MIMOSA

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MIMOSA

     

  

     

 彼女はいつも誰かの人生を歩かされていた。孤独て、惨めで、虚しい人生だった。彼女はいつか自分だけの人生を歩くことを夢見ていた。そのためなら、どんな悲惨な毎日だって耐えて、生き抜いてやるのだと自分に言い聞かせていた。
 彼女は、人里離れた森の魔女の子として育った。そのまま母親と同じように、森の中で静かに人生を送るのだと思っていた。でも、ある日、教会の騎士がやってきて母親を焼き殺した。そして、おまえは異端の子だと罵られ、そのまま教会の騎士に捕らえられた。自分も母親と同じように殺されるのだと思った。だが、教会は彼女を殺さなかった。彼女が――殺すにはあまりにも幼い少女だったから――ではない。ただ、魔女の子が持つ魔力を利用したかったからだ。彼女はいつしか教会の企みに気づいた。

     

  

 ――あいつらは、はじめから、私の魔力が欲しかったんだ。
 ――だからお母さんを殺して、私を駒にするために育てたんだ。

     

  

 彼女は、教会のいいなりだった。母が遺した魔力を、汚いことにも使った。悔しくて、惨めで、涙を流しながら誰かの命を奪った。そうしろと教会が命令したから。逆らえば母親と同じように焼き殺される。彼女は自分が死ぬことは恐れていなかった。ただ、母と自分を身勝手な駒として扱う教会に復讐するための機会をうかがっていた。いつか牙を向く日がくると信じて、涙を飲んで過ごした。

     

  

 だから、『その日』が来た時、彼女はどうしていいのか分からなかった。
 目の前にいるのは、自分が監視をする対象人物――ディリータ・ハイラル。彼は彼女に刃を向けている。
「俺はここでおまえを殺した――歴史ではそう書かれることになる」
「私に……ここから逃げろというの?」
 そうだ、と彼は答えた。そして、ポツリと言葉をこぼした。「おまえは俺と一緒だ。駒として、誰かの手のひらの上で踊らされている。それに気づいてないだけだ」
「違うわ! 私は自分が駒として扱われていることを知っている! でも、そうしなければ生きられない! 私は教会に復讐がしたいのよ、そのためなら駒にだってなる。どんな道だって耐えると自分に誓ったのよ」
「ふ……所詮、『駒』の考えることだ。惨めだと思わないか?」
 まるで自分を見ているようだ、だから俺は耐えられないんだ、と彼は付け足した。そして、彼女を放り出した――そして彼女は自由を得た。誰にも命令されない。誰からも監視されない。何をするのも彼女が自分で選べる。なのに、彼女は戸惑っていた。自分でも何をしていいのか分からなかったから。自分が『駒』に成り果てていたのだと気づき、みたび涙を流した。

     

  

「僕と一緒に来てくれないか? 正直、僕は困っている。脱獄の途中なんだ。だから手伝って欲しいんだ、頼むよ」
「誰……?」
せっかく、彼女が自分の人生を探そうと決めた、まさにその瞬間に彼――後に彼女の夫となる男――に手を持って行かれた。なかば強引に。彼女の返答なんて聞かずに。
「嫌よ、わ、私は自由に生きるって決めたのよ、見ず知らずのあなたなんかに……ッ」
「そこをなんとか、頼むよ。城の通路に詳しい人を探していたんだ――それに、君は僕と一緒にいる運命だって星が言っている」
 そんなことを言われても、と彼女は困惑した。でも、彼は彼女の手を掴んで、握って、離さず、二人は城から逃げ出していった。

     

  

 そのままずっと、この手を握ってくれるのだと彼女は思っていた。
 なのに――

     

 

「おかあさん、きれいなお花が咲いているよ。お空のお星様みたいな黄色いお花だね」
「そうね……これはミモザというお花よ。あなたがもう少し大きくなったら枝に手が届くかもね」
 そう言って彼女は、子どもをあやした。
「あなたのお父さんも空のお星様を見るのが好きだったのよ」
 彼女はそっと背伸びをして天の河のごとく咲き乱れる黄色の花をそっと手折った。そして空にかざした。星々がきらめいているようだ。

     

 

 ――無責任にもほどがあるわよ。全部、私に押しつけて先にいってしまうんだから。
 ――そうね、初めて出会った時からあなたはとてもせっかちだった。だから流星のごとく先にいってしまったのね。

     

 

