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*chapter6

     

  

     

  

「殿下、どうか再び、私にレディ・イゾルデの護衛の命令を下さい」
 ヴォルマルフは花嫁が投げ捨てていったヴェールを手に握ったまま、アンセルム王子に懇願した。婚礼の突然の中断に、聖堂の中はまだざわついていた。ヴォルマルフはすぐにでも彼女を探しに行きたかった。逃げ出したレディ・イゾルデの姿は人混みの中に消えてしまい行方は分からなかった。
「ヴォルマルフよ。言われるまでもない。すぐに彼女を探しにいってくれ。そして伝言を頼む――父の非礼を詫びると。私にできることは何でもしよう」
「殿下のそのお心遣い、私が必ずお伝え致します」
 よりによって自身の結婚式で晒し者にされるという屈辱を味わったレディ・イゾルデの心中を察するとヴォルマルフの心は痛んだが、つらいのは王子も同じなのだ。アンセルム王子は父王と婚約者の間で板挟みになって動けずにいる。アトカーシャの名前を持っているとはいえ、この国を動かすことができるのは王座に座る国王陛下ただ一人だ。王子は不在の国王に代わって玉座を守っているだけなのだ。
「本来であれば、私がイゾルデ姫を探しにいくべきなのであろうが……」
「殿下が心を煩わせることはございません。私が殿下に代わって彼女に誠心誠意を尽くします」
「頼んだぞ、ヴォルマルフ。私は父に押しつけられたこの結婚を望んでいなかった――とはいえ、このような形で婚約を破棄するのは私の本意ではない」
 ヴォルマルフはうなずいた。そしてすぐに踵を返した。
「フランソワ! レディ・イゾルデの姿を見なかったか?」
 ヴォルマルフは人の輪をくぐり抜けて、入り口近くで待っていた親友に尋ねた。
「聖堂を出て行った。だけどあの格好だ。婚礼衣装のままではまともに走れないだろうし、何より目立ちすぎる。まだ近くにいるんじゃないか」
「そうだな。護衛もなしにドレスのレディが一人で歩くなど危険だ。まだ教会の敷地にいるといいのだが……」
 ヴォルマルフは聖堂の扉を押した。何としてでも探し出さねば。
「ヴォルマルフ! 姫を探しに行くのか?」
「もちろんだ。なぜ分かりきった事を聞くのだ」
「王子の命令か?」
「殿下の意志でもあるが、私の意志でもある。どちらにせよ、このまま彼女を放っておくわけにはいかないだろう」
「だが今度は探し出してどうするというのだ。姫はもうルザリアの王宮には戻らないだろう。ゼラモニアまで黙って見送るのか?」
「そ、それは……」
 ヴォルマルフは足を止めた。レディ・イゾルデを探し出して、それからどうするのかなど考えてもいなかった。こんな侮辱の後で彼女がイヴァリースに留まりたいと望むはずはなかった。だとしたら故郷のゼラモニアまで送り届けるのが礼儀かもしれない。しかし、父親という後見人を失った彼女が故郷のエッツェル城でそうやって暮らしていくのだろうか――
「いや、考えるのは後だ! 今は先にレディ・イゾルデを探しに行く。レディ・イゾルデがゼラモニアへ戻ると言うのなら護衛の役目を果たすまでだ――私は騎士なのだから。あらゆる侮辱から彼女を護り、危害を遠ざける。私は彼女が望むことをするだけだ」
 ヴォルマルフは扉を開けた。なすべきことは分かっている。

  

  

