.

 

 

 
 痕跡

 

 

 

 

「そうか、アドラメレクもやられたのか……あの小僧に」
 ローファルは呟いた。彼は元来、焦りや苛立ちを表情に出すことは殆ど無かったが、内心は激しい焦燥感に駆られていた。
「ベリアスも、ザルエラも駄目だった。何の役目を果たす間もなく逝ってしまった――いや、そうでもなかったな。奴らは存分に血を流してくれたではないか。それだけでも役目を果たしたと言えるか。だが、アドラメレクは……」
 彼は目の前に対峙する金髪の小僧を見た。名前はラムザ、ベオルブ家の出自を持つ貴族の青年だった。ローファルから見れば年齢も人生経験も足りない世間知らずの小僧だ。ローファルはベオルブの者に少なからず因縁を感じていた。密かにベオルブ家を崩壊させるように差し向け、アドラメレクを呼び出したのは他ではなく、ローファルであったからだ。
 ラムザは蔑むような、冷ややかな視線をローファルに投げかけた。ローファルは無視するように剣を握り直した。彼は何故この青年がこうも平静で居られるのか、不思議に思った。この金髪の青年はここオーボンヌ修道院に来るまでに、凄惨な道を辿ってきている。実兄の企てた陰謀、そして実家の崩壊――彼は兄たちを失っている。それも、ラムザ自身が、自ら兄たちに手を掛けたのである。勿論、そうさせるように仕向けたのはこの神殿騎士の仕業であったが。
 どうせこの小僧は、すぐに絶望にうちひしがれて逃げ出すだろうと、ローファルは考えていた。彼の知っているものは、皆そうであった。逃げ出すことなく、無謀にも眷属たちに立ち向かってきた者は、血の海に沈んでいった――あのイズルードのように。それなのに、この世間知らずの青年は逃げ出すことなく、それどころか、次々に眷属らを打ち倒してた。ベリアス、ザルエラ、アドラメレク……あとはハシュマリムただ一人になってしまった――ローファルはいらだった。とてもこの小僧にそんな恐るべき力があるとは思えなかったからだ。
「おまえは人間ではないな。この感じ……セリアやレディと同じだ」
「そうだ。私は人間ではない。私は人間を超越した力を得たのだ。ヴォルマルフ様のお力により、老いることや無知であり続けることをやめ、永遠の命を手にいれたのだ!」
 ――それなのに私は、何も知らないこんな若造に負けるのか。私は聖石の力を得たというのに、この若造を倒すことすら出来ないのか!
 ローファルがいきり立った時、彼の耳に見知った声が聞こえた。
「ローファル」
 そう呼んだのは、彼のかつての仲間、メリアドールだった。彼女は怒るでもなく、悲しむでもなく、ただ彼の名前を呼んだ。ラムザの隣にたち、彼と同じセイブザクィーンの剣を携えて。彼と彼女はその格好こそ、同じ神殿騎士の出で立ちであったが、彼らの間には決して交わることの出来ない深い溝があった。もう私は彼女の声に感情を探せない程、人ではない領域に足を踏み入れてしまったのか――彼はそう思った。その時、彼の中に抑えきれない激しい感情が沸き上がった。
 全てを投げ出せ。
 ローファルはそう思った。ベリアスがラムザに殺された時点で、もはや手遅れだったのだろう。もはやハシュマリムただ一人が、この小僧――世間知らずの若造――に太刀打ちできるはずがなかった。だから、全てを投げ出し、捨て去るのは自分の方である、と彼は悟ったのだった。彼が敗北を認めた瞬間であった。当然、ラムザはその隙を見逃さなかった。すかさず、剣を構え、斬りかかってきた。しかし、ローファルの方がさすがに熟練の騎士であった。その剣を自らの剣で受け流すと、懐に抱えていたゲルモニーク聖典をすかさず取り出した。
 その幻の聖典は彼が苦労して見つけたものであった。長い間秘匿され続けてきたこの書物には死都への道を開く呪文が書かれている。彼はその禁断の言葉を唱えた。もはやこの地上に彼の生きる道はなく、生命の絶えた死せる都へと自ら進み入ることを望んだのであった。
「我は時の神ゾマーラと契約せし者、悠久の時を経て――」
 長い詠唱の間、ローファルの脳裏にあったのはただ一人であった。人として生きる道を棄てて久しい彼にとって、この世への未練は微塵も残っていなかった。それよりも、彼と同じ道を選びとった青年のことが気がかりだった。「何度でも殺せ」とまるで生きることに執着しなかったあの青年は、ローファルより早く死都に足を踏み入れていた。ローファルは彼の許へ行くつもりだった。
「待て! させるか!」
 ラムザがローファルの詠唱を遮るように叫んだ。
「異端者ラムザよ、私の邪魔をするでない――だが、望むのならば、貴様も地獄へ招待してやろう――」
 ローファルは構わず詠唱を続け、渾身の力をもって異界へと続く魔方陣を捻出した。