 彼女は、結局、自分だけの人生を歩むことはなかった。誰かのために生きるなんてまっぴらだと思っていたのに。自分だけの人生が欲しかったのに。今、彼女の手には彼の忘れ形見の小さな子がしがみついている。

     

 

 ――オーラン、あなたが命を託してくれたから。だから、私もあなたのために生きようかなと思えたの。

     

 

 彼女は我が子を抱きかかえて家に帰り、手土産にと手折った黄色の花を一つ、窓辺に置いていた杯の上に散らした。もう、共に杯を交わしてくれる人はいないけれど、彼女は満足そうな顔をしていた。誰かのために生きることも、案外、幸せなことなのね、と呟きながら。

     

 

2021.06.07

  

     

妻の名前を呼ぶ日

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・オーランが生きています。バルマウフラと結婚しています。バルマウフラは森の魔女です。
・「ヴァイゼフラウ・バルマウフラ」の続編のようなお話です。バルマウフラが「ヴァイゼフラウ(賢い女)」と呼ばれているのはそこからのオリジナル設定です。


 

 
妻の名前を呼ぶ日

 

 

 

 長い夢を見ていた気がする。熱い、炎に、焼かれるような、息苦しい夢。目を閉じたら二度と起きることができないような深い夢。
「旦那、お目覚めかい」
 オーランはふっと目を開けると、声の聞こえる方に顔をわずかに向けた。身体が思うように動かない。見知らぬ場所の見知らぬベッドの上に寝かされていて、ありったけの包帯と保護布で身体を覆われている。
「全身ひどい火傷だよ。焼けた家の下敷きにでもされたのかい?」
 火傷。その言葉にでオーランのぼんやりとした意識は完全に覚醒した。

 ――そうだ、私は火刑に処されて死ぬはずだった。

 杭に縛られ、足下に積み上げられてた薪に火がつけられ、有象無象の観衆から投げつけられる言葉を聞いているうちに息苦しくなってくる。白書を上梓し、後は森羅万象に身を委ねるつもりだった。しかし、いざ杭につけられ、我が身に迫る炎を見ると恐怖がせり上がってくる。この場においてみっともなくもがき苦しむよりは、と、オーランはそこで意識を手放した。いや、その前に「彼女」の姿を見た気がする。それが死ぬ前の幻覚が見せる夢だったのかどうか、彼には分からなかった。
 そして、再び意識を取り戻し、見知らぬ場所に寝かされている。やや心配そうな顔で寝ているオーランをのぞき込む男の名前も、当然知らない。
「しかし旦那、いったいどうしてこんなひどい怪我を? 家に放火でもされたんですかい?」
「ああ、火をつけられてしまってね……うっかりしていたよ」
 異端として火刑宣告されて我が身に火を放たれて、とは言えなかった。貴族ならばオーランの素性を知っており、処刑を生き延びたことを密告するかもしれない。この男がどこまで貴族と関係があるのか分からなかったが、オーランは念のため事情を伏せておいた
「あなたが私の治療を?」
 オーランはベッドの上で、そっと自分の身体を触った。かなり炎に炙られていたと思われる下半身は殆ど感覚がない。だが、わずかに手を下腹部にずらあしていくと軟膏と包帯とで手厚保護されているのが分かる。腕のよい治療師が手当てをしてくれたのだろう。
「いや、俺じゃない。ヴァイゼが旦那をここへ連れてきた。大方の治療はヴァイゼがやった。俺は彼女に指示された世話をしてるだけさ」
「ヴァイゼ……?」
「ヴァイゼフラウ――魔女だよ。村のはずれのラナの森にひとりで住んでる」
 村の男は木枠で覆われた窓をこんこんと叩いた。おそらく、叩かれたその方角に魔女の住まう森があるのだろう。
 オーランは、ヴァイゼフラウと呼ばれる魔女の正体を知っていた。どうやら死ぬ前に「彼女」を見たのは夢ではなかったようだ。そして、「彼女」が彼を助け出してくれたようだ。
「『彼女』は今どこに?」
 はやく会いたいな、とオーランは思った。
「ヴァイゼなら森へ帰ったさ。彼女はきっちり三日おきに村へやってくる。次にここ来るのは夜が三度来てからだ。それが魔女の流儀なのさ――ところで、旦那はいったい何者ですかい? あんたはヴァイゼが突然この村に連れてきた。怪我を追っているから看病をしてやってくれと。彼女といったいどういう関係だ?」
「私は彼女の夫です。彼女は私の妻です」
「旦那? ちいと煙を吸いすぎたのでは? 頭はしっかりしていますかい?」
 村の男はオーランの言葉を笑って流した。オーランがまだ昏睡状態で夢まぼろしの言葉をしゃべっていると思っているらしい。
「いや、これは本当です。領地には正式な結婚証明書があります。私たちの間には息子だっています。証明書はここにはないけれど、結婚の誓いをあげた時に作った指輪が――あれ、ないな……」
 オーランは自分の左手を見てがっかりした。処刑台にあがる前に、これだけはと司祭に懇願して最後まで身につけいていた結婚の指輪が見あたらない。
「旦那、無理は禁物ですさ。しっかり寝て起きれば、頭もしっかりしてきます」
「ああ、ありがとう……」

