花嫁の決断:Epilogue

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*epilogue

     

  

     

  

 その記念すべき日をイゾルデはオーボンヌ修道院の礼拝堂で迎えた。小さな礼拝堂の前で、イゾルデは夫を待っていた。
「私たちの結婚式のためにこの礼拝堂をお貸しくださってありがとうございます、ファーザー・シモン」
「いえいえ、王家の頼みごととあらば、私たちは協力を惜しみません。この修道院は幾世紀にも渡ってイヴァリースの王家を支えてきたのですから」
 イゾルデと一緒に礼拝堂の外で花婿を待っていた初老のオーボンヌ修道院院長はイゾルデに向かってほほえんだ。「アンセルム殿下から伺ったお話では、なんでも、お忍びで結婚式を執り行いたいとのことでしたが……」
「はい、その通りです。私たちは静かに神の前で愛の誓いを立てたいのです」
 イゾルデは、きっぱりと言った。豪勢な結婚式にはもうこりごりだった。アンセルム王子は、できれば誰の目にも止まらずひっそりと挙式をしたいというイゾルデの願いを叶えてくれた。王都から遠く離れた辺境の修道院ならば人目を気にすることもないだろうと、オーボンヌ修道院院長に頼んでくれたのだ。イゾルデとヴォルマルフの結婚式が挙げられるようにと。
「私どもはただ神の前でなすべきことをするのみ。あなたがたの事情は聞きません。ですが、どうかご安心ください。こんな辺境の寂しい地ですが、この修道院は代々の王家のみなさまをお守りしてきた場所です。ここで挙式をするのは王家の品格を受け継ぐことと同じです」
「まあ……夫が喜びますわ。私の夫は王家に仕える騎士ですの。実は、この結婚の仲立ちをしてくださったのもアンセルム殿下なのです……このことは誰にも内緒ですけれど」
「では、あなたがたご夫妻のもとには、神のご加護とともに王子様の祝福があるのですね。それならば、あなたがたの仲は何人たりとも裂けないでしょう――とこしえの幸福を」
 修道院院長は目を細めた。笑うと目のそばに細い皺が集まる。幸福を祈る修道士の顔だ。
「しかし、あなたの夫はまだ来ないのですか。花嫁より支度に時間が掛かる花婿とは……いったい何をしているのですか」
「私の夫は恥ずかしがり屋なんです。ファーザー・シモン、少しの間だけ待っていただけないでしょうか。すぐに夫を探してきますから」
「どうぞごゆっくり。私は構いませんよ。とはいえ神に誓いを立てる前に二人で性急に世俗の契りを結ばないように――まあ、あなたの物静かな婿殿ならそんな心配はないと思いますが……」
 修道院院長は扉を開けて礼拝堂の中に入っていった。院長の姿を見届けるとイゾルデはくるりと後ろを向いた。
「ヴォルマルフ。近くにいるのでしょう? 隠れてないで早くこちらへいらして」腰に手を当てた。「ファーザー・シモンがお待ちよ」
「レディ・イゾルデ……私は本当に幻を見ているかのようです」
 ヴォルマルフは建物のかげからそっと姿を見せた。結婚式を前に怖じ気づいているのだろうか。不安そうな表情だった。
「幻じゃないわ! あなた、しっかりして!」
 イゾルデはヴォルマルフの手を取った。ヴォルマルフは気まずそうに顔を赤らめた。
 まずいわ、このままだと礼拝堂に私が花婿を引っ張っていくことになりそうだわ。なんとかしないと――
「ねえ、そういえば、下着姿の花嫁こそが最も価値があると、王宮にいた時に聞いたわ。下着しか持っていない貧しい花嫁でも愛せるということは、持参金目当ての結婚ではないから――つまり愛のための結婚だと誰の目にも分かるから、ということでしょう?」
「なんですか、出し抜けに……ええ、たしかに、そういう言い伝えは残っています。ですが、とうに廃れた風習です。それが何か?」
 怪訝そうな顔をするヴォルマルフの言葉を無視してイゾルデは続けた。
「それに、聞いたところによると、このオーボンヌ修道院は王家とも縁が深い、とても歴史ある場所だそうよ。だったら、私たちもその昔の風習にならって古式の婚礼を挙げるのもいいんじゃないかしら――私、ここで服を脱ぐわ」
 ドレスの裾をたくしあげ始めたイゾルデをヴォルマルフは慌てて止めた。
「お、お待ちください! そんなことをしてはファーザー・シモンが卒倒してしまうでしょう」
「そうかしら? さっき、ここの若い修練士からファーザー・シモン・ラキシュは修道院院長になる前は異端審問官としてたくさんの修羅場と死線をくぐってきたと聞いたわ。とても肝がすわっている方だそうよ。私が下着姿になったくらいでは驚かないと思うわ」
「いいえ、だめです! 私が卒倒しますから!」
「どうして? あなたは私の夫なのに、私の服を脱がせたいと思わないの?」
 ほんの少しの間、ヴォルマルフは口を開けたまま棒立ちになっていた。イゾルデはわくわくしながら、彼の返答を待っていた。やがて、ヴォルマルフの口から真っ当な答えが返ってきた。
「レディ・イゾルデ! 神の前で誓いを立てるのが先です! ファーザー・シモンが待ちくたびれてしまいます――早く行きましょう!」
 ヴォルマルフは早くこの話題を切り上げようと、急いでイゾルデの手を引いて礼拝堂の扉を開けた。イゾルデに背けた顔は赤かった。
 ヴォルマルフに手を取ってもらって、イゾルデは心躍った。ああ、やっと! イゾルデはこの時をずっと待っていた――愛する夫にエスコートしてもらう時を。その瞬間、彼女は幸福で満たされていた。そして、喜びをかみしめながらファーザー・シモンの言葉を繰り返した。「とこしえの幸福を」と。

  

 

連載期間:2017.05.25-2017.12.30

 

  

  

花嫁の決断:Chapter7

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*chapter7

     

  

     

  

 ヴォルマルフはベオルブ邸を出ると、大通りの宿屋にまっすぐ向かった。階下の酒場を仕切る給仕にむかってエールを一つ頼むと、そのまま樫のテーブルの上に倒れ伏した。ヴォルマルフはベオルブ邸でレディ・イゾルデと交わした会話を頭の中から追い出そうと必死だった。何もかもが気まずい状況だった――のはヴォルマルフ一人であった。レディ・イゾルデはヴォルマルフの切迫した告白に対して、きょとんとした顔で「どうなさったの?」と答えただけだった。ヴォルマルフの意図が伝わっていなかったのは確かだ。
 私は、彼女とイヴァリースで暮らしたい。愛する女性とともに――ヴォルマルフはようやく言うことができた。レディ・イゾルデのことを愛している、と。王子の婚約者だからと誰にも言えずに胸に秘めていた想いをやっと口に出すことができた――他人の家の玄関で。
 はあ、とヴォルマルフは深いため息をついた。タイミングを誤ったことを深く後悔した。
「お、姫を探しに行くと息巻いていた騎士がどうして酒場で飲んだくれているんだ。姫さんに逃げられたのか?」
「フランソワか……いつからそこにいたんだ?」
 後ろからこづかれたヴォルマルフは親友の存在にやっと気付いた。
「いや、さっきからずっといたよ。テーブルに頭を打ち付けている悪酔いした客がいるのが目にはいって、よくよく見てみればわが王子の騎士ではないか。ヴォルマルフ、酒場での奇行は宮廷の噂の種だぞ。こんなところで酒を飲んでいないで、帰って下宿のおかみさんにミルク酒を作ってもらったほうが良いのではないか?」
 フランソワは手にエールと鶏肉のパイを抱えており、ヴォルマルフの正面にどかっと座ると、一人で軽食をつついていた。肉汁のこうばしい香りがしても、ヴォルマルフは心が動かされなかった。
「私は酔っていないし、状況の判断ができるほど思考は明晰だ。心配されるまでもない。泥酔して堀で泳ごうとするスキャンダル騎士とは違う。私は王子付きの騎士として常に節度ある行動を心がけている」
「なら聞こう、なぜレディ・イゾルデと一緒ではないのだ?」
「何故一緒にいないのかと? 当然だ。姫君をこんな粗野な旅籠に連れてくるはずがないだろう」
「俺の質問の意図が分かっていないようだな。おまえの思考は既に混線しているぞ。堀に飛び込んで頭を冷やしたほうがいい」
「フランソワ! 私は――」
「姫さんは無事だったのか? 結婚式ではずいぶんと落ち込んでいる様子だったからな。まさかおまえは姫さんを見捨てて酒場で飲んでいるわけではないだろう?」
「もちろんだ。レディ・イゾルデは、ベオ――さる貴族のお屋敷に庇護を求め、無事に城に戻るまでの安全を自ら確保した。だから、私はそこで……」ヴォルマルフはそこで言いよどんだ。「……彼女を見送ってきた」
「ヴォルマルフ! おまえは教会の伝道師に転職するつもりか? 浅からぬ仲の男女がキスの一つもなしに別れるとは正気の沙汰とは思えないな」
「別れのキスだと!」ヴォルマルフはテーブルを拳で叩いた。「そんな粗野なことを! 私は貴婦人に対する正しい礼節をもって彼女を見送ってきた――いや、分かっているさ。おまえに言われなくても――……そうだ、私は、確かに、彼女を愛している――このあふれる思いの丈をどうにかして彼女に伝えなければならない」
 フランソワはヴォルマルフのことをじっと見つめた。
「だから、私は彼女にプロポーズをしようと思うのだ。だが……愛を伝えるためには、適切な場所と適切な贈り物が必要だ」
 ヴォルマルフはゆっくりと話した。たとえこの場にレディ・イゾルデがいなくても、彼女に対する言葉は神聖なものでなければならない。「まさか、先刻結婚式を逃げ出したばかりの花嫁に手ぶらで求婚するわけにもいかないだろう?」
 ヴォルマルフは言った――自分自身に向けて。だから、場を整えてもう一度――いや、レディ・イゾルデはあれがプロポーズだったと気付いていすらいないのだから、今度こそ――彼女の手を借りてキスをするのだ。彼女のほっそりとした白い手は、どんなに甘く、優しい感触だろうか……いや、彼女の許可がないうちはこれ以上の妄想はいけない。ヴォルマルフは理性の力で頭の中にふつふつとわき上がってきた邪念を振り払った。
「そうかそうか……ヴォルマルフ、おまえもとうとう家庭を持って父親と呼ばれるようになるのか。俺はおまえが騎士になる前から面倒を見てきたが、感慨深いな……」
「ま、待て! まだ彼女は結婚を承諾していない! 彼女の許可なしに先走った妄想をしないでくれ!」
「結婚をせずとも父親になれる方法はあるぞ。国王も実践している由緒正しき方法だ」
 親友の言及した行為を軽薄に想像してしまったヴォルマルフは耳まで赤くなった。そのような火遊びの結果である庶子が宮廷にはあふれている。これ以上不幸な子どもを増やしてはいけない……ましてやレディ・イゾルデとそんな情熱を交わすなんて! ヴォルマルフは騎士道精神にもとる激しい邪念を再び振り払った。理性ある騎士として、ふさわしい振る舞いをしなければならない。
 だが、ふさわしい振る舞いとは何なのだ?
 ヴォルマルフはベオルブ邸でレディ・イゾルデから返されたルビーの薔薇のブローチをそっと取り出した。ついなすがままに受け取ってしまったが、ヴォルマルフはこの薔薇を本来の所有者へ返すつもりでいた。
「その薔薇が姫さんへの贈り物か?」フランソワが尋ねた。
「そうだ――と言いたいのだが、これはもともとレディ・イゾルデのものだ。故あって私が預かっているが……きちんと返しにいかなければ」
「ならば、求婚者はその薔薇にまさる贈り物をしなければな」
「それが問題なのだ」ヴォルマルフはこめかみを押さえた。「私にはこんな宝石を買うお金もない。誇るべき家名もない。騎士の名を飾る称号もない――私はレディ・イゾルデのことを愛しているが、求婚者となれる資格はない」
 そもそも、レディ・イゾルデとアンセルム王子の間に婚約の背景には政治的な背景――ゼラモニアとオルダリーアの戦争の終結――があったはずだ。彼女が祖国の独立を望んでいることはヴォルマルフも痛いほど分かる。しかし、ヴォルマルフが彼女に結婚を申し込んだとして、レディ・イゾルデには何の利益もないのだ――これから先ヴォルマルフがオルダリーアとの戦争を終結させ、<天騎士>の称号を授かる英雄になるというのならば話は別であるが。
「もしも私がサー・バルバネス・ティンジェルのような騎士であれば、今すぐにでも彼女に求婚できるのだが……私が騎士団長になるまでにあと十年はかかる。プロポーズするまでに十年もかける求婚者など聞いたことがない!」
 絶望的な状況にヴォルマルフは頭を抱えた。フランソワは落ち込む友人の肩に手をのばした。
「ヴォルマルフ、安心するんだ。英雄が偉業をなしとげるのに十年かかっても、詩人は十行で物語を語ることができる」
「……何だ?」
「友よ、物語の結末は必ず愛で終わるのだ――なぜなら、愛の一つさえ勝ち取れない英雄は物語に歌うに値しないからだ」

  

  

「なんて長い一日!」
 イゾルデは王宮の寝室に無事にたどり着くと、すぐさまベッドに飛びこんだ。ぴんと網をはったマットレスの上に身体を転がすと、ビロード張りの立派な天蓋をぼんやりと眺めた。イゾルデはこのまま枕をふくらませてシーツと上掛けの間にもぐりこみたい衝動にかられた。だが、借り物のドレスを皺だらけにするわけにはいかない。何せこのドレスはサー・バルバネスの亡き奥方の形見の品なのだから……。イゾルデは疲れた頭でぼんやりと思った。王子様の花嫁になるはずだった私がサー・バルバネスの奥方のドレスを着ているなんて!
 イゾルデはベッドの上で、髪にささった太いヘアピンを引き抜いて結った髪をほどいた。髪は自分でなんとかできたが、ドレスを自力で脱ぐのはあきらめた。ベオルブ夫人の大事な服を破くわけにもいかない。部屋の中からでも大声で呼べば女中が飛んできてくれるだろうと思ったが、結婚式を逃走してきた後の気まずさもあり、イゾルデは誰とも顔を合わせず一人でいたかった。外の見張り番には、部屋には絶対に誰も通さないようにと念を押しておいた。
 私の人生はこれからどうなるのだろう。ブラを逃げ出してからというもの、イゾルデの人生はめまぐるしく変わり続けていた。今はこうして王宮のベッドの上でくつろいでいるが、明日の我が身のことはさっぱり分からない。イゾルデにできるのは、戦死した父のための喪章を作って、今すぐにでも荷造りをして王宮から静かに去ることだ。それから先のことは……考えただけで頭が痛くなるわ!
「――姫、入ってもよろしいですかな?」
「どなた?」
 来訪者の声にイゾルデは飛び起きた。誰も部屋に入れるなとあれほど言っておいたのに! 外の見張り番は居眠りでもしているのだろうか――そう思ってベッドの風除けのカーテンから顔を出したイゾルデは慌てて声をあげた。「王子殿下!」
 イゾルデはビロードのカーテンを押し開けると、転がり落ちる勢いでアンセルム王子の前へ飛び出てきた。ついでにヘアピンも床に飛び散った。「あら恥ずかしい……」イゾルデはヘアピンを足でベッドの下にそっと押し入れた。
「どうかお気になさらず。私も礼儀を欠いているのは承知の上ですから。しかし、夜分に姫の寝室に忍び寄るというたいへんな愚行をしでかしてでも、私はあなたに、どうしても言いたいことがあるのです」
「結婚式のことでしたら、もう何も言わないでください、殿下。私はサー・ヴォルマルフから殿下の十分なお言葉をいただきましたわ。それに、ああいうことは王家の婚姻にはよくあることなのでしょう?」そう言いながらイゾルデは部屋の隅から緑のビロード張りの椅子を見つけてきて、アンセルム王子に差し出した。王子は「姫、あなたに」と言ってイゾルデを椅子に導いた。そしてこう続けた。
「――いえ、よくあることではありません。よくあっては困ります。婚姻は神の前で誓う聖なる結びつきなのですから、そう簡単にほころばせて良いものではありません。それに、度重なる婚約不履行は外交上の問題にも障りがでますから……」
 アンセルム王子はどこか申し訳なさそうに話した。
「でも、私は――私たちゼラモニアの者はイヴァリースの大王様に文句を言ったりはしませんわ」そんなことが出来るはずもない! たとえ目の前に居るのが物静かで気性の穏やかな王子様だったとしても、この方はそう遠くない先に偉大なイヴァリースの王となるのだ。それに比べると、イゾルデの祖国ゼラモニアは何と小さな国だろう。イゾルデは国境近くの戦地に思いを馳せた。そこではデナムンダ王が、王国の騎士たちを束ねて戦っているはずだ。サー・バルバネスもそこで戦っている。あの騎士さまは無事だろうか……もしもの事があったら……イゾルデは胸が痛くなった。父が戦死したと聞いた時はとても驚いた。そしてあまり顔を合わせないまま逝ってしまった父を悲しんだ。まさか死ぬはずがないだろうと思っていた人が、あっけなく死んでしまったのだ。イゾルデは戦場で何が起きているのかを知る術はない。
「殿下……私、とてももどかしいですわ。戦地で命を掛けて祖国のために戦っている人がいるというのに、私にできるのはただこうして座っているだけなんて」
「戦場のことはわが父上に任せましょう。父は王座に座っているより戦場で雄叫びを上げている方が性に合う人ですから。私は随分と手を焼かされてきましたが……その頑強さは戦いの場では大いに役立つでしょう。ですから姫、ご安心を。わがイヴァリースはオルダリーアを必ず退けます」
「それは頼もしいですわ。ゼラモニアの平和は陛下のおかげです」
「そして私の役目は王の不在の間、王座を守ること。戦いで疲れた兵士たちの帰ってくるべき故郷を守ること――」アンセルム王子は窓枠にそっと身体をもたせかけると、窓の外を見やった。座っているイゾルデからは見えないが、王子の目にはルザリアの城下町が見えているはずだ。「しかし、私は戦地から帰ってくる兵士だけを迎え入れる心狭き人間ではありません。イゾルデ姫、私とあなたの間にはもう何の関係もありませんが、私はあなたをルザリアから追い出したりはしません――あなたが望むのなら、好きなだけこの国に居てください。安全を保障しましょう」
「殿下……そのご寛大な気持だけいただきますわ。でもこの国には誰も縁者はおりませんし、私はゼラモニアへ戻ります。戦地へ戻るより殿下のお膝元にいた方が安全だと分かっているのですが、そうするより他はないのです」
 ブルゴントに戻ったら、ヒルデ母様はどんな顔をするかしら。結婚に失敗して舞い戻ってきた娘を非難するだろうか。次こそは婚約円満成就を願って娘に大変な花嫁修業をさせるかもしれない。城主となった兄は戦地に行っているだろうから、当分は母と二人きりのレッスンになりそうだ。「忙しい毎日になりそうね……」ぼそりと呟いた。
「どうされました?」
「ああ、失礼しましたわ――少しばかり家族のことを考えておりまして」
「家族ですか……そうですね、いずれあなたも結婚して家族を持つことでしょう。その時は私から祝福を贈らせてください。これはあなたの結婚式を台無しにしてしまった私の償いです。悲しみの記憶が癒え、これからの人生に幸多きこととなるようにと、花嫁のあなたに――」
「まあ、まあ、殿下、そんな畏れ多いことを……それに結婚なんてまだまだ先のことですわ。私はこれからブルゴント城に戻って母と花嫁特訓をします。ですから、殿下の祝福をいただけるのはずっと先のことですわ」
「姫、あなたはお美しい。ゼラモニアまで帰る前に、きっとあなたはいくつものプロポーズを受けるでしょう。私の騎士たちもあなたを見たら一目で恋に落ちるでしょう。そしてあなたをゼラモニアへ帰すまいと必死でこう言うでしょう――私と一緒にこの国で暮らしてください、と」アンセルム王子は笑った。「私にはあなたの幸福な未来が見えますよ」
「うふふ、殿下ったら、ご冗談がお上手で……」
 王子の言葉をどこかで聞いたような気がする。そしてイゾルデははっと思い出した。サー・ヴォルマルフは別れ際に――ついさっきのことだ――全く同じ言葉を言っていた。
 ええ? まさか、あれがプロポーズだったというの? 
 イゾルデはかぶりをふった。サー・ヴォルマルフと話したのはベオルブ邸の玄関だった。どう考えてもプロポーズを受けるのにふさわしい場所ではない。だけど……もしかしたら、サー・ヴォルマルフのことなら――イゾルデはふっと笑みをこぼした。だって、不器用な方だもの。あれが彼なりの求婚の言葉だったのかもしれない。イゾルデは何故か、そう確信することができた。心の中に幸福な感情がわき上がってきた。私に彼のプロポーズを受ける覚悟はあるだろうか? 彼と共にイヴァリースで暮らす覚悟はあるだろうか? イゾルデはその答えを分かっていた。
「……姫? どうやら私は話題を間違えたらしい。レディの前でわが騎士たちの好色ぶりを話すのはいささか不調法だったようです。あなたの帰路がわが国の若い求婚者たちに邪魔されないよう、優秀な護衛を用意しましょう」
「ええ、そうですね……でしたら、サー・ヴォルマルフ・ティンジェルをお願いします。私、あの方といるとても楽しい気持ちになりますの」
 サー・ヴォルマルフにはもう一度会わなければならない。
「そうですか、ではヴォルマルフにはよく言っておきましょう。騎士の務め――つまりあなたを守り、尊重すること――を果たして、あなたを必ずゼラモニアのブルゴント城まで送り届けるようにと」
「ええ、お願い致しますわ」
 イゾルデは笑った。王命を拝受したサー・ヴォルマルフはどんな顔をするのだろう。そして私に何と言うのだろう。今から彼に会うのが楽しみだった。

  

  

「ヴォルマルフ様、殿下から伝言です。レディ・イゾルデがゼラモアニにお戻りになられるそうです。そしてヴォルマルフ様に護衛の騎士をつとめて欲しいとのことです」
「そうか……だが少し待ってくれ」ヴォルマルフは剪定はさみを持ったまま答えた。彼は今、王宮の薔薇園でプロポーズに使う薔薇を熱心に選別していた。「私は今、気を散らせない大事な仕事に取り組んでいる。殿下のもとにはにはすぐ行くと伝えておいてくれないか」
「ですが……できればお急ぎになった方がよいかと」王子の小姓はおずおずと言葉をつないだ。「姫様がもうこちらにいらっしゃってますので……」
「そう、王宮の騎士さまは王子の命令より薔薇を愛でる方が大切なのね」
「レディ・イゾルデ!」
 少年と入れ替わるように、レディ・イゾルデが姿を現した。ヴォルマルフは思わず声を上げ、赤面した。薔薇を捧げようと思っていた相手に下準備の場を目撃されるのは非常に気まずい。
「レディ・イゾルデ……私は決して職務放棄をしようと思っているわけではありません」
「あら、では、あなたは庭園管理人の仕事も兼業なさっていたのかしら?」
「いいえ、違います。私の仕事は王家のためにこの身を挺して戦うことです」
「そのはさみで?」
「いいえ!」
「冗談よ! 笑ってお流しになって」
 レディ・イゾルデはくすくすと笑った。まったく、彼女はヴォルマルフの手におえない姫君だ。彼女といると苦労が絶えない。
「そうよ、あなたは剣で戦う騎士さま。帽子に差すお花を自分で摘みにくるような方ではないわ。分かっていてよ。だからそのお花は贈り物に使うのでしょう? どう、当たっていて?」イゾルデは涼しげな声で言った。
「ええ、その通りです。私はこの薔薇を、とあるある方に捧げるつもりです。ですから――どうか私にほんの少しの時間をください。その方は白くて美しい手をしていらっしゃる。薔薇の棘でけがをしないように、棘を抜きたいのです」
 ヴォルマルフは摘み取ったばかりの薔薇を握りしめた。あまりきつく握りしめては、薔薇が――情熱の花が――萎れてしまう。
「――ですが、あなたが今すぐにでもゼラモニアに帰りたいとおっしゃるなら、私はその通りにします。あなたの望む答えをください」
「いいえ、私、そんなにせっかちではありませんわ。あなたが準備を終えるまで、いくらでも待てます」
 その言葉を聞いてヴォルマルフは胸をなで下ろした。それからヴォルマルフは一つ一つ、かたく尖った棘を削り取っていった。ほんの僅かな手間で済む作業だったが、どうしてかヴォルマルフの手はゆっくりと動いた。そして、二人の間に静かな時間が流れた。
 先に口を開いたのはレディ・イゾルデだった。「……王の庭で丹精された、この綺麗な薔薇を捧げられる幸運な方は、いったいどんな方ですの?」
「……その方は私よりずっと、豊かな財力を持ち、私よりずっと尊い名前を持っています。少々お転婆が過ぎますが、私にはそれすらこの上ない魅力に思えます。そう、私は恋に落ちてしまいました。私には彼女に贈る宝石を買うお金はなかった。けれど、高価な宝石に勝るこの愛を今すぐにでも捧げにいきたいと思っています」
「では、今すぐにでもそれをしないのは何故? あなたの手の中の薔薇が役目を果たす前に萎れてかけてるわよ、求婚者さん」
「それは――」
 何故だ。ヴォルマルフは自分に問いかけた。目の前に愛を捧げたい女性が立っている。彼女の名前を呼び、気持ちを伝える。何故それをしないのか。この薔薇は一体何のためにあるのだ。
「どうやら、あなたはまだ花婿になる覚悟ができていないようね。その点に関して、私は二回もプロポーズされたわ。私の方が熟練者よ。花嫁の覚悟について語ってあげるわ。一回目は、エッツェルの古城で王子様から求婚された時――」
「その時のことはよく覚えています。私が殿下の代わりに求婚しましたのですから」
 ヴォルマルフはその日のことを思い出した。ゼラモアニでレディ・イゾルデと初めて会った日のことだ。忘れるはずもない。しかし、不幸な事故によってなくしてしまった王家のクリスタルについては忘却の彼方に葬りたい。レディ・イゾルデがその時のことを詳細に思い出してくれると、ヴォルマルフは騎士として面目が立たない。「レディ・イゾルデ、あなたにとってアンセルム王子との結婚式のことを思い出すのはおつらいことでしょう。あの婚約についてはもう忘れてしまうのが良いのでは?」
「そうね。そうかもしれないわ。では二回目にプロポーズされた時のことを語りましょう。あれは私がサー・バルバネスのお屋敷から出てきた時のことで――」
 なんということだ! どうして彼女は、ヴォルマルフが忘れようとしている出来事ばかり思い出してくれるのだろう。
「その時は……私の記憶が正しければ、その場に私もいたはずです」
「そうね。あなたも一緒だったわね」
 レディ・イゾルデは瞳にいたずらめいた笑みを浮かべた。やんちゃざかりの子猫のようだ。おそらくヴォルマルフの気持ちなどお見通しなのだろう。ヴォルマルフは何も言わなかった。
「サー・バルバネスのお屋敷で私に求婚してくれたのは、若くて誠実で、それでいてとてもハンサムな騎士さんよ。確かその方はご自身の騎士団を持ちたいとずっとおっしゃっていたわ。夢に向かって歩き続けられる素敵な人ね」
 レディ・イゾルデは豊かに香る庭園の花々を眺めながら、静かに言った。
「……その人は、身の丈に合わない夢を持ち、それを未練がましく捨てられないだけではないのですか」
「そんなことはないわ。理想に満ちた大きな夢を描けるのは澄んだ心をお持ちの方だけ。飾らぬ心は何より貴いもの」
 レディ・イゾルデがヴォルマルフをまっすぐ見つめる。「私は、そういう方を心の底から尊敬いたします」
 ヴォルマルフの胸の奥にあたたかい感情がこみ上げてくる。名前を言わずとも、彼女が誰について話しているのか分かる。
「……でも、少しばかり不器用な方ね。だって私は最初、プロポーズされたのだと気づかなかったもの! それでも、後になって私はその方の愛に気づいたの。そして思ったわ。ただ一人故郷へ帰るよりも、その方と一緒にこの国で暮らして、同じ夢を見てみたいと――」
 ヴォルマルフはあわてた。両手に握りしめたこの薔薇は何のためにあるのか――そうだ、彼女に捧げるためだ。今がその時だ。
「しかし、これだけは言わせてください――いくら心映えが立派でも、身一つ手ぶらで求婚をするのはわが身が貧乏人だと主張するようなもの。そのような器量の悪い求婚者のプロポーズは今すぐに忘れるべきです」
「サー・ヴォルマルフ! 私はあなたのことを話しているのよ。お分かりになって! 私はあなたの妻になりたいと言っているのに、それのどこが不満なの?」
「ええ、ええ。分かっています。あなたからこの上ない愛の言葉をいただいていることは――不満なのは私自身です。満足なプロポーズの一つもできないこの私です! あなたは私の愛に答えてくれる寛大な心をお持ちです。だから、その広い、慈愛に満ちた心で私の願いを聞いてください――私はこの薔薇をあなたに捧げたいのです。あなたの記憶の中に、他の誰にもまさる最高の求婚者としての私の姿をとどめておいてほしいのです」
 ヴォルマルフは膝をついてレディ・イゾルデに薔薇を差し出した。
「……私の妻になっていただけないでしょうか?」
 レディ・イゾルデはにっこりと微笑んだ。瞳に優しさが浮かんでいる。
「あなたはもう私の返事を知っているわ。でもあなたが望むのなら何度でも答えます。あなたが私にくださった飾らぬ心と同じものをお返します――愛をこめて」
 ヴォルマルフの唇に、彼女の唇が重なった。
「レディ・イゾルデ、あなたはとうとう私の夢をかなえてくださった。私は騎士として最高の栄誉を手に入れたのです――愛する妻の夫になるというこの世で最も幸福な肩書きを!」