 何という仕打ち! 何という屈辱!
 結婚式の最中に花嫁が捨てられるなど前代未聞の大事件だ。イゾルデは憤慨した。怒りのあまり、祭壇に王子を置き去りにして飛び出してきてしまった。
 それにしても、伝奏官が持ってきたたった一枚の紙切れで結婚式が取りやめになるなんて。当の国王は不在だというのに、王の名前を出すと皆がひれ伏した。これがイヴァリースの偉大なるデナムンダ王の権力なのだと、イゾルデはあらためて思い知った。
 聖堂を出てると、イゾルデは少しでも身軽になろうとしてドレスの裾を自ら破いた。こんな格好では歩くのにも難儀する。裾の真珠がぽろぽろこぼれ落ちたがイゾルデは気にもとめなかった。侍女を呼び寄せて悠長に着替えている余裕はなかった。参列者たちはまだ聖堂の中に居たが、外での仕事をに従事している何人かの教会の使用人たちがドレスを引きちぎるイゾルデをぎょっとして見ていた。
 けれども、そんな周りの視線は気にもせずイゾルデはつんとすまして歩いていった。
 お生憎様。私は見捨てられてそのまま泣き寝入りするようなやわなお姫様じゃないのよ。
 イゾルデはそのまま厩舎に向かうと、チョコボを一羽拝借した。教会の持ち物を盗むのは結構な罪だ。だけど私の受けた仕打ちを考えると、神様もこれくらいことは大目に見てくださるに違いない。イゾルデはひらりと――ドレスが軽くなったおかげで――チョコボの背に飛び乗った。
「さて……どこへ行こうかしら」
 イゾルデはチョコボの背にまたがったまま考えた。もうイヴァリースに留まるつもりはなかった。このまま何事もなかったかのように平穏なままルザリアで暮らせるとは思えない。だとしたらゼラモニアへ帰るしかない。ゼラモニアのエッツェル城は、父が亡くなり兄が継ぐのだろう――同じ血をわけた兄とは顔を会わせたこともなかったが、嫁ぎ先から追い出された妹をむげに扱うことはないだろう。
 問題は、ここルザリアからどうやってオルダリーアまで帰るかということだ。このまま一人で国境を越えるのは不可能だ。オルダリーアからゼラモニアへはサー・バルバネスに、ゼラモニアからイヴァリースへはサー・ヴォルマルフにそれぞれ案内をしてもらった。だけど、サー・バルバネスは今はオルダリーアの戦場にいて直接頼みに行くには遠すぎる場所にいる。サー・ヴォルマルフは……破談になった婚約者である王子の騎士なのだから、助けを求めに行くなど論外だ。つまり、自力で何とかしないといけないのだ。
 自力でゼラモニアまで帰る方法は一つ。王宮まで戻って、母から相続したブルゴントの宝を売るのだ。そうすれば護衛を雇って羽車で快適で安全な旅ができるだろう。
 イゾルデはチョコボの腹を蹴った。王宮に戻るのだ。でもドレスはズタズタで今のイゾルデは下着姿も同然だった。こんな不審者みたいなひどい格好で、警備の厳しい王宮に戻れるのかしら?

  

  

「アリー、外に変な格好の女の人が立ってる」
 椅子に座って必死で縫い物をしていたアリーの袖をダイスダーグが引っ張った。
「お坊ちゃま? どうなさいました?」
 アリーは針を手に仕事を続けながら聞き返した。縫っているのはアリーの袖を引く幼いダイスダーグ坊ちゃんの制服だ。ダイスダーグ・ベオルブ――十三歳になるベオルブ家の若き御曹司がもうすぐ士官学校の寄宿舎に入る。その準備でルザリアのベオルブ家のお屋敷は大わらわだった。お屋敷の家政婦アリーが多忙にしているのもそのためだった。
「外にお客さんが来てる」ダイスダーグが繰り返した。
 お客さん! その言葉を聞いてアリーは椅子からぱっと飛び上がった。
「宮廷の方だったらどうしましょう……旦那様もいらっしゃらないのに……」
 心配のあまり気を揉むアリーであったが、戸口に立っている女性の格好を見た瞬間、その心配は困惑に変わった。
 純白のドレスを纏ったレディだ。あちこちに真珠が縫いつけられており、胸元にはルビーで出来た薔薇の大きなブローチが輝いている。高貴な身分の姫君なのだろうということはすぐに分かった。けれどドレスは無惨にも引き裂かれ、綺麗に編み上げられていたであろうブロンドの髪もところどころほつれている。もしかしたらこの方は暴漢に襲われて逃げてきたのではないかとアリーは不安になった。
「あの……うちの警備兵を呼びましょうか? レディ――」
「いいえ、警備兵は結構よ。あなたの心配には及ばなくてよ。私は自力で逃げてきましたもの――はじめまして。私の名前はレディ・イゾルデ。あやしい者ではありませんわ――こんな格好でも!」
 レディ・イゾルデの言葉にはオルダリーア訛りが混じっていた。そのせいかルザリアの宮廷にいる姫様たちとはどこか違った雰囲気を持っていた。この人はただの姫様ではない。アリーはレディ・イゾルデの雰囲気に気圧された。
「大丈夫よ」
 事情が全く飲み込めないアリーに向かってレディ・イゾルデは自信たっぷりにうなずいた。アリーには何が大丈夫なのかさっぱり分からなかったが、レディ・イゾルデの言葉にうなずき返した。

  

  