 ――せめて、あの指輪が見つかれば僕が「彼女」の夫だとこの人に伝えられるのに。

 オーランはがっかりした。肩を落として、そのまま目を閉じた。この場所にいればいずれ「彼女」に会える。その安心感が彼を安らかな眠りへと誘った。

 

 
 さっぱりした薬草の香りに目が覚めた。
「バルマウフラ……もう来てくれたのかい。村の人の話だと三日おきにしか顔を出さないとか」
「そうよ、私は三つの夜を数えてから森を出た。あなたがずっと眠っていただけよ」
 バルマウフラはベッドの上に横たわるオーランにそっと覆い被さり、頬を、髪を、両手ではさんで優しく撫でた。
「ゆっくり休んで身体を回復させるのよ」
 そう言いながら、バルマウフラはオーランの身体をベッドの上で転がしながら手際よく包帯の交換を行っていく。サイドテーブルにはオーランにも名前が分からない薬草の束がどっさりと積まれている。
「君は……ここではヴァイゼフラウと呼ばれているようだね」
「それは母の名前だ……森に住む賢い女は皆、ヴァイゼフラウと呼ばれる。母亡き後、私がヴァイゼフラウになったの。私の母は教会の騎士に異端の嫌疑をかけられ、その場で火炙りになって死んだ――だから、炎は、私は、きらい」
 仰向けに寝かされているオーランからは、テーブルの薬草を包帯に練り込んでいるバルマウフラの表情は見えない。オーランは無性にバルマウフラのことを抱きたくなった。今はただ静かに抱いて、謝りたい。