  

  

  

>Epilogue

  

 

花嫁の決断:Chapter6

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*chapter6

     

  

     

  

「殿下、どうか再び、私にレディ・イゾルデの護衛の命令を下さい」
 ヴォルマルフは花嫁が投げ捨てていったヴェールを手に握ったまま、アンセルム王子に懇願した。婚礼の突然の中断に、聖堂の中はまだざわついていた。ヴォルマルフはすぐにでも彼女を探しに行きたかった。逃げ出したレディ・イゾルデの姿は人混みの中に消えてしまい行方は分からなかった。
「ヴォルマルフよ。言われるまでもない。すぐに彼女を探しにいってくれ。そして伝言を頼む――父の非礼を詫びると。私にできることは何でもしよう」
「殿下のそのお心遣い、私が必ずお伝え致します」
 よりによって自身の結婚式で晒し者にされるという屈辱を味わったレディ・イゾルデの心中を察するとヴォルマルフの心は痛んだが、つらいのは王子も同じなのだ。アンセルム王子は父王と婚約者の間で板挟みになって動けずにいる。アトカーシャの名前を持っているとはいえ、この国を動かすことができるのは王座に座る国王陛下ただ一人だ。王子は不在の国王に代わって玉座を守っているだけなのだ。
「本来であれば、私がイゾルデ姫を探しにいくべきなのであろうが……」
「殿下が心を煩わせることはございません。私が殿下に代わって彼女に誠心誠意を尽くします」
「頼んだぞ、ヴォルマルフ。私は父に押しつけられたこの結婚を望んでいなかった――とはいえ、このような形で婚約を破棄するのは私の本意ではない」
 ヴォルマルフはうなずいた。そしてすぐに踵を返した。
「フランソワ! レディ・イゾルデの姿を見なかったか?」
 ヴォルマルフは人の輪をくぐり抜けて、入り口近くで待っていた親友に尋ねた。
「聖堂を出て行った。だけどあの格好だ。婚礼衣装のままではまともに走れないだろうし、何より目立ちすぎる。まだ近くにいるんじゃないか」
「そうだな。護衛もなしにドレスのレディが一人で歩くなど危険だ。まだ教会の敷地にいるといいのだが……」
 ヴォルマルフは聖堂の扉を押した。何としてでも探し出さねば。
「ヴォルマルフ! 姫を探しに行くのか?」
「もちろんだ。なぜ分かりきった事を聞くのだ」
「王子の命令か?」
「殿下の意志でもあるが、私の意志でもある。どちらにせよ、このまま彼女を放っておくわけにはいかないだろう」
「だが今度は探し出してどうするというのだ。姫はもうルザリアの王宮には戻らないだろう。ゼラモニアまで黙って見送るのか?」
「そ、それは……」
 ヴォルマルフは足を止めた。レディ・イゾルデを探し出して、それからどうするのかなど考えてもいなかった。こんな侮辱の後で彼女がイヴァリースに留まりたいと望むはずはなかった。だとしたら故郷のゼラモニアまで送り届けるのが礼儀かもしれない。しかし、父親という後見人を失った彼女が故郷のエッツェル城でそうやって暮らしていくのだろうか――
「いや、考えるのは後だ! 今は先にレディ・イゾルデを探しに行く。レディ・イゾルデがゼラモニアへ戻ると言うのなら護衛の役目を果たすまでだ――私は騎士なのだから。あらゆる侮辱から彼女を護り、危害を遠ざける。私は彼女が望むことをするだけだ」
 ヴォルマルフは扉を開けた。なすべきことは分かっている。

  

  

 何という仕打ち! 何という屈辱!
 結婚式の最中に花嫁が捨てられるなど前代未聞の大事件だ。イゾルデは憤慨した。怒りのあまり、祭壇に王子を置き去りにして飛び出してきてしまった。
 それにしても、伝奏官が持ってきたたった一枚の紙切れで結婚式が取りやめになるなんて。当の国王は不在だというのに、王の名前を出すと皆がひれ伏した。これがイヴァリースの偉大なるデナムンダ王の権力なのだと、イゾルデはあらためて思い知った。
 聖堂を出てると、イゾルデは少しでも身軽になろうとしてドレスの裾を自ら破いた。こんな格好では歩くのにも難儀する。裾の真珠がぽろぽろこぼれ落ちたがイゾルデは気にもとめなかった。侍女を呼び寄せて悠長に着替えている余裕はなかった。参列者たちはまだ聖堂の中に居たが、外での仕事をに従事している何人かの教会の使用人たちがドレスを引きちぎるイゾルデをぎょっとして見ていた。
 けれども、そんな周りの視線は気にもせずイゾルデはつんとすまして歩いていった。
 お生憎様。私は見捨てられてそのまま泣き寝入りするようなやわなお姫様じゃないのよ。
 イゾルデはそのまま厩舎に向かうと、チョコボを一羽拝借した。教会の持ち物を盗むのは結構な罪だ。だけど私の受けた仕打ちを考えると、神様もこれくらいことは大目に見てくださるに違いない。イゾルデはひらりと――ドレスが軽くなったおかげで――チョコボの背に飛び乗った。
「さて……どこへ行こうかしら」
 イゾルデはチョコボの背にまたがったまま考えた。もうイヴァリースに留まるつもりはなかった。このまま何事もなかったかのように平穏なままルザリアで暮らせるとは思えない。だとしたらゼラモニアへ帰るしかない。ゼラモニアのエッツェル城は、父が亡くなり兄が継ぐのだろう――同じ血をわけた兄とは顔を会わせたこともなかったが、嫁ぎ先から追い出された妹をむげに扱うことはないだろう。
 問題は、ここルザリアからどうやってオルダリーアまで帰るかということだ。このまま一人で国境を越えるのは不可能だ。オルダリーアからゼラモニアへはサー・バルバネスに、ゼラモニアからイヴァリースへはサー・ヴォルマルフにそれぞれ案内をしてもらった。だけど、サー・バルバネスは今はオルダリーアの戦場にいて直接頼みに行くには遠すぎる場所にいる。サー・ヴォルマルフは……破談になった婚約者である王子の騎士なのだから、助けを求めに行くなど論外だ。つまり、自力で何とかしないといけないのだ。
 自力でゼラモニアまで帰る方法は一つ。王宮まで戻って、母から相続したブルゴントの宝を売るのだ。そうすれば護衛を雇って羽車で快適で安全な旅ができるだろう。
 イゾルデはチョコボの腹を蹴った。王宮に戻るのだ。でもドレスはズタズタで今のイゾルデは下着姿も同然だった。こんな不審者みたいなひどい格好で、警備の厳しい王宮に戻れるのかしら?

  

  

「アリー、外に変な格好の女の人が立ってる」
 椅子に座って必死で縫い物をしていたアリーの袖をダイスダーグが引っ張った。
「お坊ちゃま? どうなさいました?」
 アリーは針を手に仕事を続けながら聞き返した。縫っているのはアリーの袖を引く幼いダイスダーグ坊ちゃんの制服だ。ダイスダーグ・ベオルブ――十三歳になるベオルブ家の若き御曹司がもうすぐ士官学校の寄宿舎に入る。その準備でルザリアのベオルブ家のお屋敷は大わらわだった。お屋敷の家政婦アリーが多忙にしているのもそのためだった。
「外にお客さんが来てる」ダイスダーグが繰り返した。
 お客さん! その言葉を聞いてアリーは椅子からぱっと飛び上がった。
「宮廷の方だったらどうしましょう……旦那様もいらっしゃらないのに……」
 心配のあまり気を揉むアリーであったが、戸口に立っている女性の格好を見た瞬間、その心配は困惑に変わった。
 純白のドレスを纏ったレディだ。あちこちに真珠が縫いつけられており、胸元にはルビーで出来た薔薇の大きなブローチが輝いている。高貴な身分の姫君なのだろうということはすぐに分かった。けれどドレスは無惨にも引き裂かれ、綺麗に編み上げられていたであろうブロンドの髪もところどころほつれている。もしかしたらこの方は暴漢に襲われて逃げてきたのではないかとアリーは不安になった。
「あの……うちの警備兵を呼びましょうか? レディ――」
「いいえ、警備兵は結構よ。あなたの心配には及ばなくてよ。私は自力で逃げてきましたもの――はじめまして。私の名前はレディ・イゾルデ。あやしい者ではありませんわ――こんな格好でも!」
 レディ・イゾルデの言葉にはオルダリーア訛りが混じっていた。そのせいかルザリアの宮廷にいる姫様たちとはどこか違った雰囲気を持っていた。この人はただの姫様ではない。アリーはレディ・イゾルデの雰囲気に気圧された。
「大丈夫よ」
 事情が全く飲み込めないアリーに向かってレディ・イゾルデは自信たっぷりにうなずいた。アリーには何が大丈夫なのかさっぱり分からなかったが、レディ・イゾルデの言葉にうなずき返した。

  

  

 イゾルデはルザリアのベオルブ邸に来ていた。サー・バルバネスが「ルザリアで困ったことがあれば屋敷に来てくれ」と言っていたことを思い出したのだった。今がまさにその時だ。サー・バルバネスの助けが必要だ。
 ベオルブ邸はルザリアの宮廷のすぐ近くの武家屋敷が並ぶ通りの一角にあった。イゾルデを迎えてくれたのはアリーと名乗るお屋敷の家政婦だった。焦げ茶色の髪の毛をうしろで一つにまとめている。家政婦といってもまだ十五、六歳くらいの少女で、そして同年代の少女たちよりもずっと小柄だった。白い小さなエプロンを前にかけていて、まるでコマドリのような愛らしい少女だった。
「――まあ、それでは、イゾルデ様は護衛の騎士様もいないのに、ここまで一人でいらっしゃったのですか?」
 イゾルデがベオルブ邸を訪ねた経緯をかいつまんで話すと、アリーが驚いてイゾルデを見つめた。
「前は護衛の方がいたのだけれど……オルダリーアではサー・バルバネスに助けていただいたの」
「旦那様に!」アリーはイゾルデを屋敷の客室に案内しながら言った。「旦那様のお知り合いの方ならいつでも歓迎いたしますわ。さあ、どうぞ中へ。それに、その格好では外を歩くのも大変でしょう。今すぐにでもお着替えをお持ちしたいのですが……」
 アリーはそこで言葉を濁して言いよどんだ。
「どうしたの?」
「お着替えをお持ちしたいのですが……お屋敷には姫様の着るようなお召し物がないのです。奥方様が亡くなってしまわれてから、新しいドレスを買うこともなくなってしまって……かといって使用人の服を姫様にお出しするわけにはいきませんし……」
「あら、私はどんな服でも構わないわ。だって、せっかくのドレスをこんなにズタズタにしたのはこの私ですもの」
 小さな家政婦が困っておろおろと歩き出したのでイゾルデは慌てて付け加えた。けれどアリーは「でも……姫様にそんな服を……」と繰り返すばかりでとりつく島もない。
「だったら母様の服をあげたら?」
「ダイスダーグ様!」
 イゾルデが通された客室の扉を押し開けて精悍な顔つきの少年が入ってきた。イゾルデはアリーが名前を呼ぶまでもなく、この子がサー・バルバネスの長男ダイスダーグなのだとすぐに分かった。
「お坊ちゃま……本当によいのですか? お母様の思い出の品を……」
「うん。だって母様が生きてたらこうしてたと思う。困ってる人がいたらその人のために尽くしなさいと、いつもそう言っていたんだ。僕だってベオルブの名前を継ぐ者だ。母様の言うような立派な騎士になりたい」
「ああ、ダイスダーグ様……! 坊ちゃまの口からそのようなお言葉が聞けて、私は嬉しゅうございます。奥方様も天国で喜んでおられることでしょう!」
 アリーは感激のあまりその場で泣き出しそうな勢いだった。きっとわが子の成長を見守る母親のような心境なのだろう。といっても、二人の年齢からすると、親子というより姉弟の関係といった方が近いのかもしれない。イゾルデは二人のやりとりをほほえましく見ていた。
「ありがとう、若い騎士さん」
 イゾルデはダイスダーグにお礼を言った。「あなたのお母様の服、あとできちんと返しにきますわ。大丈夫よ、お母様のドレスを着たまま逃げ出したりしないから。私は今はこんな格好だけれど、お金に困っているわけではないの」
 イゾルデはダイスダーグの頭をそっとなでた。あと十年が経ったとき、きっとこの子は父親に引けを取らない立派な騎士になっていることだろう。

  

  

 ヴォルマルフは姿を消したレディ・イゾルデを探してルザリアのベオルブ邸の前に来ていた。まさか花嫁がチョコボに乗って逃走をはかるとは想像もしていなかったが、目立つ婚礼衣装のおかげか目撃情報も多く、後を追いかけやすかった。
 ヴォルマルフが邸宅の扉を叩こうとする前に、レディ・イゾルデが扉を開けた。ヴォルマルフはさっと身体を引いた。
「あら……サー・ヴォルマルフ、どうしましたの? こんなところでお会いするなんて」
 世間話でもするかのようなレディ・イゾルデのあっさりとした挨拶にヴォルマルフは拍子抜けした。レディ・イゾルデが聖堂を泣きながら飛び出していったので、ヴォルマルフは心の底から心配していたのだが、どうやらその心配は杞憂だったらしい。レディ・イゾルデは婚礼衣装を脱いで、新たに深紅のドレスを纏っている。髪も結い直して口に紅をさして小綺麗にめかし込んでいる。
「レディ・イゾルデ、私は殿下に代わってデナムンダ王の非礼を詫びにきたのです。どうか私に謝らせてください」
「ああ、そのことね……たしかに、あなたの国の王様は少しばかり無神経な方だと思うけれど、政略結婚が破綻するのはよくあることよ。あなたや王子様が気に病むことはないわ。父親同士が決めたことですもの。私は今回はちょっと不幸な事故にあったのだと思うことにするわ」
「レディ・イゾルデ……あなたのその前向きな精神のおかげで、殿下はご自身を責めることなく心穏やかに過ごすことができるでしょう。あなたの持つその天性の明るさに皆が――私も含めて――救われているのです」そこでヴォルマルフは一度言葉を切った。そして続けた。「ですが、このまま何事もなかったかのようにあなたをお見送りするわけにはいきません。あなたの力になります。どうかそうさせてください。私に出来ることなら何でも――」
「ありがとう。でもそのお申し出は気持ちだけ受け取っておくわ。あとは自分の力でなんとかするつもりよ」
 レディ・イゾルデは両手を胸の前で広げて、ヴォルマルフの申し出をやんわりと断った。
「つまり、私では、あなたの力にはなれないのですね……」
 ヴォルマルフは肩を落とした。聖堂を逃げ出したレディ・イゾルデが真っ先に駆け込んだ先はベオルブ邸だった。レディ・イゾルデの目と鼻の先にいるのはこの自分だというのに!
「サー・ヴォルマルフ? どうしてそんなことをおっしゃるの? だってあなたは王子様の騎士じゃないの! こんな状況であなたを頼れないわ――別にあなたじゃ力不足だと言っているわけではないのよ」
「……はい、あなたの言う通り、私は王家に仕える騎士です。だからこそあなたの力になりたいのです――あなたに侮辱を与えたデナムンダ王に代わって、私に償いをさせてください。レディ・イゾルデ、どうか私に命令を下さい。私はあなたのために尽くします」
「サー・ヴォルマルフ……私はもう王子様の婚約者ではないのよ。あなたは私に仕える義務もないし、それに私もあなたには何の命令も望まないわ」
 そうだ。その通りだ。彼女はもう王子の婚約者ではない――だからこそ、やっと本音が言える。今ここでレディ・イゾルデに本心を打ち明けなければならない。
「レディ・イゾルデ――」
 悩みに悩んだ末、ヴォルマルフはやっとの思いで彼女の名前を呼んだ。けれどその呼びかけは、ほぼ時を同じくして口を開いたレディ・イゾルデの言葉によってかき消されてしまった。
「これ、お返しします。王子様との婚約は白紙になってしまったから」レディ・イゾルデはルビーの薔薇のブローチをヴォルマルフに差し出した。
「これは……」
 レディ・イゾルデに王子からのプロポーズの品としてヴォルマルフが贈ったものだ。とはいえ、元々はゼラモニアの古城で本来の贈答品をなくしたヴォルマルフにかわってレディ・イゾルデが用意してくれた宝石だ。
「いいえ、本来の所有者はあなたです。レディ・イゾルデ、あなたが持っているべきです」
「でも、もう私には必要ないわ。あなたにあげるわ。記念にどうぞ」
 レディ・イゾルデはヴォルマルフの手の中に薔薇を押し込んだ。
「私は自分の国へ帰ります。これから一度王宮へ戻って、母から相続した財産を売ってゼラモニアまでの旅の支度を整えるわ――だから、あなたとはここでお別れね。ごきげんよう」
「ま、待ってください! 私はここで別れるつもりは――」
 レディ・イゾルデはヴォルマルフに軽く一礼をするとそのまますたすたと歩きはじめた。まずい、このまま別れてしまってはもう二度と会えない。ヴォルマルフは大声で彼女を引き留めた。
「レディ・イゾルデ! まだ行かないでください――」
 しかしヴォルマルフの心中などつゆ知らず、レディ・イゾルデが振り向いてくれそうになかったので、ヴォルマルフは仕方なく背中越しに叫んだ。
「――私と一緒にイヴァリースで暮らしませんか!」
 ようやくレディ・イゾルデが振り向いた。しかし、どうやらヴォルマルフの意図は伝わらなかったようだ。レディ・イゾルデは首をかしげた。
「サー・ヴォルマルフ? あなた何を言っているの?」
 レディ・イゾルデの反応を見て、ヴォルマルフは勢い余って叫んだ言葉を激しく後悔した。
「あの、どうかなさいました? うちのお屋敷で何か問題でも……」
 しかも、玄関先で大声を上げてしまったため、この邸宅の使用人と思われる少女がわざわざ様子を見に来てくれた。
 ヴォルマルフにとって大変な問題が発生したことには違いない。プロポーズ――とレディ・イゾルデに認識してもらえていることを祈るばかりだが――の時と場所を間違えたのだ。ヴォルマルフはその場で頭を抱えた。これは大問題だ。

  

  

  

>Chapter7

  

 

花嫁の決断:Chapter5

.

     

  
*chapter5

     

  

     

  

 王家に嫁ぐと分かってから覚悟はしていたが、婚礼の準備はとにかく煩雑だった。王家のしきたりは随分とややこしい。それに加えて、アンセルム王子とイゾルデの婚約が公表されるとすぐ、彼女のもとに数え切れないほど多くの役人や貴族たちが挨拶にきた。早くも未来の王妃に取り入ろうとしている狡猾で抜け目のない連中だ。こういう人たちって相手にすると面倒くさいのよね……ルザリアの宮廷にはこんなに出世欲にまみれた連中しかいないのかしら。イゾルデはサー・ヴォルマルフの穏やかな純朴さが恋しかった。だから王子から、誰かにルザリアを案内させようと言われた時にはすかさず「是非サー・ヴォルマルフにお願いしたい」と答えたほどだった。
「――それでは、イゾルデ様、いかがいたしましょうか?」
「ああ、ごめんなさい。少しぼんやりしていて……何の話でしたっけ?」
 イゾルデは部屋で婚礼の時に着るドレスの試着をしていた。婚礼に際して、花嫁にふさわしいドレスを新しく仕立てるのだ。イゾルデは婚礼衣装を着たまま、もう二時間も立ったり、座ったりしていた。そしてイゾルデが試着しているその場で何人ものお針子がレースを縫いつけていた。
「――お裾の模様と、レースの種類のことです、イゾルデ様。いかがいたしましょう?」
 侍女がイゾルデに装飾箱を差し出した。中には大粒の真珠がぎっしり詰まっている。「こちらの真珠でお裾を飾ろうかと思うのですが……イゾルデ姫様のために最高級のものをご用意いたしました」
 裾に真珠ですって! 歩く度にこぼれ落ちてしまいそうだわ。きっとアトカーシャ王家の王庫には財宝がぎっしりつまっているんだわ。
「お任せするわ。私には王家に嫁ぐ花嫁がどんなドレスを着ればよいのかさっぱり分かりませんもの」
 イゾルデがそう答えると、すぐに侍女はドレスの裾を作っているお針子たちにてきぱきと指示を出した。一体どんなドレスができあがるのか、イゾルデには皆目検討がつかなかった。唯一イゾルデに分かるのは、このドレスの試着作業があと数時間は続くということだけだった。本物のお姫様は着替えだけで一日が終わるというが、それもあながち間違えではなさそうだ。
 イゾルデはそっとあくびをかみ殺した。自分のドレスを作るために何人もの娘たちが働いているというのに、ここで自分一人が悠々と居眠りをするわけにはいかない。でも誰か話し相手がいないと退屈で寝てしまいそうだった。
「イゾルデ様、お部屋の外に殿方がいらっしゃっています」侍女がイゾルデに言った。
「どなた?」
 この退屈を紛らわせてくれる人だったら誰でもいいわ。
「侍従長官のご子息のフランソワ様です。お着替え中ですので、伝言だけ承ってきましょうか」
「待って! ちょうど話し相手が欲しいと思っていたところなの。追い返さないでこっちへ呼んできてくださる?」
 相手が侍従官とあっては退屈な話しか期待できなさそうだが、この際えり好みはできまい――けれど、侍女がつれてきた黒髪の若い青年を見てイゾルデは自分の予想が外れたことを喜んだ。
「イゾルデ姫様、これは失礼。お着替え中でしたか」
「いいのよ。これからあと二時間は着替え中ですもの――はじめまして、フランソワさん。侍従官というからもっと年輩の方だと思っていましたわ」
「侍従官は私の父の役職です。私はアンセルム王子に仕える詩人です」
「あら、素敵だわ。そういう華やかな人は大歓迎よ。婚約を発表してからというもの、私のもとに長々しい挨拶をしにくるお役人の方々が多くてうんざりしていたところですの。詩人さん、今日はどんなご用で私のもとへ? あなたも私にご挨拶にいらっしゃっただけかしら?」
「いいえ、私は貴女を退屈させるために上がったわけではありませんのでご安心を――」
 イゾルデは詩人と名乗る相手の姿を見た。自分よりはいくらか年上だろうが、きっとまだ二十代の若い青年だった。長く伸ばした黒髪を肩のところで切りそろえ、切り込みの入った袖口からレースをのぞかせている。瀟洒な格好でいかにも宮廷の詩人という出で立ちだった。
「実は、わが友ティンジェルが貴女の手を引いてこのルザリア宮殿をご案内するはずでしたが、あいにく彼は具合が悪いとのことで、こうして私が代理で参上したのです。ですが――」フランソワ氏はイゾルデの格好をちらりと見た。「そのドレスでは外を歩けませんね」
「ええ……せっかく来ていただいたのに申し訳ありません」
「でも綺麗なドレスです。特に、その胸元の赤い薔薇のブローチが目を引く。お美しいですよ、レディ・イゾルデ」
「ありがとうございます。この薔薇は……殿下がプロポーズの時に私にくださったのです」実際に渡したのはサー・ヴォルマルフだったけれど。イゾルデは胸の内でそっと付け足した。
「そういえば、ルザリアに来てからとんとサー・ヴォルマルフの姿をお見かけしなくなったけれど、具合が悪かったのね。お熱でもあるのかしら。お見舞いにあがった方がよろしくて?」
「いいえ――借家暮らしなのでどうかそれだけは勘弁してくださいと彼は念を押していましたので……それに、姫様の姿を見たら、彼はますます具合が悪くなるでしょう」フランソワ氏は笑った。
「そう……お会いしたいと思っていたのに残念ですわ。宮廷で話し相手になってくださる方がいなくて退屈しているところなの」
「そうでしたか。ですが、姫様がご足労いただく必要は全くございません。帰ったらすぐにでもわが親友の尻を蹴り飛ばして出仕させますので、どうぞ好きなだけ姫様の相手に使ってやってください」
「ふふ、仲がよろしいのね。サー・ヴォルマルフとは長い付き合いなのかしら?」
「ええ、彼が上京してきた時からの付き合いです」
 イゾルデは自分の後ろでせっせとレースと真珠を縫いつけるお針子たちを見た。まだまだ時間は掛かりそうだ。このままフランソワ氏にしばらく話し相手になってもらおう。
「ねえ、フランソワさん。サー・ヴォルマルフのことをお聞きしてもよろしいかしら? ルザリアまでの道中、ずっとご一緒していたのに、あの方ったら恥ずかしがって全然ご自分のことを話してくださらないから。サー・バルバネスはたくさんお話してくださったんですけど……」
「きっと殿下の花嫁の隣で緊張していたのでしょう。あの通りわが友は口べたで不器用な人間ですので……彼のエスコートはご不満でしたか、姫君?」
「いいえ! 全然! とっても礼儀正しくて――むしろ丁寧すぎるくらいでしたわ」イゾルデは、ルザリアまでの道中を思い出して言った。
「それは何より」
「そういえば、サー・バルバネスは士官学校がどうのこうのおっしゃっていたけれど、サー・ヴォルマルフもそういう場所に通っていらしたのかしら。あの方は、自分の騎士団が持ちたいとおっしゃっていたわ」
「士官学校……あそこは騎士団に入っていずれは指揮官となるような大貴族の子息や武家の血筋の者が通う学校です。つまり――」
 フランソワ氏が語るところによると、サー・ヴォルマルフの父親はルザリア郊外の下級官吏であり、息子を廷臣にしようと思って宮廷の貴族のもとに送り込み騎士修行をさせていたとのことだ。そうして彼はめでたく騎士として叙勲され、王子の信頼も勝ち得て、今に至る……ということらしい。
「おそらく、わが友は騎士の心得として剣技を身につけたものの、一度も戦場に立ったことがないということを気にしているのでしょう」
 だからサー・ヴォルマルフはブルゴントの古城で盗賊に襲われた時にあれほど落ち込んでいたのかしら。
 イゾルデはルザリアまでの長旅を護衛してくれたサー・ヴォルマルフにささやかな恩返しがしたかった。サー・ヴォルマルフが騎士団を持ちたいと夢みていることは知っていたので、自分が嫁ぐアトカーシャ王家の権力を拝借して彼のために小さな騎士団を作ってあげられないものかと考えていた。けれど、サー・ヴォルマルフやフランソワ氏の話を聞くかぎり、騎士団を持てる人間は大貴族の子息や武家の血筋の人間に限られているようだった。つまり――
「サー・ヴォルマルフのことを騎士団長さまと呼べる日はほど遠いということね……。残念だわ――そうだわ、いいことを思いついたわ!」ぱっと名案が浮かんだイゾルデは手を打った。
「伯爵家のような大貴族の爵位を持っていれば騎士団を作れるのでしょう? だったらサー・ヴォルマルフが伯爵家のお嬢様と結婚して爵位を継げば良いのではないかしら? サー・バルバネスはサー・ヴォルマルフのお年でもうすでに父親になっていたとおっしゃっていたわ。フランソワさん、あなたのお友達に伝えておいてください。もしご結婚するおつもりなら、私が――私ももうじきアトカーシャ王家の人間になりますから――きっといいお家のお嬢様をご紹介致します、と」
「それでは、姫様のお言葉を一字一句違わず伝えておきます――」
 フランソワ氏はにこやかに笑った。

