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*chapter4

     

  

     

  

 サー・バルバネスは巡回から戻ってきたが、ヴォルマルフがなくした天蝎宮の宝石は戻ってこなかった。予想はしていたことであったが、ヴォルマルフは肩を落としてため息をついた。レディ・イゾルデの手がヴォルマルフの肩にそっとふれた。「もうあきらめましょう」彼女の胸元にはルビーの薔薇が輝いている。レディ・イゾルデの言うとおり、もうあきらめるしかなさそうだった。深紅のクリスタルはもう二度とヴォルマルフの手元に戻ってこないだろう。真相はこのまま闇に葬るしかない。
「さあ、日が暮れる前にエッツェル城に帰りましょう」
 レディ・イゾルデの言葉にヴォルマルフは念を押した。「本当に、あなたは殿下の求婚をお受けするのですか?」
「もちろんよ。だいたい、私がサー・バルバネスと駆け落ちしたですって? 一体どなたがそんな事をおっしゃったの?」
 ヴォルマルフはレディ・イゾルデとサー・バルバネスが二人で逃げたのだと思っていた。だが実際は駆け落ちでも何でもなかった。レディ・イゾルデがイヴァリースに嫁ぐ前に母の財産を相続したかっただけらしい。だったら最初からそう言ってエッツェル城を離れてもらいたかった――とはいえ、彼女の母がゼラモニア王家の血を引いていることは誰にも秘密であったから、こうしてこっそりと城を抜け出してきたのだと今になってこそヴォルマルフは理解していたが、おかげでとんでもない取り越し苦労をしてしまった。しかも問題はまだ残っている。レディ・イゾルデはこの結婚を承諾したのだ。婚約を破談にしてこいと言ったアンセルム王子との約束がヴォルマルフの喉につかえていた。
「そんなに不安そうな顔をしなくても大丈夫よ。私は逃げたりしないわ」
 レディ・イゾルデはサー・バルバネスと一緒になって楽しそうに笑いながらブルゴント城から持ち帰る財宝をチョコボの背にくくりつけている。「これから婚約者に会うのが楽しみだわ」
 なんの屈託もなく笑うレディ・イゾルデの姿を見てヴォルマルフの胸に罪悪感がこみ上げてきた。これから花嫁を花婿のもとへ送り届ける。けれど、これから結婚にのぞむ花婿は父親にあてがわれた花嫁のことを快く思っていない。そんな場所に私はレディ・イゾルデを連れて行くのだ。王子はさすがにレディ・イゾルデを虐待することはないだろうが――けれど花嫁を待っているのは愛のない結婚生活だ! 
 ヴォルマルフはこのことをレディ・イゾルデにもっと早くに伝えるつもりでいた。けれども、ゼラモニアの古城の惨状を見たあとでは何も言えなくなった。彼女の祖国はオルダリーアからの独立を望んでいる。その独立を果たすにはイヴァリースとゼラモニアの同盟関係がどうしても必要だった。レディ・イゾルデは祖国の独立のためにこの結婚を選択したのだ。ヴォルマルフは彼女のその気高い決断に水を差すことがどうしても出来なかった。そして、どうやら自分は政治の駆け引きには向いていないということに気づいた。宮廷で暮らすには不自由な性格だ。だがこの心配ももうすぐ終わる。姫君を王子のもとへ無事に送り届けられたら自分は宮廷を辞して父の暮らす田舎へ帰ろうかと思った。王子の信頼を失ったままルザリアで生活することは出来ないのだから。
「ティンジェルの若殿、何か悩みでもあるのか? まるで終末を憂うような顔をしているではないか」
「サー・バルバネス!」
 ヴォルマルフはこれからのことを考えて眉間に皺を寄せていたが、サー・バルバネスに呼ばれてさっと顔を上げた。サー・バルバネスはすらりとした長身で、近くでみるとヴォルマルフより頭一つ大きかった。そしてブロンドの長髪を風にさらさらとなびかせている。なんて涼やかな美男子なんだろう。男の自分でさえうらやましいと思う背格好だった。私も髪を伸ばしてみようかとヴォルマルフは自分の栗毛をつまんでみた。髪を伸ばしたところで自分が天騎士になれるわけではないと分かっていたが……。しかも、サー・バルバネスは誰もがうらやむような華やかな容姿でありながら、イヴァリースで最高の称号を持つ騎士でもあるのだ。天は彼に二物を与えている。うらやましいかぎりだ!
「サー・バルバネス。日が暮れる前にお行きましょう」
 レディ・イゾルデのサー・バルバネスを見つめるうっとりとしたあの目! うらやましい! 二人はチョコボの鼻先を並べて楽しそうに話している。その光景を見て、ヴォルマルフは思わず嫉妬を感じた。
 いや待て、嫉妬だと? レディ・イゾルデは殿下の婚約者だぞ? 私は一体何を考えているのだ?
