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O daughter, never more bemoan
――眠れぬ夜に
『最近、眠るのが怖いの。そのまま起きれそうもない気がして』
部屋の入り口に女性が立っていた。寝間着姿のままで。
「メリアドール。こんな時間にどうしたんだ」
「一人で寝るのが怖くて」
ローファルはやれやれ、と言ってメリアドールを部屋に招き入れた。
メリアドールはこうして時々、ローファルの部屋を訪ねた。誰にも知られずこっそりと――といっても真夜中の逢瀬といった艶めかしいものではない。
これは父親に甘えたがる娘のようなものだ。ローファルはそう思った。実の父親が厳格すぎるせいか、いつしかメリアドールはローファルに甘えてくるようになった。ローファルにとってもメリアドールのことは家族同然に愛していたので、こうした関係を疑問に思うことはなかった。それどころか、年頃の女性になった今でも、昔と変わらずあどけない少女のような感情をローファルに向けてくれるメリアドールのことを愛していた。
「一緒に寝てもいい?」
メリアドールはローファルに聞くと、すかさず彼のベッドに潜り込んだ。彼女はここが最も安全で、心安らぐ場所だと心得ていた。
ローファルは毛布を引き上げ、横になったメリアドールの身体を優しく包んだ。メリアドールはローファルの服の裾を引っ張った。仕方ないな、というそぶりでローファルはメリアドールの隣にすべり込んだ。
「悪夢にうなされるの」
「どんな?」
「弟が……異形の怪物に殺される夢」
「それはただの夢だよ」
“そう、それはただの夢であってほしい”
「でも、弟は死んだわ。それは夢じゃない」
「そうだね、夢ではない」
“そう、それは夢ではない”
ローファルは寒さと底知れぬ恐怖に震えるメリアドールの手を握った。今だけは、このぬくもりが伝わるように――
ノックもせずに誰かが入ってきた。ローファルはすぐに分かった。長年の騎士修行のおかげで、人の気配だけでその動き察することができるようになった。ローファルはメリアドールを起こさないようにそっとベッドから這い出ると、部屋の片隅に置いていた剣を手に取った。そして、いつでも抜けるように身構えた。
「娘を探しにきた」
騎士団長の声だった。
「娘がいないと思って探しにきてみれば……」
ヴォルマルフは途中で言葉を切ると、ちらりと部屋の様子を見た。メリアドールは毛布にくるまってベッドの上で丸くなっている。ヴォルマルフの視線をローファルは感じ取った。
「神殿騎士として、お互い何もやましいことはしていませんよ」
ローファルはきっぱりと答えた。手に剣を持ったままで。
「誰の娘だと思っている――私の娘だ。勝手に連れ出さないでもらおうか」
「<誰の>娘ですと?」
「私が父親だ。そこをどけ」
「父親は死んだ。あなたは父親ではない」
ローファルは迷わず剣をヴォルマルフに向けた。
「息子に剣を向けられ、娘に逃げられ……おまえも私を拒むのか」
「これが、イズルードを殺した報いですよ」
それを聞いてヴォルマルフは鼻で笑った。
「器にならぬ人間を殺して何が悪いのだ? あいつの肉体は――」
ヴォルマルフが言うより先にローファルが剣を振り下ろした。その切っ先はヴォルマルフの顔をかすめて壁をしたたか叩いた。乾いた金属音にメリアドールがかすかに身じろぎした。ローファルはその気配をすかさず感じとった。
「誰であろうと――たとえ騎士団長であろうと、死者の名誉を汚すことは許されない。彼は正しい理想に殉じた――<私たち>には到底、為し得ないような偉業を果たしたのだ」
剣を握る拳に力が入った。
「ふっ……おまえがそう思いたいのならせいぜい勝手に想像しておくんだな。だが忘れるなよ。おまえは私の眷属であることを」
「ですがその前に、私は誓いを立てた騎士なのです」
ヴォルマルフはローファルの手にしていた剣に一瞥をくれるとそのまま部屋を出て行った。
「騎士か……騎士なら戦え。その剣で血を得よ。それがおまえの役目だ」
ローファルは剣を床に投げ捨てると、ベッドの縁に身体をあずけてその場に力なく座り込んだ。そして膝に顔を埋めた。騎士の誓いを立てたのが大昔のことのように思える。どんな文言を唱えたのかすら記憶にあやしい。
とはいえ、目を閉じれば思い浮かぶのは色あせた昔の記憶ではない。つい最近のことだ。色鮮やかな――鮮血の記憶だ。
“彼は死んだのだ”
“いいや、殺されたのだ”
“誰に?”