  

  

「ヴォルマルフ、姫からの伝言だ。『おまえ結婚する気はあるのか?』と」
「は? な、なんだ、出し抜けに……」
 ヴォルマルフが自宅のベッドで寝ていると、いきなりフランソワが上がり込んできた。ルザリア市街の役人通りにヴォルマルフが借りている小さな部屋である。
「姫はおまえが二十二にもなってまだ結婚していないのを嘆いておられた。しかし朗報だ、おまえにいいところのお嬢さんを嫁がせてやりたいそうだ――たとえば伯爵家のご令嬢とか」
「何なんだよ、唐突に。おまえは一体レディ・イゾルデと何の話をしてきたんだ」ヴォルマルフには話の流れがさっぱり分からなかった。
「どうせおまえが道中で延々と『自分の騎士団が欲しい』と語ってたんだろう? 役人貴族のおまえでも騎士団長になれる道はないだろうかと考えた姫様の気遣いだ。伯爵になれば騎士団が持てるからな」
「お、おい――私はおまえにルザリア宮殿の案内を頼んだのだぞ! なぜ私の家庭事情で盛り上がってるんだ!」
「いや、姫を迎えにいったらちょうど着替え中でな――」
「だったらそのまま引き返してこい! 婚前の姫君の部屋に入るなど失礼極まりない」
「姫さんが俺を迎え入れたんだ。婚礼衣装の準備に手間取っているようで死ぬほど退屈そうにしていた。ここは姫君の相手をして退屈をまぎらわせてさしあげるのが紳士のマナーだろ?」
「お、おまえ……まさかとは思うが、で、殿下より先にレディ・イゾルデの婚礼衣装を見たのか……」
 ヴォルマルフは絶句してベッドの上で悶絶しそうになっていた。王子の婚約者の部屋に軽々と入っていく親友にも問題はあるが、着替え中に若い男を軽々と招き入れる姫君も問題だ。どっちもどっちだ。しかも、私の結婚相手がどうのこうのと、二人は一体どんな話をしていたのだ?
「婚礼のドレスか? ああ見たよ。姫様に尻を向けて話すわけにもいかないしな。それはもう美しかったぞ。真珠とレースを――」
「黙れ、馬鹿者! それ以上言うな! 私は殿下より先にレディ・イゾルデの婚礼衣装を知るという不作法はおかさないからな――!」
 ヴォルマルフは頭の下にあった枕をつかむと、親友に向かって投げつけた。
「なんだよ」フランソワは飛んできた枕をさっとよけると、やれやれと肩をすくめた。「おまえが具合が悪いというから、代わりにこの仕事を引き受けてやったのに、元気じゃねえか。おまえが仮病を使って宮廷に上がらないから、姫は随分と寂しがっていたぞ」
「いや……仮病ではない。私は今、とても疲れて果てている。ルザリアまであのお転婆姫を護衛するのは本当に大変だったんだぞ」
 ヴォルマルフはベッドの上で親友に背を向けたまま話した。しばらくすると、ギシリとベッドがきしむ音がした。おそらく、そこにフランソワが腰掛けたのだろう。けれどヴォルマルフは振り向かなかった。
「おまえ……本当はあの姫様に惚れたんだろう」
 ヴォルマルフは答えなかった。
「惚れた女が主君の妻になる。それが見たくなくてこうやってふて寝してるんだろ? なのに当の姫様はのんきに構えて、おまえに結婚する気があるのかと聞いてくる始末」
 ヴォルマルフは何も答えなかった。答えたくなかった。だから、あえて話題をそらした。
「――私の縁談の心配をする前に、おまえこそ結婚したらどうなんだ。もうすぐ三十歳になるというのに」
「俺か? 俺は別に。結婚せずとも、愛した女はいるしな……」
「……そうか」
 そこでふっつりと会話は途切れた。ヴォルマルフは親友の女性関係についてあえて詮索するつもりはなかった――何故なら、自分のことですでに手一杯なのだから。
 静かな沈黙を破って、「そういえば――」とフランソワが切り出した。「おまえが駆け落ちしたイゾルデ姫を追っかけている間、俺は父親と会っていた」
「侍従長官殿と? ということは陛下も一緒だな」
「そうだ。国王の病状がよくない。時々発作をおこしている」
「陛下がご病気だと? そんな話は聞いたこともないが」
「国王が病気で先が長くないと分かっては、戦争の士気が下がるからな……ごくわずかな側近の者しか知らない事実だ。だが国王の年齢も年齢だ。そろそろアンセルム王子が新国王となる日も近いだろう。婚礼と葬式が重ならないといいんだが」
 とうとうアンセルム王子が戴冠するのか……そう思うとヴォルマルフは感慨深い気持ちになった。けれど実際は不安の方が大きかった。オルダリーアとの戦争が終わらないまま国王が身罷ってしまったら、誰が戦争の指揮をとるのだろうか。アンセルム王子が剣を持って戦線に立つ姿が、ヴォルマルフにはどうしても想像できなかった。
「フランソワ、殿下がデナムンダ三世として戴冠なさった時、この国はどうなっているのだろうか……それまでに戦争が終結していると良いのだが」
「問題はそれだけじゃない……あの戦大王は世継ぎを作りすぎた。王位継承権はアンセルム王子にあるとはいえ、アトカーシャ家から獅子の紋章を分け与えられた家がいくつもある。特に黒獅子と白獅子の紋章を与えられたあの両家の若獅子たちは遅かれ早かれ、いずれ王座を脅かすだろう。それぞれゼルテニアとガリオンヌの伯爵家の血筋も引いているのだからな」
「つまり、オルダリーアとの戦争が終わったら、こんどは国内で王座の簒奪戦争が起きるということか?」
「さあな。だが、その可能性は十分あるだろう。しかし俺たちが気に病んだところで何もできないしな……」
 ヴォルマルフは胸が締め付けられるようだった。レディ・イゾルデはやっとオルダリーアから逃れてきたというのに、嫁ぎ先でまた戦争に巻き込まれるかもしれないのだ。しかも玉座の奪い合いになれば、王妃となるレディ・イゾルデの命は誰も保証できない。最悪の未来を考えた時、ヴォルマルフは身体中の血が凍りそうになった。
「まあ、俺はそんなことを父親と話していた。で、おまえは何をしていたんだ? 天騎士と駆け落ちしたイゾルデ姫をどうやって王都まで連れてきたんだ?」
「ああ、実は、彼女はサー・バルバネスと駆け落ちするつもりは最初からなかったらしい……」
 ゼラモニアの古城であった一連の出来事をヴォルマルフは思い出していた。そして、枕元においたままのルビーの指輪を見た。王子から貰った指輪だ。これを見ると、レディ・イゾルデの胸元の深紅の薔薇と――同じ深紅の色をした天蝎宮のクリスタルのことを思い出す。頭の中から消し去りたい、苦々しい記憶だ。
「それで、そのあとは? 天騎士とは何も話さなかったのか?」
「……絶対に言わない」
 あんな醜態を誰に話せようか! 話したところで大笑いされるのが目に見えている。
 ヴォルマルフはベッドから親友を払い落とすと布団を頭からかぶり直した。完全にふて寝の体勢だが、親友の前で虚栄心をはってもしょうがない。
「結婚式にはちゃんと参列しろよ――一週間後だ」
 ヴォルマルフに追い出される形になったフランソワはそう言い残して出て行った。

  

   
 
 結局、イゾルデは婚礼の日までサー・ヴォルマルフの姿を見ることはなかった。
 式は王都近郊の聖堂で挙げることになっていた。この聖堂は、普段は王家の儀式で使われる由緒正しき大寺院であった。双塔と鐘塔を備え、内陣後方には袖廊や側廊や周歩廊まで設けられた巨大な聖堂だった。どっしりとした分厚い石壁は鮮やかな壁画で彩られ、柱からつり下げられた鉄のシャンデリアにはたくさんの蝋燭がともされていた。そのおかげで聖堂の中はほのかな明かりで満たされていた。
 結婚式は聖堂の中心に位置する主礼拝堂で執り行われる予定であった。イゾルデはそこで夫と結ばれ、晴れて王子夫妻として認められることになる。イゾルデは主礼拝堂の隣の控えの部屋に入り、そこで花嫁衣装に袖を通して婚礼の準備をしていた。侍女たちがイゾルデの着替えを手伝い、付き添い役の娘たちがイゾルデの婚礼服を切り花で飾った。一週間近くも掛けて仕立てあげた婚礼の衣装はおそろしく豪華なものであった。純白のドレスに輝くような真珠が惜しげもなく縫いつけられてる。一体アトカーシャ家の王庫にはどれほどのお金が眠っているのかしら?
「姫様、衣装の準備ができましたわ。とってもお綺麗ですこと」花嫁の付き添い役の娘に一人がイゾルデのドレスの裾を持ち上げながら言った。
「ありがとう」
 イゾルデは花嫁のヴェールを被った。もう王家に嫁ぐ花嫁の覚悟はできている。
「姫様は輝くようなブロンドのお髪ですもの。純白のドレスがお似合いですわ。王子様もこんなに素敵な花嫁様をお迎えするのなら、ミュロンド寺院で式をお挙げなさればよいのに」
「ミュロンド寺院?」
 聞き慣れない地名にイゾルデはヴェールの下から首を傾げた。
「最近ミュロンドの大聖堂が完成したんです。それはもう大聖堂と呼ぶにふさわしい立派な大寺院が建立されたんですよ!」娘は興奮気味に話した。どうやらこれが王都の娘たちの関心を引く最新の噂話らしい。
「このルザリアの聖堂も随分と立派だと思うけれど……王家の儀式で使うのでしょう? 私、こんなに大きな教会には初めて入ったわ」
 娘は首を振った。「いいえ! 違うんです――」そして両手を広げて言った。「もっと天井が高くて大きいんです。塔が天の彼方に向かって延びているようで……窓には色ガラスが使われていて、きらめく光が教会の中に降り注いでくるんです。王都でもガラスは貴重なのに、ミュロンドの大聖堂には色ガラスがあるんです! そのきらめく色ガラスのおかげで、大聖堂の中にはまるでこの世のものとは思えないほどたくさんの光が振ってきて……きっとミュロンドの大聖堂だったら姫様のドレスだってもっとずっと美しく輝きますわ」
 娘の語る言葉にイゾルデは興味を覚えた。このルザリアの聖堂も蝋燭の光で煌々と照らされている。それでも分厚い石壁に覆われた聖堂内部は薄暗い。でもミュロンド寺院は違うという。色付きガラスがあって、日の光が外から降ってくるなんて! その様はどんなに美しいことだろう。
「ミュロンドは遠いのかしら? 私も巡礼に行ってみたくなったわ」
「ええ、ミュロンドに行くには、ルザリア領の隣のガリオンヌ領の港から舟で渡るか、陸路でゴーグまで行って舟で行くしかないんです」
「どのみち舟で行くのね」
「はい、ミュロンドは黒珊瑚の海に浮かぶ孤島です。そこには要塞のようなお城があって、騎士様に守られて教皇猊下が暮らしてらっしゃいます」
「いつか夫に連れて行ってもらうことにするわ」
 新婚旅行が楽しみだわ。
 イゾルデはいよいよ婚礼の儀にのぞんだ。ヴェールをしっかりと被ると、顎を引いて伏し目がちに主礼拝堂へ入っていった。内陣は王子の結婚式を見物しに来た参拝客で埋め尽くされていた。階上席まで人があふれているわ。イゾルデは主礼拝堂に入った瞬間から、数多の群衆の視線が自分に注がれるのを感じた。はるばるゼラモニアからやってきたという王の二番目の妻になる女の素顔を誰も彼もが見たがっていた。けれどイゾルデは数え切れない人だかりを前にして怖じ気付くような性格ではなかった。不躾な視線を投げつけられたらつんとすまして、そのままにらみ返してやろうとさえ思っていた。
 結婚式に参列しているのは宮廷で暮らす貴族や大臣たち、それに王家の関係者、聖堂の近くに住む裕福な市民たちであった。参拝客は祭壇を取り囲むように輪になって群がっており、前列にいくほど高貴な身分の者であった。
 イゾルデは歩きながら人々の顔をそっと見ていった。まだルザリアに来てからの日は浅く、人だかりの中に知り合いは少なかった。けれど、その中によく見知った顔を見つけた。サー・ヴォルマルフだった。華やかに着飾る宮廷人の中で一人だけ地味な黒っぽい服を来ているので逆に目立っていた。隣には孔雀の羽で飾った帽子を被ったフランソワ氏が立っていた。フランソワ氏はイゾルデと目が会うと会釈をしてくれたが、サー・ヴォルマルフは終始うつむいたままだった。
 あの方はまだ具合が悪いのかしら? あとでフランソワ氏からサー・ヴォルマルフの暮らす家の住所を聞き出して押し掛けてみようとイゾルデは思った。それに、婚礼の準備で忙しくてサー・バルバネスから教えてもらったベオルブ邸に挨拶に行く時間もなかった。サー・ヴォルマルフを誘って一緒にベオルブ邸に遊びにいこうかしら。
 いけない、私ったらまた集中力を切らせていたわ。今は自分の結婚式に意識を集中させなければ。
 イゾルデは付き添い役の娘たちにドレスの裾を持たせながら、アンセルム王子の待つ祭壇へゆっくりと歩いていった。

  

  

「ヴォルマルフ、いい加減に顔を上げたらどうだ。それにまったく、僧院にいるような格好じゃないか。もっと華やかな服を着てこいよ。婚礼の場を葬式にでも変えるつもりか?」
「おい、やめてくれ。物騒なことは言わないでくれ」ヴォルマルフは慌ててフランソワをたしなめた。
 ヴォルマルフはフランソワと一緒にレディ・イゾルデの結婚式に参列していた。二人が聖堂に着いた頃にはすでに内陣に人の輪ができあがっていた。ヴォルマルフはその一番後ろに並んだ。
「こんな後ろに陣取っていては花嫁の頭も見えないぞ」フランソワはやや不満げだった。
「最前列に居るのは枢機卿や大臣たちだ。私にはそんな大仰な顔ぶれの中に混じる勇気はない」
「だからって後ろに引っ込んでいる道理もないだろう――おっ、姫様が通るぞ」
 式が始まり、花嫁が主礼拝堂に入ってきた。祭壇への道には赤い絨毯が敷かれており、純白のドレスに身を包んだレディ・イゾルデが花道をしずしずと歩いてきた。若い娘たちが花嫁の歩く道に花を撒いている。レディ・イゾルデはヴェールの下からヴォルマルフの方をちらりと見た。
「あ――」
 ヴォルマルフはとっさに顔を背けた。彼女はあまりに美しかった。ほの暗い聖堂の中で、彼女の歩く場所だけがまるで光り輝いているように見える。
 だめだ、これ以上見てはいけない――この美しさは王子のものなのだから。
 婚礼の儀式は順調に進んでいるようだった。けれど参列者たちは思い思いにおしゃべりに高じており、祭壇の前にいる司教の言葉はヴォルマルフらのいる内陣後方までは聞こえてこなかった。
 その時、礼拝堂の扉が強く開け放たれた。内陣後方にいたヴォルマルフはすぐにその物音に気づいた。ヴォルマルフの近くにいた参列者の何人かが異変を察知して彼と一緒に振り返った。
「何事だ?」
 ヴォルマルフの視界に息を切らした役人が飛び込んできた。獅子の紋章をつけた服を着ており、手には儀式用の槍を持っている。
「王の伝奏官だ……」ヴォルマルフはつぶやいた。
「ああ、しかも式の途中で乱入してくるとは相当な急ぎの用件らしい――おい、ヴォルマルフ、見ろよ。槍の先に喪章が付いている」
 フランソワが指さした先には、黒のリボンが翻っていた。誰かが亡くなった印だ。
「まさか……戦地にいる陛下の身に……」
 嫌な予感がした。ヴォルマルフは胸の動悸を感じ、その場で立ち尽くした。もし伝奏官が持ってきた報せが王の死であったなら――
 伝奏官は人の波をかき分け、祭壇の前へと走っていった。王子に報告しに行ったのだろう。突然の式の中断に、聖堂の中はどよめきで包まれた。参列者たちがざわざわと騒ぎ、何が起きたのかを知ろうとして祭壇へと詰めかけた。
「いけない! 殿下たちをお守りしなくては――」
 ヴォルマルフには、騎士として王子と姫を守る義務がある。ヴォルマルフも参列者たちを押しのけて、祭壇へと急いだ。
 アンセルム王子が参列者に向かって何かを話しているが、人々のざわめきにかき消されてしまいヴォルマルフには全く聞こえなかった。参列者たちの断片的な話し声がヴォルマルフの頭上に降ってきた。「本当に亡くなったのか?」「戦死だそうだ」「結婚は取りやめだとか」「婚礼が葬式になるとは」「可哀想に」等々。
 亡くなった? 一体何が起きたというのだ。ヴォルマルフはぞっとする思いを抱えながら祭壇へと急いだ。
「王子殿下! イゾルデ姫様! ご無事ですか?」
「ヴォルマルフよ……」
 アンセルム王子とレディ・イゾルデは祭壇の前に立っていた。レディ・イゾルデはまだヴェールを被ったままであり、二人とも呆然とした様子であった。王子の側には伝奏官が控えており、式を執り行っていた司祭はすでに後ろに下がっていた。
「何事です? この騒ぎは……」
「たった今、オルダリーアの戦地から戦死の報告が入った」アンセルム王子の手には伝奏官から受け取った手紙が握られていた。
「まさか! 陛下が……」
「いや、亡くなったのはエッツェル城城主だ……」
「私のお父様が戦死したのよ」
 レディ・イゾルデがヴォルマルフに言った。無表情で低い声だった。
 なんということだ!
「それは、あまりにも突然――お悔やみ申し上げます――し、しかし……何故、式が中止になったのです……?」
 ヴォルマルフはアンセルム王子とレディ・イゾルデの顔を交互に見た。王子は無表情で王からの手紙を持ったまま何も言わない。伝奏官も直立不動でその場を動かない。ただ参列者だけがざわざわと騒ぎ立てていた。
「この状況が分からない?」レディ・イゾルデがヴェールの下からきっとヴォルマルフをにらみつけた。「後見人のいない女と結婚する価値はない――あなたの王様はそう言っているのよ!」
 ヴォルマルフは、はっと息を飲んだ。
「やっとお分かりになって? この人たちはみんなで私を笑い者にしているのよ! 結婚式の途中で放り捨てられた哀れな花嫁のことを!」
 レディ・イゾルデは自らヴェールをむしり取り、もうこんなものは要らないと言うかのように床に投げ捨てた。そして、アンセルム王子が止めるより早く、その場から走り去っていった。祭壇に群がった人々は蜘蛛の子を散らすようにレディ・イゾルデの進む道をあけた。
「なんということだ……わが父上は彼女にとんでもない無礼を働いた……もはや取り返しもつくまい……」
 アンセルム王子は絶句していた。ヴォルマルフも言葉を失っていた。
 レディ・イゾルデは一度も振り返ることなく走り去っていった。けれど、ヴォルマルフは気づいてしまった。ヴェールを投げ捨てた時に、彼女の頬に一筋の涙の跡があったことを。あれは父親が戦死したから悲しんで泣いたのではない――侮辱に耐えかねて流した涙の跡だ。
 ヴォルマルフは無惨にも踏みにじられた花嫁のヴェールをそっと拾った。心が千切れそうだった。

  

  

  

>Chapter6

  

花嫁の決断:Chapter4

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*chapter4

     

  

     

  