「サー・ヴォルマルフ! あなたも早くおいでなすって」
 自分でもわけのわからない混沌とした気持ちを抱えていたヴォルマルフをレディ・イゾルデが手招きした。そして悩めるヴォルマルフの心に追い打ちをかけた。
「帰りはサー・バルバネスが一緒だから、盗賊に襲われても安心ね」
 悪意など全くないレディ・イゾルデの純粋な一言――だからこそヴォルマルフは落ち込んだ。
 これでは、私には騎士としての威厳がまるでないではないか!
 ヴォルマルフの内心に立ちこめた暗雲のことなどつゆ知らずに、レディ・イゾルデとサー・バルバネスの二人は楽しげにおしゃべりを続けながらブルゴント城を出発した。ヴォルマルフはなんとなく二人の会話に入っていくのに気が引けたので、二人の後を静かについていった。
「――それで、ご子息様は今おいくつなのかしら」
「長男のダイスダーグは十三歳になりました。そろそろ士官学校に入れようと思っているところです。下の子はまだ四歳になったばかりで」
「ご子息様たちはあなたに似ていらっしゃる?」
「さあ、どうでしょう。ザルバッグは――下の子です――私と同じ金髪で容姿も似ていますが、性格は私の若い頃よりずっと真面目で神経質なのです。ダイスダーグは癇の強い子で父親である私でさえ手を焼いています。ああ、そういえばダイスダーグはルザリアの士官学校に入れるために王都の邸宅に呼び寄せたところです。もしかしたら、あなたもルザリアで会う機会があるかもしれません。是非その目でご覧ください――わが子のどこに父親の面影があるのかを」
「ルザリアにもお屋敷があるの?」
「ええ。宮殿に面した大通りに別邸があります。ベオルブの名前を出せばすぐ分かるでしょう。王都で困った時はいつでも訪ねてきてください。あなたならいつでも歓迎しますよ、レディ・イゾルデ。といっても、私が王都の屋敷に帰ることはめったにないのですが……」
「是非そうさせていただきますわ。私は、あなたもご存じの通りオルダリーアから戻ってきたばかりですから、イヴァリースの王都には誰も知り合いがいないんです。でもお友達の騎士さまのお屋敷が王都にあると分かって、とても心強いわ」
 レディ・イゾルデはサー・バルバネスのことを心の底から信頼しているようだった。ヴォルマルフは王都にある我が家のことを思った。我が家といってもただの狭い借家だ。ゼラモニアとイヴァリースの二つの王家の名前を継ぐ姫君を招待できるような家ではとてもない。天騎士のように、困った時はいつでも我が家にどうぞ――とは言えないのだった。
「サー・ヴォルマルフ、あなたは? ご家族は近くに暮らしてらっしゃるの?」
 レディ・イゾルデは振り向いてヴォルマルフを呼んだ。チョコボの手綱を片手で持ちながらヴォルマルフを手招きしている。「もっと近くへいらっしゃって。一緒にお話ししましょう」
 ヴォルマルフは心持ち前に進み出た。王子の婚約者に対して、話すのに適切な距離を保ちながら。
「私は地方貴族の出ですので、家族は田舎で暮らしております。それに、都に邸宅を設けるほど裕福な家ではありませんので……」
「あら! でも、ずいぶん立派なお召し物を着ていらっしゃるわ」
「これは殿下からいただいたのです。姫君をお迎えにあがるのにボロ着ではまずかろうということで」
「そうだったのね。私はてっきり、すごいお屋敷の若旦那様がいらっしゃったのかと思ったわ――だって毛皮のコートなんて着ていらっしゃるから」
 若旦那様だと! ヴォルマルフはそんな言葉とは無縁の生活を送っていた。そういえば、エッツェル城に来た時、ゼルテニアのオルランドゥ伯爵とすれ違った。あの時、伯爵は何人もの従者をしたがえていた。伯爵家のお屋敷では一体どれほどの使用人が働いているのだろう。一方、ヴォルマルフはたった一人の見習い騎士を従えるだけの慎ましやかな生活を送っている。ヴォルマルフからすると、レディ・イゾルデもサー・バルバネスもまるで手の届かない存在だった。
「他にご家族は――奥様はいらっしゃらないの?」
「妻ですって? 私はまだ二十二ですよ! 結婚とはほど遠い生活を送っております」
「私も二十三だけれど、もうすぐ夫ができるわ」
「そうだ。レディ・イゾルデの言うとおりだ、若殿よ。私が貴殿の年齢の頃はもうすでに父親だった」レディ・イゾルデと一緒になってサー・バルバネスは言った。「私に年頃の娘がいれば貴殿に紹介できたのだが……あいにく私は息子ばかり作ってしまって、我が家には嫁がせる娘がいないのだ」
「天騎士様! ご冗談を! どんな間違いが起きても、ベオルブ家のご令嬢にティンジェルの名を継がせるわけにはいきません。むしろ私がベオルブの名前を継ぎたいくらいなのです」