 ――君が炎を恐れているのはずっと昔から知っていた……そして僕はまた君を怖がらせてしまった………

「あなたが炎に包まれた時……私は……」
 バルマウフラが涙を飲む音が聞こえた気がした。
 彼女を泣かせてしまった。どうしよう。抱きしめたいのに。今すぐ彼女の肩に手を添えて、大丈夫だよ、と言ってあげたいのに。動かない身体がもどかしい。
「バルマウフラ、心配をかけてすまな――い、痛ッ」
 バルマウフラが、オーランの右足の包帯を締め上げた。
「――冗談じゃないわよ。次に炎の中に入るときがあったら、もう知らない。勝手に焼かれなさいよ」
 手際よく、古い包帯をはがし、焼けた皮膚を削り落として薬草と軟膏を塗り込んで新しい包帯で締め上げていく。その手つきが少々荒いのは、妻に心配をかけた夫への罰だろうか。それならば甘んじて受け入れるしかない。オーランはベッドの上に四肢を投げだし、彼女のされるがままになっていた。
「――そういえば、ここの村の人は、君が独り身だと信じているようだ。僕が君の夫なんだと言っても鼻で笑われたよ。頭でも打って錯乱しているだけだとね」
 バルマウフラは笑った。そしてベッドの側のスツールに腰をおろした。仰臥しているオーランと会話がしやすいように視線を落としてくれたのだ。
「そうね、都市には都市の法がある。そして森には森のしきたりがある。ここの村では教会で結婚をするというしきたりはないの。村の祭りで互いの名を呼び、村の人たちから認められればそれで夫婦になるの。だから、都市で作った結婚証明書を見せても、村の人はただの紙切れだと笑い飛ばすでしょうね」
「次の祭りはいつだい? もう一度君の名前を呼ぶよ」
「あら、二回目のプロポーズ? ふふ、嬉しいわね。でもそんなことをしなくてもよくてよ。私から村の人に事情を説明しておくわ――もちろん、あなたが火刑台にのぼって火傷を負ったことは伏せておくけれど」
 はい、とバルマウフラはオーランの寝ているベッドの横に置かれた、軟膏やら薬草やらがどっさり積まれた小さな木机の上に、銀の指輪をおいた。
「煤で焼けてしまったから磨いておいわたわ。村でも指輪を贈り合う夫婦は多いから、これを見せたら私たちの関係について信じてもらえると思うわ。それと、最後まで……身につけていてくれて、ありがとう……」
 オーランが探していた結婚指輪だ。服をはぎ取られ、罪人の服を着せられ、その麻服以外は何物も身につけることを許されなかった。それでも、この指輪だけは、と司祭にこいねがい、最後まで手放さなかったものだ。なくしたわけではなかったようだ。オーランは安心した。
「いや、でも僕は村のしきたりに従うよ。ここは君の大切な故郷だろう? 次の祭りはいつだい?」
 最初にこの村で目覚めた時、村人はバルマウフラの住む森のことをラナの森よ呼んだ。彼女は故郷の名前をずっと名乗っていたのだ――母を殺され、教会にさらわれ、故郷に帰ることすらできず、そして、貴族の妻となりその名前さえ捨ててくれた。だから、せめて彼女の大切な故郷のしきたりに従って、もう一度プロポーズをしたいとオーランは思った。
「次の祝祭はラマスね。収穫祭よ。だけど、間に合わないわ」
「どういうこと?」
「私は領地――あなたの領地よ――に帰るから。息子の世話をしないと。考えてみて。異端として殺された父親と、素性あやしく魔女と噂される両親の間に生まれた子が、周囲から干渉されずにまっとうに生きれると思う? 私たちの子を守ってあげないと……」
 オーランは歯がゆかった。白書を世に出すこと、それが自分の使命だと信じて疑わなかった。けれど、その使命のために、どれだけのものが犠牲になったのだろうか。
「バルマウフラ、君ひとりでは行かせられない。僕の息子だ。僕も一緒に――」
「何を言っているの? 寝言かしら? あなたは処刑された死んだ。私は夫を亡くした未亡人。これが事実なのよ。死んだ人が帰ってきたらお屋敷は大混乱して、死者の霊を祓う専属司祭を雇うことになるでしょうね」
「ああ……はい……ここでおとなしく寝ています……でも、僕がしでかしたこんな状況の中で、息子をひとりで育てるのは大変だろう。君ばかりに負担をかけたくない」
 バルマウフラは誇らしげに笑った。
「私は今まで誰と仕事をしてきたか知っている? 私の仕事仲間は今はこの国の王よ。息子には最高の処世術を伝授できるわ」
 オーランはむすっとした。国王――あの男――ディリータのことはどうも好きになれない。これはオーランの個人的な感情だ。妻が奴のことを誇らしげに語る時、オーランは不機嫌になる。オーランはベッドに積み上げられた毛布を顔まで引き上げた。
「あらあら、嫉妬?」
「……放っておいてくれ」
「オーラン、あなたは、つらく苦しい試練に耐えた。それはあなた自身が選んだ道。私もあなたの夫になり、貴族の妻になるという道を選んだ。だから私の使命を果たさせて。幼い我が子には庇護が必要……でも、彼が成人して、私たちがそうしたように、彼もまた自分の道を選択したのを見届けたら……そうしたら、またこの森に帰ってくる。その時には、また私の名前を呼んでね……その日をずっと楽しみにしているから……」

 