 サー・バルバネスは巡回から戻ってきたが、ヴォルマルフがなくした天蝎宮の宝石は戻ってこなかった。予想はしていたことであったが、ヴォルマルフは肩を落としてため息をついた。レディ・イゾルデの手がヴォルマルフの肩にそっとふれた。「もうあきらめましょう」彼女の胸元にはルビーの薔薇が輝いている。レディ・イゾルデの言うとおり、もうあきらめるしかなさそうだった。深紅のクリスタルはもう二度とヴォルマルフの手元に戻ってこないだろう。真相はこのまま闇に葬るしかない。
「さあ、日が暮れる前にエッツェル城に帰りましょう」
 レディ・イゾルデの言葉にヴォルマルフは念を押した。「本当に、あなたは殿下の求婚をお受けするのですか?」
「もちろんよ。だいたい、私がサー・バルバネスと駆け落ちしたですって? 一体どなたがそんな事をおっしゃったの?」
 ヴォルマルフはレディ・イゾルデとサー・バルバネスが二人で逃げたのだと思っていた。だが実際は駆け落ちでも何でもなかった。レディ・イゾルデがイヴァリースに嫁ぐ前に母の財産を相続したかっただけらしい。だったら最初からそう言ってエッツェル城を離れてもらいたかった――とはいえ、彼女の母がゼラモニア王家の血を引いていることは誰にも秘密であったから、こうしてこっそりと城を抜け出してきたのだと今になってこそヴォルマルフは理解していたが、おかげでとんでもない取り越し苦労をしてしまった。しかも問題はまだ残っている。レディ・イゾルデはこの結婚を承諾したのだ。婚約を破談にしてこいと言ったアンセルム王子との約束がヴォルマルフの喉につかえていた。
「そんなに不安そうな顔をしなくても大丈夫よ。私は逃げたりしないわ」
 レディ・イゾルデはサー・バルバネスと一緒になって楽しそうに笑いながらブルゴント城から持ち帰る財宝をチョコボの背にくくりつけている。「これから婚約者に会うのが楽しみだわ」
 なんの屈託もなく笑うレディ・イゾルデの姿を見てヴォルマルフの胸に罪悪感がこみ上げてきた。これから花嫁を花婿のもとへ送り届ける。けれど、これから結婚にのぞむ花婿は父親にあてがわれた花嫁のことを快く思っていない。そんな場所に私はレディ・イゾルデを連れて行くのだ。王子はさすがにレディ・イゾルデを虐待することはないだろうが――けれど花嫁を待っているのは愛のない結婚生活だ! 
 ヴォルマルフはこのことをレディ・イゾルデにもっと早くに伝えるつもりでいた。けれども、ゼラモニアの古城の惨状を見たあとでは何も言えなくなった。彼女の祖国はオルダリーアからの独立を望んでいる。その独立を果たすにはイヴァリースとゼラモニアの同盟関係がどうしても必要だった。レディ・イゾルデは祖国の独立のためにこの結婚を選択したのだ。ヴォルマルフは彼女のその気高い決断に水を差すことがどうしても出来なかった。そして、どうやら自分は政治の駆け引きには向いていないということに気づいた。宮廷で暮らすには不自由な性格だ。だがこの心配ももうすぐ終わる。姫君を王子のもとへ無事に送り届けられたら自分は宮廷を辞して父の暮らす田舎へ帰ろうかと思った。王子の信頼を失ったままルザリアで生活することは出来ないのだから。
「ティンジェルの若殿、何か悩みでもあるのか? まるで終末を憂うような顔をしているではないか」
「サー・バルバネス!」
 ヴォルマルフはこれからのことを考えて眉間に皺を寄せていたが、サー・バルバネスに呼ばれてさっと顔を上げた。サー・バルバネスはすらりとした長身で、近くでみるとヴォルマルフより頭一つ大きかった。そしてブロンドの長髪を風にさらさらとなびかせている。なんて涼やかな美男子なんだろう。男の自分でさえうらやましいと思う背格好だった。私も髪を伸ばしてみようかとヴォルマルフは自分の栗毛をつまんでみた。髪を伸ばしたところで自分が天騎士になれるわけではないと分かっていたが……。しかも、サー・バルバネスは誰もがうらやむような華やかな容姿でありながら、イヴァリースで最高の称号を持つ騎士でもあるのだ。天は彼に二物を与えている。うらやましいかぎりだ!
「サー・バルバネス。日が暮れる前にお行きましょう」
 レディ・イゾルデのサー・バルバネスを見つめるうっとりとしたあの目! うらやましい! 二人はチョコボの鼻先を並べて楽しそうに話している。その光景を見て、ヴォルマルフは思わず嫉妬を感じた。
 いや待て、嫉妬だと? レディ・イゾルデは殿下の婚約者だぞ? 私は一体何を考えているのだ?
「サー・ヴォルマルフ! あなたも早くおいでなすって」
 自分でもわけのわからない混沌とした気持ちを抱えていたヴォルマルフをレディ・イゾルデが手招きした。そして悩めるヴォルマルフの心に追い打ちをかけた。
「帰りはサー・バルバネスが一緒だから、盗賊に襲われても安心ね」
 悪意など全くないレディ・イゾルデの純粋な一言――だからこそヴォルマルフは落ち込んだ。
 これでは、私には騎士としての威厳がまるでないではないか!
 ヴォルマルフの内心に立ちこめた暗雲のことなどつゆ知らずに、レディ・イゾルデとサー・バルバネスの二人は楽しげにおしゃべりを続けながらブルゴント城を出発した。ヴォルマルフはなんとなく二人の会話に入っていくのに気が引けたので、二人の後を静かについていった。
「――それで、ご子息様は今おいくつなのかしら」
「長男のダイスダーグは十三歳になりました。そろそろ士官学校に入れようと思っているところです。下の子はまだ四歳になったばかりで」
「ご子息様たちはあなたに似ていらっしゃる?」
「さあ、どうでしょう。ザルバッグは――下の子です――私と同じ金髪で容姿も似ていますが、性格は私の若い頃よりずっと真面目で神経質なのです。ダイスダーグは癇の強い子で父親である私でさえ手を焼いています。ああ、そういえばダイスダーグはルザリアの士官学校に入れるために王都の邸宅に呼び寄せたところです。もしかしたら、あなたもルザリアで会う機会があるかもしれません。是非その目でご覧ください――わが子のどこに父親の面影があるのかを」
「ルザリアにもお屋敷があるの?」
「ええ。宮殿に面した大通りに別邸があります。ベオルブの名前を出せばすぐ分かるでしょう。王都で困った時はいつでも訪ねてきてください。あなたならいつでも歓迎しますよ、レディ・イゾルデ。といっても、私が王都の屋敷に帰ることはめったにないのですが……」
「是非そうさせていただきますわ。私は、あなたもご存じの通りオルダリーアから戻ってきたばかりですから、イヴァリースの王都には誰も知り合いがいないんです。でもお友達の騎士さまのお屋敷が王都にあると分かって、とても心強いわ」
 レディ・イゾルデはサー・バルバネスのことを心の底から信頼しているようだった。ヴォルマルフは王都にある我が家のことを思った。我が家といってもただの狭い借家だ。ゼラモニアとイヴァリースの二つの王家の名前を継ぐ姫君を招待できるような家ではとてもない。天騎士のように、困った時はいつでも我が家にどうぞ――とは言えないのだった。
「サー・ヴォルマルフ、あなたは? ご家族は近くに暮らしてらっしゃるの?」
 レディ・イゾルデは振り向いてヴォルマルフを呼んだ。チョコボの手綱を片手で持ちながらヴォルマルフを手招きしている。「もっと近くへいらっしゃって。一緒にお話ししましょう」
 ヴォルマルフは心持ち前に進み出た。王子の婚約者に対して、話すのに適切な距離を保ちながら。
「私は地方貴族の出ですので、家族は田舎で暮らしております。それに、都に邸宅を設けるほど裕福な家ではありませんので……」
「あら! でも、ずいぶん立派なお召し物を着ていらっしゃるわ」
「これは殿下からいただいたのです。姫君をお迎えにあがるのにボロ着ではまずかろうということで」
「そうだったのね。私はてっきり、すごいお屋敷の若旦那様がいらっしゃったのかと思ったわ――だって毛皮のコートなんて着ていらっしゃるから」
 若旦那様だと! ヴォルマルフはそんな言葉とは無縁の生活を送っていた。そういえば、エッツェル城に来た時、ゼルテニアのオルランドゥ伯爵とすれ違った。あの時、伯爵は何人もの従者をしたがえていた。伯爵家のお屋敷では一体どれほどの使用人が働いているのだろう。一方、ヴォルマルフはたった一人の見習い騎士を従えるだけの慎ましやかな生活を送っている。ヴォルマルフからすると、レディ・イゾルデもサー・バルバネスもまるで手の届かない存在だった。
「他にご家族は――奥様はいらっしゃらないの?」
「妻ですって? 私はまだ二十二ですよ! 結婚とはほど遠い生活を送っております」
「私も二十三だけれど、もうすぐ夫ができるわ」
「そうだ。レディ・イゾルデの言うとおりだ、若殿よ。私が貴殿の年齢の頃はもうすでに父親だった」レディ・イゾルデと一緒になってサー・バルバネスは言った。「私に年頃の娘がいれば貴殿に紹介できたのだが……あいにく私は息子ばかり作ってしまって、我が家には嫁がせる娘がいないのだ」
「天騎士様! ご冗談を! どんな間違いが起きても、ベオルブ家のご令嬢にティンジェルの名を継がせるわけにはいきません。むしろ私がベオルブの名前を継ぎたいくらいなのです」

  

  

 どうやらレディ・イゾルデの父親は相当な領地を所有しているらしい。彼女の輿入れのために付けられた持参金の多さにヴォルマルフは驚いた。王がこの縁談を取り付けた理由もそのあたりにあるのだろう。
 ヴォルマルフは彼の従者と一緒にレディ・イゾルデの乗る羽車を準備していた。
「こんなに豪華な車に乗っていくレディ・イゾルデはどんな方なんですか? 数え切れないほどの財産をお持ちになって、まるでお姫様のような方ですね」キンバリー少年が尋ねた。
「そうだ。彼女は気位も、財産も、血筋も何をとっても尊い姫君だ。レディ・イゾルデこそ真正のお姫様だ」
「僕はそんな高貴な身分のお方とは話したことがありません……どうやってお話しすればよいのですか?」
「困ったことに、それが私にも分からないのだ」
 ブルゴント城から戻ってきた時、すでにヴォルマルフは疲労困憊の状態だった。姫君の相手をするのがこんなに大変だとは全く知らなかった。
「でもご主人様はいつも殿下とお話ししていらっしゃるのに。王子様のお相手ができるのなら、お姫様のお相手も同じ様にできるのでは?」
「同じだったらどんなに楽だろう! だがレディ・イゾルデと話すのは殿下のお相手をするのとはまた違った気苦労がある」
 特にレディ・イゾルデのような姫君と話すには――ヴォルマルフはレディ・イゾルデに会う前、彼女のことを戦争に翻弄されたひどくあわれな姫君だと思っていた。しかし、実際はどうだろう。彼女は底抜けに明るく、自由奔放な姫君だった。彼女の気ままな振る舞いを見ていると、ヴォルマルフは時として彼女が歩んできた過酷な人生を忘れてしまう。
「サー・ヴォルマルフ! もう準備はできたのかしら?」
 胸壁の上から当の姫君――レディ・イゾルデが手を振った。赤紫色のビロードのドレスが風に翻った。「私も準備は出来てよ。今そちらに行くわ」
 レディ・イゾルデはすぐにヴォルマルフらのもとへ駆け下りてきた。
「お母様にお別れを言ってきたの」
「それは名残惜しいでしょう……これでブルゴント城も見納めですね」
「いいえ、全然! それよりも早くルザリアに行って王子様に会いたいわ」彼女は明るく笑い飛ばした。
「それでは、車の用意が出来ていますので……」ヴォルマルフはレディ・イゾルデをチョコボに引かせた羽車のもとへ案内した。
「車? どなたの?」
「あなたのですよ、レディ・イゾルデ」
 レディ・イゾルデはきょとんとした顔をした。「あら、私もチョコボに乗っていくわ」
「姫! ここからルザリアまでは二、三日で着く距離ではありません。かなりの長旅になるでしょう。ですから――」
 チョコボにまたがって輿入れする花嫁など聞いたこともない。ヴォルマルフはレディ・イゾルデの素っ頓狂な気まぐれをなんとか思いとどまらせようとした。
「大丈夫よ。そんなこともあろうかと思ってドレスの下に乗羽服を着ておいたの!」
 レディ・イゾルデはさっとドレスの裾をたくしあげた。「あ、これはお母様には内緒にしておいてね」
 レディ・イゾルデはヴォルマルフの驚きも意に介さず、誰の手も借りず一人でチョコボの背に飛び乗った。「乗羽は得意なのよ」
「レディ・イゾルデ……あなたオルダリーアで長く暮らしていらっしゃったと聞きます。ブラの宮廷で一体どんな生活をしていたのですか?」
「ああ、それ! 母にも同じことを言われたわ」
 なんという破天荒な姫君だ! しかもこの姫君があのおとなしいアンセルム王子の花嫁なのだ。ヴォルマルフは驚きのあまり開いた口がふさがらなかった。私は、果たして、こんなお転婆姫様を王子の婚約者として王都まで連れ帰ってよいのだろうか……ヴォルマルフは不安になってきた。これではおとなしい殿下のことを軽々と尻に敷きかねない。
「さっそく手を焼いているようだな、若殿」
「天騎士様!」
 どう事態をおさめるものかとヴォルマルフが右往左往していると、彼に声を掛けた者があった。サー・バルバネスだった。サー・バルバネスはオルダリーアに向けて出発したデナムンダ王と合流して前線に立つらしく、甲冑をつけて戦装束を着ていた。
「サー・バルバネス。私にはあのお姫様をどう扱ったらよいのか、さっぱり分かりません」
「ふむ。私も初めて彼女に会ったときは驚いたのだ。なにせ、彼女は城の武器庫で剣を持って敵兵を撃退しようとしていた」
「剣ですって!」
 ただでさえ、どうやって姫君の相手をすればよいのか分からずに四苦八苦しているというのに、剣を持って戦う姫君の扱い方などヴォルマルフにはお手上げだ。そして、ルザリアに着くまでの道中は、レディ・イゾルデの言うことをおとなしく聞くほかないと観念した。

  

  

「このグレン山脈を越えれば王都は目前です――このあたり一帯はファルメリアと呼ばれていて炭鉱脈が広がっています」
「山を登っていくの?」
「いいえ、麓には炭鉱都市がいくつかあり街道も整備されていますから、そこまで険しい道のりにはならないでしょう」
「そうなの。ルザリアは山脈に囲まれた場所にあるのね」
「ええ、わがイヴァリースの王都は三方を山に囲まれていて、要塞としても十分な機能を備えています。万が一、オルダリーアと全面戦争になっても、王都が落とされることはまずないでしょう。といってもルザリアは山にばかり囲まれた街ではありません。王都の北には広大な穀倉地帯が広がっておりまして、そちらに行けばもっと風光明媚な光景が見られます」
 ゼラモニアを出発してからちょうど十二日が経過した。ゼラモニアからランベリー領を経由してルザリア領に入ると、サー・ヴォルマルフが辺りの地形を細々と説明してくれるようになった。イゾルデは熱心に語るサー・ヴォルマルフの言葉に耳を傾けていた。これから自分が暮らすことになる街なのだから、知っておかなければならないことはたくさんある。
「ルザリアの中心部にある大宮殿は、アトカーシャ王朝初代国王であるデナムンダ王が建造したものです。その王宮が今も使われているのです」
「デナムンダ王?」
「今の国王陛下のお父様にあたる方です。小国に分裂していたイヴァリースを統一し、新たな王朝を開いた偉大な国王でした。私はその人柄については詳しく知りませんが、陛下にそっくりの激しい気性の方だったと聞いています。今の国王陛下――デナムンダ王も数多の戦争で功績を上げ<戦大王>とまで呼ばれるようになった荒ぶる戦士のような方です。レディの前でこのような話をするのもはばかれますが――陛下は私生活もひどく奔放なお方で、アンセルム王子の他にも庶子が数え切れないほどいるのです」
「それでは、私の夫となる方――王子殿下はお父様やお祖父様に似ていらっしゃる? やっぱり荒っぽいお方なのかしら」
「いいえ、アンセルム殿下は何より争い事を嫌う物静かなお方です。あなたとは真逆のおとなしい方です」
「あら! それは私に対する嫌みかしら? 私が騒々しいじゃじゃ馬だとでも言いたげね」
「い、いえ……決してそのような意味では……」
 あわてふためくサー・ヴォルマルフの姿を見てイゾルデはくすりと笑った。本当に不器用な方だこと。彼を見ているとついからかいたくなってしまう。「冗談よ。あなたのような真面目で誠実な騎士さまがお仕えする主君ですもの、きっとお優しい方に違いないわ」
「ええ、間違いなく殿下はお優しい方です――この国の誰よりも。あなたに手を上げるようなことは決してありません。この件に関しては私の命を掛けてでも保証します」
「王子殿下のことを尊敬していらっしゃるのね」
 サー・ヴォルマルフは王子のことを心から愛しているのだわ。自分の仕える主君について深々と語るサー・ヴォルマルフの言葉がイゾルデの耳には心地よかった。深い信頼関係が感じられる。この人が話す言葉をずっと聞いていたい。
「私はお優しい殿下にお仕えすることができて幸せです。けれど……殿下は美しい音楽と詩を愛するお方。剣を持つ私はいつまでたっても功績を上げることができません」
 サー・ヴォルマルフは苦虫を噛み潰したような顔で言った。
「功績って?」
「私も騎士ですから……やはり戦いの場で名声を上げたいと思うのです」
「あなたが戦場で雄叫びを上げながら剣を振り回すの? うふふ……」
 そんな姿、想像もできない! イゾルデは想像してみた――この若い騎士が戦場で血みどろになって敵の首をはねる姿を。ああ、なんて似合わないことだろう。あなたには典雅で穏やかな宮廷の生活の方が似合っていてよ、なんて言ったら彼は気を悪くするだろうか。
「レディ・イゾルデ! あなたが笑う気持ちは分かります――分かりますが、私も一人の男で騎士なのです! 私だってサー・バルバネス・ベオルブのように天騎士と呼ばれ自分の騎士団を率いて戦いたい――そんな途方もない夢があるのです」
「それは素敵な夢ね」
「ですが、騎士団を持てるのはベオルブ家のような武家の棟梁か伯爵家のような上級貴族の血筋に限られています。私のような下級貴族が叶えられる夢ではありません。努力をすれば誰でも将軍になれるわけではないのです」
「他に道はないの? 騎士団を率いている方はみんな偉い貴族なの?」
「身分の低い者に騎士団が与えられることもありますが、それ特例中の特例でめったにありません。それか、世俗の栄誉を捨てて修道騎士団に入るとか。あそこは貴族の序列が存在しない特別な組織ですから――といっても私に神への奉仕を誓えるほどの忠誠心はありませんが……」
「つまり、あなたはとても大きな夢を抱いているということね」
 世の中には称号や役職を買うために大金をはたく人もいるとイゾルデは聞いていた。けれども、もしそんなお金があったとしてもサー・ヴォルマルフはそんな馬鹿げた真似はしないだろう。きっと真面目に、こつこつと努力していくのだろう――叶うかどうかも分からない夢のために。サー・ヴォルマルフのような方の夢こそ叶うべきだわ。
「いつか私ががあなたのことを騎士団長様と呼べる日がくることを願っているわ――心から」

  

  

 ゼラモニアからルザリアへの長い旅に終わりが近づいてきたある日のこと――日が暮れる前に一行は近くの街で宿をとることにした。
「ここはどこ?」
「ファルメリア高地の山岳都市ゴルランドです。ここは王都ルザリアと南方の貿易都市ドーターを結ぶ交易路のちょうど真ん中にある街です。炭鉱の山岳都市とはいえ、この地方ではかなり大きな宿場町ですのでいい宿屋があるはずです。姫君を粗末な宿に泊めるわけにはいきませんから――ご安心ください、レディ・イゾルデ」
「私は別に木賃宿だっていいのよ。それに実は私、王子様のベッドで寝る前に、一度洞窟や森の中で野宿の体験をしてみたいと思っていたの。お宿がなければ野宿でもいいわ」
「レディ・イゾルデ! 物騒なことを言い出すのはやめてください! 殿下の花嫁を屋根もない場所で野宿させるなど言語道断です! そんなことは絶対にさせません――騎士の名にかけて!」
 サー・ヴォルマルフは真面目な顔でイゾルデに苦言を呈した。そしてその言葉の通り、イゾルデを立派な宿に案内した。そこは屋根の下に破風窓がいくつも並んでいる木骨煉瓦造りのしっかりした建物で、入り口には大きな看板が下がっていた。「いいお宿を知っているのね」
 部屋に案内されてすぐに、サー・ヴォルマルフの従者の少年が手桶に汲んだ水と火を持ってきてくれた。
「ありがとう。助かるわ。坊や、あなたのお名前は?」
「キンバリーと申します、お姫様」
 暖炉に火をおこして部屋を暖めてくれたキンバリー少年の手にイゾルデは小さな金貨を一つ握らせた。
「この辺りは随分と寒い場所なのね。ありがとう、キンバリー。いい子ね。あなたのおかげで私は今夜ベッドの上で凍死しなくてすみそうよ」
「お姫様……どうも、あ、ありがとうございます。ここゴルランドでは北の氷海から吹き付ける冷たい風が、ファルメリアの山脈にぶつかって年がら年中雪を降らせているのだとご主人様がおっしゃっていました」
「そう。雪ね……聞いただけで凍えそうだわ!」
「お夜食をお持ちしましょうか?」
「そうね。二人分の夕食をお願いできるかしら。私と、あなたのご主人様の分よ」
「では下で準備してきます」
「急がなくていいのよ――階段で転ばないようにね」
 走って部屋を出て行くキンバリー少年にイゾルデは声を掛けた。戻ってきたらお駄賃としてもう一枚金貨を握らせてあげようと思いながら。
 キンバリー少年が出て行くのと同時に、サー・ヴォルマルフが戻ってきた。「お部屋は満足いただけましたか? レディ・イゾルデ」
「ええ、おかげさまで。それで、あなたのお部屋は?」
「え?」
「あなたは今夜どこで寝るの?」
「私は……あなたの護衛の任務がありますので」
「私の部屋の前で寝ずの番でもするつもり? だめよ。こんないいお宿なんですもの。忍び込んでくる不審な連中はいないわよ。だからあなたもベッドで寝てちょうだい」
「私の任務はあなたを無事にルザリアまでお連れすることです。万一のことがあったら大変です。私は騎士です。ですから、どうかそのつとめを果たさせてください」
「こんなにいい宿に泊まってわざわざ床の上で足を組んで坐って夜を明かすなんて、あなたはお坊さんにでもなって清貧の誓いでも立てるの?」イゾルデは呆れて言った。
 まったく! 頑固な人ね! この人ったらてこでも動かないつもりだわ。長旅で疲れているだろうから、サー・ヴォルマルフには無理をさせずにゆっくり休んでもらいたかった。
「あなたの仕える王子様は自分の騎士に床で寝ずの番をしろと命じたの?」
「いいえ、殿下はそのようなことは……というのも、実は、あなたをルザリアにお迎えするよう私に命じたのも、殿下ではなく陛下なのです。この縁談に殿下は関わっておりません。殿下はむしろ――あなたを…………して欲しいと………」
 サー・ヴォルマルフがぼそぼそと何かをつぶやいている。イゾルデは彼の言葉の語尾がよく聞き取れなかった。サー・ヴォルマルフは何を言っているの? 王子様から私への伝言が何かあるのかしら? でも今はそんなことはどうでもいいわ。サー・ヴォルマルフをベッドに放り込みにいかなくては。
「つまり、私をルザリアに連れてこいと言ったのは王様なのね。だったらあなたがふかふかのベッドで熟睡していても王子様の命令には全く違反しないわ! それに私は王子様の妻になるのよ。あなたの主君の妻なのよ! だからあなたは私の命令を聞くべきだわ。今、隣の部屋を借りてくるわ。それまであなたはそこで座って待っていてちょうだい――これは命令よ」
 イゾルデは財布を取り出した。もう一つ部屋を借りるにはいくら必要なのだろう。宿屋に泊まるという経験が初めてだったので、イゾルデには相場がさっぱり分からなかった。けれど、金貨を何枚か出せば交渉には応じてくれるだろう。
「いけません! 高貴な姫君が下の階の連中の間に入ってお金の交渉をするなんて!」
「いいから黙ってそこにお座りになって!」
 イゾルデはごねるサー・ヴォルマルフを有無を言わせずに座らせると、急いで部屋を出て後ろ手に扉を閉めた。
 酒場と食事処を兼ねている階下に降りると、あたりはにぎやかな喧噪に包まれていた。宿屋の主人はどこにいるのかとイゾルデは目を凝らした。けれど宿屋の主人を見つけるより先にキンバリー少年の姿を見つけた。両手に木製のお盆を持っている。パンとチーズと焼いた鶏肉が乗ってる。
「お姫様! お部屋からお出でになるほどおなかがすいていらっしゃったのですか?」
「いいえ違くてよ! 大丈夫よ、あなたの仕事が遅いと食事の催促に来たわけではないから安心して」イゾルデはキンバリー少年の手から夕食のお盆を受け取ると、かわりに金貨がぎっしりとつまった財布を渡した。「ねえ、坊や。ここの主人を探してもう一部屋借りてきてくれるかしら? あなたのうっかり者のご主人様が自分の部屋を用意してくるのを忘れたらしいの」
 キンバリー少年は受け取った財布の重さに驚いている様子だった。「お金はいくら使ってもいいわよ」イゾルデは付け足した。キンバリー少年はうなずくと、すぐに宿屋の主人と思わしき恰幅の良い男のもとへと走って行った。「マスター! お姫様のためにもう一部屋貸してほしいんだ」
 キンバリー少年が手際よく交渉してるのを見て、イゾルデは食事を持って自分の部屋へ戻った。そっと扉を押し開けた。中は静かだった。
「サー・ヴォルマルフ? お夜食を持ってきたわ。一緒に食べましょう――あらあら」
 部屋の中の光景を見てイゾルデはお盆を持ったままその場に立ち止まった。サー・ヴォルマルフが暖炉の側の椅子に座ったままうたた寝をして舟を漕いでいる。きっと暖炉の暖かさが誘う心地よい睡魔に勝てなかったのだろう。イゾルデは音をさせないようにそっと静かにお盆を机の上に乗せた。忍び足でベッドまで近づくと掛け布団を一枚はがし、サー・ヴォルマルフの背にそっと乗せた――彼を起こさないように細心の注意を払いながら。できれば彼をそのままベッドの上にうつしたかったが、いい年をした殿方を一人で抱え上げるのはさすがのイゾルデにも無理だった。
「お姫様! お部屋が用意でき――」
 キンバリー少年がばたばたと部屋に駆け込んできた。イゾルデはあわてて人差し指を唇に当てた。
「お静かに――ご主人様をこのまま寝かせてあげて。私が隣の部屋へ行くわ。ああ、お財布は私の荷物の中にあとで入れておいてくださる? でも、その前に金貨を一枚持って行くのを忘れずにね――お駄賃よ」
 やっぱりもう一部屋借りておいて正解だったわ。サー・ヴォルマルフがこうやって外の床で居眠りをしてしまって、そのまま誰かに踏みつけられでもしたら大変だわ。
「うっかりさん、おやすみなさい。よい夢を」イゾルデは彼の耳元でそっとささやいた。

  

  