  

  

 どうやらレディ・イゾルデの父親は相当な領地を所有しているらしい。彼女の輿入れのために付けられた持参金の多さにヴォルマルフは驚いた。王がこの縁談を取り付けた理由もそのあたりにあるのだろう。
 ヴォルマルフは彼の従者と一緒にレディ・イゾルデの乗る羽車を準備していた。
「こんなに豪華な車に乗っていくレディ・イゾルデはどんな方なんですか? 数え切れないほどの財産をお持ちになって、まるでお姫様のような方ですね」キンバリー少年が尋ねた。
「そうだ。彼女は気位も、財産も、血筋も何をとっても尊い姫君だ。レディ・イゾルデこそ真正のお姫様だ」
「僕はそんな高貴な身分のお方とは話したことがありません……どうやってお話しすればよいのですか?」
「困ったことに、それが私にも分からないのだ」
 ブルゴント城から戻ってきた時、すでにヴォルマルフは疲労困憊の状態だった。姫君の相手をするのがこんなに大変だとは全く知らなかった。
「でもご主人様はいつも殿下とお話ししていらっしゃるのに。王子様のお相手ができるのなら、お姫様のお相手も同じ様にできるのでは?」
「同じだったらどんなに楽だろう! だがレディ・イゾルデと話すのは殿下のお相手をするのとはまた違った気苦労がある」
 特にレディ・イゾルデのような姫君と話すには――ヴォルマルフはレディ・イゾルデに会う前、彼女のことを戦争に翻弄されたひどくあわれな姫君だと思っていた。しかし、実際はどうだろう。彼女は底抜けに明るく、自由奔放な姫君だった。彼女の気ままな振る舞いを見ていると、ヴォルマルフは時として彼女が歩んできた過酷な人生を忘れてしまう。
「サー・ヴォルマルフ! もう準備はできたのかしら?」
 胸壁の上から当の姫君――レディ・イゾルデが手を振った。赤紫色のビロードのドレスが風に翻った。「私も準備は出来てよ。今そちらに行くわ」
 レディ・イゾルデはすぐにヴォルマルフらのもとへ駆け下りてきた。
「お母様にお別れを言ってきたの」
「それは名残惜しいでしょう……これでブルゴント城も見納めですね」
「いいえ、全然! それよりも早くルザリアに行って王子様に会いたいわ」彼女は明るく笑い飛ばした。
「それでは、車の用意が出来ていますので……」ヴォルマルフはレディ・イゾルデをチョコボに引かせた羽車のもとへ案内した。
「車? どなたの?」
「あなたのですよ、レディ・イゾルデ」
 レディ・イゾルデはきょとんとした顔をした。「あら、私もチョコボに乗っていくわ」
「姫! ここからルザリアまでは二、三日で着く距離ではありません。かなりの長旅になるでしょう。ですから――」
 チョコボにまたがって輿入れする花嫁など聞いたこともない。ヴォルマルフはレディ・イゾルデの素っ頓狂な気まぐれをなんとか思いとどまらせようとした。
「大丈夫よ。そんなこともあろうかと思ってドレスの下に乗羽服を着ておいたの!」
 レディ・イゾルデはさっとドレスの裾をたくしあげた。「あ、これはお母様には内緒にしておいてね」
 レディ・イゾルデはヴォルマルフの驚きも意に介さず、誰の手も借りず一人でチョコボの背に飛び乗った。「乗羽は得意なのよ」
「レディ・イゾルデ……あなたオルダリーアで長く暮らしていらっしゃったと聞きます。ブラの宮廷で一体どんな生活をしていたのですか?」
「ああ、それ! 母にも同じことを言われたわ」
 なんという破天荒な姫君だ! しかもこの姫君があのおとなしいアンセルム王子の花嫁なのだ。ヴォルマルフは驚きのあまり開いた口がふさがらなかった。私は、果たして、こんなお転婆姫様を王子の婚約者として王都まで連れ帰ってよいのだろうか……ヴォルマルフは不安になってきた。これではおとなしい殿下のことを軽々と尻に敷きかねない。
「さっそく手を焼いているようだな、若殿」
「天騎士様!」
 どう事態をおさめるものかとヴォルマルフが右往左往していると、彼に声を掛けた者があった。サー・バルバネスだった。サー・バルバネスはオルダリーアに向けて出発したデナムンダ王と合流して前線に立つらしく、甲冑をつけて戦装束を着ていた。
「サー・バルバネス。私にはあのお姫様をどう扱ったらよいのか、さっぱり分かりません」
「ふむ。私も初めて彼女に会ったときは驚いたのだ。なにせ、彼女は城の武器庫で剣を持って敵兵を撃退しようとしていた」
「剣ですって!」
 ただでさえ、どうやって姫君の相手をすればよいのか分からずに四苦八苦しているというのに、剣を持って戦う姫君の扱い方などヴォルマルフにはお手上げだ。そして、ルザリアに着くまでの道中は、レディ・イゾルデの言うことをおとなしく聞くほかないと観念した。

