タンプリエ・ノブル

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タンプリエ・ノブル

 

 
   遠い昔の記憶は今も色褪せず
   遙か彼方の夢を蘇らせる

 

 
「<憤怒の霊帝>の肉体が見つかった。ガリオンヌのダイスダーグ卿だ」
騎士団長は言った。その手には橄欖色のクリスタルが握られている。磨羯宮の紋章が刻まれたその特別なクリスタル――聖石を所持できる人間は限られている。
北天騎士団の元将軍ダイスダーグ・ベオルブ――彼こそが選ばれたのだ。
「これを届け、交渉してきて欲しい。うまく契約を結ぶように仕向けるのだ」
「あの方ですか……」
「クレティアン、知っているのか」
「ええ、アカデミーに在籍していた時に少しだけ会ったことが……あの方は、紛れもなく辣腕の政治家でした」

 

 
あの頃――まだ私がアカデミーで騎士見習いだった頃。この世界には汚れなどなく、正義の剣を携えていれば道に迷うことなどないと信じていた頃。私は高潔な騎士になることを夢見ていた。
ガリオンヌの王立士官学校は名だたる将軍を輩出してきた名門校だ。北天騎士団のザルバッグ・ベオルブ将軍も、その士官学校の出であった。
当時、戦乱のまっただ中であったイヴァリースをオルダリーアの手から救い出し、王から「ガリオンヌの守護者」の称号を賜った若き将軍は、騎士見習いたちの憧れであり、誉れであった。

 

 
北天騎士団の将軍ザルバッグ・ベオルブ――私が今でも尊敬するただ一人の人間だ。

 

 
かの若き将軍は、その戦い様をもって信仰と正義を掲げ、正しき道を示した。私もそれに倣った。
当時、私は士官学校で優秀な成績を修めていた。私はとある地方の貴族であり、相応の努力はしたが、それでも苦労することなく、身分に見合う地位を得ることができた。
私は迷うことなく、北天騎士団を目指した。同じ学校のよしみもあってか、ザルバッグ将軍は私のことをよく可愛がってくれた。休暇中には私をイグーロス城に招いてくれるほどだった。

 

 
将軍には十歳年上の兄がいた――彼の名前はダイスダーグ・ベオルブ。
将軍が北天騎士団長の座に就くと同時に、ダイスダーグ卿は引退した天騎士バルバネスに代わってベオルブ家の家督を譲り受けた。
そういう理由もあってか、当時のイグーロス城には、新しいベオルブ家の当主に会いにやってくる政治家や役人たちがひっきりなしに出入りしていた。
私はそのようなベオルブ家の事情に詳しくなるほど、ザルバッグ将軍と交遊をあたためていた。

 

 
その日は突然やって来た。

 

 
忘れもしない、あの夜の出来事。
その日、ガリオンヌの成都イグーロスは雪で覆われていた。
どこかの貴族がダイスダーグ卿に会いに来ていた。暖炉に火をくべ、彼らはワインを飲み交わしながら世間話にふけっていた。

 
 ――天騎士の命もあと僅かですな。これも貴方のおかげですよ、ダイスダーグ卿。

 
立ち聞きするつもりはなかった。相手の貴族も盗み聞きを心配する様子もなかった。だから深刻な話題というわけでもなかったのだろう。
だが、私は知ってしまった。ダイスダーグ卿が家督を得るために、どういう手段を使ってきたのかを……。

 

 
人の上に立つからには、それ相応の責任を引き受けなければならない。
私も少なからず高貴な血を引く人間として、その責務については無知ではなかった。
分かってはいる。だが――あまりににも業が深かった。

 

 
私はその日以来、二度とイグーロス城に行かなかった。

 

 
卒業前に、一度だけザルバッグ将軍が私に会いに士官学校まで来てくれた。
あれだけ世話になったにもかかわらず連絡を絶った私へ、将軍はささやかな小言を呈しにきたのだ。それでも、将軍はこう言ってくれた。卒業したら私の騎士団へ来ないか、と。不義理な私は首を振り、

 
 ――私は信仰の世界で生きることを選びました。教会の騎士になります。

 
こう答えただけだった。

 

 
ザルバッグ将軍はどこか寂しそうな顔をしたが、元気でやりなさい、と言って私を見送った。

 

 
一度見聞きした記憶を消すことは不可能だった。私は知ってしまった。政治家がどうやってこの国を動かしているのかを。
その瞬間、世界はあまりにも汚らわしいものに転じてしまった。父を殺してまで縁力を手にしたダイスダーグ卿のことも、それを知らずに理想を掲げるザルバッグ将軍のことも、あの時以来、私には厭わしい存在になってしまった。

 

 
この国は、誰かが手を汚さなければ生きていけない世界なのだ。
理解はできるが、そのことを私は認めたくなかった。
私は、自分の抱いた理想が、貪欲な権力の世界でいびつに歪められていくのが耐えられなかった。
騎士になり正義の剣を貫く――ささやかな夢だった。だが、たったそれだけの夢さえ叶わぬものだということを私は知った。
現実は冷酷だ。しかし、それは夢ではなく、事実だった。

 

 
信仰の世界で、私は再び高潔な騎士となることを夢見た。
それは、不義の政治家に仕えることを頑なに拒み続けた私の、妥協の選択であった。
だが、全くの虚栄を張ったわけでもない。私がグレバドス教会への浅からぬ信仰を抱いていたことに嘘偽りはなかった。その上、私は教会の騎士という肩書きに世俗の騎士とは全く異なる栄光を感じていた。

 
 ――そうすれば、私はあの連中を見下すことができる……

 
 その時、自分の口からこぼれ出た言葉に私は恐れおののいた。
今の言葉は何だ。
神の権威を盾にして、私は権力者たちを侮蔑しようとしている。何という傲慢さ。
けれど、これが私の本心ではないのか?

 

 
「ダイスダーグ卿と知り合いなのか。ならば話が早い。この聖石を届けにいくのだ」
「いいえ、知り合いというほど深い仲ではありませんでした。イグーロス城で顔を見たことがある程度です」
「なんだ、気乗りしないな。昔の知り合いに聖石を押しつけに行くのは嫌というのか」
騎士団長は少し不機嫌そうに私に言った。
「いえ、そういうわけでは……」

 

 
たとえダイスダーグ卿が目の前で聖石と契約を交わしたとしても、今更、私は心を痛めることはないだろう。
だが、今の私がダイスダーグ卿と会って、一体何を話すのだろうか。私に何が言えるのだろうか。卿を軽蔑し、俗世の権力を見下しながら、神のためを口実にして、自分を正当化し続けてきたこの私に……。

 

 
私はイグーロス城へは行かなかった。聖石を持って交渉にあたる任務は同僚に任せた。
だから、私が神殿騎士になった本当の理由を、ザルバッグ将軍が知ることは永遠にない。
理想を体現したかのようなあの若き将軍は、私がまことの信仰心ゆえに教会の騎士になったと今でも信じて疑わないだろう――そうであって欲しいものだ。

 

 
私は未だに己の高慢な虚栄心で神を汚し続けている。

 

 

2017.09/23

Iva*Fes3にて発行