 街の中心にある大宮殿に近づくにつれ、花嫁を連れたヴォルマルフの足取りは重くなっていった。これからレディ・イゾルデと一緒にアンセルム王子に謁見しに行くのかと思うとヴォルマルフは憂鬱になった。父親が決めた望まぬ政略結婚。王子はきっと悲しい顔をすることだろう。主君の望みを叶えることができないのは、臣下として何よりふがいない。
「これがルザリアの王宮? すごい……こんなに立派な宮殿は見たことないわ。オルダリーアの王宮よりずっと広くて素敵」
「これから先、アンセルム王子が戴冠さなれば、この宮殿はあなたのものです。あなたが王妃としてこのルザリアを統治するのです」
「私が王妃様と呼ばれる日がくるなんて……なんだか背筋がぞくぞくしてきたわ。足がすくんで動けなくなりそう」
「でしたら、もう少しの間、そのままお行儀よくしていただけると。では――殿下のもとへご案内いたします」
 ヴォルマルフはレディ・イゾルデの先に立って歩いた。王宮の中は似たような部屋がいくつも並び、回廊と側廊が複雑に入り組んでいたが、ヴォルマルフは迷うことなく慣れた足取りでレディ・イゾルデを先導していった。目指す場所は王子のプライベートな私室だ。ヴォルマルフが、レディ・イゾルデをつれてルザリアに到着したことを知らせると王子は自分の私室でごくごく内密に姫と会いたいとヴォルマルフに申しつけた。まだ城内の者にさえ公表していない縁談であるから、誰かに見つかって騒がれることなく静かに婚約者と話がしたいということなのだろう。ヴォルマルフは王子のプライベートな居住空間に立ち入ることを許されていた。城の衛兵たちも、ヴォルマルフの顔を見ると何も言わずにその場を通した。
「サー・ヴォルマルフ! あなたって随分と信頼されているのね。衛兵たちとも顔見知り?」レディ・イゾルデが感心した様子でヴォルマルフに言った。
「ええ、まあ、ここで十年以上は暮らしておりますので……城の者とはだいたい顔見知りです」
「宮廷暮らしが長くても王の部屋に呼ばれない人はたくさんいるわ。あなたは特別なのね」
 ヴォルマルフは曖昧にうなずいた。ヴォルマルフは王子の寵愛を得るために特別に働いたわけでもなく、彼はただの王家に仕える一廷臣にすぎなかった。レディ・イゾルデに感心されるようなことは何一つしていない。
 ヴォルマルフは扉越しに王子に話しかけた。「王子殿下! ヴォルマルフ・ティンジェルはただいまゼラモニアより帰還いたしました。ご拝謁賜りたく存じます」
「おお、ヴォルマルフよ! そなたの帰りを待っていたぞ。扉は開いている。入ってまいれ」
「では、レディ・イゾルデ。先に失礼致します。しばしお待ちください――」レディ・イゾルデにそう言ってからヴォルマルフは王子の部屋にしずしずと入っていった。
「ヴォルマルフよ。長旅ご苦労であった。子細は使いの者から聞いた。ゼラモニアの姫君と――私の妻と一緒だそうだな」
「ええ……殿下のご命令に背くことになってしまい、大変心苦しく思っております……」
 アンセルム王子は椅子に座って机に向かっていた。机の上には高級ベラム革の装飾本が開かれたままになっている。読書中だったのだろう。うつむきがちに話す王子の顔にはどこか翳りがあるように感じられた。ヴォルマルフは胃がしめつけられるようだった。「申し訳ありません。殿下のご命令に背いた私にどうか相応の処罰をお与えください」
「いや、構わない」王子は首を横に振った。「この縁談は父が決めたことだ。国王の命令に誰が背けようか? それは王子である私でさえ不可能だ――私はそなたに最初から実行不可能な命令を下したのだ。どうか気に病むな」
「殿下の寛大なお心づかいに感謝いたします」ヴォルマルフは深々と頭を下げた。「こんなことを申すのも、言い訳がましくて情けないのですが……初めは、私も殿下のお心に添うつもりでした――イゾルデ姫と会うまでは。姫もこの縁談を望んでいないのならば、私は国王陛下の怒りを承知で、この婚約を破談に持ち込もうと心に決めたのです。けれど、姫は――レディ・イゾルデは殿下との結婚を望んでいたのです。祖国の独立のために、ゼラモニアとイヴァリースの婚約を望んだのです。私は、レディ・イゾルデのその尊い決断に反対することができませんでした。ですから、こうして――」
「もうよい」
 アンセルム王子はヴォルマルフの言葉に口を挟んだ。「そなたなら、そう言うと思っていた。だから私はそなたに護衛を頼んだのだ」
「殿下? それはどういう意味でしょうか……」
「私は、貴殿こそが私の花嫁に最も誠実に振る舞ってくれる騎士だと思ったから、この任務を命じたのだ――さあ、ヴォルマルフよ。私の花嫁に会わせておくれ」
 ヴォルマルフの胸にあついものがこみ上げてきた。まさか、殿下にこのようにほめていただけるとは。「き、恐悦至極に存じます……」ヴォルマルフは再びアンセルム王子に頭を下げると――今度は感謝の意味で――急いでレディ・イゾルデを迎えにいった。レディ・イゾルデは早く王子様に会いたくてしょうがない、といった様子でそわそわとしていた。「姫、落ち着いてください」
「だって、どんなお方なのか気になってしょうがないのよ――あら!」
 レディ・イゾルデは王子の部屋に入った瞬間、驚きの声をあげた。そしてヴォルマルフにだけ聞こえるようにそっとささやいた。「なんて素敵な方! 彫りが深くて、色白で、まるで絵画の中かた出てきた人みたい! それに……なんて美しい巻き髪なのかしら! エッツェル城でイヴァリースの国王様はお見かけしたけれど、王子様は陛下よりずっと気品ある方だわ」
 主君のことを褒めてもらえるのは心地よいことだった。レディ・イゾルデの言葉に、ヴォルマルフは我が事のように喜んだ。
「わがルザリアへようこそ。イゾルデ姫」
 アンセルム王子は椅子から立ちあがってレディ・イゾルデを迎えた。レディ・イゾルデは王子にお辞儀をしてから、再びヴォルマルフにささやいた。「こんな立派なお方の隣に立つなんて、なんだか気後れしちゃいそうだわ」
「大丈夫ですよ。たしかに殿下はおきれいな方です。けれど、あなたはもっと美しい――誰にもまして美しい姫君でいらっしゃいますから」
「あら、お世辞をどうも」
「いいえ、今の言葉は私の本心です。飾らぬ私の胸のうちです」
 レディ・イゾルデはふっと微笑んだ。「優しい騎士さん、ありがとう。でも私の夫の前でそんなことを言ったら誤解されるわ」
 王子はレディ・イゾルデに手を差し出した。「イゾルデ姫、お会いできて光栄です」
 二人が手を取り合う姿を見て、ヴォルマルフはやっと自分の任務が終わったのだと感じた。花嫁と花婿は無事に対面した。じきに婚約が発表され、二人は夫婦として結ばれる。自分も王子の不信を買って暇を出されることもなさそうだった。これで、万事が全て丸くおさまったのだ――
「では、私はこれにて下がらせていただきます」
 ヴォルマルフが退出を申し出ると、王子はおだやかな声で引き留めた。「少し待つのだ。ヴォルマルフ」そう言ってから、自分の手にはめていた指輪を抜き取ってヴォルマルフに差し出した。
「長旅ご苦労であった。これは私からのささやかなねぎらいだ。受け取りなさい」
 ヴォルマルフが手渡されたのは大振りの赤い宝石がついた指輪だった。王族が身につける高級品だ。
「いいえ、このような高貴な品はとても受け取れません!」ヴォルマルフは慌てて固辞した。
 深紅にきらめく赤の宝石――それは奇しくもレディ・イゾルデの胸元で輝く赤の薔薇のブローチと同じルビーだった。
「サー・ヴォルマルフ。私からもお礼を申し上げます――ルザリアまで送ってくださってありがとうございました。あなたのおかげで楽しい旅になりましたわ。ですから、どうぞ受け取ってください。殿下のおこころざしです」
「それでは……ありがたく拝受致します」
 レディ・イゾルデからそう言われてしまい、ヴォルマルフは指輪を貰わざるを得なかった。ヴォルマルフは王子から渋々と指輪を受け取った。これを見る度にゼラモニアの古城での一件を思い出して苦々しい気持ちになりそうだった。王家の宝石をなくしておきながら、褒美に王子の指輪を頂戴するとはなんという皮肉だ!
「また近いうちにお会いしましょうね、サー・ヴォルマルフ」
 レディ・イゾルデは明るい笑顔でヴォルマルフにひらひらと手を振った。ヴォルマルフは王子に仕える騎士なのだから、彼女の言った通りまた会う機会は少なからずあるだろう。だが、その時は彼女はもうただのレディではない――王子妃なのだ。万事が全て丸くおさまった――はずなのに何故かヴォルマルフの心は晴れなかった。長い間一緒に旅をしてきた姫君が自分のもとから離れていってしまった。そう、ヴォルマルフはそれが寂しかったのだ。しかし、彼女が王子の婚約者であることは最初から分かっていたことではないか。何を今更――
 ヴォルマルフはルビーの指輪を片手でもてあそびながら、物寂しい気持ちで帰路についた。今になって長旅の疲れがどっと吹き出してきた――早く家に帰って寝よう、と思いながら。

  

  

  

>Chapter5

  

花嫁の決断:Chapter3

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*chapter3

     

  

     

  

 レディ・イゾルデがサー・バルバネスと一緒に向かったらしい場所はすぐに分かった。エッツェル城の羽番たちが行き先を聞いていた。彼らの話によると城の近くの森を抜けた先に今は廃墟になっている古城があり、どうやら二人はそこを目指したようであった。羽番たちは皆口を揃えて「ああ、あの古城に……」と神妙な顔で話した。何か不吉ないわれでもあるのだろうかとヴォルマルフは不安になった。ただでさえ面倒な事態を抱えているのだから、これ以上のもめ事に巻き込まれるのは勘弁してもらいたかった。エッツェル城に自分の従者を留守番代わりに残すと、ヴォルマルフは森の中の古城を目指してチョコボを駆けさせた――数分おきに神に祈りながら。
 ヴォルマルフは鬱蒼と茂る森の中を全力疾走しながら、これから会いに行くレディ・イゾルデのことを思った。彼女の境遇は実に波乱に満ちたものであった。ゼラモニアの由緒ある家に生まれた姫君であるにもかかわらず、祖国で暮らすこともできず宗主国のオルダリーアに捕らわれ、<人質>生活を余儀なく押しつけられていた。そしてゼラモニアとオルダリーアの間でとうとう戦争が起き、命からがらにゼラモニアへ逃げ帰ってきたかと思えば、勝手に望まぬ結婚を押しつけられる。レディ・イゾルデの結婚相手はアンセルム・デナムンダ・アトカーシャ――いずれイヴァリースの国王となる人物である。しかもアンセルム王子は初婚ではない。姫より一回りも年上の王子のもとへレディ・イゾルデは嫁ぐのである。王家に入れば自由など全くないだろう。つまり、彼女が自由の身でいられる時は昔もこれからも全くないのだ。なんと哀れな人生なのだろう! それが貴族の家に生まれた娘の宿命とはいえ、彼女のあまりの不自由な人生を思い、ヴォルマルフは心を痛めた。
 そして、ヴォルマルフは一人静かに決意をした――自分はレディ・イゾルデの駆け落ちを応援しようと。彼女が束縛の人生から逃れようとサー・バルバネスと一緒に城を抜け出したのなら、ヴォルマルフはそれを黙って見届けるつもりだった。もともと婚約破棄はアンセルム王子も望んでいたことだ。しかし姫が王家から逃げ出したとなれば、自らが取り決めた婚約が破談なるのだから国王は怒り狂うことだろう。そしてレディ・イゾルデの駆け落ちを見過ごしたヴォルマルフも相応の処罰を食らうことだろう。生きてルザリアの宮廷から帰れないかもしれない。しかし――構うものか。ヴォルマルフは騎士に叙されたときに淑女に礼節を尽くすという誓いを立てたのだ。騎士ならば騎士としてのつとめを果たすまでだ。

  

  

「ここは昔、ブルゴント城と呼ばれておりました」
 イゾルデはサー・バルバネスの手を引いて城の中を案内した。今は誰も住んでいない、森の中にある朽ち果てた古城である。二人は城門を抜け、中庭を通り過ぎていった。
「ブルゴント? ふむ……どこかで聞いたことがあるような気がします」
「ブルゴントはゼラモニアの昔の王都の名前です――オルダリーアに併合される前、この城ではゼラモニアの王族たちが暮らしていました」
 イゾルデはサー・バルバネスを連れて廃墟となったブルゴント城を歩いていた。城の中に入り、大広間の階段を上がると、そこには儀礼の際に使われていた一室があった。家財道具は全て持ち去られ、往事を偲ぶものは何もないが、当時、ここでは種々の祭事が執り行われていたはずだ。イゾルデは城の石壁にそっと手をあてた。
 ゼラモニアがオルダリーアに併合されたのはイゾルデが生まれるよりずっと前――およそ百年ほど前の出来事である。イゾルデは祖国の歴史についていくつかの出来事を伝え聞いていた。百年前、オルダリーアによる一方的な併合にゼラモニアは激しい抵抗をし、このブルゴント城ではおびただしい血が流されたと、イゾルデは祖国の悲劇の歴史について聞かされていた。
「レディ・イゾルデ。その昔、オルダリーアとゼラモニアの間で壮絶な戦いがあったと聞きます」
「ええ、そうでした。私の祖父のそのまた祖父の……ずっと前の時代のことです。でも結局、私の祖国はオルダリーアには勝てませんでした。その結果、ゼラモニアの王家の血筋も途絶えました」
 この廃墟となったこのブルゴント城を見れば、当時のゼラモニアとオルダリーアの間でどんな戦いが繰り広げられたのかを察することができる。ブルゴント城には生活のためのものはもう何も残されていなかった。城下町もろとも焼き払われ、略奪され尽くされたのである。わずかな領土とわずかな領民しか持たない小国ゼラモニアは隣国の大国ゼラモニアに蹂躙されるがままだった。しかし、ゼラモニアが併合された後もゼラモニア国民は抵抗を続け小規模な反乱は続いた。オルダリーアはこの反乱を鎮圧すべく画策し、ゼラモニアの貴族の妻子らをブラに<人質>として呼び寄せたのだった。イゾルデがゼラモニアで生まれてすぐにブラに預けられたのも、この因習のためだった。けれども、戦乱の傷跡が生々しい祖父や父の時代ならまだしも、イゾルデの時代には両国の間に表だった戦争はもはやなく、すっかり平和になっていた。イゾルデはブラの宮廷で、楽しく優雅な生活を送っていた。
「ほんの百年前まで、ここに都があったなんて……」
 イゾルデは朽ち果てたかつての王城の姿を見て、祖国の栄枯盛衰を感じた。今ならなぜ父が私をイヴァリースに嫁がせようとしたのか分かる気がする。小国であるゼラモニアがオルダリーアに立ち向かうのは不可能だ。でも、もう一つの隣国イヴァリースの力を借りれば、祖国の独立は果たせるかもしれない。祖国の独立、それは父だけではなく、ゼラモニアの民全体の悲願でもあるのだ。だとしたら、私がなすべきことはただ一つ。祖国のために、父の望む結婚をするのだ。
「レディ・イゾルデ、大丈夫ですか?」
「え、ええ……このお城に来たら、なんだか感傷的な気分になってしまいましたわ。私、自分の祖国がこんなに悲惨な目にあっていたなんて、こうやって自分の目で見るまで知りませんでしたわ。ブラではとても楽しい暮らしを送っていましたから」
「おそらく、それがオルダリーアの狙いだったのでしょう。戦争の記憶を薄れさせ、独立運動の士気を下げさせるための」
「だとしたら私はまんまとオルダリーアの思惑にはまっていたのですね……」
 母が「おまえの人生はおまえだけのものではない」と言っていたことをイゾルデは思い出した。まさに母の言う通りだった。
「サー・バルバネス、今日は私と一緒に来てくださってありがとうございます。私は、イヴァリースに嫁ぐ前にどうしても自分の祖国の旧都を見ておきたかったのです」
「嫁ぐ? あなたはご結婚されるのですか」
 サー・バルバネスは少し驚いた様子だった。
「ええ、でも、私はまだ夫の名前すら知らないんです。貴族の結婚にはよくある事だと聞きますけど。私の未来の夫はあなたにように親切な方だと良いのですけど……」
 イゾルデはほほえんでサー・バルバネスに言った。
「実のところ、私は何度も、もし私の未来の夫があなただったらと思っていたのです。想像してみてください、騎士さま――もう私は殺されるのだと絶望していた時に、私の目の前に立派な騎士が現れて私を救い出してくださったのです。あなたは私の希望の光でした」
「姫君にそう言っていただけるのは、騎士の至上の喜びでございます。あなたの言葉をわが身の光栄としたいものです――けれど、私には愛する妻がいるのです」
 サー・バルバネスのその返事を聞いてもイゾルデは少しも驚かなかった。サー・バルバネスの年齢では結婚していない方が珍しい。イゾルデも本気でサー・バルバネスに求婚されたいと思ったわけではない。ただ、オルダリーアから救い出してくれたサー・バルバネスに憧れと感謝の気持ち――心からの――を伝えたかったのだ。私の想いは騎士さまに伝わっただろうか? 
 サー・バルバネスは続けた。しかし、その言葉を聞いてイゾルデは胸がつぶれそうになった。
「――たとえ亡き人になろうと、私は今でも彼女のことを愛しているのです」
「それでは……奥様は……」
「はい。数年前に亡くなりました。ですが、息子が二人います。妻の忘れ形見です」
 イゾルデは息を飲んだ。亡き人のことを愛し続けるというのはどんな気持ちなのだろう。いくら愛を伝えたところで、その愛に応えてくれる人はもういない。なのにサー・バルバネスの言葉はあたたかく、この上なく幸せそうだった。
「奥様のことを、とても深く愛してらっしゃるのですね」
 私はこれから結婚にのぞむ身。夫となる人のことを、ここまで愛せるのだろうか。
「サー・バルバネス……一つ聞いてもよろしいかしら。愛とはどんなものなのでしょうか? たった一つの愛を生涯貫けるものなのでしょうか?」
「レディ、残念ながらその質問には私は答えられません。それはきっと、あなたが心から愛する人でなければ答えられないでしょう――」
 サー・バルバネスの返事にイゾルデは曖昧にうなずいた。未来の夫とこれから会い、そして一目で会った瞬間に恋に落ち深く愛し合う――そんなことがあるはずがない! 
 でも、まあ、人生ってそんなものよね。私は今の時代に生まれたことを感謝しなくては。もし、祖父の時代のゼラモニアで生まれていたら私は戦争に巻き込まれてあっさり死んでいたかもしれないのだ。私は生きるか死ぬかの選択をしなくて良いし、未来の夫はイヴァリースの富豪なのだから、衣食住に困ることもない。これって、とても幸せなことよね? イゾルデは心の中でそっと神に感謝した。
 その時、外でチョコボのいななく声がした。イゾルデが侵入者の気配に身構えるより早くサー・バルバネスは腰の剣に手をあてた。
「誰かが城に入ってきたな! レディ・イゾルデ、普段ここを訪ねる者はいるのですか?」
「いいえ! ゼラモニアの人間はめったにこの城には近づきません。ここには祖国の悲劇が眠っているのですから。でも、ここは昔の王城。大方が略奪されたとはいえ、城にはまだ王家の財宝が残っているという噂は絶えず、その財宝を狙った盗賊が出没しているようです――母からそう聞きました」
「盗賊か……集団でこられるとやっかいだな。レディ、私は外を見てきます。あなたはどうか安全な場所へ」
 サー・バルバネスは剣を持ったまま、階段を駆け下りていった。その姿のなんと頼もしいことだろう! イゾルデは走り去っていくサー・バルバネスにむけて背後から「気をつけて!」と叫んだ。戦場へ旅立つ騎士を見送る婦人はこんな気持ちでいるのだろうか、そんなことを考えながらサー・バルバネスに手を振った。
「さて、騎士さまは行ってしまったし――」
 一人になったイゾルデは城の地下を目指した。イゾルデは母親からこの城について色々なこと――城に眠る財宝のありかについても――を聞かされていた。
「さあ、盗賊に見つけ出される前に、城の財宝を探さなければ――そのために私はエッツェル城の宴会を抜け出してきたのだから」

  

  

 なんと不気味な城なのだろうか。
 森の中、ヴォルマルフが息を切らせながらチョコボを走らせてやっと辿り着いた先には四つの塔を抱えた巨大な城が建っていた。レディ・イゾルデとサー・バルバネスの二人が逃げ込んだという<ゼラモニアの古城>は昔の時代の遺跡か何かだろうとばかり思い込んでいたヴォルマルフは目の当たりにした城の立派さに驚いた。しかも城壁の中には町の残骸が散らばっていた。相当な大きさの城下町が繁栄していたに違いない。けれど、あたりに人気はなく、町のあらゆる場所が破壊され尽くされていた。
 瓦礫の山と化した城下町を抜け、ヴォルマルフは町の中心にそびえ立つ城を目指した。町がこの有様であるので、城の中の惨状を想像しただけでヴォルマルフは背筋が凍りそうになった。本当にこんな不気味な廃墟にレディ・イゾルデとサー・バルバネスはやってきたのだろうか――主人の不安な気持ちを察してか、彼のチョコボが甲高くいなないた。ヴォルマルフはすぐに下羽すると、愛羽の首筋を撫でてやった。「よしよし、落ち着くんだ。大丈夫だ」
 しかし、本当に大丈夫なのか? 破壊され尽くした城下町を見れば明らかなように、この城は相当な曰く付きな様子だった。エッツェル城の者が誰もこの古城の名前を言わなかったのもうなずける。これは戦争の跡だ。この古城には戦争の傷跡が生々しく残っている。
 ヴォルマルフはチョコボを近くの木につなぐと、おそるおそる城門に近づいていった。大扉は開いていた――というより、突き破られて破壊されたままになっていた。
「誰か居ないのか?」
 城に門をくぐるにあたり、ヴォルマルフは一応叫んでみたが、当然返事はなく、自分の声があたりにむなしく響きわたっただけであった。ヴォルマルフは姿勢を低くして、いつでも剣を抜き取れるように身構えて進んだ。こういう場所には敵がひそんでいるものだと、彼の直感が警告していた。彼の直感は正しかった。ヴォルマルフは城の地下へ通じる階段をそろそろと降りていった。すると、暗がりに誰かの気配を感じた。誰かが潜んでいる。こいつは城に忍び込んだ盗賊だな。そうに違いない。いつ襲われても反撃できるように、ヴォルマルフは剣を手をかけ、臨戦態勢をとった。
「そこに居るのは誰!」
 暗がりから聞こえてきた金切り声にヴォルマルフはたじろいた――彼の予想に反して、若い女性の声だったのだ。「城の宝を奪いにきた盗人ね!」
 しかも相手の女性は自分のことを盗賊と勘違いしているらしい。誤解を解かなくては、とヴォルマルフは慌てた。こんな場所に女性が一人で生活しているとは考えられない。おそらく、この女性がエッツェル城から逃げてきたレディ・イゾルデなのだろう。
「誤解です! 私はあやしい者ではありません!」
「嘘おっしゃい! 侵入者! 泥棒! 悪党! 今すぐそこをおどきなさい――」
 相手はありとあらゆる罵詈雑言の類をヴォルマルフに投げつけてきた。相手は相当気が立っている。足下でごそごそと石を引きずる音がした。ヴォルマルフが暗闇に目を凝らすと、風下に立っているレディが両手で石の塊を抱えている。階段に落ちていたものを拾ったのだろう。
 まさか私に投げつけてくる気ではないだろうな?
 本気で殴られれば致命傷にもなりかねない大きさの石塊である。しかも相手が王子の婚約者とあっては、実力行使をして阻止することも難しい。そもそも淑女に手をあげるなど騎士の名折れだ。
 相手に戦意がないことを示すため、ヴォルマルフは剣を腰におさめると両手を広げた。すると、ヴォルマルフの姿を見て、レディが再び鋭い叫び声をあげた。ヴォルマルフは困惑した。今度は一体何なのだ――
「あなた、後ろ!」
「え――?」
 ヴォルマルフは後ろを振り返った。視界を人影が横切った。
 今度こそ本物の盗賊だ! しまった!
 しかしヴォルマルフが剣を再び抜くよりも、男がナイフを取り出す方が素早かった。斬りつけられる感触がヴォルマルフの身体に走った。

  

  

 イゾルデの悲鳴をききつけ、サー・バルバネスはすぐに戻ってきた。イゾルデに襲いかかろうとしていた盗賊をその場でねじ伏せると、城の外へと追い出した。
「お怪我はありませんか?」
「私は大丈夫よ。でも――」
 イゾルデは、足下で気絶している若い男をちらりと見た。
「この人もお仲間かしら? もしそうなら縄で縛ってお堀に捨ててこようかしら?」
 サー・バルバネスは笑った。「これは頼もしい姫様だ! しかしこの人は――このこぎれいな格好はどうも盗賊には似つかわしくない。道に迷ったどこかの貴族の若殿でしょうな……」
 イゾルデは気を失ったままの若者の姿をまじまじと見た。明るい栗毛色のくしゃっとした髪の毛。紋織り黒ビロードの丈の長い上着を来ている。裾には複雑な装飾模様が縫いとられ、腰のベルトには宝石が散りばめられている。そして羽織ったマントの裏には毛皮がついていた。これは貂ではなくて? きっと良い身分の貴族の方なのね。それにしてもそそっかしい人なのね。盗賊に襲われるなんて!
「この青年は怪我をしているようですね。手当をしてあげないと。レディ・イゾルデ、この近くに休める部屋はありますか?」
「この上に控えの間として使っていた部屋があるはずです。そこへ行きましょう。サー・バルバネス、この人を運ぶのを手伝ってくださいますか?」
 幸運なことに彼の傷は深くないようだった。サー・バルバネスは軽々と若者を上の部屋まで運ぶと、慣れた手つきで介抱していた。
「お上手ですわね」
 サー・バルバネスは服の裂いて作った即席の包帯を若者の傷跡に巻いていた。
「こうういう荒事は戦場では日常茶飯事ですから――レディの前では見苦しい姿ではありますが」
「いいえ、どうぞお構いなく。私は血を見て卒倒するような姫君ではありませんもの」
「良かった。その言葉を聞いて安心しました」
 サー・バルバネスはそう言って腰を上げた。「では、私は外の見回りに行ってきます。レディ・イゾルデ、また怪しい者が現れたらすぐ呼んでください」
「大丈夫ですわ。部屋に内側から鍵を掛けておきます。あなた以外に素性の怪しい者は誰一人中にいれません」
 といっても、この若者が一番素性の怪しい人間なのだけれど――貴族の若殿がどうしてこんな森の中の古城にやってきたのかしら? 本当に道に迷っただけ? 実は貴族のふりをして城の宝を奪いにきた盗人なのでは? もしかしたらオルダリーアがゼラモニア向けて放った間諜かも? イゾルデの胸の中に様々な不安が去来した。もしそうだとしたらどうしよう。サー・バルバネスが出て行った後、一人残ったイゾルデは段々心細くなってきた。このまま落ち着かない状況でただサー・バルバネスの帰りを待っているのはつらい。イゾルデは相手を起こそうとして、おそるおそる声を掛けてみた。
「グーテンターク?」
 イゾルデはそっと彼の身体をゆすってみた。そのまま目を覚ます気配があったのでイゾルデはオルダリーアの言葉で話しかけてみた。
「<あなたはどなた? ご気分はいかが?>」
 相手は何のことだかさっぱり分からないという顔をしていた。オルダリーア語は通じなさそうね。よかったわ、敵国の間諜ではなさそうだわ。イゾルデは安心して相手に優しく微笑んだ。

  

  