  

  

「このグレン山脈を越えれば王都は目前です――このあたり一帯はファルメリアと呼ばれていて炭鉱脈が広がっています」
「山を登っていくの?」
「いいえ、麓には炭鉱都市がいくつかあり街道も整備されていますから、そこまで険しい道のりにはならないでしょう」
「そうなの。ルザリアは山脈に囲まれた場所にあるのね」
「ええ、わがイヴァリースの王都は三方を山に囲まれていて、要塞としても十分な機能を備えています。万が一、オルダリーアと全面戦争になっても、王都が落とされることはまずないでしょう。といってもルザリアは山にばかり囲まれた街ではありません。王都の北には広大な穀倉地帯が広がっておりまして、そちらに行けばもっと風光明媚な光景が見られます」
 ゼラモニアを出発してからちょうど十二日が経過した。ゼラモニアからランベリー領を経由してルザリア領に入ると、サー・ヴォルマルフが辺りの地形を細々と説明してくれるようになった。イゾルデは熱心に語るサー・ヴォルマルフの言葉に耳を傾けていた。これから自分が暮らすことになる街なのだから、知っておかなければならないことはたくさんある。
「ルザリアの中心部にある大宮殿は、アトカーシャ王朝初代国王であるデナムンダ王が建造したものです。その王宮が今も使われているのです」
「デナムンダ王?」
「今の国王陛下のお父様にあたる方です。小国に分裂していたイヴァリースを統一し、新たな王朝を開いた偉大な国王でした。私はその人柄については詳しく知りませんが、陛下にそっくりの激しい気性の方だったと聞いています。今の国王陛下――デナムンダ王も数多の戦争で功績を上げ<戦大王>とまで呼ばれるようになった荒ぶる戦士のような方です。レディの前でこのような話をするのもはばかれますが――陛下は私生活もひどく奔放なお方で、アンセルム王子の他にも庶子が数え切れないほどいるのです」
「それでは、私の夫となる方――王子殿下はお父様やお祖父様に似ていらっしゃる? やっぱり荒っぽいお方なのかしら」
「いいえ、アンセルム殿下は何より争い事を嫌う物静かなお方です。あなたとは真逆のおとなしい方です」
「あら! それは私に対する嫌みかしら? 私が騒々しいじゃじゃ馬だとでも言いたげね」
「い、いえ……決してそのような意味では……」
 あわてふためくサー・ヴォルマルフの姿を見てイゾルデはくすりと笑った。本当に不器用な方だこと。彼を見ているとついからかいたくなってしまう。「冗談よ。あなたのような真面目で誠実な騎士さまがお仕えする主君ですもの、きっとお優しい方に違いないわ」
「ええ、間違いなく殿下はお優しい方です――この国の誰よりも。あなたに手を上げるようなことは決してありません。この件に関しては私の命を掛けてでも保証します」
「王子殿下のことを尊敬していらっしゃるのね」
 サー・ヴォルマルフは王子のことを心から愛しているのだわ。自分の仕える主君について深々と語るサー・ヴォルマルフの言葉がイゾルデの耳には心地よかった。深い信頼関係が感じられる。この人が話す言葉をずっと聞いていたい。
「私はお優しい殿下にお仕えすることができて幸せです。けれど……殿下は美しい音楽と詩を愛するお方。剣を持つ私はいつまでたっても功績を上げることができません」
 サー・ヴォルマルフは苦虫を噛み潰したような顔で言った。
「功績って?」
「私も騎士ですから……やはり戦いの場で名声を上げたいと思うのです」
「あなたが戦場で雄叫びを上げながら剣を振り回すの? うふふ……」
 そんな姿、想像もできない! イゾルデは想像してみた――この若い騎士が戦場で血みどろになって敵の首をはねる姿を。ああ、なんて似合わないことだろう。あなたには典雅で穏やかな宮廷の生活の方が似合っていてよ、なんて言ったら彼は気を悪くするだろうか。
「レディ・イゾルデ! あなたが笑う気持ちは分かります――分かりますが、私も一人の男で騎士なのです! 私だってサー・バルバネス・ベオルブのように天騎士と呼ばれ自分の騎士団を率いて戦いたい――そんな途方もない夢があるのです」
「それは素敵な夢ね」
「ですが、騎士団を持てるのはベオルブ家のような武家の棟梁か伯爵家のような上級貴族の血筋に限られています。私のような下級貴族が叶えられる夢ではありません。努力をすれば誰でも将軍になれるわけではないのです」
「他に道はないの? 騎士団を率いている方はみんな偉い貴族なの?」
「身分の低い者に騎士団が与えられることもありますが、それ特例中の特例でめったにありません。それか、世俗の栄誉を捨てて修道騎士団に入るとか。あそこは貴族の序列が存在しない特別な組織ですから――といっても私に神への奉仕を誓えるほどの忠誠心はありませんが……」
「つまり、あなたはとても大きな夢を抱いているということね」
 世の中には称号や役職を買うために大金をはたく人もいるとイゾルデは聞いていた。けれども、もしそんなお金があったとしてもサー・ヴォルマルフはそんな馬鹿げた真似はしないだろう。きっと真面目に、こつこつと努力していくのだろう――叶うかどうかも分からない夢のために。サー・ヴォルマルフのような方の夢こそ叶うべきだわ。
「いつか私ががあなたのことを騎士団長様と呼べる日がくることを願っているわ――心から」