 
「旦那、旦那は本当にヴァイゼの旦那様だったんですな。ヴァイゼが指輪を見せてくれたんです」
 バルマウフラはオーランが寝ているうちに静かに旅立っていった。けれど、旅に立つ前にオーランとの関係をちゃんと説明してくれたようだ。おかげで村人がオーランに物珍しげな視線を投げかけてくるようになった。どこの都市でも村でも、男女の恋愛は話の種だ。きっと彼らは、オーランがどういう経緯で森の魔女の夫になったのか知りたくてしょうがないのだろう。
「いやぁ本当にびっくりしましたよ。まさか、あのヴァイゼが――森を出る時はあんなに小さな少女だったのに――十年ぶりに森に帰ってきたかと思えば夫を連れてくるとは……しかし、ヴァイゼはまた気まぐれに森を出て行ってしまった。旦那も後を追うんです?」
「いや、私はしばらくここで世話になるよ。まだ傷も当分治らないだろうし」
「夫婦なのに、離れて暮らすんですか?」
「ああ……それが私たちの選んだ道だからね。それに、私はまだここでは彼女の夫ではない。ここでは祝祭の時に互いの名を呼んで夫婦になるそうだね。その日まで、私は彼女の夫ではなく、ただの……」
 オーランはそこで言葉を詰まらせた。今や、自分は何者だろうか。貴族としての命は失ってしまった。魂をかけて書き上げた白書も、世に出した。貴族でもない、学者でもない、彼女の夫でもない……だとすると……
「旦那、いったい旦那は何者ですかい? 森の魔女は代々、私ら村の人間に知識を与えてくれた。そして、そのお礼に、私らは彼女らにパンや薪やらを渡し、生活を支えてきた。代々のヴァイゼフラウは時々珍しいものを持ってくることもあったが、人間の男をもってきたのは初めでね」
「ああ、そうだね、その通りだ。私は彼女の『知識』だ。占星術士――星を読む人間だ」
「ほう、それは珍しい。村に初めての『知識』だ」
 男は目を丸くした。天上の星の世界にも知識があるのかと驚いている様子だ。
「それで……旦那にはどんな対価をお支払いしましょう。ヴァイゼが留守にしているので今は旦那に対価をお渡ししましょう。けど、俺ら村人には、その、星の知識に対してどんなお礼を渡せばいいのかさっぱりでして……」
 オーランは答えた。
「多くは望みません。怪我が癒えるまでの手当てと、ここで生計を立てるまでの間の食べ物をください。あとは、いつか私が妻の名前を呼ぶ日に、あなたがたの祝福をください――それだけで十分です」
 彼女はいつ帰ってくるのだろうか。彼女の名前を呼べるまで、いったいどれだけの日を待つのだろうか。

 

 

 しかし、これで良いのだ。想う時間が長ければ長いほど、想いはあふれるのだから――

 

 

2020.08.16

ヴァイゼフラウ・バルマウフラ――森の魔女の物語

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*このSSだけの設定:魔女は不死の存在。炎で焼いても死なない。魔女の力を誰かに継承した時に、その命は尽きるが、魔女の知恵は代々継承されていく。そんな魔女を見た人々は「魔女には転生の力がある」と信じるようになったとか。基本的にグレバドス教会とは対立している。
*ヴァイゼフラウはドイツ語民話などに出てくる魔女の名前。「賢い女」の意。


 
ヴァイゼフラウ・バルマウフラ――森の魔女の物語

 

 

森の中に魔女が住んでいた。
魔女は娘と暮らしていた。
娘は父親を知らなかった。
母親のこともよく知らなかった。
母は娘のことを、ただ「バルマウフラ」と呼び、
娘は母のことを、ただ「お母さん」と呼んだ。

 

 
魔女は時々、一人で森の外へ出かけた。
森の近くの村へやってくると、
人々に惜しみなく魔女の知恵を分け与えた。
そして、魔女の知恵のお礼に、村人から、
パンと、水と、薪と、蝋燭をもらって森へ戻った。
娘の待つ、森の中の小さな小屋へと。

 

 
森の魔女は何でも知っていた。
村の人は、敬意と愛情をこめて、
魔女のことを「賢い女ヴァイゼフラウ」と呼んだ。
魔女は本当の自分の名前を誰にも明かさなかった。
娘ですら、彼女の名前を知らなかったのだから。

 

 
「お母さん、私も魔女になりたい。
お母さんみたいに、村の人を助けたいの」
「だめよ、バルマウフラ」
母は娘に言った。
「森の外はおそろしい場所なの」
魔女はずばぬけた知恵と力を持っていた。
教会の聖石がなくても、魔女は奇跡を起こせた。
だから、教会は魔女の命をねらっていた。
「バルマウフラ、お母さんと約束して。
決して森の外には出ないと」

 

 
ある日の、ある夜のこと、
母は森の中の家に戻ってこなかった。
バルマウフラは母の教えを守り、森から出なかった。
けれど、次の日も母は帰ってこなかった。
バルマウフラは、それから3つの夜を数え、
とうとう母の教えを破った。
森を出て、村へと出かけたのだ。

 

 
母が言った通り、森の外は恐ろしい場所だった。
バルマウフラが村の広場で見たのは、
杭に縛られ、炎で焼かれる母の姿だった。
広場には、魔女の炎を見守る三人の男と、
そこに群がる村人たちがひしめきあっていた。
ある村人がバルマウフラに教えた。
一人目の男は、魔女をとらえた騎士。
二人目の男は、魔女に異端の容疑を下した枢機卿。
三人目の男は、魔女の判決を承認した司祭。
三人の男は口をそろえて言った。
「あの女は、教会の教えに背いて魔術を使った魔女だ。
魔女は永遠の命を持っている。
魔女は焼いても死なない。
教会の反逆者よ、汝の大罪を、
その永劫の炎の上で償うがよい」