 目を覚ましたら密室にご婦人と二人きり――これはかなり気まずい状況だ。
 ヴォルマルフは盗賊に襲撃されたところまでは覚えていたが、その後の記憶はさっぱりなかった。冷たい石の床の上で意識を取り戻したが、目の前には息をのむような美しいブロンドの髪の女性が座ってこっちを見つめている。階段で自分を殴り飛ばそうとしていた女性は間違いなくこの人だ。しかし困ったことに彼女は異国の言葉を話している。どうしてこんな状況になったのか、ヴォルマルフにはさっぱり分からなかった。
「あなた具合はよろしくて? そう聞いたのよ。どう? 傷は痛むかしら?」
 ヴォルマルフが困惑していると、相手の女性がイヴァリースの言葉で言い直してくれた。
「え、ええ……気分は……大変悪いです」
 それが正直な気持ちだった。身体の傷はまだ痛んだが、それ以上に精神に負った傷の方が大きかった。婦人の前で昏倒しておいてしておいて、気分が爽快になれるはずがない。
「あなたのお名前を伺ってもよいかしら? 私はイゾルデ。オルダリーアから来たけれど、生まれはゼラモニアよ。でももうすぐイヴァリースに嫁ぐの」
 ああやっぱり、この人がレディ・イゾルデだった。確かに、アンセルム王子の婚約者だ。そんな方に寝たまま挨拶をする訳にはいかない。ヴォルマルフはすぐに飛び起きて、レディ・イゾルデに一礼をした。
「ご気分がお悪いのでしょう? 座ったままでもよろしくってよ」
「いいえ、そんな横着をする訳にはいきません。レディ・イゾルデ、やっとお会いできました――私はヴォルマルフ・ティンジェルと申します。ルザリアの騎士です」
「騎士ですって!」
 ヴォルマルフが名乗った途端にレディ・イゾルデは笑いだした。口元を袖で隠しているが、おかしくてしょうがないといった風情だ。ヴォルマルフは居心地が悪くなったが、醜態をさらした後なので何も言えなかった。
「あなた騎士さまだったのね……ふふ。てっきりその剣は飾り物だとばかり思ってたわ」
「私はオムドリア国王から直々に金の拍車を授けられた真っ当な騎士です!」
 レディ・イゾルデがあまりに笑いをかみ殺しているので、ヴォルマルフはあわてて付け加えたが、言い訳がましく聞こえてしまい自分でも情けなくなった。
「うふふ……これは失礼! あなたはルザリアの騎士さまなのね。ルザリアってイヴァリースの王都でしょう? 都の方だったのね。どうりで綺麗な服を着てらっしゃるわけだわ。それでサー・ヴォルマルフ。どうしてこんな森の中を歩いてらっしゃったの? この城はゼラモニアの人間でもめったに近寄らない場所だわ」
「レディ・イゾルデ……その件について大切なお話があります。私は、さるお方のお使いで参りました――私はあなたの夫となる方から、あなたをお迎えするように仰せつかった使者です」
「まあ! 私の未来の夫はどんな人かしら?」
「イヴァリースの次なる王であらせられるアンセルム・デナムンダ・アトカーシャ殿下でございます」
 レディ・イゾルデはしばらくきょとんとした顔でヴォルマルフのことを見つめていた。夫が王子様だというのだから、彼女が驚くのも無理はない話だとヴォルマルフは思った。けれどすぐにレディ・イゾルデは笑い出した。
「うそうそ! サー・ヴォルマルフ、あなたは私をからかいにきたのね! イヴァリースの王子様が私に求婚するなんてたいそうな冗談だわ」
「いいえ。これは真実です。私が王家より使わされた証拠をお見せしましょう――殿下から貴女にと直々に授かった宝石があります」
 どうやらレディ・イゾルデは全く信じてくれないようであったので、ヴォルマルフは王子から預かった宝石を見せることにした。天蝎宮の印が刻まれた深紅の宝石だ。あれはイヴァリースの一つしかない貴重な財宝だった。道中、絶対になくさないようにと革袋に入れて大切に持ってきたのだった。それを取りだそうとして――ヴォルマルフは気づいてしまった。革袋がないぞ。額を冷や汗が流れた。嫌な予感がする。
「レディ……付かぬことをお聞きしますが……私が気を失っている間に、これくらいの大きさの、革袋を……お見かけしなかったでしょうか……」
「袋? ああ、そういえばあの盗賊が持っていったかもしれないわ」
「ファーラム!」
 ヴォルマルフは血の気が引いて、その場に倒れ込んだ。また卒倒しそうだった。「なんということだ! 目利きの盗人め! 最初からこれが狙いだったのか――あの中には王家の宝が入っていたというのに!」アンセルム王子は何より血が流れるのを嫌う穏和な方だったが、さすがの殿下も使いにやった騎士が王家の宝を紛失してきたと聞けばヴォルマルフの首をはね飛ばすかもしれない。ヴォルマルフはしゃがみ込んで膝の間に顔を埋めた。
「大丈夫?」
 レディ・イゾルデはそう言って一応はヴォルマルフを気遣ってくれていたが、声をあげて笑い転げていた。これは笑われても仕方ない大失態だ!
 ヴォルマルフは膝のあいだに頭を押し込んで彼女の笑い声をきくまいとしていた。

  

  

 まるで困った騎士さまだこと! 
 城に迷い込んだ若者が自分の婚約者の使いと名乗るのだからイゾルデは驚いた。しかもその人は王子の使いと言っているのだから驚きもさらに増した。私の夫が王子様だというのは本当のことかしら、とイゾルデはしばらくの間考え込んだ。けれど、その懊悩もすぐに吹き飛んだ。王子の使者らしいサー・ヴォルマルフは大切な贈答品――それは王子様から私に贈られるはずだったものだ――をなくしたというのだ!
 イゾルデはこらえきれずに身体を二つに折って笑い転げていた。あまりにそそっかしい騎士さまだわ! この人は一体何をしにここまで来たのかしら!
 けれどサー・ヴォルマルフはうずくまったまま顔を上げない。立ち上がれないほど意気消沈している。イゾルデはすっかりしょげきった若騎士の姿を見て、ひどく哀れに思い、なんとかして慰めてあげたくなった。イゾルデはサー・バルバネスの頭をそっと撫でた。柔らかい髪の感触がイゾルデの手に伝わった。かわいそうな人! ずっとこうして撫でてあげたくなる。
「お願い、どうか元気を出して。もしかしたらサー・バルバネスが戻ってくる時にその袋を見つけてきてくださるかもしれないわ」
「ですが……あれは王家にたった一つしかない、この上なく貴重な宝石なのです。なくしたとなれば、私は王家にとんでもない損害を与えてしまったことになる……ああ! 私は生きてルザリアに帰れない」
「大丈夫よ。だってその贈り物は私のものになるはずのものだったのでしょう。私が見なかったことにしてあげるわ。そうしたら誰にもばれないでしょう? このことは誰にも言わないわ。私が共犯者になってあげる」
「レディ・イゾルデ……」
 涙目でイゾルデを見つめるげるサー・ヴォルマルフの姿をはイゾルデの中に眠っていた母性本能を呼び覚ました。思わずイゾルデはこのまま彼を抱きしめてあげたくなった。けれどそれはさすがに婚前の淑女のマナーに反するだろうと思ったので、心の中で思うだけにとどめた。
 そうだわ、良いことを思いついたわ! イゾルデの脳裏にある名案がぱっと思いついた。
「あなたに案内したい場所があるの。ついてきてくださる?」イゾルデはサー・ヴォルマルフの手を引いて立ち上がらせた。「歩ける元気は残ってる?」
「え、ええ! もちろん!」
「そう。それは良かったわ――こっちよ。この部屋のすぐ下」
 イゾルデは控えの間を出ると、地下へ通じる階段にサー・ヴォルマルフを引っ張っていった。階段の途中に隠し通路があるはずだ。
 隠し通路の先に小さな小部屋があった。壁には小ぎれいな棚があつらえられており、金の燭台やら宝石箱やら綺麗な装飾品が飾られていた。床にはたくさんの衣装箱がいくつも並んでいた。よかったわ。ヒルデ母様の言っていたとおりだわ。イゾルデは喜んだ。
「レディ、イゾルデ。この部屋は……? 見たところ財宝部屋のようですが……」
「そうよ、財宝庫。ここ――ブルゴント城は昔ゼラモニアの王族が住んでいたの。オルダリーアとの戦争の時に城の大部分は略奪されたけれど、まだゼラモニア王家の宝がどこかに隠されているという噂が絶えないわ――その真実がこれよ。まだ地下へ続く通路があるわ。地下にはもっとたくさんの財宝が残っているはずよ」
「そうだったのですか……ですが、どうしてあなたがこの財宝の在処を?」
「私の母が教えてくれたの――このお城は母のものだから」
「ですが、先ほど、この城は王家のものだったと……ということはお母様は王族の血を引いているのですか?」
「そう。でも王家といっても傍流のね。直系の王家はオルダリーアに滅ぼされてしまったわ」
 イゾルデの母ヒルデはゼラモニア王家の血筋をわずかに引いていた。だから城を継ぐ直系王家の人間が滅びてしまった後、イゾルデの母がこのブルゴント城を密かに相続したのだった。けれどそのことはイゾルデの親族でもほんのわずかな者しかしらない極秘の事実とされていた。ゼラモニア王家の人間がまだ生き残っていると分かれば、オルダリーアに命を狙われるからだ。イゾルデはゼラモニアに戻ってきた時に母からそっとその事実を教えてもらった。
「サー・ヴォルマルフ。このことは誰にも秘密にお願いいたします。オルダリーアの者にばれたら、私も、母も殺されてしまいます」
「もちろん。ですが……そのような重大な秘密をどうして今日会ったばかりの男である私に?」
「だって、その方がフェアでしょう? 私はあなたの秘密――王家の秘宝をなくしたという大変な秘密――を知ってしまったのよ。だから私もあなたに、私だけの秘密をさしあげます」
「レディ・イゾルデ……あなたのそのお優しいお心遣いに感謝します。貴女に誓って私はこの秘密を口外いたしません」
 イゾルデはうなずいた。秘密の共有。さっき出会ったばかりだというのに、二人の間に特別の関係が生まれた気がした。言葉にできない、密やかな信頼関係だ。
 イゾルデは部屋を見回した。数え切れないほどの財宝が残っていた。どうやらこの部屋は盗賊たちに暴かれることはなかったらしい。イゾルデがエッツェル城の宴席を密かに抜け出してブルゴント城にやってきた理由はこの財宝を持ち帰るためだった。彼女の母ヒルデは、ブルゴント城に残された莫大な財宝を娘に分け与えたのだった。イゾルデの父親は嫁に出る娘に相応の持参金を持たせていたが、それは全て夫のものとなる。そこで母ヒルデは娘が自由に処分できる財産を与えたのだった。ブルゴント城に残されたものは自由に使って良いし、いつでも好きな時に処分して良い――と。イゾルデは母の優しさに感謝した。そしてイヴァリースに嫁ぐ前に自分の財産を貰っておくつもりだった。そこでサー・バルバネスに頼んでブルゴント城に連れてきてもらったのだった。
「――それで、あなたが私にくださる宝石はどんなものだったのかしら? たしか天蝎宮のしるしが刻まれた宝石とおっしゃいましたわね」
 イゾルデは話しながら次々と宝石箱を開け、サー・ヴォルマルフがなくした宝石に似たようなものがないか探していた。
「ええ、深紅の色をしたクリスタルです。それは綺麗なものでした――あなたにお見せできないのが残念です」
「天蝎宮……さすがにここにはサソリをあしらったものはないわね。あら――でも良いものが見つかったわ。これはどうかしら」
 イゾルデは金細工に深紅のルビーをはめ込んだ薔薇のブローチを見つけた。手のひらにすっぽりとおさまる大きさのものだ。それを満足そうに見つめると、サー・ヴォルマルフに手渡した。
「さあ、これをあなたに差し上げます。どうぞ受け取ってください。その宝石はかつてのゼラモニア王家のもの。大国であるイヴァリース王家の財宝と同じ価値があるとは思えないけれど、それでも同じ王家の財宝よ」
 イゾルデはサー・ヴォルマルフに薔薇のブローチを押しつけた。サー・ヴォルマルフはそれを受け取ったものの。どうして良いのか分からず困惑していた。「レディ・イゾルデ……これは?」
「そうしたら――さあ、その薔薇を私にくださいまし。王子様からのプロポーズを伝えるのに手ぶらでは格好がつかないでしょう?」
「ああ、そういうことでしたか。重ねてのお心遣い感謝――」
「それはいいから! はやく!」
 イゾルデは至極丁寧にお礼を述べ始めたサー・ヴォルマルフせっついた。サー・ヴォルマルフは両手でブローチを持ったまま、その場で固まっている。緊張しているのかしら? それとも女性を口説いたこともない奥手な人なのかしら?
 それでもイゾルデは辛抱強く待った。そして、やっとのことでサー・ヴォルマルフがひざまずいて、おずおずとルビーの薔薇を差し出した。
「殿下からの愛をお渡しします」
 長い時間をかけてやっと彼の口から出てきた、たった一言だけのプロポーズ。イゾルデはまた笑いそうになった。この人はとんでもなく不器用で――だけど誠実な人ね。
「その愛を私の至上の喜びとして、お受け致します」

  

  

  

>Chapter4

  

花嫁の決断:Chapter2

.

     

  
*chapter2

     

  

     

  

「王様の戦いに参加してもいないのに、ご主人様は何のご用でゼラモニアまで行くのですか?」
 王と王子の密命を受けたヴォルマルフは急いでゼラモニアに発つべく、厩舎で旅の準備をしていた。ヴォルマルフの従者は主人の荷造りを手伝いながらも、旅の目的が気になって仕方がないといった様子で彼に尋ねた。「そうだな……」ヴォルマルフは何と答るべきか迷った。
 アンセルム王子の婚約はまだ公表されていなかった。いずれ王自身が公にするのだろう。そのため、ヴォルマルフの任務は極秘事項だった。ヴォルマルフは王子から婚約者に渡すようにと託された宝石を自分の旅袋にそっと詰め込んだ。この旅の目的――王の婚約者を迎えにいくことは誰にも漏らしてはいけない重大な機密だ。ヴォルマルフは自分の従者にさえもこの秘密をばらすまいと決めていた。
「ご主人様? この綺麗な宝石は何に使うのです? 誰かに贈るのですか」
 ヴォルマルフがちょっと目を離した隙に、彼の従者は主人の荷物の中身を盗み見たらしい。燃えるような深紅の輝きを持つ宝玉を彼は手にしていた。それは中央に天蝎宮の紋章が彫られている王家に伝わる宝玉であり、ヴォルマルフがアンセルム王子から託された宝石の中でも特に貴重なものだった。
 ヴォルマルフはそれを慌てて取り上げると、従者を叱った。
「キンバリー! 主人の荷物を勝手に開けるんじゃない」
「だって、さっきからご主人様はずっと上の空で、何も答えてくださらないから」
 少年は主人に怒られて不満げに言い訳をした。
「おまえの主人はな、これからゼラモニアに女を口説きに行くんだ。その宝石は麗しきご婦人への贈答品だ。勝手にさわるんじゃないぞ」
 ヴォルマルフが従者の扱いに手をこまねいている最中、そこに割って入ってきたのはフランソワだった。彼の言葉を聞いて、少年は楽しそうな笑顔をヴォルマルフに向けた。
「ご主人様も一人前の騎士だったのですね」
「キンバリー! さっきから荷造りの手が止まっているぞ。減らず口を叩く暇があるのなら鞭をくれてやるからな!」
 もちろん、ヴォルマルフは鞭など持っていなかったが、やんちゃ盛りの少年である従者に灸を据えるにはこれくら言う必要があるだろう。ヴォルマルフは従者に荷物を放り投げた。「これをチョコボの背にくくりつけてきてくれ」そう言って厩舎の奥に追いやると、妙なタイミングで現れたフランソワのことをにらみつけた。
「おまえが変なことを言ったせいで私は従者に笑われたではないか」
「あの坊やはおまえの従者だったのか? だが、少年の方が正しいぞ。十五、六にもなれば女遊びの一つや二つはたしなんで然るべき騎士の作法だ」
「騎士の作法は淑女に礼儀を尽くすことだ!」
 フランソワは笑った。「おまえのその生真面目さには頭が下がるよ。だが、これから王の代理で求婚に行く男の台詞とは思えないな」
「おい、声が大きいぞ――この任務のことは私とおまえ以外は誰も知らないのだからな」
「ああ、もちろん分かってる」
 ヴォルマルフは親友の姿をちらりと見た。長旅の時に着る丈の長い外套を羽織っている。どう見ても旅装束だ。まさかこいつはゼラモニアまで一緒についてくる気ではないだろうな。
「しかし、フランソワ……私にはおまえが旅の格好をしているように見えるのだが。分かっていると思うが、この任務は殿下が私に直接頼まれたことなのだぞ」
 ヴォルマルフは『殿下が私に』という語句を特に強調した。
「安心しろ。俺はおまえの出世の機会を横取りするつもりはない。ゼラモニアに用があるんだ。同じ方面に行くんだ。一緒につれていってくれよ。護衛を雇うには金がかかる。騎士であるおまえが一緒なら道中は安全だからな」
「そうか。なら構わないが……」
 イヴァリース各地では旅人を狙った追い剥ぎの被害が多発しており、剣を持たない宮廷の貴人が長旅をするには危険が伴った。ヴォルマルフは実際に戦場に赴いたことはないとはいえ、盗人を撃退できる程度の剣術の心得は持っていた。だから親友が旅の同行を願い出てきても、まあうるさい荷物が一つ増えるな、と軽く思ったのだった。
「ヴォルマルフ様! ご主人様のチョコボをお連れしました」
 仕事を終えた彼の従者が二頭のチョコボをつれて戻ってきた。
「ああ、ご苦労だったな」
 ヴォルマルフは少年の頭をなでてやった。と、そこへフランソワが腰をかがめて少年の耳元で何かささやいた。すると二人は声を立てて笑った。
「頼むから礼儀正しくしてくれよ、キンバリー」
 親友の旅の同行を許可したことはやっぱり間違いだったかもしれない、とヴォルマルフは思った。この調子ではゼラモニアにつくまで笑われっぱなしだろう。私の将来とイヴァリースの未来がかかっているというのに――これでは先が思いやられるというものだ。

  

  

「結婚ですって? どなたが?」
 ゼラモニア州、エッツェル城の薔薇園を母と一緒に歩いていたイゾルデは驚いて声を上げた。
「おまえがですよ、イゾルデ」
「まあ! ヒルデ母様! 私は先週やっとエッツェルに戻ってきたばかりだというのに! 実家でゆっくりする暇もなく誰かのお屋敷に嫁がされるというのね!」
「お父様が決めたことよ」
「私に一言の相談もなしに!」
「イゾルデ、そう大きな声を出すんじゃありません。あなたはブラの宮殿で一体何を学んできたのかしら? 淑女は散歩の時に大声でわめき散らしたりしません」
 ヒルデは花壇がきちんと手入れされているかを横目で確認しながら、貝殻の敷き詰めた小道を姿勢良く歩いていた。その後ろをイゾルデは慌てて追って歩いた。
「だって、だってお母様――」
 ヒルデは騒々しく歩く娘をちらりと振り返った。そのとがめるような視線を感じ取ったイゾルデは姿勢を正した。薄い青緑色の毛織りのドレスの裾をただし、袖口についた見えもしない埃を払い落としてからゆっくりと話し始めた。
「お父様はどうかしてしまったのかしら? 私がブラで暮らしていると知りながらオルダリーアに挙兵するなんて。イヴァリースの騎士さまが助けにきてくださらなければ私はオルダリーアに取り残されたまま殺されていたかもしれないわ。やっと助かった命だというのに、息つく暇もなく今度は結婚ですって! 娘に対してまるで関心がないわ」
「イゾルデや、父親のことをそんなに言うものではありません」
 ヒルデは立ち止まると、娘の発言をたしなめた。そうしてからイゾルデのことを愛情深くぎゅっと抱きしめた。
「お母様……」
「おまえの人生はおまえ一人のものではありませんよ。ゼラモニアの未来のことも考えてごらんなさい。誰かが立ち上がらなければこの国の独立は果たせないのよ。それに、お父様はあなたのことをちゃんと愛していますよ」
「ええ、戦さの戦利品と同じくらいにね」
 二人はしばらくゆったりとした歩調で散歩道を歩いていた。イゾルデが実家のエッツェル城に戻ってくるのは実に二十年ぶりだった。幼少期はこの城で暮らしていたのだが、その時の記憶はほとんどなかった。薔薇園を歩きながら、実家はこんな風だったのだと、記憶の糸をたぐり寄せていた。ブラに両親が尋ねてくるようなこともなかったので、両親とこうして再会するのも、まるで初対面の人と会うような気持ちがする。実家に居るというのにイゾルデは妙な気分だった。
 万事が全てこんな調子だったので、父親が勝手に持ってきた結婚話についても、その強引な決定には不満こそあったが、エッツェルを離れて見知らぬ土地に嫁ぐことは嫌ではなかった。エッツェルに名残はない。嫁いだ先で新しい生活を楽しく送ればよいだけだ。イゾルデには結婚への不安はなかった。代わりに、どんな国でどうやって暮らせるのかという興味でいっぱいだった。
「それで、ヒルデお母様。私はどなたと結婚するのですか?」
「この縁談はまだ公表されてないの。まだ秘密よ」
「花嫁は私よ! 花嫁である私にも秘密のことなの?」
「ええ。その方がプロポーズされた時の楽しみが増えるでしょう」
「そうね……そうかもしれないわ」
 もちろんヒルデは母親として娘の結婚相手を知っていた。相手はアンセルム・デナムンダ・アトカーシャ――イヴァリースの王子だった。しかしイヴァリース側から正式に公表されるまではどうか内密に、と念を押されていた。ヒルデは娘がおしゃべりでにぎやかな性格であるとよくよく知っていたので、この縁談は実の娘にも隠し通すことを心に決めた。この子は王家に嫁げるのだと知ったらきっと舞い上がって城中の者に言いふらすに違いにない、と案じていたからだった。
 イゾルデはそんな母の思惑はつゆ知らず、まだ見ぬ婚約者への空想を膨らませていた。散歩道に設けられた石のベンチに座ると結っていた髪をほどいて、道々で摘んできた花を髪に編み込みはじめた。
「お母様! そうは言っても、どんな方と結婚するのか気になるわ。ちょっとだけ――せめてどこに嫁ぐのかだけでも教えてくださらない?」
「相手はイヴァリースの方よ。とても偉い方。お金もたくさん持っているわ。そうね……きっとあなたがブラで暮らしていたのと同じくらいの生活ができるわ――いいえ、それ以上かもしれない」
「とってもお金持ちの方なのね!」
 イゾルデは喜んだ。お金と食べるものと着るものに困ることはないんだわ。だったらブラの暮らしと何一つ変わらない。それに、もう命の心配をするような<人質>生活をしなくて良いのだから、今までよりずっと楽しく暮らせそうだ。それにしても、まさかイヴァリースに嫁げるとは!
「あらイゾルデ、なんだか嬉しそうね」
「お母様! だってイヴァリースで生活できるのよ!」
「てっきり私はあなたがゼラモニアから離れるのを嫌がるかと思ったけれど……どうやら違うようね」
「その心配は大丈夫よ。私はエッツェルを離れても寂しくはないわ。私を救ってくださったのはイヴァリースの騎士さま――サー・バルバネスよ! その方の国で暮らせるなんて嬉しいわ」
 イゾルデは興奮のあまり、髪を編む手に止めて持っていた花をぽろぽろと地面の上にこぼした。
「あらあら」とヒルデは花を拾いあげた。「続きは私がやってあげる」
 娘が結婚に対して前向きでいるようでヒルデはほっと一安心した。とはいえ、こんなにそそっかしい子が王家に嫁げるのかしら? さっきから落ち着きがなくて、淑女の立ち振る舞いの作法がまるで身についていない。こんな子が未来の王妃様になるなんて!
「イゾルデ、あなたに話すことがたくさんあります。一つは淑女のマナーについて。もう一つは花嫁の心構えについて。もう一つは――」
「お母様、お小言は結構よ!」
 イゾルデが慌ててベンチから立ち上がろうとするので、ヒルデは編みかけ彼女の三つ編みをぎゅっと引っ張った。イゾルデは小さく悲鳴を上げてその場に留まらざるを得なかった。どうやら母のお説教を聞くしかなさそうだった。

  

  