  

  

 ゼラモニアからルザリアへの長い旅に終わりが近づいてきたある日のこと――日が暮れる前に一行は近くの街で宿をとることにした。
「ここはどこ?」
「ファルメリア高地の山岳都市ゴルランドです。ここは王都ルザリアと南方の貿易都市ドーターを結ぶ交易路のちょうど真ん中にある街です。炭鉱の山岳都市とはいえ、この地方ではかなり大きな宿場町ですのでいい宿屋があるはずです。姫君を粗末な宿に泊めるわけにはいきませんから――ご安心ください、レディ・イゾルデ」
「私は別に木賃宿だっていいのよ。それに実は私、王子様のベッドで寝る前に、一度洞窟や森の中で野宿の体験をしてみたいと思っていたの。お宿がなければ野宿でもいいわ」
「レディ・イゾルデ! 物騒なことを言い出すのはやめてください! 殿下の花嫁を屋根もない場所で野宿させるなど言語道断です! そんなことは絶対にさせません――騎士の名にかけて!」
 サー・ヴォルマルフは真面目な顔でイゾルデに苦言を呈した。そしてその言葉の通り、イゾルデを立派な宿に案内した。そこは屋根の下に破風窓がいくつも並んでいる木骨煉瓦造りのしっかりした建物で、入り口には大きな看板が下がっていた。「いいお宿を知っているのね」
 部屋に案内されてすぐに、サー・ヴォルマルフの従者の少年が手桶に汲んだ水と火を持ってきてくれた。
「ありがとう。助かるわ。坊や、あなたのお名前は?」
「キンバリーと申します、お姫様」
 暖炉に火をおこして部屋を暖めてくれたキンバリー少年の手にイゾルデは小さな金貨を一つ握らせた。
「この辺りは随分と寒い場所なのね。ありがとう、キンバリー。いい子ね。あなたのおかげで私は今夜ベッドの上で凍死しなくてすみそうよ」
「お姫様……どうも、あ、ありがとうございます。ここゴルランドでは北の氷海から吹き付ける冷たい風が、ファルメリアの山脈にぶつかって年がら年中雪を降らせているのだとご主人様がおっしゃっていました」
「そう。雪ね……聞いただけで凍えそうだわ!」
「お夜食をお持ちしましょうか?」
「そうね。二人分の夕食をお願いできるかしら。私と、あなたのご主人様の分よ」
「では下で準備してきます」
「急がなくていいのよ――階段で転ばないようにね」
 走って部屋を出て行くキンバリー少年にイゾルデは声を掛けた。戻ってきたらお駄賃としてもう一枚金貨を握らせてあげようと思いながら。
 キンバリー少年が出て行くのと同時に、サー・ヴォルマルフが戻ってきた。「お部屋は満足いただけましたか? レディ・イゾルデ」
「ええ、おかげさまで。それで、あなたのお部屋は?」
「え?」
「あなたは今夜どこで寝るの?」
「私は……あなたの護衛の任務がありますので」
「私の部屋の前で寝ずの番でもするつもり? だめよ。こんないいお宿なんですもの。忍び込んでくる不審な連中はいないわよ。だからあなたもベッドで寝てちょうだい」
「私の任務はあなたを無事にルザリアまでお連れすることです。万一のことがあったら大変です。私は騎士です。ですから、どうかそのつとめを果たさせてください」
「こんなにいい宿に泊まってわざわざ床の上で足を組んで坐って夜を明かすなんて、あなたはお坊さんにでもなって清貧の誓いでも立てるの?」イゾルデは呆れて言った。
 まったく! 頑固な人ね! この人ったらてこでも動かないつもりだわ。長旅で疲れているだろうから、サー・ヴォルマルフには無理をさせずにゆっくり休んでもらいたかった。
「あなたの仕える王子様は自分の騎士に床で寝ずの番をしろと命じたの?」
「いいえ、殿下はそのようなことは……というのも、実は、あなたをルザリアにお迎えするよう私に命じたのも、殿下ではなく陛下なのです。この縁談に殿下は関わっておりません。殿下はむしろ――あなたを…………して欲しいと………」