 イゾルデはルザリアのベオルブ邸に来ていた。サー・バルバネスが「ルザリアで困ったことがあれば屋敷に来てくれ」と言っていたことを思い出したのだった。今がまさにその時だ。サー・バルバネスの助けが必要だ。
 ベオルブ邸はルザリアの宮廷のすぐ近くの武家屋敷が並ぶ通りの一角にあった。イゾルデを迎えてくれたのはアリーと名乗るお屋敷の家政婦だった。焦げ茶色の髪の毛をうしろで一つにまとめている。家政婦といってもまだ十五、六歳くらいの少女で、そして同年代の少女たちよりもずっと小柄だった。白い小さなエプロンを前にかけていて、まるでコマドリのような愛らしい少女だった。
「――まあ、それでは、イゾルデ様は護衛の騎士様もいないのに、ここまで一人でいらっしゃったのですか?」
 イゾルデがベオルブ邸を訪ねた経緯をかいつまんで話すと、アリーが驚いてイゾルデを見つめた。
「前は護衛の方がいたのだけれど……オルダリーアではサー・バルバネスに助けていただいたの」
「旦那様に!」アリーはイゾルデを屋敷の客室に案内しながら言った。「旦那様のお知り合いの方ならいつでも歓迎いたしますわ。さあ、どうぞ中へ。それに、その格好では外を歩くのも大変でしょう。今すぐにでもお着替えをお持ちしたいのですが……」
 アリーはそこで言葉を濁して言いよどんだ。
「どうしたの?」
「お着替えをお持ちしたいのですが……お屋敷には姫様の着るようなお召し物がないのです。奥方様が亡くなってしまわれてから、新しいドレスを買うこともなくなってしまって……かといって使用人の服を姫様にお出しするわけにはいきませんし……」
「あら、私はどんな服でも構わないわ。だって、せっかくのドレスをこんなにズタズタにしたのはこの私ですもの」
 小さな家政婦が困っておろおろと歩き出したのでイゾルデは慌てて付け加えた。けれどアリーは「でも……姫様にそんな服を……」と繰り返すばかりでとりつく島もない。
「だったら母様の服をあげたら?」
「ダイスダーグ様!」
 イゾルデが通された客室の扉を押し開けて精悍な顔つきの少年が入ってきた。イゾルデはアリーが名前を呼ぶまでもなく、この子がサー・バルバネスの長男ダイスダーグなのだとすぐに分かった。
「お坊ちゃま……本当によいのですか? お母様の思い出の品を……」
「うん。だって母様が生きてたらこうしてたと思う。困ってる人がいたらその人のために尽くしなさいと、いつもそう言っていたんだ。僕だってベオルブの名前を継ぐ者だ。母様の言うような立派な騎士になりたい」
「ああ、ダイスダーグ様……! 坊ちゃまの口からそのようなお言葉が聞けて、私は嬉しゅうございます。奥方様も天国で喜んでおられることでしょう!」
 アリーは感激のあまりその場で泣き出しそうな勢いだった。きっとわが子の成長を見守る母親のような心境なのだろう。といっても、二人の年齢からすると、親子というより姉弟の関係といった方が近いのかもしれない。イゾルデは二人のやりとりをほほえましく見ていた。
「ありがとう、若い騎士さん」
 イゾルデはダイスダーグにお礼を言った。「あなたのお母様の服、あとできちんと返しにきますわ。大丈夫よ、お母様のドレスを着たまま逃げ出したりしないから。私は今はこんな格好だけれど、お金に困っているわけではないの」
 イゾルデはダイスダーグの頭をそっとなでた。あと十年が経ったとき、きっとこの子は父親に引けを取らない立派な騎士になっていることだろう。

  

  

