに……」
「私に一生、城に引き籠ってくらせというのか? それは無理な話だ」
「いえ、そこまでは……」
「だから君が私のことを守ってくれるのだろう? 私の最高のアサシンよ」
 エルムドアはレディを見つめた。まっすぐ、信頼のまなざしで。「私の命は君に託した。信頼しているよ」
「メスドラーマ様……はい、もちろん、私の命を掛けてお護りいたします」 
 レディはエルムドアの前で膝をついた。だれよりも尊い、護るべき主の命。何に代えても守り抜く覚悟だ。
「……とは言っても、教会の方を暗殺はできませんから。メリアドール様の前ではお行儀よくしていてくださいね」
 吸血鬼の格好をして、意気揚々と部屋を出て行った主をレディは心配そうに見送った。不安の種が尽きない主人だ。
「まあ、あとはセリア姉さまが何とかしてくれるわね」

        

        

2018.10.31