 サー・ヴォルマルフがぼそぼそと何かをつぶやいている。イゾルデは彼の言葉の語尾がよく聞き取れなかった。サー・ヴォルマルフは何を言っているの? 王子様から私への伝言が何かあるのかしら? でも今はそんなことはどうでもいいわ。サー・ヴォルマルフをベッドに放り込みにいかなくては。
「つまり、私をルザリアに連れてこいと言ったのは王様なのね。だったらあなたがふかふかのベッドで熟睡していても王子様の命令には全く違反しないわ! それに私は王子様の妻になるのよ。あなたの主君の妻なのよ! だからあなたは私の命令を聞くべきだわ。今、隣の部屋を借りてくるわ。それまであなたはそこで座って待っていてちょうだい――これは命令よ」
 イゾルデは財布を取り出した。もう一つ部屋を借りるにはいくら必要なのだろう。宿屋に泊まるという経験が初めてだったので、イゾルデには相場がさっぱり分からなかった。けれど、金貨を何枚か出せば交渉には応じてくれるだろう。
「いけません! 高貴な姫君が下の階の連中の間に入ってお金の交渉をするなんて!」
「いいから黙ってそこにお座りになって!」
 イゾルデはごねるサー・ヴォルマルフを有無を言わせずに座らせると、急いで部屋を出て後ろ手に扉を閉めた。
 酒場と食事処を兼ねている階下に降りると、あたりはにぎやかな喧噪に包まれていた。宿屋の主人はどこにいるのかとイゾルデは目を凝らした。けれど宿屋の主人を見つけるより先にキンバリー少年の姿を見つけた。両手に木製のお盆を持っている。パンとチーズと焼いた鶏肉が乗ってる。
「お姫様! お部屋からお出でになるほどおなかがすいていらっしゃったのですか?」
「いいえ違くてよ! 大丈夫よ、あなたの仕事が遅いと食事の催促に来たわけではないから安心して」イゾルデはキンバリー少年の手から夕食のお盆を受け取ると、かわりに金貨がぎっしりとつまった財布を渡した。「ねえ、坊や。ここの主人を探してもう一部屋借りてきてくれるかしら? あなたのうっかり者のご主人様が自分の部屋を用意してくるのを忘れたらしいの」
 キンバリー少年は受け取った財布の重さに驚いている様子だった。「お金はいくら使ってもいいわよ」イゾルデは付け足した。キンバリー少年はうなずくと、すぐに宿屋の主人と思わしき恰幅の良い男のもとへと走って行った。「マスター! お姫様のためにもう一部屋貸してほしいんだ」
 キンバリー少年が手際よく交渉してるのを見て、イゾルデは食事を持って自分の部屋へ戻った。そっと扉を押し開けた。中は静かだった。
「サー・ヴォルマルフ? お夜食を持ってきたわ。一緒に食べましょう――あらあら」
 部屋の中の光景を見てイゾルデはお盆を持ったままその場に立ち止まった。サー・ヴォルマルフが暖炉の側の椅子に座ったままうたた寝をして舟を漕いでいる。きっと暖炉の暖かさが誘う心地よい睡魔に勝てなかったのだろう。イゾルデは音をさせないようにそっと静かにお盆を机の上に乗せた。忍び足でベッドまで近づくと掛け布団を一枚はがし、サー・ヴォルマルフの背にそっと乗せた――彼を起こさないように細心の注意を払いながら。できれば彼をそのままベッドの上にうつしたかったが、いい年をした殿方を一人で抱え上げるのはさすがのイゾルデにも無理だった。
「お姫様! お部屋が用意でき――」
 キンバリー少年がばたばたと部屋に駆け込んできた。イゾルデはあわてて人差し指を唇に当てた。
「お静かに――ご主人様をこのまま寝かせてあげて。私が隣の部屋へ行くわ。ああ、お財布は私の荷物の中にあとで入れておいてくださる? でも、その前に金貨を一枚持って行くのを忘れずにね――お駄賃よ」
 やっぱりもう一部屋借りておいて正解だったわ。サー・ヴォルマルフがこうやって外の床で居眠りをしてしまって、そのまま誰かに踏みつけられでもしたら大変だわ。
「うっかりさん、おやすみなさい。よい夢を」イゾルデは彼の耳元でそっとささやいた。

  

  