“父親<だった>男に殺されたのだ”
若い騎士の姿が思い浮かんだ。栗毛色の髪をしたあどけなさの残る少年だ。彼がどうやって最期を迎えたかは、同じ城に居合わせたブロンドの少女から伝え聞いた。
『彼は勇敢に戦って亡くなりました』
ああ、イズルード。おまえは年は若いが立派な騎士だった。メリアドールがその死を悲しんだように、ローファルもまた悲しんでいた。人知れず流した涙を誰も知ることはなかったが。
「しかし……さすがに父親に剣を向けるのはしのびなかったか……」
『それでも彼は最期まで手放そうとしませんでした』
彼がどんな気持ちで剣を握っていたのか……想像するだけで胸が潰れそうだった。
『そして、彼は私に彼の聖石を託してくれたのです』
彼は騎士だった。守るべきもののために戦った。その行為は報われるべきだ。たとえそれが、不幸で惨めな『死』で終わったとしても。そこに栄誉を認めることが彼への弔いになる――もはやそれ以外に為す術はないのだから。
“それでは私の剣は何のためにあるのか”
ふわりとした感触が肩を覆った。
「そこで何をしているの?」
メリアドールがベッドの上から不安そうな顔を見せていた。
「寒くて凍えているの? 震えているわ」
メリアドールはさっきまで自分がくるまっていたあたたかい毛布をローファルの背中に羽織らせた。
ローファルはメリアドールの温もりを肌で感じた。
「起こしてすまなかった」
「誰か来たの?」
床に落ちた剣をメリアドールは見つめていた。ローファルは首を振った。「いいや、誰も来ていない」そう言うと、ベッドの上で身を起こしているメリアドールを毛布でくるみなおした。
「心配ないよ、さあ、寝て」
「……だめ、怖くて眠れないの」
「何が怖いんだい」
「……」
メリアドールはうつむいた。
「ほら、おじさんに言ってごらん」
暗がりの中でメリアドールがふふっと笑うのが聞こえた。しかし、声は悲哀の色を含んでいる。
「……もう剣は持ちたくないの。ごめんなさい……私、もう戦えないわ……」
「イズルードのことか」
メリアドールは答える代わりにローファルの服をきゅっと握りしめた。声にならないすすり泣きが聞こえてきた。
ローファルはたまらず、メリアドールを抱きしめた。深く、優しく、そっと。
“この光景を団長が見たら怒るだろうか”
“いや、かまうものか。彼女を守る家族はもはやいないのだから――”
“私が父親だ”
父親が娘に願うことはただ一つ。その身の幸せ。限りない幸福。
「でも、私……弟の仇を討たなきゃって思うの。なのに、どうしてだか、身体が動かないのよ……」
“メリアドール。剣を持ちたくないというのなら持たなくていい”
“君が復讐の血でその手を汚す必要はないんだ”
“父親ならそう思って当然だろう?”
「ローファル、誰が弟を殺したか分かる?」
ローファルはこの質問をおそれていた。なぜなら、答えることによって、メリアドールを血の復讐に巻き込むことになってしまうからだ。まして、父親の身体に宿る悪魔が弟を殺したと、どうやって説明すれば良いのだろうか。
“私は彼女がこの悪夢から解放されることを望んでいる”
“悪夢から解放するすべただ一つ――私が彼女を手放すことだ”
「ローファル? どうしても私は弟の仇を討たなければならないの。お願い、知っているなら教えて」
ローファルは答える代わりに、メリアドールに尋ねた。
「どうして、そこまで復讐にこだわるんだ? 剣を持つのが怖いというのなら、無理に戦いに挑む必要はあるまい……」
「だって、イズルードは私の家族だもの。弟の死が無駄ではなかったと、価値あるものだったと私は証明したいの」
「そうか……しかし私は何も言えない」
「なら、一つだけ教えて。再び剣を持つ勇気をどうやったら思い出せる?」
「自らの道を信じることだ――その剣を持って行くといい」
ローファルはさっきまで自分が持っていた剣――ヴォルマルフに突きつけた――を指し示した。青白く光る刀身を持つ、特別な騎士剣だった。<守護>の銘が刻まれている。そう、騎士の誓いが刻まれているのだった。
“もはや、私には必要のない剣だ”
“彼女が持つに相応しい”
ローファル・ウォドリングはかつて偉大な騎士だった。時は無慈悲に流れようと、かつての騎士の誇りが完全に消えてはいなかった。
“剣よ、同伴かなわぬ騎士に代わって彼女に尽きせぬ守護を与えよ”
メリアドールは夜明けに旅立っていった。
「私の娘はどこへ行ったのだ」
ヴォルマルフはメリアドールが行方をくらましたことにすぐ気づいたようだった。
「行方を知っているのだろう。ローファルよ」
「さあ。彼女は弟の仇を討ちに行くとだけ言っていましたが」
「その言葉の意味を分かっているのだろうな」
「ええ。遅かれ早かれ、彼女は事の真相に気づくでしょう。そうしたら――あなたを殺しに戻ってくる」
ヴォルマルフは馬鹿げた話だ、とだけ言った。
「出来るはずがなかろう。愚かな姉弟だ。共に血の海に沈めてやろう」
「あなたは父親ではない。娘と呼ぶ権利はない」
「ほう……? それがどうした。些細なことではないか」
“そう。これは些細なことだ”
“騎士団長の身体に、父親ならざる異形の者が住み着いているとは誰も気づいていない”
“メリアドールはいずれ弟の仇を討ったとき、父親を殺すことになったと嘆くのだろう”
“だが、その復讐が死んだ父親の魂の無念を晴らすことになるのだ”
それは決して『些細なこと』ではないとローファルは知っていた。
――娘よ、嘆くことなかれ。たとえその手が復讐の血で汚れようとも。
――その両手は無辜の死者らが流した涙によって清められるのだから。