 

 

 廃墟の陰からに閃光が見えた。クレティアンは訝しんで光の在り処を振り返った。そこは、つい先刻、彼が魔方陣を展開した死都の入り口だった。何か建物でも崩れたか、程度にしか思わずに振り返ったクレティアンは、己が目の当たりにした光景に背筋を凍らせた。そこに一人の騎士が力尽きて斃れていたからだった。
「ローファル!」
 クレティアンは悲鳴を漏らすと今にも息絶えそうなローファルの傍に駆け寄ろうとした。しかし、それを邪魔する者の姿があった。ラムザが剣を持ったまま彼を睨み付けていた。
「そうか、おまえがローファルを殺したのか……ならば、仇を討たねば、彼に合わす顔がないな。異端者ラムザよ!」
 クレティアンはラムザの姿を見て、ここに至るまでに何が起きたのか、見当を付けた。そして、ラムザに向き直った。彼もまたローファルと同様、ラムザの実力を嫌々ながら認めていた。否、認めざるを得なかった。彼は何度も何度もラムザに叩きのめされてきた。幾度も斬られ、聖剣技の的にされ続けてきた。その度に死の淵から呼び戻してくれたのは他ならぬローファルであった。クレティアンはアジョラを追う一心で大して気にも留めなかったが、戦場で倒れ伏す度に律儀に助け起こしてくれたローファルの姿を思った。
 まっすぐと先を見据える力強い眼差しをクレティアンは感じた。死都に足を踏み入れ、歴史から身を引いた者であるにもかかわらず、ラムザの顔に迷いは見えなかった。その凜々しい表情を見てクレティアンはわずかに顔を翳らせた。クレティアンは思った。この青年は果たすべき使命を持っているのだ。私も彼と同じように使命を持っているのだが――
「私には、ほど遠い」
 だがここで身を引く訳にはいかない。ローファルに報いねばならない。クレティアンはラムザに魔法を撃ち込もうと構えた。だか、その時、身体に鈍い痛みを感じた。死角から弓を射られたのだと気付いた時には、もう彼女が近くに立っていた。
「私も仇を討たなければならないの。一人で果敢に戦い、そして孤独に死んでいったイズルードに報いなければ。ごめんあそばせ」
 剛弓を持ったままメリアドールは颯爽と言い放った。反撃することも出来ず、痛みに耐えきれずに身体を折って膝を付いたクレティアンにメリアドールはたたみかけるように言った。
「ふ、馬鹿なことをしたわね、クレティアン。恨むなら自分の神を呪うといいわ」
 とどめの一撃をさそうともせず、メリアドールはラムザを促して去って行った。
 クレティアンは痛む身体を引きずりながらローファルの元へ近づいた。
「――ローファル、ローファル」
 かすれた声で彼を呼び求めた。ローファルは倒れたままぴくりとも動こうとしない。
「おまえの仇をとれなかった。申し訳ない――」
 詫びるクレティアンに、ローファルがふっと呟き、小さく答えた。
「クレティアン、お前は馬鹿な奴だな。私があの小僧に敗れたとでも思うか? 私はそこまで脆弱ではない。私は、聖典で門を開くために力を使い果たしてしまったのだ。お前ほど魔法には長けていないからな……」
「そうか、そうだったのか。だが、どうしてこんなところまで来てしまったのだ。お前まで死都まで来る必要はなかっただろうに」
 最期にお前に会うために、とローファルが答えた時、クレティアンはローファルの身体を抱いて彼の血に汚れた顔を撫でていた。二人は寄り添いながら、誰もいない廃墟の闇の中で息絶えようとしていた。

 

 

「――見ろ、この血が役に立った。ヴォルマルフ様の望むものが我らの仲間の血で充たされるとは思っていなかったがな」
「そんなこと思ってもないだろ」
「私は……虚しい人生だったと認めたくない。せいぜい夢を見させてくれ。我らの為したことに意義があったと。そこに我々の生きた痕跡があったと」