 街の中心にある大宮殿に近づくにつれ、花嫁を連れたヴォルマルフの足取りは重くなっていった。これからレディ・イゾルデと一緒にアンセルム王子に謁見しに行くのかと思うとヴォルマルフは憂鬱になった。父親が決めた望まぬ政略結婚。王子はきっと悲しい顔をすることだろう。主君の望みを叶えることができないのは、臣下として何よりふがいない。
「これがルザリアの王宮? すごい……こんなに立派な宮殿は見たことないわ。オルダリーアの王宮よりずっと広くて素敵」
「これから先、アンセルム王子が戴冠さなれば、この宮殿はあなたのものです。あなたが王妃としてこのルザリアを統治するのです」
「私が王妃様と呼ばれる日がくるなんて……なんだか背筋がぞくぞくしてきたわ。足がすくんで動けなくなりそう」
「でしたら、もう少しの間、そのままお行儀よくしていただけると。では――殿下のもとへご案内いたします」
 ヴォルマルフはレディ・イゾルデの先に立って歩いた。王宮の中は似たような部屋がいくつも並び、回廊と側廊が複雑に入り組んでいたが、ヴォルマルフは迷うことなく慣れた足取りでレディ・イゾルデを先導していった。目指す場所は王子のプライベートな私室だ。ヴォルマルフが、レディ・イゾルデをつれてルザリアに到着したことを知らせると王子は自分の私室でごくごく内密に姫と会いたいとヴォルマルフに申しつけた。まだ城内の者にさえ公表していない縁談であるから、誰かに見つかって騒がれることなく静かに婚約者と話がしたいということなのだろう。ヴォルマルフは王子のプライベートな居住空間に立ち入ることを許されていた。城の衛兵たちも、ヴォルマルフの顔を見ると何も言わずにその場を通した。
「サー・ヴォルマルフ! あなたって随分と信頼されているのね。衛兵たちとも顔見知り?」レディ・イゾルデが感心した様子でヴォルマルフに言った。
「ええ、まあ、ここで十年以上は暮らしておりますので……城の者とはだいたい顔見知りです」
「宮廷暮らしが長くても王の部屋に呼ばれない人はたくさんいるわ。あなたは特別なのね」
 ヴォルマルフは曖昧にうなずいた。ヴォルマルフは王子の寵愛を得るために特別に働いたわけでもなく、彼はただの王家に仕える一廷臣にすぎなかった。レディ・イゾルデに感心されるようなことは何一つしていない。
 ヴォルマルフは扉越しに王子に話しかけた。「王子殿下! ヴォルマルフ・ティンジェルはただいまゼラモニアより帰還いたしました。ご拝謁賜りたく存じます」
「おお、ヴォルマルフよ! そなたの帰りを待っていたぞ。扉は開いている。入ってまいれ」
「では、レディ・イゾルデ。先に失礼致します。しばしお待ちください――」レディ・イゾルデにそう言ってからヴォルマルフは王子の部屋にしずしずと入っていった。
「ヴォルマルフよ。長旅ご苦労であった。子細は使いの者から聞いた。ゼラモニアの姫君と――私の妻と一緒だそうだな」
「ええ……殿下のご命令に背くことになってしまい、大変心苦しく思っております……」
 アンセルム王子は椅子に座って机に向かっていた。机の上には高級ベラム革の装飾本が開かれたままになっている。読書中だったのだろう。うつむきがちに話す王子の顔にはどこか翳りがあるように感じられた。ヴォルマルフは胃がしめつけられるようだった。「申し訳ありません。殿下のご命令に背いた私にどうか相応の処罰をお与えください」
「いや、構わない」王子は首を横に振った。「この縁談は父が決めたことだ。国王の命令に誰が背けようか? それは王子である私でさえ不可能だ――私はそなたに最初から実行不可能な命令を下したのだ。どうか気に病むな」
「殿下の寛大なお心づかいに感謝いたします」ヴォルマルフは深々と頭を下げた。「こんなことを申すのも、言い訳がましくて情けないのですが……初めは、私も殿下のお心に添うつもりでした――イゾルデ姫と会うまでは。姫もこの縁談を望んでいないのならば、私は国王陛下の怒りを承知で、この婚約を破談に持ち込もうと心に決めたのです。けれど、姫は――レディ・イゾルデは殿下との結婚を望んでいたのです。祖国の独立のために、ゼラモニアとイヴァリースの婚約を望んだのです。私は、レディ・イゾルデのその尊い決断に反対することができませんでした。ですから、こうして――」
「もうよい」
 アンセルム王子はヴォルマルフの言葉に口を挟んだ。「そなたなら、そう言うと思っていた。だから私はそなたに護衛を頼んだのだ」
「殿下? それはどういう意味でしょうか……」