 

 
バルマウフラは泣いていた。
森の外は恐ろしい場所だった。森に帰りたい。
でも、森の小屋に戻っても、もう母はいない。
母は、ここでずっと炎に焼かれているから。
「魔女は焼いても死なない」
だとしたら、母の苦しみはいつまで続くのだろう?
バルマウフラは、母が本当の魔女だと知っていた。
もちろん、教会の反逆者でもないことを。
「お母さん……お母さん……」
バルマウフラは泣いて叫んだ。
「私が魔女になる。私が魔女を継ぐ」
母の苦しむ姿をもうこれ以上見たくなかった。
「だから、私にお母さんの力をちょうだい」
炎の中で、母は微笑んだ。
「いいわ、この力をあなたに託す。
さあ、魔女の力を使ってみなさい」

 

 
「なんだ、『賢い女』はただの人間だったのか」
「燃えてしまったというなら、魔女じゃなかったということさ」
「ただの人間が、教会にたてつくから燃やされるんだ」
村人は、燃えて黒くなった「賢い女」に口々に言った。
バルマウフラは苛立った。
母を殺した教会にも、母を見捨てた村人にも。
「魔女はここにいる。私が魔女だ」
バルマウフラはつぶやいた。
そして、母から受け継いだ魔女の力を使った。
彼女が最初に使った魔女の力は「呪い」だった。
バルマウフラは母を殺した三人の男に呪いをかけた。
一人目の男は、母をとらえた騎士。
二人目の男は、母に異端の容疑を下した枢機卿。
三人目の男は、母の判決を承認した司祭。
皆、その場で、あるいは、数日の間に命を失った。

 

 
バルマウフラは母の名を汚した村人も許しはしなかった。
バルマウフラが森に戻り、それからしばらくして、
村では疫病がはやり、何十人もの命がなくなった。
心ある村人が森の中に「賢い女」の墓を作り弔った。
そして、「賢い女」の一人娘を探した。
けれど、もう遅かった。
魔女の娘は森から姿を消し、
村には荒廃の風が寂しく吹きすさんでいた。

 

 
教会に呪いを、母を殺した者に死を。
バルマウフラは森を出て、
迷うことなく、ミュロンド寺院へやってきた。
すべては母の死の復讐を遂げるために。

 

 
「私はおまえを殺すためにきた」
バルマウフラは言った。教会の騎士の長に。
絶対に殺してやる、この男は母をとらえた騎士団の長だ。
「できるものか、小娘に」
騎士団長は笑った。バルマウフラは笑わなかった。
ならば、時が満ちるのを待つだけだ。
魔女の呪いを受けるがよい。
バルマウフラは密かに誓いを立てた。
あとは、時が満ちるのを待つだけだ。

 

 
森の魔女の娘は、母を焼いて、魔女の力を継承した。
そして、教会に舞い戻り、教皇の付き人になった。
あの魔女はいったい何なのだ。
彼女はいったい何者なのか。
誰もがバルマウフラを恐れ、そばに近づかなかった。
彼女のことが分からなかったからだ。
バルマウフラも自分のことが分からなかった。
何故、母を殺した教会に忠誠を誓っているのか……
その度に、密かに立てた魔女の誓いを思い出すのだ。
教会に呪いを、母を殺した者に死を。

 

 
仮面を被ればいいの。
そうすれば、私の心は誰にも見せなくてすむから。

 

 
雨の日の、陰鬱な礼拝堂の入り口で、
少女が絶望の涙を流して泣いていた。
バルマウフラは知っている。
彼女は、騎士団長の娘。
新生ゾディアックブレイブ。篤信の娘。
気丈夫で、騎士団を率いていく新鋭。
そんな少女が、いったい何に涙を注いでいるのか。
「弟が死んだ。聖石を持つ同志が殺された。
父もいなくなった。私はすべてを失った。
この絶望に、誰が嘆かずにいられようか」

 

 
ああ、なんということだ。
私が殺した。彼らの死には、私の責任がある。
バルマウフラは思った。
私が呪ったから。私がこの教会に呪いをかけたから。
魔女だった母は「賢い女」だった。
村人を助け、癒し、知恵を与えた。
けれど、魔女になった私は、呪ってばかり。
私に関わった人は皆、不幸になる。
そうなるように私が望んだことだったから。
バルマウフラは魔女の力を封印した。
私はもう二度と魔女の力を使わない。
誰も呪いたくないから。