 エッツェル城ではオルダリーア遠征に参加した騎士たちを招いての祝宴が催されていた。ホールの壁には色鮮やかなタペストリーが下がっており、床は豪華な絨毯が敷き詰められていた。祝宴のための長テーブルが中央に置かれ、上には料理がぎっしり並べられている。鹿肉やくじゃくの丸焼き、サーモンの薫製やうずらの料理もある。見ただけでイゾルデはおなかが鳴りそうになった。それにホールにはビロードや繻子で着飾った騎士たちが数え切れないほど集まっていた。なんてにぎやかな光景なのかしら! イゾルデは彼らの姿を目で追いながら、この中のどこかに自分の婚約者がいるのかもしれないと思って視線をめぐらせた。けれどイゾルデには彼らがゼラモニアの人間なのかイヴァリースの人間なのかさえ区別するのも難しかった。
 イゾルデは母に言われたとおりにしずしずと歩き、自分の席についた。しかし、最初の料理を食べ終える頃にはすでに退屈し始めていた。彼女の周りには宴のぶどう酒で酔っぱらった見知らぬ男たちがうろうろしていた。何人かに声を掛けられたが、あまり上品な言葉遣いではなかったため、イゾルデは失礼にならない程度に無視していた。
「はやく終わらないかしら……」
 イゾルデは宴席を抜け出し、さっさと自分の部屋へ戻ってドレスの紐をゆるめたかった。しかし絶望的なことに、城主である彼女の父が長々しい演説を始めてしまった。イゾルデは綿菓子をつまみながら父親の演説を流し聞いていた。けれど、父が「いかなる犠牲を払ってでも祖国の独立を――」と言い出したくだりで綿菓子を放り投げそうになった。
 まったく! お父様は娘の命を何だと思っているのよ! 私がブラで暮らしているのを知っていながら戦争を始めるなんて、どうかしているわ。
 父親の演説にも、宴席の騒々しい空気にもすっかり退屈しきっていたイゾルデはテーブルクロスの下で足を伸ばしてくつろぎはじめた。こんなお行儀の悪い姿を母に見られたら大目玉をくらうに違いないが、幸いテーブルの下までは母の監視の目も届かないことだろう。
「レディ・イゾルデ――」
「は、はい!」
 名前を呼ばれてイゾルデは慌てて上品に座り直した。不作法をとがめられたのかと思ったのだ。すると目の前に、絹のシャツに腿まであるビロードの上着を羽織った長身の騎士が軽やかな身のこなしで立っていた。イゾルデと目が合うと彼は笑顔でウインクを返した。
「あら、騎士さま! また会えましたわね」
 イゾルデはバルバネスと再会できたことを心から喜んだ。彼こそが、イゾルデをブラからエッツェルまで護衛してくれた騎士だった。ああ、なんて素敵な方なのかしら。戦馬鹿の父親や、犬っころのように騒ぎ散らかしている礼儀知らずの騎士たちの中で、サー・バルバネスの姿は輝いて見えた。お礼を言わなくては、とイゾルデは立ち上がった。
「サー・バルバネス。あなたが私を助けに来てくださらなければ、私は父に見捨てられてあのままオルダリーアで殺されていましたわ。あなたには心から感謝しております」
「いいえ、レディ、私は騎士として当然のつとめを果たしたまでです」
 バルバネスはイゾルデの言葉に率直に返した。
「あなたは最高の騎士さまですわ。そうだわ。さっき、王様から特別な称号をいただいてらしたでしょう――たしか<天騎士>という……」
 エッツェル城の宴席にはイヴァリースの国王であるデナムンダ王の姿もあった。宴席の最初に、デナムンダ王はこの戦いで功績を挙げた騎士たちを呼び集め、特別にねぎらっていた。サー・バルバネスはデナムンダ王から<天騎士>と呼ばれていた。王の仰々しい素振りから、その<天騎士>という称号がきっと特別なものだろうとイゾルデは推測していたのだった。
「いや、たいしたものではありませんよ、レディ・イゾルデ。真っ当な騎士ならば誰でももらえる称号ですから」
「真っ当な騎士なら誰でももらえるだと! 笑わせるなよ、バルバネス! おまえが北天騎士団の団長でベオルブの名前を持っているからこそ<天騎士>の称号を授けられたのだ。異国の姫様を誤解させてはいかんぞ」
 サー・バルバネスがイゾルデに謙遜を示していると、彼の背中をうしろから叩いた者があった。褐色の髪を短く刈り込んだ体格の良い男性だった。焦げ茶色のマントを羽織っている。年はサー・バルバネスと同じくらいだった。二人でこづきあって笑っている様子を見ると、二人は旧知の仲なのだろう。
「北天騎士団? サー・バルバネス、あなたは騎士団長さまでしたの?」
 イゾルデはサー・バルバネスに尋ねた。ブラでの宮廷暮らしが長いイゾルデでもイヴァリースの北天騎士団の名前は知っていた。イヴァリースで最も名誉ある騎士団の名前だ。
 イゾルデの質問に答えたのは、サー・バルバネスの友達の方だった。
「ああ、そうだとも。彼の名前はバルバネス・ベオルブ。北天騎士団を率いる名将軍だ」
「まあ! でしたら、はじめからそう名乗ってくだされば良かったのに。そうすれば私もイヴァリースの北天騎士団の立派な騎士さまの前でもっと――適切な――淑女らしい振る舞いができましたのに!」
 イゾルデはサー・バルバネスとブラの武器庫で初めて会った時のことを思い出して顔を赤らめた。あの時私は剣を持っていた! なんということ! 彼にとんでもないお転婆娘と思われていないかしら。
「おいおいシド、よしてくれよ。私はそんな器じゃない。おまえの方が姫様を誤解させている。姫、我が北天騎士団といえども所詮は粗野な男連中の集まり。私の手に負えぬ輩もいるのです。イヴァリースで最も優れた騎士団を挙げるのなら、ランベリーの聖印騎士団でしょう。彼ら修道騎士団は規律を守る道徳心と士気の高さで名高いのです」
 バルバネスはシドを押しのけてイゾルデに話した。イゾルデは二人のやりとりを微笑ましく見ていた。このお二人はきっとすごく仲の良いお友達なのね。
「レディ・イゾルデ、紹介が遅れましたが、この男はシドルファス・オルランドゥ。ゼルテニアの伯爵で南天騎士団の騎士団長です」
「あらまあ! 私はなんて光栄な身でしょう。こうしてイヴァリースの名誉ある二人の騎士団長さまとお話しできるなんて」
 イゾルデはドレスの裾をすっと広げてお辞儀をした。二人の騎士は腰をかがめて彼女に返礼した。
 二人の騎士と話していると宴席の退屈な時間を忘れるかのようだった。その時、イゾルデは思い出した。自分があと幾日もしないうちに輿入れをする身であることを。けれどまだ夫の名前も知らないのだから、少しくらい殿方と楽しいひとときを過ごしても大丈夫だろう。それに、私はこれからイヴァリースに嫁ぐのだ。自分が嫁ぐ国について勉強しておくのはとても有益なことだ――勉強熱心な花嫁だと母に褒められるかもしれないわ、とイゾルデは思った。
「騎士さま、あなた方のお国のことを私にもっと教えてくださらないかしら?」
 イゾルデは二人の騎士に手を差し出した。

  

  

「姫様はご不在です。宴席の途中で背の高い騎士と一緒にどこかへ出て行かれました。行き先は知りません」
 何だって?
 ゼラモニアのエッツェル城に着くなり城の家令に言われた言葉にヴォルマルフは度肝を抜かれた。姫が居ないだと? 一体何が起きたのだ?
「ヴォルマルフ? どうした?」
「姫はどこかの騎士と城を出て行ったようだ。行き先は誰も知らない、と……フランソワ、これはどういう意味だと思うか?」
 ヴォルマルフとフランソワは城のホールには入らず、堀の上に架かった跳ね橋まで引き返していた。目的の姫がここにはいないというのだから、わざわざ城の中に入るのは無駄足だ。
「姫が親の決めた結婚に反発して恋人と一緒に駆け落ちした、とか? まあ、若いお嬢さんにはよくあることじゃないか」
「姫は殿下の婚約者なのだぞ! 『よくあること』では困るのだ」
 はあ、と悲痛なため息をヴォルマルフは漏らした。王子と国王から無理難題を押しつけられ、その上、王子の婚約者にまで逃げられるとは前途多難だった。一刻も早く姫を探しに行かなければ。ヴォルマルフは急いで橋を渡ろうとした。
「おい、ヴォルマルフ。どこへ行く気だ? もう任務を諦めてルザリアに逃げ帰るのか?」
「ルザリアに帰る? 馬鹿な! 私は姫を探しにいくんだ」
「消えた姫を探し出す騎士、か……その意気込みは立派なものだと認めてやるよ。いつか詩にしたためたいくらいの気高い騎士の姿だ――だが、落ち着け。まずは落ち着いてよく考えるんだ。姫が西へ行ったのか東へ行ったのかも分からないままどこへ探しにいくというのだ」
 確かにその通りだった。ヴォルマルフは沈黙してその場に立ち止まった。
「おまえ一人じゃ危なっかしくて見ていられない。俺と一緒に来て正解だろう?」
「ああ……そのようだな……」
 ちゃっかり旅に同伴してきた親友の調子の良さには呆れるが、彼の助言は役に立たない訳ではない。腹立たしいが、ヴォルマルフはうなずいた。
「おや、外で声がすると思えば我がイヴァリースの言葉。若者たち、イヴァリースの者か」
 ヴォルマルフとフランソワが橋の上で言い合っていると、城の中から立派な体格の騎士が歩いてきた。フード付きの外套を着込んでいる。何人もの従者を後ろに控えさせている姿から察するに、相当に身分の高い貴人のようだった。
 ヴォルマルフは「ええ、ルザリアから」とだけ答えた。
「そうか、王都からはるばる来たのか。おまえたちも宴会に招かれたのか? だとしたら貴殿らは大遅刻したな。もう宴はすっかりお開きだ。陛下は次なる戦いに向けてブラに出立なされた」
「いいえ、私たちは――」
 何と答えれば良いのだろう。宴に顔を出すためにはるばるゼラモニアまでやって来た訳ではない。そもそも王の戦いに参加していないヴォルマルフは祝宴に招かれてすらいない。ヴォルマルフは言葉を詰まらせた。
「姫に会いに来たのです。ブラから帰還したという噂のご令嬢に」フランソワがすかさず助け船を出した。
「ふむ、若者らしい答えで結構だ! 私も若い頃はそうやって遊んでいたものだ」
 フードの貴人は豪快に笑った。
「王の戦いではサー・バルバネス・ベオルブが素晴らしい功績をあげたと聞きまして。王都ルザリアはその話で持ちきりですよ。噂のご令嬢も素晴らしい美姫だとかで。我が友が一目だけでも見たいと言うので、こうしてゼラモニアまではるばる来たのです」
 王と王子の密命で、とは言い出せないヴォルマルフが黙っていると、フランソワはあらぬ事をぺらぺらとしゃべり出した。本音を言えないがゆえの方便とは分かっているが、これではまるで自分が姫に求婚しに来た若者の体になってしまっている。ヴォルマルフは自分の従者を外で待たせていて良かったと思った。あの少年のことだ、もしこの場にいたらフランソワと一緒になって話を盛り上げだしかねない。ヴォルマルフは気まずい思いをしながらも、親友の話す姿を黙って見守ることしか出来なかった。
「――しかしレディ・イゾルデは城にはいないとのこと。これではわざわざ王都からゼラモニアまで出向いた甲斐がありません。姫を探しにいきたいのですが、行方が分からず……サー、あなたは姫の行き先をご存じですか?」
「もし仮に私が行き先を知っているとして、聞いてどうするのだ」
「勿論――」
 ヴォルマルフは相手に気づかれないようにそっとフランソワの背中をこづいた。<余計なことは言うなよ>という忠告だ。
「勿論――言わずとも、あなたも男なら分かってもらえるでしょう」
「はは! 都の伊達男らは元気があり余っているな。その活力を少しは戦場にも注いでほしいものだ! さすがの私も、はるばる異国まで出向いて女を口説くことはなかったが――そのはやる気持ちは分かるぞ、若人らよ」男は笑いながらヴォルマルフとフランソワを交互に見た。「姫の行き先は知らぬが、連れていったのは我が友・バルバネスだ。先ほど三人で話し込んでいてな、盛り上がった二人は遠乗りに出かけようと言っていた。厩舎の羽番に尋ねてみるといい。行き先を知っているかもしれない」
 だとしたら、姫は天騎士と駆け落ちしたというのか? これは大変なことになったぞ、とヴォルマルフは青ざめた。
「ご親切にありがとうございます。あの……名前をうかがってもよろしいですか?」
 天騎士バルバネス・ベオルブの名前を聞きヴォルマルフはたじろいたが、姫の行方の手がかりが掴めたのは大きな収穫だった。この貴人に礼が言いたかった。
「私か? 私はシドルファス・オルランドゥ。ゼルテニアで暮らしているから、王都で会う機会はないかもな。さらばだ、若人らよ――健闘を祈るぞ!」
 シドルファル・オルランドゥは二人に手を振ると颯爽と橋を渡って城を出て行った。
「オルランドゥ――ゼルテニアの伯爵家の名前じゃないか。では、あの人は伯爵だったのか。気さくな伯爵もいるもんだな」
 感心するフランソワの横でヴォルマルフは肩を落としていた。
「伯爵……シドルファス・オルランドゥ伯爵――<雷神シド>として名高いあの方ではないか! よりによってそんな方にこんな姿を見られるとは……」
「ヴォルマルフ?」
「伯爵様は私たちのことを、都からはるばる姫の尻を追いかけに来た軽薄な求婚者だと思っているに違いない」
「安心しろよ。伯爵は笑ってたぞ。それにおまえの名前は出してない」
「これから宮廷で伯爵様と顔を会わせる機会があったら――考えるだけで気まずい。ああ、どうか伯爵様が私の顔を覚えていませんように――ファーラム!」
 ヴォルマルフは神にもすがりたい気分だった。
「それで、おまえは姫さん――レディ・イゾルデを探しに行くのか? 伯爵の話によるとあの天騎士と一緒に逃げたらしいが……」
「ああ、もちろんだ。任務を途中で放棄する訳にはいかない。しかし――」
 しかし、私は天騎士に会いに行って何と話せば良いのだろうか。王子の婚約者と駆け落ちしたサー・バルバネスを説得して姫を連れ戻すのか? それとも殿下との約束通り、無事に縁談が頓挫するように姫の駆け落ちを応援しに行くのか? 事態の収拾がつかなくなってきた――このややこしい状況をどうやって解決しろというのだ!
「じゃあな、相棒。俺はエッツェル城に用があるんだ。ルザリアで良い報告を待ってるからな」
 フランソワはヴォルマルフに手を振るとさっさと城の中へ入っていった。しかし、次にこの親友とルザリアの宮廷で会う機会はないかもしれないとヴォルマルフは密かに思った。王の怒りを買うか、王子の失望を招くか、そのどちらかだ。どちらにせよ宮廷を追い出されるのは確実だろう。
 神よ! 哀れな我が身にどうか慈悲の手を!

  

  

  

>Chapter3

  

  

花嫁の決断:Chapter1

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*chapter1

     

  

     

  

 デナムンダ王がブラを攻め落としたらしい――朗報はすぐにイヴァリースの王都にも届けられた。その興奮は直接戦地に赴かずに宮中の護衛の任についていた騎士たちにも十分に伝わったようだった。
「伝令によるとデナムンダ王の勝利には北天騎士団の将軍サー・バルバネス・ベオルブが大いに貢献したという。オルダリーアに軍配を上げて上機嫌の陛下はその場でサー・バルバネスに天騎士の称号を授けたらしい」
「そうか、それは名誉なことだな」
 ヴォルマルフはルザリアの宮廷で遠い戦場の様子を友人から伝え聞いていた。天騎士といえば騎士の最高の将軍だ。サー・バルバネスの素晴らしい戦いぶりを想像して、ヴォルマルフは心の底から羨望を感じた。
 ヴォルマルフは二十二歳。成人してようやく一人前と認められた若き騎士であった。濃いブラウンの髪に、髪色と同じ色の瞳を持っていた。その端正な顔つきと礼儀正しく穏やかな物腰のおかげで宮廷での評判は高かったが、一方の本人はそういった噂話や他人の名声といったものには大した興味を持たない宮廷ではやや珍しい部類の人間であった。ヴォルマルフはオルダリーアへの侵攻作戦には直接参加しないで王都に残った騎士の一人だった――彼は遠征中の国王に代わって王都を守る王子付きの騎士なのであった。
「しかし、いくら鴎国の首都とはいえ、陥落させるまでに随分と時間が掛かったものだな」
 友人にそう言うと、ヴォルマルフは国王がオルダリーアに宣戦布告をした日のことを思い出した。その時、ヴォルマルフはまだ十歳かそこらだった。つまり、オルダリーアへの宣戦布告から十年近くが経過していることになる。十年という月日は以外と長い。国王の布告を聞いたときはまだ見習い騎士であったヴォルマルフも十年経った今や立派な騎士である。
 この十年の間、ヴォルマルフはこの戦争で騎士として戦い、手柄を立てたいと密かに思っていた。けれど、畏鴎両国の間で表だった戦闘はなく、膠着状態が続いていた。十年。その長い年月の間にヴォルマルフは戦さで功績を上げるという夢を忘れかけていた――しかし、バルバネスが国王のために戦い天騎士の称号を得たというたった今飛び込んできた朗報は、ヴォルマルフの忘れかけていた夢を再び思い起こさせた。彼も騎士である。戦さで手柄を立てて功績を認められることは騎士の誉れだ。そしてサー・バルバネスのように自分の騎士団を持てたなら――騎士ならば誰でも憧れるようなたわいもない、ありふれた夢だ。だが武家の棟梁の出ならまだしも、ただの名もなき地方貴族の出であるヴォルマルフには果てしなく遠い夢だった。
「十年もかかったか。たしかに長いといえば長いが……」
 ヴォルマルフの話相手となっているのは彼の宮廷での親友フランソワだった。彼はヴォルマルフより五歳年上で、宮廷で見習い騎士をしていた頃から何かと面倒を見てもらっていた。
 彼らは代わり映えのない宮廷生活の退屈さを紛らわせるために、華やかな戦場の出来事に思いを馳せていた。
「デナムンダ大王がオルダリーアに宣戦布告したのはゼラモニア独立支援のためだった――少なくとも、表向きには」
「フランソワ、詳しいのだな。私はその頃まだ十歳だった。政治のことはよく分かっていなかった」
「大王は、オルダリーアのディワンヌ王亡き後の王位継承に納得がいかなかったのさ。デナムンダ王と鴎国のヴァロワ王は仇敵同士だ。畏鴎両国がゼラモニアを挟んでにらみ合っているという寸法だ」
 フランソワは宮廷の侍従長官の息子だった。その家柄もあってか、国内外の情勢に通じていて国王の動向にも詳しかった。また、彼はヴォルマルフと違って剣をふるう騎士ではなくペンを持った詩人であった。フランソワのような宮廷詩人の役目は宮廷の内外の出来事を詩にしたためて、王の権威を誇示することである。つまり、彼は情報屋であり、こういった世情に通じた人なのである。逆にヴォルマルフはこういった分野にはてんで疎いのであった。
「しかし、この十年で両国の間に目立った戦闘はなかったではないか。戦争は終結したのだと私は思っていた」
 ヴォルマルフは言った。戦争が終わったのなら戦場で手柄を立てる機会もないだろう、とずっと落胆していたのだ。
「あくまでこの戦争の名目はゼラモニアの支援であったからな……ゼラモニアはオルダリーア戦闘を仕掛ける気がなかったのだ」
「なぜだ? 王国の独立は民の希望ではなかったのか」
「勿論そうだろうよ。だが、それを見越してオルダリーアが先手を打ったのだ。ゼラモニアの旧王家の血を引く諸侯や彼らの妻子をブラの宮殿に迎え入れたのだ。つまり、オルダリーアは<人質>を取ることで反乱を事前に鎮圧させたのだ」
「そうか……」
「オルダリーアの目論見通りゼラモニアはこの十年、宗主国であるオルダリーアに反乱を起こすことなく服従していた。だが、不満を募らせたのは我らが国王だ。ゼラモニアと同盟を結ぶことでせっかくオルダリーアに侵略する口実が出来たというのに、当のゼラモニアは進軍に乗り気ではないのだから話にならない。しばらく様子を見ながら進軍の機会を眈々と狙っていたのだが――とうとうしびれを切らしたのだろう。国王は誰が見てももう老体だ。老い先が短いことを悟り、死ぬまでにヴァロワの首を取りたいと考えたのだろう。此度のブラ侵攻も、おそらく我らが国王が重い腰のゼラモニア諸侯に圧力を掛けて挙兵させたのだろう」
「陛下らしいやり方だ」
 ヴォルマルフはルザリアの宮殿で長く暮らしていたので国王の人となりについてはよく知っていた。泣く子も黙る戦大王、というのがデナムンダ王のひそかな渾名だった。もっとも、王はイヴァリース各地での狩猟に明け暮れており宮殿にいることは滅多になく、王国の内政については王の嫡子であるアンセルム王子に任せっきりであったが。
「まあ、勢いがあって精力旺盛なのは良いことだ。戦大王のおかげでイヴァリースは他国の侵略を免れている。そもそもデナムンダ王とヴァロワ王との間に確執が生まれたのは、鴎国の先代の国王が跡継ぎも作らずに死んだせいだ。その点では、我らが国王陛下は安心だ。正嫡の王子も王女もいるし、庶子にいたっては数え切れないほど作ってしまったのだからな」
 フランソワは笑いながら話した。ヴォルマルフは彼の皮肉屋な性格をよく知っていたので、人前であまり王の批判はするなよ、とだけ親友に告げた。親友が宮廷で敵を作らないようにと思っての忠告である。ところがフランソワはヴォルマルフの心配も気にせず「批判精神は詩人の美徳の一つさ」と返した。

  

  

「サー・ヴォルマルフ、殿下がお呼びです」
 折しも、フランソワと王に関する不穏な話をしていた最中だったので、急いできたらしい王子の小姓に名前を呼ばれたヴォルマルフはその場で飛び上がらんばかりに驚いた。心臓が止まるかと思った。なのにフランソワは涼しい顔をしている。ヴォルマルフは親友をにらみつけた。
「私に何の用だ?」
「殿下が<内密かつ重大なお話>があるので至急来て欲しいとのことです」
 息を切らして走ってきた小姓はヴォルマルフに王子の伝言を伝えた。ヴォルマルフは何のことやら察しかねて首をかしげた。そしてあまり深刻な事ではないと良いのだが、と気乗りのしない腰を上げた。
 小姓に案内されてヴォルマルフが通されたのは王のプライベートな私室だった。アンセルム王子は臙脂色の丈の長い長衣を着て部屋の机に向かっていた。机の上には一通の手紙が置かれていた。王子がそれを深刻な表情で見つめているので、それが重要なものであるとすぐにヴォルマルフは分かった。
「お呼びですか、殿下」
「おお、さっそく来てくれたかヴォルマルフよ。これを見よ。父上が私に手紙を寄越したのだ」
「陛下が……そういえば陛下はゼラモニアで素晴らしい戦果を上げられたそうですね。先ほど私らのもとにも戦報が届きました」
「そうだ、それが問題なのだ。私を悩ませるのはいつも父なのだ」
 アンセルム王子は長いため息をついた。アンセルム王子はアトカーシャ王家の人間に共通した美しい容貌――ブロンドの巻き毛――を持っていた。王子は王家の象徴でもあるその綺麗なブロンドの髪を長くのばしていた。彫りの深い顔立ちもあって、王子はその場にたたずむだけで肖像画のように美しい人であった。彼は容貌こそ父である国王とそっくりであったが、性格は真逆であった。デナムンダ国王が血気に盛んな戦大王であるのに対して、王子は温厚で柔和な気質だった。芸術と音楽をこよなく愛し、父である国王と一緒に鴎国遠征に行くこともなかった。アンセルム王子は遠征中の国王不在の代理として王宮で政務にあたっている、というのが表向きの理由であったが、実際のところは王子が剣を持って戦うことを好まないからだということを臣下たちは薄々察していた。
 そのアンセルム王子が非常に険しい表情をしている。視線の先にはデナムンダ国王から届いたらしいの手紙が置かれている。
 また陛下が無理難題を押しつけてきたのだろうか、とヴォルマルフは思った。国王の縦横無尽な振る舞いに王子が手を焼いていることをヴォルマルフは知っていた。
「ヴォルマルフよ、これを見よ――この手紙によると父はブラを攻め落とし種々の戦利品を手に入れたらしい。オルダリーアからは勿論のこと、ゼラモニアからも同盟と協力の見返りに少なからぬ財を受け取ったようだ」
「それは良きことです――陛下に栄光を。イヴァリースの繁栄は陛下のおかげです」
「父はこう書いている――『私はおまえに、私が手に入れた中で最良のものを与える』と」
「……それは何でしょう?」
「妻だ。どうやら父はゼラモニア貴族の娘をもらったらしいのだ。つまり私にオルダリーアから連れてきたゼラモニア貴族の娘と結婚せよと命じている――だが私はその結婚に気乗りがしない。父の望む結婚など私は断る」
「左様でございますか……」
 さすがにデナムンダ国王は齢五十を超えている。老体の身とあっては若い娘と釣り合わないと感じ、息子に若妻を譲ってやろうと思ったのだろうか。
「父はどうやら私に相談することなく話を進めたようだ。その娘をゼラモニアまで迎えに行き、ルザリアまで連れてくるようにと父は私に命じている。ヴォルマルフ・ティンジェル。私は父である国王の名の下に、おまえにその護衛の任を命ずる」
 王子の婚約者。つまり未来のイヴァリース王妃となる人を迎えにいくのだ。ヴォルマルフは冷や汗をかいた。これは大任すぎる。とても二十才そこらの若者に任せる護衛ではないだろう。つまり、何か事情があるのではないか。ヴォルマルフは不審に思った。
 彼の思惑は当たった。アンセルム王子はこう付け足したのだった。
「――だがもう一つ、アンセルム・デナムンダ・アトカーシャの名の下に命ずる。娘に会い、この望まぬ縁談を穏便に破棄せよ――」

  

  