「私は、貴殿こそが私の花嫁に最も誠実に振る舞ってくれる騎士だと思ったから、この任務を命じたのだ――さあ、ヴォルマルフよ。私の花嫁に会わせておくれ」
 ヴォルマルフの胸にあついものがこみ上げてきた。まさか、殿下にこのようにほめていただけるとは。「き、恐悦至極に存じます……」ヴォルマルフは再びアンセルム王子に頭を下げると――今度は感謝の意味で――急いでレディ・イゾルデを迎えにいった。レディ・イゾルデは早く王子様に会いたくてしょうがない、といった様子でそわそわとしていた。「姫、落ち着いてください」
「だって、どんなお方なのか気になってしょうがないのよ――あら!」
 レディ・イゾルデは王子の部屋に入った瞬間、驚きの声をあげた。そしてヴォルマルフにだけ聞こえるようにそっとささやいた。「なんて素敵な方! 彫りが深くて、色白で、まるで絵画の中かた出てきた人みたい! それに……なんて美しい巻き髪なのかしら! エッツェル城でイヴァリースの国王様はお見かけしたけれど、王子様は陛下よりずっと気品ある方だわ」
 主君のことを褒めてもらえるのは心地よいことだった。レディ・イゾルデの言葉に、ヴォルマルフは我が事のように喜んだ。
「わがルザリアへようこそ。イゾルデ姫」
 アンセルム王子は椅子から立ちあがってレディ・イゾルデを迎えた。レディ・イゾルデは王子にお辞儀をしてから、再びヴォルマルフにささやいた。「こんな立派なお方の隣に立つなんて、なんだか気後れしちゃいそうだわ」
「大丈夫ですよ。たしかに殿下はおきれいな方です。けれど、あなたはもっと美しい――誰にもまして美しい姫君でいらっしゃいますから」
「あら、お世辞をどうも」
「いいえ、今の言葉は私の本心です。飾らぬ私の胸のうちです」
 レディ・イゾルデはふっと微笑んだ。「優しい騎士さん、ありがとう。でも私の夫の前でそんなことを言ったら誤解されるわ」
 王子はレディ・イゾルデに手を差し出した。「イゾルデ姫、お会いできて光栄です」
 二人が手を取り合う姿を見て、ヴォルマルフはやっと自分の任務が終わったのだと感じた。花嫁と花婿は無事に対面した。じきに婚約が発表され、二人は夫婦として結ばれる。自分も王子の不信を買って暇を出されることもなさそうだった。これで、万事が全て丸くおさまったのだ――
「では、私はこれにて下がらせていただきます」
 ヴォルマルフが退出を申し出ると、王子はおだやかな声で引き留めた。「少し待つのだ。ヴォルマルフ」そう言ってから、自分の手にはめていた指輪を抜き取ってヴォルマルフに差し出した。
「長旅ご苦労であった。これは私からのささやかなねぎらいだ。受け取りなさい」
 ヴォルマルフが手渡されたのは大振りの赤い宝石がついた指輪だった。王族が身につける高級品だ。
「いいえ、このような高貴な品はとても受け取れません!」ヴォルマルフは慌てて固辞した。
 深紅にきらめく赤の宝石――それは奇しくもレディ・イゾルデの胸元で輝く赤の薔薇のブローチと同じルビーだった。
「サー・ヴォルマルフ。私からもお礼を申し上げます――ルザリアまで送ってくださってありがとうございました。あなたのおかげで楽しい旅になりましたわ。ですから、どうぞ受け取ってください。殿下のおこころざしです」
「それでは……ありがたく拝受致します」
 レディ・イゾルデからそう言われてしまい、ヴォルマルフは指輪を貰わざるを得なかった。ヴォルマルフは王子から渋々と指輪を受け取った。これを見る度にゼラモニアの古城での一件を思い出して苦々しい気持ちになりそうだった。王家の宝石をなくしておきながら、褒美に王子の指輪を頂戴するとはなんという皮肉だ!
「また近いうちにお会いしましょうね、サー・ヴォルマルフ」
 レディ・イゾルデは明るい笑顔でヴォルマルフにひらひらと手を振った。ヴォルマルフは王子に仕える騎士なのだから、彼女の言った通りまた会う機会は少なからずあるだろう。だが、その時は彼女はもうただのレディではない――王子妃なのだ。万事が全て丸くおさまった――はずなのに何故かヴォルマルフの心は晴れなかった。長い間一緒に旅をしてきた姫君が自分のもとから離れていってしまった。そう、ヴォルマルフはそれが寂しかったのだ。しかし、彼女が王子の婚約者であることは最初から分かっていたことではないか。何を今更――
 ヴォルマルフはルビーの指輪を片手でもてあそびながら、物寂しい気持ちで帰路についた。今になって長旅の疲れがどっと吹き出してきた――早く家に帰って寝よう、と思いながら。

  

  

  

>Chapter5