 

 
バルマウフラの記憶の中で炎がはぜた。
全身を焼く熱い炎。
でも、その炎に苦しむのは彼女ではない。
「お母さん、お母さん……私が魔女になるから……」
私はお母さんを助けたかっただけなのに。
だから私は魔女になったのに。
魔女だった母は「賢い女」として村人に癒しを与えた。
けれど魔女になった私は、呪いをまき散らすばかり。
私が生きていると、誰かが命を落とす。
それって、とても悲しいことね。

 

 
森の魔女は、人間になる決意をした。
こんな世界から抜け出し、私は人間に戻る。
仮面を被って生きるのはもう嫌。
魔女でなんかいたくない。
私はただの人間として森に帰る。
故郷の森への道は今でも覚えている。
けれど、教会から抜け出すのはたやすいことではなかった。
教会から抜け出す道はただ一つ。

 

 
「あなたに恨みはないれど、死んでちょうだい。
黒羊騎士団のディリータ・ハイラル、
あなたを始末すれば、私の監視の任は解かれる。
そうしたら、私は教会の呪縛から自由になれるのよ!」
バルマウフラが差し向けたナイフはあっさりと叩き落とされた。
「気が狂ったか、教会の魔女。俺を呪い殺すつもりか」
「私は魔女ではない!
そもそも、教会が先に私たちを迫害した。
でも私は復讐には興味ないの……今はね。
あなたたちのような野蛮な騎士たちと違ってね」
一刻も早く、この場所から逃れたい。
ここでは教会と、国王と、騎士と、役人が、
永遠に飽くなき血の闘争をしている。

 

 
私は、もう嫌になったの。
森に帰らせて。
お願いだから、私を魔女と呼ばないで。
私はただの人間として森に帰りたいの。
こんな場所にいるのはもう嫌!

 

 
「帰りたいなら、好きにするがいい……」
黒羊騎士団の男はつぶやいた。
「ウィッチ・バウマウフラ……ミステリアスな女だ。
教会の魔女だと噂されているが、おまえの目的は何だ」
「さあ、私も目的なんて忘れたわ」
「おまえは俺と同じだ。仮面を被り、演じる。
たとえそれが、偽りの仮面であっても。
被り続け、演じ続ければ、それが真実になる」
「演説がお上手ね、騎士さん。でも一緒にしないで」
私は仮面を捨てる。捨てたいのよ……

 

 
「偽りの仮面でも、被り続け、演じ続ければ、
いつしかそれが真実になる」
バルマウフラはその言葉を信じた。
彼女が継承した魔女の力はあまりにも重く、
背負うに苦しいものだった。
教会の仮面を捨てて、そして、魔女を隠す仮面を被る。
そうすれば、私は人間になれる?
いいえ、私は人間になるの。
仮面を被り、演じ続ければ、私は人間。
魔女だったのは遠い昔のことだ。

 

 
記憶の中で炎がはぜる。
バルマウフラはかたくなに目を閉じた。
見たくない。母が苦しむ姿が何度も見たから。
「お母さん……」
私が魔女になってお母さんを助ける。
そう言うはずだった。そう言ったはずだった。
でも私はこう言った。
私は魔女になりたくない、魔女にはなりたくないの。
「お母さん、ごめんなさい……」
私が魔女になっても、人を呪うことしかできないから。
ごめんなさい……ごめんなさい……
バルマウフラは燃える炎に背を向けた。
決して後ろを振り返らないように、拳を握りしめて。

 

 
「君は魔女だろう? ちょっと助けてくれないかな」
城から出ようとするバルマウフラに若い青年の声が引き留める。
バルマウフラは眉を潜める。
私のことを、不躾に魔女だと呼ぶ失礼な男は誰?
そこには、褐色の肌の、満身創痍の若者。
戦場から抜け出してきたかのようだ。
「僕は、今脱獄したばかりでね……」
バルマウフラは無視して歩き去った。
脱獄者に関わって面倒事に巻き込まれるのはごめんだ。
それも、自分を魔女と呼ぶ男には。
「魔女のお嬢さん、君は教会の人なんだろう
怪我を負った隣人を見捨てていくのかい」
「私は魔女でありません。
それを訂正してくれるのなら、この手をお貸ししましょう」

 