「ヴォルマルフ。どうした? 干上がった魚みたいな眼をしてるじゃないか」
 アンセルム王子の私室を辞し、ヴォルマルフはフランソワの場所に戻ってきていた。王子との話の内容が気になるフランソワにせっつかれていたが、当のヴォルマルフは上の空だった。まだ王子の言葉が脳裏にこびりついていた。
「ヴォルマルフ! おい、どうしたんだよ。殿下の私室に呼ばれるとは随分な話じゃないか。大事な任務を任されたんじゃないのか?」
「ああ――婚約を――」
「婚約! とうとうおまえも結婚するのか! 殿下が仲人か? それは素晴ら――」
「違う! 私ではない――殿下の婚約だ。陛下の命令で殿下の婚約を取り持つように言われ、殿下の命令で陛下の婚約を破棄するように言われた」
「おいおい、俺にも分かるように話せ。おまえが何を言っているのかさっぱり分からん」
「つまりだな――」
 ヴォルマルフは順を追って説明をした。
「なるほど。おまえはこれからゼラモニアまで殿下の婚約者を迎えに行き、そして婚約者を説得して婚約を破棄させるのか。殿下はあくまで相手方の都合で婚約を取り消すという流れにしたいのだな」
 フランソワは興味津々という顔で腕を組んだ。
「そうだ。アンセルム殿下は父である陛下の決めた縁談を表だって破棄することを望んでいない。だが、それでもこの婚約は王の取り決めなのだ。破談になったら王の怒りを買うのは間違いない。つまりこの任務に就いた私は宮廷での地位を失う――せっかく騎士になれたばかりだというのに――それどころか、もしかしたら首が飛びかねない」
「だが、そのゼラモニアの姫様を婚約者としてルザリアに連れてきてしまえば、今度は王子の機嫌を損ねるという訳か」
「どちらにせよ、私が宮廷で出世できる望みは絶たれることになる」
 ヴォルマルフは我が身のことを思い、その場に倒れ込みそうだった。どうすれば良いのだ。アンセルム王子が強権的な国王に振り回されているのを知っているヴォルマルフは、なんとか王子の力になりたかった。けれど、大した肩書きもない一介の騎士がこじれた王家の結婚問題を解決するのはどう考えても不可能だ。
「まあまあ、そう悲観的になるなよ。おまえがうまく立ち回ればその悲劇は回避できる。要は、姫様の気を反らせて、ゼラモニア側からこの婚約を破談にさせるようにし向ければ良いのだろう?」
 これはおもしろい事になったとばかりにフランソワは楽しげな素振りを見せていた。ヴォルマルフはあきれた。これだから詩人の友達は持つべきではない。考えるより先に口から言葉が出てくる。
「フランソワ! 事の重大さを分かって話しているのだろうな! この任務はイヴァリース王家の将来が――私の未来も――かかっているんだぞ! 王子の婚約者はゼラモニア貴族の娘だという。イヴァリース王家と血縁関係になれるチャンスをわざわざ捨てるとは思えない」
「父親はな。だが娘はどうだ? 故郷を離れて見ず知らずの男のもとに嫁ぐ気になるか? しかも彼女は今までずっと祖国を離れて敵国で<人質>として暮らしていたんだろう。女心を読めよ。彼女の気持ちを考えれば分かるだろう。それだけさ。簡単なことだろ」
「女心など分かるものか。私はまだ結婚もしていないというのに――プロポーズをする前に破談の策略を仕掛けにいかなくてはならない」
 女心! そんなものが分かるはずもない。なのに縁談の調停役をしなければならないとは皮肉なことだな、とヴォルマルフは思った。
「しかし、なぜ王はゼラモニア貴族の娘を王家に迎え入れようと思ったんだ?」とフランソワ。
「さあ。だが、殿下が結婚に反対する理由は察しがつく――陛下の干渉を退けたいのだろう。」
 アンセルム王子はヴォルマルフやフランソワより一回り年上のまだ若き王族だった。父親であるデナムンダ国王は独裁君主として采配を振り続け、息子にふさわしい結婚相手を見つけてきた。そう、アンセルム王子は既に結婚していた。だが、不幸なことに王子妃は流行病で二年前に帰らぬ人となっていた――次々代のイヴァリース国王となるであろう跡継ぎ一人を残して。
 ヴォルマルフは王子付きの騎士として、王子夫妻のことをよく知っていた。アンセルム王子は政略結婚とはいえ王子妃のことを愛していた。だからこそ、妃亡きあと数年も経たずに、再び国王から結婚を押しつけられるのは我慢がならないのだろう。ヴォルマルフは王子に同情した。王子の望みのためならどんな労力も厭わないとさえ思っているのであるが――
「フランソワ。私はこの任務を果たすべきなのか分からなくなってきた。陛下の真意は定かではないが、ゼラモニアとイヴァリースの同盟を維持したいとお考えなのだろう。だとしたら、私はイヴァリースの騎士としてこの結婚を取り持つべきではないだろうか――それとも、やはり仕えるお方の為に忠義をしめして、殿下のお心の平穏の為に働くべきだろうか。どちらが良いのか私にはさっぱり分からない」
「ふむ……」
「それに、気がかりなのは婚約者の娘のことだ。<人質>としてブラで幽閉されて育ったのだろう。そしてやっと祖国に帰還することができたかと思えば、息つく暇もなくすぐに他国の王家の見知らぬ人間のもとへ嫁がされるのだ。不憫な運命だと思わないか?」
「小国の貴族の宿命だな」
「彼女にとって、この結婚は望ましいものではないかもしれない――だが、こう考えることもできる。殿下は結婚に乗り気ではないとはいえ、温厚なお方だ。跡継ぎがいるからといって後妻の王子妃を冷たく見放すような性格ではない。けれど、もし、この婚約が破談になれば、彼女はまたどこかの貴族と結婚させられるのだろう。その未来の夫がアンセルム王子のように柔和な人柄である保証はない。妻に手を挙げる横暴な夫である可能性だってある。つまり、私の決断が彼女の一生を左右することにな――」
「分かったよ――おまえがごちゃごちゃと考える性格なのは分かった」
「フランソワ! おまえはもっと真面目に考えろ! イヴァリースの王国の未来と殿下とその婚約者の未来も私の決断一つに懸かっているんだ」
「ヴォルマルフ。もっと肩の力を抜けよ。俺たちはまだ二十代なんだ。国の将来と娘の人生を担ぐにはまだ若すぎる」
 ヴォルマルフは眉間にしわを寄せている。彼が勤勉で堅実な性格なのはフランソワも十分承知している。その誠実な人柄あってこそ王子の信頼を得てこのような大役を任されたのであろうが――どうやらこいつには少々荷が重すぎるようだ。
 ふと、フランソワの脳裏にある計画がよぎった。
「そうだ! おまえがその姫さんと結婚すればいい。そうすれば婚約破棄もできる、彼女の将来も安心だ。名案じゃないか?」
「馬鹿! 相手は殿下の婚約者なのだぞ! そんなことをしでかしたら私が王子の婚約者を寝取ったと思われるだろうが!」
 親友の突飛な発言にヴォルマルフは吹き出した。何が「名案だ!」だ。そんな計画を立てようものならヴォルマルフの宮廷での地位が危ぶまれる。
 ヴォルマルフは小さくため息をつくと思った。戦で手柄を立て、自分の騎士団を持つ――そんなことは夢のまた夢だと。

  

  

  

>Chapter2

  

  

花嫁の決断:Prologue

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*prologue

     

  

     

  

 ――鴎国首都ブラの王城にて

 イゾルデは城の地下の武器庫に逃げ込むと、その場に小さく縮こまった。部屋の四隅には剣やら槍やら斧やらが整頓されることなく無造作に積まれていた。イゾルデはその中から一本の長剣をそっと引き抜いた。それは深紅のドレスを纏ったレディには似つかわしくない物騒な武器だった。彼女は生まれて初めて持った剣の重さに驚き、少しよろめいた。
 彼女は不運なことにあと一時間もしないうちに死ぬ運命にあった。
 レディ・イゾルデ――彼女はオルダリーアの隣国<だった>ゼラモニア――今はオルダリーアの属州――の出身であり、父親はゼラモニアの名高き諸侯であった。オルダリーアによるゼラモニア併合に不満を持つ当地の諸侯の反乱をおそれたオルダリーア当局はゼラモニアの諸侯の妻子らを首都ブラの宮殿に招いた。つまり、<人質>を要求したのであった。イゾルデもその一人であった。彼女はブラの宮殿で何一つ不自由ない優雅な生活を送っていたが、それも祖国の服従あってのかりそめの自由だった。もし、ゼルテニアに独立反乱の気運が少しでもあろうものなら、彼女ら<人質>の命は保証されなかった。
 今、彼女はブラの宮殿の脱出を試みていた。大国への服従に耐えかねたゼラモニアがとうとうオルダリーアに対して挙兵したのである。彼女は祖国の動向を宮中の侍女らから伝え聞いた。ゼラモニアが反乱を表明したということは、つまり彼女ら<人質>の命が危ないということだった。イゾルデは彼女の世話をしていた侍女や小間使いたちにが戦さに巻き込まれないように安全な場所に逃がすと、自らも逃走をはかった。だが、どこへ逃げればよいのかさっぱり分からなかった。
 イゾルデは生まれてからこのから二十数年をブラの宮殿で過ごしていた。閑雅で享楽的な宮廷人たちと一緒に暮らし、イゾルデはすっかり楽観的な姫様暮らしが板に付いていた。しかし、いくら苦労知らずの姫様暮らしに慣れきっていたイゾルデであっても、彼女の祖国ゼラモニアが大国オルダリーアにどうあがいても太刀打ち出来るはずがないと思えるだけの理性は残っていた。彼女は今、城の地下の武器庫で剣を握りしめながら、父は気が狂ってしまったのではないかとさえ思っていた。父はどうして家族を見捨てて勝ち目のない戦さを挑んでしまったのだろう。ああ、私はあと一時間もしないうちにオルダリーア兵に殺されるんだわ――イゾルデの状況は絶望的だった。
 彼女が震える手で剣を握りしめている時、廊下に足音が響いた。誰かが近づいてくる。イゾルデはその足音の主が何者であるか分からなかった。逃げ出した<人質>を捕らえにきた城の衛兵か、それともオルダリーア側の兵士が城に乗り込んできたのかだろうか。父が敵国に捕らわれた娘を助けに颯爽と現れる――そんな奇跡的な展開は想像できなかった。名もなき騎士が捕らわれの姫を助けに来てくれるのは、吟遊詩人の歌うロマンスの中だけのことなのだ。こんな馬鹿げた空想にふける暇があるのなら、神に祈った方がまだ有益であるとイゾルデは思った。
 扉を叩く激しい音がした。武器庫に鍵はかかっていたが、蹴破られるのも時間の問題だった。イゾルデは身構え、剣を力強く握った。戦い方は全く知らなかったが、こうして剣を構えておけば少なくとも威嚇にはなるかもしれない、とわずかに願いながら。
 とうとう扉が破られた。現れたのは長身の甲冑姿の騎士だった。土埃で汚れた白いマントを羽織っていた。相手の騎士は武器庫に人が居ると思っていなかったのか、イゾルデを見つけると驚いてその場に立ち止まった。
 イゾルデはおそるおそる口を開いた。気分はさながら死刑執行前の罪人のようだった。
「騎士さま、あなたはどなたですの? ゼラモニアの方?」
「いいえ」
 その返事を聞いてイゾルデは身震いした。ではこの人はオルダリーアの兵士だわ。神よ!
「――では、オルダリーアの方ですの?」
「いいえ」
 その答えを聞いてイゾルデはその場で硬直した。ゼラモニアの兵士でもなく、オルダリーアの兵士でもなければ、この男は一体何者であるか。
「私はゼラモニアの者でもオルダリーアの者でもありません。私はあなたのお父様の名前のもとに、イヴァリースより来ました――バルバネス・ベオルブです」
 イヴァリース。それはゼラモニアのさらに向こうにある大国だ。でも、なぜイヴァリースの騎士がオルダリーアに居るのだろうか。その騎士がなぜ父の名を?
 バルバネスと名乗る騎士は兜を外した。兜の下の凛々しい顔を見てイゾルデは驚いた。事情はさっぱり分からないが、なんて端正な顔立ちをしているのだろうか。彼は長いブロンドの髪を後ろで無造作に束ねていた。額に汗がにじんでいた。そして、やっと彼女は気づいた――バルバネスと名乗る男はイゾルデの父親の名前を出した。つまり、この人はオルダリーア兵を倒して私を助けにきてくれたのだ!
 バルバネスは、自分のマントを外すと、イゾルデにそっと羽織らせた。イゾルデはその時、彼の白地のマントに緑の獅子刺繍でほどこされているのに気づき、獅子がイヴァリースの王家の紋章であるということを思い出した。
「あなたがレディ・イゾルデですね?」
 バルバネスの問いかけにイゾルデは「はい」とだけ答え、差し出された手を取る。
 この騎士さまは私の手をとって私の祖国へ連れていってくれるのだ! 自分はもはや殺されることなく、あとはこの騎士に全てを委ねればよいのだと思うとイゾルデは安堵のあまり体中の力が抜けた。なんて素晴らしいことかしら。無事ゼラモニアへ帰れたら城に来ている吟遊詩人に少しは敬意を払おうと彼女は密かに誓った。なぜなら、彼らの語る物語に真実があると分かったからだ。
「いやあ、城中を探しましたよ、レディ! しかしまさか武器庫にいらっしゃるとは!」
「あら――」
 イゾルデは自分が剣を手にしたままであることを思い出した。数分前まで彼女は生きるか死ぬかの必死の思いで剣を握っていたのだ。けれど、もうその心配はどこかに消え去っていた。突然現れたこの素敵なブロンドの騎士に任せれば、全てが大丈夫なように思えた。
「レディ、こんな場所で何をしていたのですか。まさか剣を持って戦うおつもりでは――」
「ええ、私も加勢しようと戦いの準備をしていたところだったのです」
 殺されるかもしれないという不安が消し飛んだおかげで、イゾルデは持ち前の明るさを取り戻した。ブラの宮廷に群がる騎士たちと楽しくおしゃべりをしていた日々を思い出した。すっかり安心したイゾルデは剣を棚に戻すと笑って答えた。「騎士さま、私も一緒に戦いたいのですが、あいにく私にぴったりな鎧がないようでして。オルダリーアの騎士たちがみんな持って行ってしまったようですわ」
 イゾルデの返答にバルバネスはほほえんだ。
「それは頼もしいお姫様だ。それでは私の護衛は必要ないかな?」
「いいえ! あなたのような騎士さまに護衛してもらえるのはとても光栄なことですわ! それに私、生まれてからずっとブラで暮らしているのです。ゼラモニアへの行き方も知りません――あなたのエスコートなしには故郷へ帰れませんわ」

  

  

  

>Chapter1

  

 

Aspects of Family:あなたのお誕生日はいつ?

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あなたのお誕生日はいつ?

     

  

     

  

 ヴォルマルフ・ティンジェルはミュロンドの神殿騎士団の騎士団長である――そして二児の父親でもある。彼は妻の忘れ形見の二人の子どもたちの子育てに奮闘中であった。
「ヴォルマルフよ、実はこのあいだ息子たちに『お母さんが欲しい』と言われてしまってな……」
 ヴォルマルフと天騎士バルバネスは旧知の仲であった。二人とも同じ騎士団長であり、そして二人とも子育てに悩む父親であった。といっても、バルバネスの方が年齢も身分も父親歴も上であった。だから旧知の仲といっても、ヴォルマルフはバルバネスに礼儀を欠くことなく折り目正しく接していた。
「サー・バルバネス……それは災難でしたね」
 バルバネスはヴォルマルフに家庭の愚痴をこぼしていた。天騎士の家の家庭事情もなかなかに複雑なのだ。
「他人事ではないぞ、ヴォルマルフ。おまえも父一人で二人の子どもたちの面倒を見ているだろう。いつ『お母さんが欲しい』と言われてもおかしくはないぞ」
「ご心配は無用です。天騎士様。私の子どもたちは私にとても懐いております。それに、私は仕事にかまけて家庭を省みないような人間ではありません」
 ヴォルマルフはバルバネスに誇らしげに言った。たしかに、メリアドールとイズルードには母親がいなくて寂しい想いをさせていまっているかもしれない。だが、ヴォルマルフは再婚するつもりは全くなかった。母親の分まで自分が愛せば良いことだ。
「そうか……それは羨ましいかぎりだ。私は最近、騎士団の仕事が忙しくてな。なかなか家に帰れない。だから、たまに帰るとつい息子たちを甘やかしてしまう」
 バルバネスは、困ったものだ、とため息を漏らした。
「だが、ダイスダーグにはいずれ騎士団を継がせようと思っている。父親としての威厳も見せてやらないとな……ヴォルマルフ、貴殿のところも子ども達に騎士団を継がせるのか?」
「ああ……」
 ヴォルマルフは曖昧に答えた。
 自分の跡を誰が継ぐのか、そんなことは考えたこともなかった。

     

  

「パパ! おかえりなさい」
 ヴォルマルフが家に帰ってくるとすぐに娘が駆け寄ってきた。父親の帰りを待ちわびていたようだ。遅れてイズルードも走ってきた。「父さん、おかえりなさい」
 ヴォルマルフは二人を抱きよせてただいまのキスをした。
「パパ、もうすぐ私の誕生日なの。覚えてる?」
「もちろん」
 磨羯の月の二日。忘れるはずもない。
「私ね、誕生日に欲しいものがあるの……パパにお願いしてもいい?」
「可愛い我が子の頼みごとなら何でも聞こう。メリア、何が欲しいんだ?」
「新しいパパが欲しいの!」
 娘の言葉を聞いてヴォルマルフはその場で硬直した。
 新しいパパだと?
「そっそれは……もうこのパパはいらないと言うのか……?」
 ヴォルマルフは恐る恐る聞き返した。ここでメリアドールにうなずかれたらショックで死んでしまうだろう。
「ううん、そうじゃなくて……一緒に遊んでくれるパパが欲しいの」
「ああ、そういう意味か……イズルード、おまえも新しいパパが欲しいか」
「僕は今の父さんでいい。でも、もっと一緒にいたい」
 やはり子たちは寂しがっているのだ。仕事を放り出して一緒に遊んでやりたい気持ちは山々だが……そうは出来ないのが騎士団長のつらいところだ。
「パパはいつも何をしているの?」
 メリアドールが聞いた。
「教会のお仕事をしているんだ」
 子どもたちに神殿騎士団の仕事について、ちゃんと話してはいなかった。というより、言えなかった。
 神殿騎士団の仕事といえば、教会が表沙汰に処理できない裏の仕事を片づけることだ。娘に向かって、パパの仕事は民衆を殺して真なる神のために生き血を集めることだと言えるだろうか。無理だ。
「父さんは騎士団のとても偉い人だってこと、僕は知ってるよ。僕も父さんみたいな騎士になれる?」
 何と答えれば良いのか……ヴォルマルフは戸惑った。息子に父親と同じ騎士になりたいと言われるのは嬉しい。だが素直に喜べないのだ。
「私の方が先に騎士になるのよ! 私がお姉さんなんだから!」
 メリアドールが割り込んだ。
「ああ……そうだな。二人とも良い騎士になれるだろう」
 ヴォルマルフは交互に二人の頭を撫でた。

     

  

 ローファルはミュロンド寺院の地下墓所の中でじっと佇んでいた。この墓所が薄暗く不気味な雰囲気を醸し出しているのは、この場所が聖天使への生け贄を捧げる場所に選ばれているからだ。ここへ立ち入ることが出来るのは、神殿騎士と、彼らに屠られることになる、哀れな生け贄たちだけであった。
 ローファルは覚悟を決めて、自らの死を受け入れた――生け贄として血を捧げる決意をしたのである。
 彼はクリスタルに宿る太古の知識を得るために身体を犠牲にした。そして膨大な知識を得た。だが、その結果、グレバドス教会について知ってはいけない真実までを知ってしまったのである。信仰も肉体も失った。
 教会にとって、不死の肉体とは便利なものだった。殺しても肉体は蘇り続けるのだ。その肉体が滅しないかぎり生き血が永久に手に入る。教会がそのような不死の肉体を持つローファルに目を付けないはずがなかった。すぐに彼は捕らえられ、教会のために<奉仕>せよと命じられた。
 ローファルは抵抗しなかった。聖石から叡智を授けられた時点で、人としての真っ当な生き方は放棄していた――せざるを得なかった。彼の中にはどんな呪われた運命を超然として受け入れる、ある種の諦観が生まれていた。
 静かな地下墓所に足音が響いた。
「……あなたが来るのを、お待ちしておりました」
 ローファルは振り向かずに言った。相手は誰だか分かっている。神殿騎士団団長のヴォルマルフ・ティンジェルだ。誰からも恐れられ、彼自身が悪魔と契約していると噂されるほどであった。このままローファルのことを何の感情もなく斬り捨てることだろう――
 沈黙。
 長い沈黙。
 そして、長い沈黙の後、何も起こらなかった。
「ヴォルマルフ様?」
 ローファルが怪訝に思って後ろを振り返ると、そこには一人の男が立っていた。肩に小さい女の子を担ぎ、空いた手で彼女と同じくらいの背格好の男の子を連れている。剣は腰に差していたが、どうみても家族連れの父親だ。
「あの……私はここで神殿騎士団のヴォルマルフ・ティンジェルという人物を待っているのですが……」
「私がヴォルマルフだ」
「人違いではなくて……?」
 ローファルは聖石を手にしてからというもの、何に動揺することもなくなった。けれど、さすがのローファルも驚かざるを得なかった。娘(?)を肩に担いだまま人を殺しにきたのか? しかし、娘(?)にそんな殺戮の場を見せるとは、悪趣味な父親だ……
 けれど、ヴォルマルフは動かなかった。
 ローファルもどうして良いか分からず動けなかった。
「あの、あなたは何のご用でここにいらっしゃったのでしょうか……」
 ローファルは困惑して言った。
「そ、それは……私もどうしてよいか分からなくなった」
 ヴォルマルフも困惑している様子だった。ローファルはますます訳が分からなくなった。

     

  

「しっかりしてください、あなたが騎士団長でしょう」
 結局、ヴォルマルフはローファルを殺さなかった。そして、そのまま彼をミュロンドの自宅に案内した。
 このまま血を抜かれる覚悟をしていたローファルは拍子抜けした。
「何故、私を殺さなかったのです? 血を集めることがあなたの役目でしょう」
「いや……ずっと娘を担いできて手が疲れてしまって」
「……そんな理由がありますか」
 ローファルは呆れた。神殿騎士団に目を付けられたら最期、一滴残らず血を絞り取られる、とまで陰でささやかれているというのに……
「だいたい、地下墓所に娘さんと一緒に来るとはどういう事です?」
「娘だけじゃない、息子もいた。イズルードのことも忘れないでやってくれ」
「ヴォルマルフ様……私の言っている意味が理解できますか」
「ああ、分かっているとも。私だって好きで家族を連れ込んだわけじゃない。子どもたちに父親の仕事している姿が見たいと頼まれ断れなかったのだ。父親が働いてないと思われたら、父の尊厳が台無しだろう」
「はい……それは、そうですね」
「……それで断れなかった。そしてつい娘に言ってしまったのだ。『パパは教会の騎士で、悪い人をやっつけるのが仕事なんだ』と――どうしよう」
「そんな事実と全くかすりもしない職務内容を言っておいて……私はフォローしかねます」
「だが事実をいったら嫌われるだろう。父親が陰で人間の生き血を集めていると知ったら、どう思われるだろう」
「父親と見なしてもらえないでしょうね。人間と思ってもらえるかも……」
「駄目だ! 絶対に駄目だ! それだけは避けねばなるまい」
 ヴォルマルフは悲痛な叫び声をあげた。
「ヴォルマルフ様……つまり、総括すると『子ども達の前で良い父親の格好をつけたかった』と言うことですね」
「うむ。その通りだ。おまえは……たしかローファルとか名乗ったな。運が良かったな。私の子らのおかげで命が助かったのだ。感謝することだ」
「そう言われましても……」
 ローファルは自分のことをもてあましていた。
 生きていることを感謝しろと言われても、元々捨てたも同然の人生だ。
「なんだ、嬉しくないのか?」
「ええ……でも私を殺しても別に構わないのですよ? この肉体は教会に捧げるつもりだったのです。どうぞ好きに使ってください」
「そう言うのならば、好きに使わせてもらうぞ」
 その時、父親の様子をうかがうように、金髪の少女が入ってきた――飛び込んできたというのが正しいかもしれない。ローファルはこの子がヴォルマルフの箱入り娘なのだとすぐに分かった。
「パパ! この人は? この人は誰? パパのお友達?」
「私は――」
 ローファルは何と答えようか迷った。ヴォルマルフが娘を抱き寄せながらローファルに視線を送っている。絶対に真相をばらすなよ、という顔だ。
「……私はあなたのお父様に助けていただいたのです」
「本当?」
「はい。命を救ってくださいました」
「パパすごい! 騎士みたい」
「おまえが生まれる前からパパは騎士だったんだよ」
 はしゃぐ娘に自慢げに言うヴォルマルフだった。
 それは、紛れもなく、幸せな親子の姿だった。喜ぶ二人の姿を見てローファルは言葉を続けた。
「お嬢様、私がこうして生きていられるのは、あなたのおかげでもあるのです」

     

  

「仕事中に父さんの部屋に勝手に入ったら怒られるよ」
「イズ、黙ってて」
 メリアドールは父が連れてきた若い男の人のことが気になっていた。
 さっきから二人っきりで話している。
 何の話をしているのか父親に教えてもらおうとメリアドールは部屋に入っていった。尻込みしている弟はその場に置いてきた。
「――お嬢様、私がこうして生きていられるのは、あなたのおかげでもあるのです」
 父が命を救ったという、その謎めいた人物は、メリアドールの前で膝を折ってきちんと挨拶をした。
 え? 何? 
 メリアドールは突然のことに少し驚いた。自分が何をしたらこんなに丁寧に感謝されるのかも分からない。お嬢様、なんて呼ばれる経験もほとんどなかった。まるで騎士にかしずかれるお姫様みたい。ちょっと嬉しかった。
「あなたは誰?」
「私はローファル・ウォドリング。教会に仕える人間です」
「じゃあパパと同じね。私のパパも教会に仕える偉い人なの」
「私はあなたのお父様ほど偉い人間ではありませんよ。サー・ヴォルマルフ・ティンジェルは神殿騎士騎士団の団長ですが、私は何の肩書きも持たない存在――ただの人間です」
「……じゃあ、私のパパみたいにたくさん仕事をしなくてもいいの? 私とたくさん遊んでくれる?」
「お嬢様の好きなように」
「嬉しい! すごいわ! 私ね、お誕生日に新しいパパが欲しいと神様にお願いしたの。そうしたらパパがあなたを連れてきてくれた」
「あなたのお父様はヴォルマルフ様ただお一人ですよ。私では代わりになれませんが……」
「でも私とずっと一緒に居てくれるんでしょう?」
「はい」
「だったら、もう私の家族だわ!」
 きっと、誕生日の前に神様が贈り物をくださったんだわ。母はずっと前に死んでしまった。だからメリアドールの家族は父と弟だけだった。でもこれからはローファルが新しく家族になってくれる。素晴らしいことだ。
「ローファル、あなたのお誕生日はいつ? 私は明日なの! お誕生日は生きていることに感謝する日なの。それにたくさんの人が私に『おめでとう』と言ってくれる素敵な日なの」
「誕生日ですか……私の生まれた日は――今日です」
「そうなのね、なら今日はあなたにたくさん『おめでとう』と言わなくちゃ。待ってて、今イズルードを呼んでくるわ」
 メリアドールはローファルに抱き付いて「おめでとう」と言ってから、イズルードを探しに部屋を出た。

     

  

「生きているだけで感謝される日がくるとは……驚きです」ローファルは言った。
「今日が誕生日というのは本当か? うちの娘と一日違いとは偶然だな」
「本当の日は忘れました。でも生まれた日というなら、間違いなく今日です。今日から私は神殿騎士として生きていきます――あなた方と一緒に」
 そうか、とヴォルマルフは頷いた。「……まだ私はおまえを騎士団に迎え入れるとは一言も言っていないのだが」
「メリアドール様が私と一緒に居たいと言っているのに、あなたは反対なのですか?」
「……そうだな。反対するわけがない」
「でしたら――ヴォルマルフ様、私に騎士団をお任せください」
「ふむ、どういうことだ?」
「私があなたの代わりに騎士団の仕事をすれば、あなたはその分お嬢様方と一緒に過ごせる時間が増えます。それに、メリアドール様やイズルード様に騎士団の裏の仕事を任せるわけにはいかないでしょう。私が代わりに騎士団の後継者になります。どうです、名案ではありませんか?」
「なるほど、それは名案だ――とでも言うと思ったか! 私はまだまだ現役だ!」
 いくら可愛い娘のためとはいえ、昨日拾ってきた男に軽率にも騎士団を譲ってしまったと言えば、教皇から大目玉を食らうのは確実だ。それに、ヴォルマルフにも長いこと騎士団を率いてきた統率者としての誇りがある。これは軽々しく応じられる問題ではないのだ。
 ――そういう訳で、ローファル・ウォドリングが神殿騎士団の副団長に任命されるのは、もう少し先の出来事である。

     

  

     

  

初出:2017.09.23
イヴァフェス3発行「The Knight bended knee with a Vow」改題