 ヴォルマルフは姿を消したレディ・イゾルデを探してルザリアのベオルブ邸の前に来ていた。まさか花嫁がチョコボに乗って逃走をはかるとは想像もしていなかったが、目立つ婚礼衣装のおかげか目撃情報も多く、後を追いかけやすかった。
 ヴォルマルフが邸宅の扉を叩こうとする前に、レディ・イゾルデが扉を開けた。ヴォルマルフはさっと身体を引いた。
「あら……サー・ヴォルマルフ、どうしましたの? こんなところでお会いするなんて」
 世間話でもするかのようなレディ・イゾルデのあっさりとした挨拶にヴォルマルフは拍子抜けした。レディ・イゾルデが聖堂を泣きながら飛び出していったので、ヴォルマルフは心の底から心配していたのだが、どうやらその心配は杞憂だったらしい。レディ・イゾルデは婚礼衣装を脱いで、新たに深紅のドレスを纏っている。髪も結い直して口に紅をさして小綺麗にめかし込んでいる。
「レディ・イゾルデ、私は殿下に代わってデナムンダ王の非礼を詫びにきたのです。どうか私に謝らせてください」
「ああ、そのことね……たしかに、あなたの国の王様は少しばかり無神経な方だと思うけれど、政略結婚が破綻するのはよくあることよ。あなたや王子様が気に病むことはないわ。父親同士が決めたことですもの。私は今回はちょっと不幸な事故にあったのだと思うことにするわ」
「レディ・イゾルデ……あなたのその前向きな精神のおかげで、殿下はご自身を責めることなく心穏やかに過ごすことができるでしょう。あなたの持つその天性の明るさに皆が――私も含めて――救われているのです」そこでヴォルマルフは一度言葉を切った。そして続けた。「ですが、このまま何事もなかったかのようにあなたをお見送りするわけにはいきません。あなたの力になります。どうかそうさせてください。私に出来ることなら何でも――」
「ありがとう。でもそのお申し出は気持ちだけ受け取っておくわ。あとは自分の力でなんとかするつもりよ」
 レディ・イゾルデは両手を胸の前で広げて、ヴォルマルフの申し出をやんわりと断った。
「つまり、私では、あなたの力にはなれないのですね……」
 ヴォルマルフは肩を落とした。聖堂を逃げ出したレディ・イゾルデが真っ先に駆け込んだ先はベオルブ邸だった。レディ・イゾルデの目と鼻の先にいるのはこの自分だというのに!
「サー・ヴォルマルフ? どうしてそんなことをおっしゃるの? だってあなたは王子様の騎士じゃないの! こんな状況であなたを頼れないわ――別にあなたじゃ力不足だと言っているわけではないのよ」
「……はい、あなたの言う通り、私は王家に仕える騎士です。だからこそあなたの力になりたいのです――あなたに侮辱を与えたデナムンダ王に代わって、私に償いをさせてください。レディ・イゾルデ、どうか私に命令を下さい。私はあなたのために尽くします」
「サー・ヴォルマルフ……私はもう王子様の婚約者ではないのよ。あなたは私に仕える義務もないし、それに私もあなたには何の命令も望まないわ」
 そうだ。その通りだ。彼女はもう王子の婚約者ではない――だからこそ、やっと本音が言える。今ここでレディ・イゾルデに本心を打ち明けなければならない。
「レディ・イゾルデ――」
 悩みに悩んだ末、ヴォルマルフはやっとの思いで彼女の名前を呼んだ。けれどその呼びかけは、ほぼ時を同じくして口を開いたレディ・イゾルデの言葉によってかき消されてしまった。
「これ、お返しします。王子様との婚約は白紙になってしまったから」レディ・イゾルデはルビーの薔薇のブローチをヴォルマルフに差し出した。
「これは……」
 レディ・イゾルデに王子からのプロポーズの品としてヴォルマルフが贈ったものだ。とはいえ、元々はゼラモニアの古城で本来の贈答品をなくしたヴォルマルフにかわってレディ・イゾルデが用意してくれた宝石だ。
「いいえ、本来の所有者はあなたです。レディ・イゾルデ、あなたが持っているべきです」
「でも、もう私には必要ないわ。あなたにあげるわ。記念にどうぞ」
 レディ・イゾルデはヴォルマルフの手の中に薔薇を押し込んだ。
「私は自分の国へ帰ります。これから一度王宮へ戻って、母から相続した財産を売ってゼラモニアまでの旅の支度を整えるわ――だから、あなたとはここでお別れね。ごきげんよう」
「ま、待ってください! 私はここで別れるつもりは――」
 レディ・イゾルデはヴォルマルフに軽く一礼をするとそのまますたすたと歩きはじめた。まずい、このまま別れてしまってはもう二度と会えない。ヴォルマルフは大声で彼女を引き留めた。
「レディ・イゾルデ! まだ行かないでください――」
 しかしヴォルマルフの心中などつゆ知らず、レディ・イゾルデが振り向いてくれそうになかったので、ヴォルマルフは仕方なく背中越しに叫んだ。
「――私と一緒にイヴァリースで暮らしませんか!」
 ようやくレディ・イゾルデが振り向いた。しかし、どうやらヴォルマルフの意図は伝わらなかったようだ。レディ・イゾルデは首をかしげた。
「サー・ヴォルマルフ? あなた何を言っているの?」
 レディ・イゾルデの反応を見て、ヴォルマルフは勢い余って叫んだ言葉を激しく後悔した。
「あの、どうかなさいました? うちのお屋敷で何か問題でも……」
 しかも、玄関先で大声を上げてしまったため、この邸宅の使用人と思われる少女がわざわざ様子を見に来てくれた。
 ヴォルマルフにとって大変な問題が発生したことには違いない。プロポーズ――とレディ・イゾルデに認識してもらえていることを祈るばかりだが――の時と場所を間違えたのだ。ヴォルマルフはその場で頭を抱えた。これは大問題だ。

  

  

  

>Chapter7