 
僕は占星術士。星の運行で未来を読むんだ。
男は聞きもしないのに、ぺらぺらと勝手に自己紹介を始めた。
その声は、まるで異国の吟遊詩人が歌う、心地よい旋律のように。
「君は本物の魔女だね。アークウィッチだ。
その力は誰かを救うために授かったものだ。
星がそう語っている。間違いない」
「あなたの星詠みはずいぶんあてずっぽうなのね。
残念だけど、私はもう魔女ではないわ。
誰かを助けたこともないから」
「星は現在のことを語っているのではない、
未来のことを語っているんだ」
「嘘よ。私は魔女の力を封印したの。
もう二度と使うつもりはないから」
占星術士は、食い下がらない。
「でも、未来は未来だ。
これから先、君はアークウィッチになって、
誰かの命を救って感謝されるかもしれない」
「さあね。もし私が魔女になったとしても、
あなたには関係のないことよ。
だって、私たちはここでたまたま出会っただけで、
それから、また再会することなんてないでしょうから。
確かめようのない話ね」

 

 
魔女と呼ばれる度に、
記憶の中で炎がはぜる。

 

 
私は森に帰って、静かに暮らすつもりなのに。
どうして、誰が、私に魔女の記憶を呼び出すの。
忌まわしい炎の記憶。呪いの記憶。
ああ、記憶はまた過去をさまよいはじめる。
炎がはぜる音。肌が焼かれる焦げた臭い。
バルマウフラは目を覆った。
どうして、どうして、何度もこの記憶がよみがえってくるのだ。
もう私は魔女の力を封印したというのに!
母は死んだ。教会に殺された。
私にはもうどうしようもできないことなのに。
どうして何度も何度も、この炎は私を苦しめるのか。

 

 
時は流れども、
されぞ炎の記憶は薄れず。

 

 
バルマウフラの中で炎がはぜた。
「ああ、またね……」
火刑の場面だ。母が杭に縛られて、燃やされている。
炎が立ち上る。私は炎のそばに駆け寄る。
「お母さん……」
苦しむ母に何と言葉をかけるべきか……
いや、違う。母ではない! 彼だ!
彼はこういった。「君は魔女だ」
そう、私は魔女だ。
母を火刑から救うために私は魔女になった。
バルマウフラは炎の中に向かって、まっすぐに歩いた。
「私は魔女。だから炎は私を焼かない」

 

 
教会を弾圧した占星術士が火刑に処されると聞き、
人々は火刑場に群がってきた。
その時、群がる人々の制止を振り返るように女が飛び出してきた。
女は迷うことなく、炎の中に入っていった。
可哀想に、あの娘は頭が狂ってしまったんだ。
誰かが呟き、嘆きの声を漏らした。
そして、炎は一層燃え上がり、煙が落ち着いた頃には、
もはやそこには男も女もいなかった。

 

 

 

 
森の中の、誰も立ちはいらない静かな場所に、
花と小枝で飾られた小さな石碑があった。
 ――アークウィッチ・ヴァイゼフラウ
 ――安らかなるとこしえの眠りを
「ここがお母さんの眠っている場所。
といっても、肉体は灰になるまで焼かれてしまったから、
ここにあるのはお母さんの思い出だけ」
バルマウフラは故郷の森に帰ってきた。
一人ではなく、もう一人と。
火刑の場から助けて、一緒に逃げてきた占星術士と。

 

 
「どうして僕をここに?」
「私は初めて魔女の力で誰かの命を救えたの……
私の母は『賢い女』と呼ばれていたの。
魔女の力で、人々を助け、慕われていた。
でも、私はお母さんから魔女の力を受け継ぎ、
母を殺した教会の諜報員として、働き、
その一方で教会を呪い続けてきた。
私はそんな自分が嫌だった……
でも、私もやっとお母さんみたいな魔女になれたわ」
「僕の言った通りだろう? 僕は未来が見えていたんだ。
きみは母君から魔女の力を継承した。
きみは『賢い女』なんだ。自分で思っているよりずっとね。
そして、賢女バウマウフラは燃え尽きるはずだった命を救った。
その命がまさか僕だったとは、その時は分からなかったけれど」
「まあ、あなたは本当に未来が見えていたのね」
「星が見えるかぎりね」
「じゃあ、今度は何が見える?」
「僕の隣に君がいる……ずっと」
バルマウフラは彼の手を引いた。
「ええ、私も、あなたの隣に」
そうして、彼の隣に、彼女が座り、
彼女の手の上に、彼の手が重なった。

 

 
占星術士は呟いた。
この幸福の時間をそっと引き留めようと。
「天球の運命はこの手のうちに、
私はあなた、あなたは私、
さすれば、時よ、永遠なれ」

 

 

2019.07.22